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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

804うのはな:2012/10/20(土) 11:56:16 ID:waBIOL7w
   善友はみずから求めてつくるもの

「善友」と書いて「ぜんう」と読みますが、読み癖で「ぜんぬ」とも読みます。
どちらも正解です。意味は文字どおり「善き友」のことですが、自分を善行に導いてくれる
ような友だちというニュアンスが含まれています。

 仏教には「善知識」ということばもあり、辞書には「善友と同義」と書いてありますが、善知識というと
自分を仏道に導いてくれる人、真理にいざなってくれる人という意味が強まり、例えば禅宗では禅に参ずるものが
お師家さん(師僧)をこう呼んだり、(浄土)真宗では念仏の教えを勧めてくれる人をいい、そこから特に法の継承者である
法王(ほつす)を呼ぶようになったといいますから、友だちというより、どちらかというと自分を導いてくれる先達だったり、あるいは
先生というニュアンスが強くなるかもしれません。

 善知識の読みは「ぜんちしき」でいいのですが、こちらも読み癖で「ぜんぢしき」とも言います。
どちらも正解です。私たちは人間関係の中で生きています。いままで何度も述べてきたように、縁によって生かされているのです。
ですから、真理を知りたいと思って山にこもり、一人で「真理とはなんぞや」と思考をめぐらしていても、わかるものではありません。
真理は人間関係を除いて存在するものではなく、人間関係に磨かれて見えてくるものであり、人と人との関係によってより深まってくるものではないでしょうか。

 だからこそ、私たちを真理に導いてくれるような友人や先輩、先生はたいせつなのです。
そのような人のもとでのみ、私たちは自分を磨くことができるのです。例えば野球やサッカー部などの部活動を考えてみても、切磋琢磨するライバルや先輩のちょっとした
アドバイス、あるいは無言で見せてくれる後ろ姿がなければ、正しい自分のフォームを身につけることもできませんし、書道部や新聞部、ブラスバンドなどの文化部だって、友だちの
刺激や先輩の教えがなければ部活は成り立ちません。そして、やがて知識や技術、真髄を学んだ自分も、後輩にそれらの教えを伝えていくようになるのです。
つまり、自分も善友、善知識となっていくのです。

 会社などの職場でも、いい同僚や先輩、上司に恵まれて力をつけていくことは大事ですが、それは決して偶然に恵まれるのではなく、自分で求め、努力してつくっていくものです。
礼を尽くして教えを請い、謙虚に相手の話を聞かなければ、いい同僚や先輩、上司は現れません。

『ナゼか運を呼び込むブッダの法則』 田中治郎 著


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