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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

745初心者:2012/10/12(金) 08:00:34 ID:qBrfhCPc
元本部職員D様

総裁の侵略発言は、「先の大戦は、国際法に照らし合わせれば侵略戦争である」
との主張に限定されたものであるとの説明をときおり受けることがあるのです
が、これは20年まえの総裁の国際法にからめたご発言からして、事実であると
考えています。

このたびの元本部職員D様のご発言から、生長の家では、国際法に限定した発言が
「神の摂理」に結びつけられ、「神の摂理」に対抗する思想と見なされていると理解
いたしました。

そして生長の家では、「先の大戦は神の摂理によって起こされた戦争」として語ら
れていると受け取りました。わたしの知るところでは、そうした摂理に「植民地支配
からの解放」が含まれているとの、はなはだ浅い理解となります。

こうした理解をもとに、ひとつ質問をいたします。西欧による植民地支配を可能に
した思想とはなんであったのでしょう。人類のなかで、なぜ西欧諸国が、他にさきが
けて植民地支配という手段をおもいつき実行することができたのでしょう。

その背後に「一神教の思想」があったとはいえないでしょうか。おそらく西洋諸国
は、人類のなかでももっとも強力な一神教の思想を持っていたとおもわれますが、
そうした国々が、他にさきがけて植民地支配を実現したというのは、はたして偶然
であったといえるのでしょうか。

一神教の思想は、神を信じながらも、他を支配し、他から収奪することを正当化でき
る、ほとんど唯一ともいえる思想ではないかと考えます。逆にいえば、多神教は他
を支配し収奪することにはあまり向かない思想であるとも考えます(もちろん
例外はあるのかもしれません)。

たとえば、多神教を信仰する人々が、他の土地に出向き、他の神が支配する土地
を、その神になり代わって支配し、しかもその土地から徹底的に収奪するとすれば、
それは多くの勇気を必要とする行為であるはずです。

一神教であれば、他の土地といえども、そこは他の神が支配する土地と見なす
必要はありません。そこの土地もここの土地も、どちらもおなじ土地でしかありま
せん。たとえ他の土地を支配し、徹底した収奪行為をおこなおうとも、神の怒りを
買う心配はなく、心おきなくどんなことでもやってしまえる、そんな心理的土壌を
養うには、一神教ほど都合のよい考え方はないといえる気がいたします。

植民地支配の背景には一神教の思想があったと考えることはできないでしょうか。
「神の摂理」ということをいうのであれば、植民地支配を「神の摂理」と結びつける
ことに無理があるのでしょうか。

一神教の「神の摂理」によって実現された植民地支配を、けっして一神教とはいい
がたい日本が打ち破ったとすれば、それは「神の土地は神に返せ」との摂理で
あったと考えることはできないのでしょうか。

「一即多、多即一」の考え方があるにせよ、反植民地主義とは多神教の復権にほか
ならないとわたしは考えたいとおもいます。わたしの知るかぎりでは、生長の家は、
先の大戦を、植民地主義からの解放戦争とも位置づけていると聞いております。
にもかかわらず、ポストコロニアルの現状に、生長の家があまりにも無関心とおもえ
るのは、それが多神教の復権を意味するからではないかとも考えます。

かつて読みたいとしたサイードもスピヴァクも、いまだ読んでおりません。したがっ
て、ポストコロニアルはあまりに不勉強であります。植民地主義、反植民地主義、
ポストコロニアルと「神の摂理」の関係については、みなさま方のご教示をねがい
たいところであります。

とくに、ポストコロニアルについては、雅春先生はどのように説いておられるのか、
これはぜひともお聞きしたいところであります。


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