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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4
739
:
元本部職員D
:2012/10/12(金) 01:48:27 ID:???
>>その「虚説」が、元本部職員D様がいっておられるような「曖昧模糊とした雰囲気」
であるとすれば、これは「討ちようがないもの」ということになりそうですね
いえ、そうとは言っていません。
わたしのようにニセモノという強い表現を語らず、「虚説」という『生命の實相』のなかにある言葉を
選ばれたのは、むしろ遠慮もあったのだと思います。
わたしは、雅宣さんはニセモノだと思います。でも神の子です(笑)
ご自分でもニセモノかなーと思っておられると思います。
谷口雅春先生の説かれた内容と、決定的に違う点を「虚説」と表現すればこれは確かにあります。
大東亜戦争を「侵略戦争」と言い切った雅宣氏の文章がそれです。
たとえ負けても摂理として戦わざるを得なかった先の大戦を、国際法上侵略行為を行ったと雅春先生の説かれた
先の大戦の摂理としての位置づけに対して何も触れずに、侵略行為があったのだから侵略戦争だと繰り返しのべられ、
さらに神示を持ち出して『聖戦』などというものは無いのであると言い切った(と記憶にあります)ことが多くの読者に
雅春先生と全く違うことを・・・という印象を強く与えましたので、それに対しての拒絶感は「虚説」という言葉に置き換えられたと
思います。これは強烈な出来事でした。そしてさらにその後、宇治における大東亜戦争物故者慰霊祭の祝詞が(雅春先生の作られた)が
雅宣氏の命令で変更されたことによって、さらに「雅春先生の教えと違う考えの人が雅宣さんである」とこの点において、少なからぬ人から思われました。
これを「虚説」と表現しても否定は出来ないと思います。
この雅宣氏の侵略論を正当化するための雅春先生の聖典における「大東亜戦争を聖戦と表現した」聖典絶版行為は、
決して許されるものではありません。「摂理」というものが理解できないのでは宗教家としての素質が無いとしか言いようがありません。
もちろん、左翼であれば侵略戦争を大いに述べてもよいのですが・・・生長の家の総裁としては失格でしょう。
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