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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4
549
:
うのはな
:2012/10/01(月) 01:18:02 ID:f2bwKGw2
晴れ競馬とときどきホークス 今日の言葉 より
・・・・ 或る人の息子が病気になった。
永い病気であるから息子の嫁が、良人においしいものを食べさせたいと思って、料理を習い始めた。そして、大変おいしい料理が出来るようになった。
姑さんは『これも息子の病気のおかげですよ。有難いと思っています』とおっしゃるのである。
この姑さんの言葉は、一寸考えると進んだ心境の人の言葉の様に思えるが、これはいつのまにか受難礼賛に陥っている。
一方に不幸があるので、ありがたい結果があらわれると考えるのは、不幸をもって幸福に必要な前提とする間違った信仰である。
『病気になっても有難いと病気に感謝しなさい』と説く場合もある。これは紙一重の差で生長の家とは異なる信仰になるおそれがある。しかしこの紙一重の差が、天地霄壌の差を生ずる。一方は真理であり、一方は非真理である。
古来の多くの聖者ですらこの点に於いて誤ったことが多かった。病気になったらこれで業が消えるのだ、ありがたい、これで罪をつぐなうことが出来る、この不幸もありがたい、この様にして病気や不幸に感謝する人々は、まことに敬虔な心境の様であるが、それ故に、不幸を礼賛する気になり不幸を自造している人がある。
不幸礼賛は生長の家の信仰ではない。
そんなに病気や不幸がありがたかったら、病気になればよい、不幸になればよいのである。
吾々の信仰では、病気は無いのだ。罪はない、不幸はない、業はない。ただあるのは、圓萬完全なる實相の人間・神の子だけである。その実相の完全なることが有難いのである。
谷口雅春師 『叡智の断片』より
生長の家創始者 谷口雅春師はこのようにお説きになっているのに
三代目は『大震災が起って良かった』とトンデモ発言をしている。
どこでどう真理が捻じ曲がったのか!?
宗教家として、又人間として、その資質を疑うものである。
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