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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

3705志恩:2018/04/27(金) 20:15:25 ID:6hRUvSRg
続きー

「第二に、私は歴史的宗教の信条や教義を論難するレッスンやメッセージを聞いたことがない
―これらの信条や教義が拒否されていることはよく知られ、しっかり確定したことであるにもかかわらず、である。

そうした信条や教義は忘れられるがままにされている(因みに、今や多くの伝統的な教会についても同じことがあてはまる。

しかし大きな違いがある。

ニューソートがそれらを無視するのは、それらを卒業したからである。

その他の教会がそれらを無視するのは、彼らがもはやそれらを熱烈に信奉することがないからである)。」            
  (同書、523頁)

 キリストは、
「死にたる者にその死にたる者を葬らせよ」と語っているが、

ニューソートでは、
既に〝終わっている〟教義に対しては、いちいち悪口を言わないし、相手にもしない、ということのようである。

また、彼らが〝終わっている〟教義に対して論難しないのは、

それらを卒業しているからなのだとラーソンは補足している。

卒業とは、ニューソート的に言えば、キリスト教の伝統的な教えを「吟味・分析し」た結果、

それらの教義が、「個人的要求を充たし、われわれ自身のガイドとして役立つもの」とならないということがハッキリした、
ということである。

彼らの信仰は、教えとして説かれたことを、「原理主義的」に鵜呑みにすることはせず、自身の判断による徹底した
「吟味・分析」による検証を経たもののみを信じているのである。

ニューソートの各派が、「クリスチャン・サイエンス」「ディヴァイン・サイエンス教会」「レリジャス・サイエンス」など、

「サイエンス」という名称を用いている所以はここにあると言えよう。


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