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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4
3704
:
志恩
:2018/04/27(金) 20:12:35 ID:6hRUvSRg
久都間 繁 先生のashikabiブログより
ニューソート(5)
(5) ニューソートにおける「自己規制」の智慧
ラーソンは、同書の「結び」において、ニューソートの牧師たちがある種の問題を取り扱わない、ということに注目している。
つまり、米国という多民族、多宗教、多言語という多様性に満ちた社会の中で、そしてニューソートの母体となったプロテスタントなどのファンダメンタリズムが色濃く
支配する状況下での布教経験から、彼らがある種の「自己規制」を行っているというのである。
キリストは、「蛇のごと聡く、鳩のごとく素直なれ」と弟子たちに語っているが、ニューソートにおける「自己規制」の中身にふれることは、
私たちが、宗教、文化を異にする環境において、あるいは価値観を異にする人々に対して、着実に神の教えを伝えるための、最良の智慧を得ることが
できるのではないかと考えている。
また、申し添えておけば、これから紹介するニューソートの事例を、そのまま読者の活動に適用すべきだ、と主張しようというのではない。
ニューソートの牧師たちの経験が、私たちが宗教的な活動を実践する際に、対社会的に担う「自己責任」の範疇を考慮する上で、さまざまなヒントを授けてくれるのである。
「まず第一に、彼らは気質的なものであれ、心身症的なものであれ、病気については説教で論じない。
これは実践家とカウンセラーによって、すでに専有されている分野だからである。」(『ニューソート―その系譜と現代的意義』523頁)
ニューソートと言えば、「治病」という印象が強かった私にとって、この言葉は意外であった。
しかしこの真意を分析すると、宗教には、宗教でなければ扱えない領域がある、ということをニューソートの指導者たちは、よく心得ている、
ということのようだ。
たとえば、生長の家の教えを例にとれば、教典である『生命の實相』第一巻には、「生命の実相の自性円満を自覚すれば大生命の癒力が働いて
メタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」という教えが説かれている。
これは、飛田給や宇治にある生長の家練成道場の練成会に参加して、病気が消え、経済問題が解決することがあるのは、
講師たちが心理療法士のまねごとをしたから、病が癒されたのでもなければ、経済学者としての知識があったから、
参加者が借金苦の地獄から解放されたのでもない。これらの問題が生長の家に来て解決するのは、人間の実相が、本来完全円満なる神の子である、
という「自性円満」を自覚した「悟り」によって、問題と見えていたものが「消える」のである。
したがって、「生長の家は病気を治すところではない」という言葉と同じ意味で、
ニューソートでは、「病気については説教で論じない」のであると言えよう。
また、生長の家で説いている「自性円満の自覚」という、生命の実相へのアプローチは、「医学」でも「経済学」でも、
それを扱うことは不可能である。
なぜならこれは、純然たる「宗教」の領域だからである。またその逆の立場の人々のことも、
宗教者として十分に知悉していなければならないであろう。ニューソートが病気について説教で論じないのは、このようなことへの配慮があると考えられる。
続く
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