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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4
3701
:
志恩
:2018/04/27(金) 19:59:17 ID:6hRUvSRg
続きー
しかし、彼の透徹した直観は、そのような現象的な衰亡に惑うことなく、「唯一の神性」を見透して、宗教間の対話へと向けられていた。
「ユダヤ教やイスラームの純粋な一神教とキリスト教の三位一体の一神教との相違に関しては、ニコラウス・クザーヌスはこう説明している。
「創造主としては、神は3にして1であるとともに一である。しかし無限者としては、神は3にして1でも一でもなく、
またそれ以外のいかなる言葉も当てはまらない。なぜなら、神に与えられているもろもろの名は被造物から採られたものにすぎず、
神御自身としては、神は言葉にしえず、人が名づけ、あるいは語りうる一切を超えた御方であるのだから」。
こればかりではない。魂の不死を信じている非キリスト教徒の信仰は、死に委ねられて甦ったキリストを、それと知ることなしに前提しているのである。」
(同書、54〜55頁)
クザーヌスの「反対の一致」からみた宗教観は、ニューソートの指導者たちのように霊感的であり、ドグマを完全に透過して自由である。
しかも、中世後期の“宗教改革前夜”ともいうべき時代背景のなかで、キリスト教の教義を超え、異教徒たちの信仰している多神教、ユダヤ教、イスラム教という
宗教の枠組みそのものを完全に超越して、今日の宗教多元主義の考え方と符合していることは驚きである。
それは、半世紀後に登場するルターやカルビンなどプロテスタントたちの行った思想運動とは、完全に次元を異にしたものである。
クザーヌスのこの大胆な思想は、キリスト教会では誰にも受け継がれることなく、18世紀に『信仰の平和について』が再発見されるまで、
完全に忘れ去られていたのである。この背景には、クザーヌスの影響を受けたドミニコ会の説教家ジロラモ・サヴォナローラ(1452〜1498)らが、
ローマ教会内部で教義の「改革」を試みたところ、異端宣告を受けた後に絞首刑に処せられ、その遺体が公開で焼かれるという事件が影響していた。
これ以降、カトリック教会内での「改革」は影をひそめ、クザーヌスの開いた地平とその驚くべき哲学は、教会のはるか彼方へと追いやられてしまった。
やがてそれは、「抗議者(プロテスタント)」という不満分子によるドグマのレベルでの反抗運動となり、ローマ教会そのものの分裂を招くに至ったことは
歴史の示す通りである。
エリアーデは、このことについて次のように語っている。
「協会側の敵対的反応、とりわけ異端審問の行き過ぎが、キリスト教体験の貧困化を、さらには硬直化を加速させていった。」
(同書、56頁)
なぜ、「異端審問の行き過ぎ」が起こったのか。
それは、かつてユダヤの人々がイエス・キリストの教えを理解することなく、彼を異端者として十字架に掛けたのと同じように、
今度は当時のキリスト教会の人々が、究極的実在(実在者)を見透していた第2、第3のキリストたちを「異端」として葬ったのである。
それだけ私たち人間は、現象界で踏襲してきた慣習(スンナ)に依存する傾向が強いのである。
キリストは、「されど見ゆという罪は残れり」と語っているが、私たちが生まれてこの方、五感、六感を通して習い覚えた慣習とは、
畢竟「業」にほかならない。
しかし「業」は善いものでも悪いものでもない。それは“影”にすぎないのだ。
問題なのは、「業」の支配を受け「業」に引きずり回されることである。さらに「業」に絡め取られた人々が多数派を形成することで
「原理主義」的なドグマが一人歩きを始める。
これは、キリスト教会の歴史が教えるように、宗教体験を貧困化させ、組織を硬直化させ、長い歴史を通じて宗教を慢性的な死に
至らしめるのである。
生長の家総裁である谷口清超先生が、「運命の主人公」ということをご著書や講演で語っておられたが、
「業」を超越し、「業」を自在に支配し、「業」を善き方向へと(身・口・意の三業をもって)自由にコントロールする立場こそ、
私たち神の子の「本来の面目」なのである。
聖経『甘露の法雨』には、「実在は五官を超越し 第六感さえも超越して 人々の感覚に映ずることなし」と説かれている。
「実在」は、五官、六感の感覚には映じないが故に、キリスト教では祈り、禅宗では坐禅を組み、生長の家では神想観を実修して、
本来の「主人公」―究極的実在(実在者)に立ち返るのである。
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