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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

313初心者:2012/07/20(金) 13:37:20 ID:TfQ0e6RA
「行間を読む」を現代では「文章の構造にアクセスする」といいます。「作者の死」と
もいいます。

「行間を読む」とわざわざことわりをいれられるまでもなく、人は行間を読むこと
でしか文章にアクセスできないとするのが、現代風の考え方です。つまり、行間を
読んだからといって、それは特別なことでもなんでもなく、そのことによって、行間
を読まずしては知れないことが知れるということにもなりません。

いうまでもないことですが、文章の構造にアクセスするにあたって問われるのは
読み手の技量です。読み手の技量の不足はとうぜんのごとくあります。技量不足
をおぎなう手段が、文章にたいする情緒的反応です。

読み手の技量不足を熟知しておられた雅春先生は、情緒的反応に文章の力点を
置かれたはずです。その結果、多くの奇跡を生みだすことには成功なされました
が、その反動として、読み手がほんらいアクセスすべき領域は遠ざけられました。

人類光明化といったところで、この言葉に具体的な意味はありません。人々に
できることといえば、この言葉に情緒的に反応するか、アクセスすべき領域を
さがすかのどちらかしかありません。これまでなされてきたのは、情緒的反応
が主であったと考えます。

アクセスすべき領域をさがそうとするものが必要とするのは思想の深化と多様性
ですので、総裁先生の思想がただちにさまたげになるということはありません。
情緒的に反応してきた人々は、総裁先生の思想に情緒的に同調できないがゆえに、
これを「さまたげ」ととらえます。


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