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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

3029純粋教理批判:2015/10/12(月) 15:59:43 ID:yPuEDcac
>その生命が今此処に生きているのだと知ったならば、三界唯心所現と云ってをった、その唯心の心は、決して個人の「念」と云う様なちっぽけなものではない。此処に如来蔵の心、自分の神性の心、たった一つきり生きていないその心、それが此処にあり、ここに一切を現わしている。この如来蔵の心が三界唯心所現としてこの現実世界を動かしてゆく力であるとなった時に、本当に自分の関する事一切、自分の見る限りの世界のこと一切が、皆私の責任だという気持ちが湧いてまいります。 

心とは何かということですね。仏教には唯識の考え方があるようですが、これについてはほとんど存じておりません。わたしがおもうに心とは言葉なのではないかということです。

現象学的に考えてみたとき心は言葉であるとしかおもえない。言葉がなければ心もないようにおもえる。もちろん心には三つの層がありそうです。意識(表象)と自我と主体の三つの層があるようにおもえます。

意識を象(かたど)るのは言葉でしょう。意識は言葉でつくられている。そうであれば、言葉とは何かが問題になる。道元の言葉を借りるなら、言葉とは万法の働きです。万法が働くところに言葉が生まれる。わたしはこのように考えます。

言葉が万法の働きによって生じるのであれば、言葉でつくられている心も万法の働きということになる。万法が働くところに心がつくられる。三界とはむろんのこと言葉でつくられている。三界もまた万法が働くところにつくられる。三界は唯心の所現とは、三界も心も万法の働きである言葉によってつくられているということをいっているのではないかと考えます。


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