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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

2891曳馬野:2014/11/29(土) 13:23:41 ID:IKK/S0ko
>>2888 >>2889 トキさん

弁護士なんてものは勝っても負けてもいいんです、裁判してれば儲かるから。総裁は泥棒の言いなりは癪だと云うことで遣り続けてるのかも知れませんね。

私の父も昭和の5年ころから昭和45年にかけて、40年にわたって裁判していました。地裁から始まって大審院まで行き差し戻され東京高裁の途中で世を
去りました。祖母の代に二人姉妹で、姉さんは体の具合が悪いこともあり、嫁に行くと云う形で苗字が変わりました。そして妹が養子をとり家を継ぎました。
そんな関係で土地は二対一位でした。

言葉での説明がしにくいですが、往還に面して長方形の土地が三個あり、真ん中の土地が姉さん、それを挟んで二つが妹、そしてその二つが先端でコの字に
つながっていたのです。これは当時出されていた地券にも祖母の権利証にも、宅地と山林の二筆の記載しかないのです。然るにコの字のつなげている土地
120坪ほどは自分達のものだと姉が亡くなると云い始めたのです。そして延々裁判は続き、戦争で提出してあった証拠書類が消失し、それぞれが持っていた
副本の証拠の中から双方が認めたものを証拠として戦後裁判は再開されました。

しかし昭和45年父が死に、私は次男でしたが、兄は教職でありましたから、私が解決することとして、東京の弁護士のところへ行きすべての書類を持ち帰り、
一年ほど相手と話し合い、そしてその中で相手の出してきた、自分たち有利の証拠なるものを見ました時、それがこちらの有利になるものでした。
それを指摘しこちらの言い分通りで話をつけたのです。

おりから陸軍用地を戦後払い下げられて開拓地として入植した土地が、ホンダ、スズキ、ヤマハと云うオートバイメーカーの発展に伴いその下請け企業のその
地区への進出が盛んになり、工場住宅の混在する地区となり、区画整理をして大型トラック等自由に走れる道路の確保が目指されました。その区画整理に伴い
そこに張り付いていた私たちの土地も区画の対象になりました。

明治のころの土地測量なるものは、江戸のなごりか縄を以て測ったらしく、縄伸びと称して誤差が沢山あったのです。私たち両家で300坪程ありました。
放っておいたら、権利証だけの坪数しかくれませんので、その前に測量士の実測で登記簿の校正をすることで、こちらに200坪相手に100坪ほどが増え
ました。当時はバブル時代でして坪50万以上していました。そんなこんなで係争地の120坪ほどは飛び地として離れたところに100坪ほどが来ましたので
それを兄のものとしました。それを処分し兄の家を建てました。私にも500万くれました。当時の価値で15000万ほどの収入と云うことです。

弁護士に40年にわたり食い物にされたものを、23の私がけりをつけたのです。なんでこんなだらだらした裁判になるのかと云うのが感想ですね。
母の葬式には身内として参加し母を送り出してくれました。12月30日でありましたが実によい日和でした。

裁判で決着をつけようと云うのは愚の骨頂です。しかし裁判を仕掛ける方もとろければ、仕掛けられた方も法で対抗すると云うのもとろい話です。
両者ともに真理に生きようとしていないと云うことでしょうか。


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