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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

2871愛と追憶の日々:2014/10/25(土) 13:02:40 ID:C9tLek4A
       武者小路実篤批判

 大正九年に出た谷口正治の『皇霊学講話』に対する武者小路の評であろうか、
谷口宛に、「・・・君の本を読んでがっかりしたのでした。正気の沙汰と思えないことが多く書いてあったので
嘘もいい加減にしろと云う気がしました。君があの本を書いたことを後悔されることをのぞんでいます。君には某子が
耶蘇の再生に見えるのですか」と、暗に出口王仁三郎をキリストの再臨に擬している谷口の論を、正気の沙汰とは思えなかったとしている。

 そして武者小路は、「真の信仰は健全な常識や科学と矛盾しないもの」という立場で押してくる。
また彼は雑誌『新天地』の記者に対し、「大本教は理性に反する処が多いので無視しています。調べる気もありません」と回答している。
これに対し谷口は、聖書こそ正気の沙汰と思われないことで満ちており、例えば、「耶蘇が五つのパンと二つの魚を五千人に鬻いて矛えた時に、皆々食いあきて、
その余りたる屑が十二の箱に一杯になったという記事や、耶蘇が海の上を徒渉した」という記事など、理性では解しがたいにしても事実ではないかと迫る。

 綾部の皇道大本にしても、その修行場の実況を見るに至り、在来の科学的知識では到底皇帝しがたい幾多の霊怪現象をまのあたりにすると、聖書の嘘にみえる記事が文字通り超理性の
奇蹟に見えてくるものだとやりかえす。そして武者小路の神観念があいまいで、「我々はこの宇宙をつらぬく力を信じている。神の如き力である。この力に自己を任せることより他に、自己を生かし切る道の
ない事を信じる」という表現について、なぜ「この宇宙をつらぬく力」を「神の如き力」としかいえず、はっきり「神の力」と言い切れないのかとつめよる。
谷口にとっては神の力を霊的実修として鎮魂帰神の中にその働きを体験していたからであろう、この強い語気は。

 谷口は、武者小路に、自分の書いた本で満足できなければ「旧約の予言書が書いたようなきびきびしたお筆先を読んで下さい。序でに綾部でも亀岡へでもお立寄り下さい」、そうすれやがて新しい村の信仰にも神観念が
はっきり把握しながら生長しようとしている。新しき村も、大本もそうした意味で生かそうという神の意志から出たものだという。
ここはやがて「生長の家」活動の基本になる「生長」の概念が強く押し出されているのに気づく。「生かそう」という神の意志にもとづき法爾自然にその形式が大きく神のおはからいに委せて出来あがろうとしているのが皇道大本なら、
自力の限りと、人間的なはからいの限りを尽して、その形式の方が出来つつあるのが新しき村だという。

 まだこの時点では、谷口は懸命に大本の立場を擁護するための論陣を張っている。つまり、
「兎もかく某氏(出口王仁三郎)を耶蘇の霊魂の再来であることを信じて得れば信じて下さい。信じ得なくば信じて下さらなくとも宜しい。唯これだけは某氏を知る私として断言し得ることなのです。某氏が仮令(たとえ)耶蘇の再生でないにしても彼は
救世主として是非有たねばならぬ混沌そのもののような風格を備えていると」
(『新しき村の開拓者武者小路実篤氏に贈る公開状』『神の国』大正十年十月)。こうした真剣な問いかけが当時の大本にはみなぎっていた。


    谷口雅春とその時代  小野泰博 著


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