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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

237役行者:2012/07/15(日) 13:30:22 ID:v.d0vAWE
初心者さま

 お久しぶりです。なかなか、話に入る隙がなかったのと、いま、増税反対のための資料づくりに力を注いでいるため、遠くで眺めさせていただいておりました。
 早速、失礼します。

>「神の全知全能」という考え方にたいして、神は自己を認識しうるが、非自己という
鏡がなければ、神は神ご自身の姿を知ることはできないとする考え方があります。
こうした考え方にもとづけば、神は神ご自身の姿をお知りになりたいがために、
鏡となるべき非自己を創造されたとする立場に立つことができます。<


  以前、初心者さまが私役行者の返答に、お書きになった内容です。

>神は、神ご自身の姿を見るための鏡をおこしらえになった。
これが第一創造でありましょう。
その鏡こそがこの宇宙なのでは?
宇宙を鏡として、神は神ご自身の姿を見てみようとなされた。<

  この内容はごく自然に発想できる認識だと思います。
  ですから、少なくとも私は、

>わたしもこうした立場に近いものを持ってはおりますが、神がどのようにして、比較
対照すべき非自己もなしに自己を自己として認識なされたのかとの問いに答える
のは困難です。
しかも、「神が自己の姿を知りたいと欲せられた」とする発想じたいあまりに人間的でありすぎるのも難点です。<

 >このようなことをつらつらと考えておりますと、こちらで語られておりますよう
な、人間にはとうてい理解がおよばぬ「絶対無」が神にはお似合いなのだとする
発想に、どうしても傾きがちになります。「ちょっとした違和感の排出」。こうした
発想で、ちょっとだけ斜めから見た世界創造のいきさつを、どうしても語りたく
なってしまいます。<

 この気持ちがわかります。
 つまり、以前、初心者さまがお書きになった下記内容が腑に落ちるのです。

>神は、絶対観念、あるいは純粋観念を表現するために
実相世界を創造されたわけでありますよね。

だとすれば、人間はただその絶対観念や純粋観念を鑑賞すればよいのであります。
それですべて「こと足れり」であります。
人間に自由なる意思をあたえることで、
いったい何が生まれるというのでしょう。
絶対観念や純粋観念を超える、何か新しい価値が生まれるというのでありましょうか。

神は人間をプログラムミスなさった。
それで人間に逃げられた。
こちらのほうが、わたくしとしてはよっぽど腑に落ちるのであります。
人間として生まれてこれでよかったと思えるのであります。

あたえられた自由ではなく、自分で勝ち取った自由。
それが本物の自由だという気がするのであります。<

 人間は、神の子です。人間には、制約された、与えられた自由でなく、本物の自由を与えられていると思うのです。
 神イコール人間とするなら、人間の意識深く探求すれば、自ずと神の領域も理解出来るのではと思うのです。つまり、初心者さまの発想はごく自然の発想と私には思われます。
 いま、地球の現状を観てみると、とてもではないですが実相顕現とは云えません。ではこの現状は人間の為した責任と片付けることができるのでしょうか、神イコール人間なら神の責任でもあると思うのです。「人間の心の法則により」というのは、「神の心の法則により」と言い換えられないでしょうか?
 話は随分昔に戻しますが、137億年前のビッグバン当初から心の法則は発動していたと思われます。言い方を変えれば、このような現状になるのはビックバン当初からその芽はあったと思うのです。
 このような話を私がしたとき、初心者さまは、「実在宇宙」の話で私を説得して下さいました。生命の神秘、生命の営み、真実を、何事にも縛られず捕らわれず、自由な発想で探求することも大切なことと私は思ってます。


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