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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

235初心者:2012/07/15(日) 11:34:58 ID:TfQ0e6RA
アクエリアン様

>神の違和感、神の中の異物の排出としての宇宙の誕生、そして、展開。
これは、結局、この世界は、神の違和感、を原因としているのだから、どうしても、人間の目からは、不調和極まりない世界に映るのだ、という、はなはだ悲観的な哲学になりますね。
初心者さんの思想を間違って捉えているかもしれませんが、その場合は、ご容赦を。

生長の家は、すべてを知る全知全能の神が、神ご自身を表現するために、実相世界
と呼ばれる世界を創造なされたと考えますね。神は全知全能であるから、非自己と
の比較なくして自己が自己であることを知り、非自己を鏡とせずとも自己の姿を
神は知りうる、とする立場に生長の家は立っているということが、以上のことから
わかります。

わたしは、こうした立場をとる生長の家に異議を唱えます。非自己なくしてなぜ
自己という観念が生じるのか。非自己との比較なくして、神はなぜ自己の姿を知る
ことができるのか。こうした問いかけにたいして、「それは神が全知全能だから」と
しか答えようとしない生長の家に異議を唱えます。

「全知全能」と答えつつも、生長の家が、神の全知全能を証明したというわけでは
ありません。全知全能とはどういうものかを説明したというわけでもありません。
「神の全知全能」を錦の御旗のごとくかかげることでやっとこさ成り立っている、
生長の家の天地創造説を受け入れるのは、わたしにとってたやすくはないという
ことです。

「神の全知全能」という考え方にたいして、神は自己を認識しうるが、非自己という
鏡がなければ、神は神ご自身の姿を知ることはできないとする考え方があります。
こうした考え方にもとづけば、神は神ご自身の姿をお知りになりたいがために、
鏡となるべき非自己を創造されたとする立場に立つことができます。

わたしもこうした立場に近いものを持ってはおりますが、神がどのようにして、比較
対照すべき非自己もなしに自己を自己として認識なされたのかとの問いに答える
のは困難です。しかも、「神が自己の姿を知りたいと欲せられた」とする発想じたい
あまりに人間的でありすぎるのも難点です。

このようなことをつらつらと考えておりますと、こちらで語られておりますよう
な、人間にはとうてい理解がおよばぬ「絶対無」が神にはお似合いなのだとする
発想に、どうしても傾きがちになります。「ちょっとした違和感の排出」。こうした
発想で、ちょっとだけ斜めから見た世界創造のいきさつを、どうしても語りたく
なってしまいます。


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