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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

2091志恩:2013/12/07(土) 11:21:50 ID:.QY5jUA6
つづく
1995 :復興G:2013/06/13(木) 22:39:47 ID:AB6RqYXc

<榎本恵吾先生著 『光のある内に』 より つづき>

 「久遠の今」は宇宙万物発生の枢機を握る一点なのであり、すべてはここから発し、ここに帰り、一点に巻きおさまっているのであるから、
 『生長の家』と「人類」とは同時同所、一時一切時、一所一切所、一仏一切仏の消息裡に、ここに今存在するのである。

 それ故、「光明化運動」とは『生長の家』に於いて、久遠の昔から光明になり切っている人類の行うところの運動ということになるのである。
 「生長の家人類光明化運動」とはまさに「成仏」(仏が鳴り出す)ということに相当するものであったのである。

 あくまでも光明一元論、唯神実相論上に、光明になり切った絶対自由の絶対主体たる神の子の生命の純粋持続として行われる運動であるのである。
 このことが神の永遠の構図に於ける創造の延長そのものであるということである。

 ここに於いてすべての人間は光明化運動に於ける絶対の主体者にかえったのである。

 この主体に還らず、「人類光明化運動」を迷える人間を光明化するのであると思っている以上、それは明暗混淆の二元論であり、迷いである。
 このような状態ではいよいよ運動熱心にしていよいよ迷いが深くなるようなことになるのである。


     終  曲

 この広大無辺なる宇宙の一点に立って、真の一足を投じてあやまたざる、真の自信ある生活をおくることの出来る者は誰か。それは神の子である。
 神の子とは「個即全」「今即久遠」をいのちとして生きているものに他ならない。

 創造とは何か。創造とは「久遠の今」の一点が進むことである。これが、尊師の教え給う「生命の純粋持続」ということである。
 この生命を「光」という。このほかに「光」はなく、創造はない。創造とはそこに価値を産むことである。価値があるとは実在があるということである。
 実在があるということは神があるということである。

 神は絶対であり、絶対には分裂がない。分裂がないのが「久遠の今」なのである。

 今と久遠が分裂せず、自己と世界が分裂せず、目的と手段とが分裂せず、今此処に自己と世界が一点に生きて完全であり、しかも無限に創造がなされてゆく。
 ここに真の「光」の創造的進軍がある。

 「生長の家人類光明化運動にいのちをかける」とは如何なることか。
 この「今」にいのちを懸けることである。「今」の一点には全宇宙即「生長の家」があるのである。ここにいのちを懸ける道が開かれているのである。
 それは全宇宙にいのちを懸けることである。

 「御教えの本に還れ」とよく言われるのであるが、実に、生長の家の御教えの本に還り、尊師のいのちに帰るとはこの「久遠の今」に還ることにほかならない。
 この「久遠の今」の中に日本があり、天照大御神がいまし、天皇がおわしまし、生長の家があり、尊師がおわしますのである。

 尊師がこの世に、『生長の家』誌を出される決心をされたときに聴かれた声は、「今、起て!」という大いなる天徠の声であった。
 尊師は万物発生の枢機を握る一点において「吾れ」と「今」と「此処」とは一つであるとお説きになられる。即ち、「今」とは「尊師」のことなのである。

 「今、起て!」のことばは万物発生の枢機を握る一点において「吾れ」と「今」と「此処」とが実相全機の現成として響いたのである。
 そして、実相の世界に於いては永遠に常に「今、起て!」というコトバが全機の働きとして鳴り響いているのである。

 常に、実相の大地に降り立ち、尊師のいのちに参ずるものはこの声を聴くことが出来るであろう。

そこにこそ運動の中において一人一人の一挙手一投足に本当の尊師のいのちへの回帰があり、帰命がある。此処においてはじめて本当の意味における尊師のいのち―
―生長の家人類光明化運動への情熱が吾々各個の中に生まれるのである。
<つづく>


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