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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

2090志恩:2013/12/07(土) 11:18:35 ID:.QY5jUA6
つづき
1994 :復興G:2013/06/13(木) 22:38:40 ID:AB6RqYXc

<榎本恵吾先生著 『光のある内に』 より つづき>

             ○

 一瞬々々それ自身で完全な生活と申しますと、その生活は自主の生活であり、因縁所生の生活でありませんから、従つて金剛不壊の生活に一致するのであります。
 因縁所生の生活は金剛不壊ではない、それは相互依存の生活であつて、直に壊れて了ふのであります。この世に因縁所生でない、相互依存の生活でないそんな生活があるかと申しますと、

現象世界の生活は凡て因縁所生、相互依存の生活でありますけれども、その因縁所生の生活を送りながらも、その一瞬々々の生活が『久遠の我』を自覚した生活ならば金剛不壊の生活であります。
何故ならば『久遠の我』は金剛不壊で壊けやうがないからであります。
                                (『生命の實相』信の巻・神道篇510頁〜518頁より)


     四、「光明」とは(略)

     五、「光明化運動」とは

 「生長の家人類光明化運動」の「化」という言葉は「実相顕現」の「顕現」という言葉に相当する。「化」という言葉は、対象物をこちらの思うようにだんだんに変化せしめ、
 働きかける主体の活動を意味する言葉として使われているようである。その意味では、「光明化」とは光明でないものを光明にして行くことになるであろう。

 しかし、本来光明でないものを光明にして行くということは、「光明一元論」「唯神実相論」に反するものであると言わなければならない。

 ここでいう「光明化されるもの」は当然衆生であるが、衆生は本来仏であり、決して迷ったことのないものであり、この世には迷える衆生もなければ悪しき世界も本来神はつくらないのであるから、
 衆生を光明化することは成り立たないのである。「唯神実相論」では神のみが唯一の実在であり、人間も神によって創造せられたものであるから、本来光明そのものである他はないからである。

 したがって、「光明化」という言葉は、「本来光明でないものを光明にして行く」という意味ではなく、もっと異った意味に受けとらなければならないことになる。
 尊師は『生命の實相』の中で次の如く書かれている。

 仏のなすべきことは何であるかというと、説法ということであります。そう言うとおかしく聞こえますけれども、「すべてのもの言によってつくらる、言葉は神なり」というキリスト教的立場からしましてもそうなのであります。仏教でも釈迦は『大無量寿経』の説法を終わると、「如来の応に作すべき所の者は皆已に之を作せり」と言われました。成仏するという場合の、「成る」という字は「化る」ではありません。「仏に化る」のでしたら仏でないものが仏に化るということになるのでありますけれども、成仏するというと仏が鳴り出すことなのです。始めからわれわれは仏なのですけれども黙っている。黙っているのは成仏ではないのであります。成仏とは仏が鳴り出すことなのでありまして、天之御中主神が鳴り出してきたらこの蓮華蔵世界が現われたのであります。われわれは始めから仏である。しかし黙っているとまだ成仏していない、仏が鳴り出していないのであります。
(『生命の實相』佛教篇――頭注版第39巻148〜149頁)

 このことは「光明化」という場合に、「化」を「だんだんに変って行く」という意味に解してはならないことを意味している。
 さて、『字源』には、「化」の意味として、「これからだんだんにかわって行く」という意味のほかに、「既にかわりきりたること」と出ている。

「生長の家人類光明化運動」に関する限りはこの後者の意味をとらなければならない。即ち、『生長の家』(光明)に光明化され切りたる意味、光明になり切りたる人類という意味である。

『生長の家』に光明化されたのならば、それ以前は人間は光明(神の子)ではなかったのであるかという疑問が生ずるかもしれないが、最初に述べたように

『生長の家』とは「久遠の今」の別名であり、「久遠の今」は現象の時間空間を超越せるものであるから、光明になり切ったといえども、時間的な経過や空間的へだたりは、
 人類と『生長の家』との間にはあり得ないのである。
<つづく>


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