したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

2087志恩:2013/12/07(土) 11:08:42 ID:.QY5jUA6
web誌友会板より
(再掲)
1991 :復興G:2013/06/13(木) 22:35:27 ID:AB6RqYXc

<榎本恵吾先生著 『光のある内に』 より つづき>

     一、『生長の家』とは何か

 『生長の家』とは何か。それは自分のいのちのことである。「久遠の今」(Eternal Now)において、万物はこの一点におさまっているのである。
 そして、自分のいのちが「今」「此処」にあれば、『生長の家』も「今」「此処」にあるのである。

 「久遠の今」に立ったとき、すべてのことは自分のいのちの中に発見され、常に自分のこととして問題とすることが出来る。
 この「久遠の今」の中に自分を発見し、『生長の家』を発見しなかったら、『生長の家』は自分からはなれたよそごととして、ついに終る。

     二、「尊師」とは

 尊師谷口雅春先生は明治26年11月22日にお生れになった。厳しい求道の末に遂に神を発見され、生長の家人類光明化運動を起されて50年。そして今年(昭和54年)満86歳になられる。
 しかし、
 尊師は時間空間中の現象を超えた真の自己、実相の、実在の谷口雅春先生を発見された時に、肉体としての谷口雅春は本来なかったのであると自ら否定してしまわれたのである。
 それ故、私達が「尊師」とおよびする時、その尊師は実在としての尊師、いま私達の目前に手をふれられる姿でありながら、そのまま永遠の、久遠を流るるいのちとしての尊師なのである。(中略)

 尊師が神の啓示を受けられた時、神の声は最後に次の如く語った。

 「そうだ。肉体イエスを抹殺した時、実相のキリスト、アブラハムの生まれぬ前から生き通しの久遠のキリストが生きてくるのだ。イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である! 
 今、ここに、久遠生き通しの生命が復活する。今だ、今だ! 久遠の今だ! 今が復活だ! 今を活きよ。」          (『生命の實相』頭注版第20巻136頁)

 さて、この「久遠の今」というのは時間、空間を超越した、万物発生の枢機を握る一点なのであるから、尊師が「久遠の今」をお悟りになったということは尊師が「久遠の今」そのものであるということである。
 この一切万物発生の枢機を握る一点に立たれた時、キリストも釈迦も古事記も一つの同じ真理を説いていることが解って来たのであった。

 万物は「久遠の今」という中心から発したのであるから当然、真の宗教である限りに於いてすべて宗教は一つに帰るという真の相を発見されたのであった。ここに万教帰一の教えが生れる根拠がある。
 帰一とは「久遠の今」「万物発生の枢機を握る中心」従って「絶対」に帰るということであり、宗教だけではなく一切万有が「絶対」に帰ることを意味する。
 尊師は「久遠の今」に立たれた故に肉体を超え、現象を超えたいのちとしてのキリストや釈迦を発見されたのであった。

 こうして真理に到達された尊師は、この真理を述べ伝えようとされた。これが地上に「生長の家人類光明化運動」が開かれた誕生の時であったのである。
 尊師はその時、「今、起て」という神のコトバを聴かれたのであった。地上の「生長の家人類光明化運動」はここから始まったのであった。

 この「今、起て」の「今」とは「久遠の今」のことである。実相に於て、「吾れ」と「今」と「此処」とが一つであるから、「今、起て」とは「久遠の今なる汝よ、起て」ということなのであった。
 そして「久遠の今」なる尊師が起たれることによって「生長の家人類光明化運動」は始ったのである。「久遠の今」とは光明一元、実相独在のことである。
 げに「生長の家人類光明化運動」のいのちは「実相独在・光明一元」ということである。

 これが「生長の家人類光明化運動」の始ったお姿であった。現象を完全に否定し、光明一元、実相独在にたちかえられて「光明一元」の生命そのものであられるのが、吾らの拝する尊師なのである。
<つづく>


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板