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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

159さくら:2012/07/12(木) 22:48:29 ID:vxm3Yqkc
初心者さま

>文化的状態とは、「気づかないふりをすること」である

・・そういえば、このことは、今回の原発の問題でも、実感したことでした。
今の生活の快適さを享受している、その背景にあるものに「気づかないふり」をしていたのではないかな、とわたし自身は考えさせられました、
「原発は絶対に安全である」、と言われれば、快適な生活を手放したくなかったり、
何かあるまでは、その仕組みやどんなリスクがあるのかも考えようともしていなかったですから、。
たいてい問題の背後には、この「気づかないふり」というのは、おおきい鴨知れないですね。
(生長の家の問題だって、結局そういうことが大きいのではないでしょうか。)

いかに、いまの経済構造や消費構造に、じぶんたちの意識が支配されていることがあるのは、よくわかります。

その「社会の構造」に支配されている意識の状態を、バタイユは「奴隷状態」に模したものと、言ったのですね。

>バタイユは、人生の真のよろこびは、この『呪われた部分』にこそあると考える。

「真のよろこび」、とは、どう考えるかですね・・
「呪われた部分」という表現と、「宇宙回帰への願望」、ということをさすのでしょうか。
たしかに、こうした「社会的な奴隷状態」に反して、自己の内部から突き上げる欲求に突き進んでいくことは、ある喜びがあるのだとおもいます。
社会的な重圧にしばられない、自身の感性のままに個性を発揮して追い求める、ということ願望は、多かれ少なかれ、あるかもしれません。

「真のよろこび」、といえば、前にも掲示板に書いた話なんですが、
オスカーワイルドの、改心の話があります。
オスカーワイルドも、耽美主義的な芸術観で、実生活でも放蕩快楽の限りを尽くして、その美を味わい尽くすことこそ、まさに人生の喜びとしていたのですが、
獄中で、何気ないちいさな深切を人に与えることで、自己に宿るキリストの愛の精神こそが、美の究極であるとして、キリストの愛の精神に目覚めていきます。

ずっと、この話が心に残っているのは、
この気持ちが、わたしにもたしょう分かるからです。
人間に罪がない、ということが分からないほどに、人間の究極の美が、愛にあるなんて、じぶんには分からなかったですから。
でも、このことが実感できると、他のことは色あせてしまうほど、
真のよろこびとするに、ふさわしいものであると思っています。

愛の行いによって、人間の精神の、究極の真善美の、真の喜びを見出すことができると、
わたしはおもっていますが。

宗教が世の中を変えるとしたら、その観点の軽視はあり得ないのではないですか。
わたしは、宗教がどんな立派な大義名分も、一見どんなただしい理屈理論も、
この観点がかけている実際の運動や団体の実態があれば、信用できないとかんじてます。

>問題があるとすれば、それは奴隷意識という枠組みのなかでしか雅春先生の教え
が理解されてこなかった、ということですね。「実相独在」という壮大なヴィジョン
が打ち立てられていながら、小市民的な欲望の充足に終始していたのはどういう
ことだ、って話ですね。

壮大なヴィジョンに見合った何ができるのかって話です。万教帰一、人類光明化、
日本国実相顕現とさまざまなことが言われてきながら、何が実現できたの
かって話です。実現できるのが『生命の實相』を護ることだけでよいのかって
話です。


これは、そうかもしれませんね・・
生長の家で、実現性というのは、どういうことなのかは、あまり、じっくりと、語られてはしない域がしてます。
宗教としてなにができるのか、他の宗教との相互協力や理解は、どう実現するのか
生長の家の、「日本国実相顕現」の運動が、
結局政治運動や憲法改正になるというのは、どう云う目的の運動なのかも、考え直してほしいとはかんじています。


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