したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

1290うのはな:2013/05/02(木) 18:51:26 ID:A8gzPJ3k
   いまつながっている絆を大切に

 わたしの朝は、毎日、神様に榊水、仏様に水とお茶をあげてお祈りすることからはじまるの。
そこには、わたしの大切な人がいるから。それは戦死したわたしの夫。
 軍服姿の夫に「おはようございます」と言って、花のお香をたくのが日課になっているんです。

 夫との出会いは、わたしが21歳のとき。彼は8歳年上で良江治さんという名前。
親のすすめでお見合いをして婚約、結納、そして結婚式の日取りもあっという間に決まりました。
昔はね、親の言うことを聞いていれば間違いないといわれていたし、いつまでも実家にいるわけにはいかないと
思っていたから結婚を決めたんです。

 ところが、そのときはちょうど大東亜戦争がはじまった翌年の昭和17年。
結婚式をあげる前に、突然、良江治さんに召集令状が届いてしまったの。
当時、日本は勝ち戦ばかりで、だれも戦争に負けるなんて思いもしていなかったと思います。
わたしもそうでしたね。そして、召集令状に「待ってくれ」というわけにはいかないでしょう。
夫は軍隊へと入ることが決まってしまいました。

「3年もすれば戦争から帰ってくるから、仮祝言をして、戦争から帰ってきたらほんとうの結婚式を
あげればいい」「軍国の花嫁」なんて言葉、みなさんは知らないかもしれませんね。
 でもわたしは、そう言われながら、千葉神社で仮祝言と出征式を一緒に行ったんです。
そして、夫はそのまま戦争へ.......。

 夫は入隊してからも、よく手紙をくれましたね。そんなある日、わたしは、ひとりで千葉から東京の九段へと
モンペ姿で面会に行ったんです......。でも、会えなかった。すでに日本を出発したあと。
「防寒服を渡されていたから、寒いほうへ行ったんだろう」と言われて、ガッカリして千葉までトボトボと帰りました。

 そうしたら、満州から夫の便りが来るようになってね。とても達筆な字でしたよ。
こうやって便りが来るのは元気な証拠だと思って、わたしは安心していたの。
 やがて、昭和20年になって、戦争が終わりました。それも思いもよらない敗戦でした。
でも、戦争が終わったことで、戦地からの復員がはじまったから、わたしは「夫はいつ戻ってくるのか」と
心待ちにしていたんです。すぐに帰ってきてくれると思ったんですけどね.....。

 夫はソ連へ捕虜として連れて行かれ、シベリアに抑留されてしまっていたんです。
同じく抑留されていた人たちの復員もようやくはじまって、夫と同じ収容所にいた人も帰ってくるようになりました。
「ご主人は次の船で帰って来るだろう」と言ってくださる人もいて、わたしは毎日、毎日、待っていました.....。

「カラスも鳴かないような冷たいところで寝ているのではないだろうか」心配で、心配でたまらない日々を送りましたね。
でも、それから何年も経っても、夫は帰って来ることはなかった。そして「戦死」という報せが......。
 のちに、夫の遺骨が届きました。骨壺からはコロコロとむなしい音が響くだけ。わたしは哀しくて涙が止まらなかったですね。

 夫からの便りは、仏壇にずっと飾っていて、数年前に読み返してみました。
「おれも軍隊生活に慣れた。お前も勉学に努めなさい」そんなわたしのことばかり心配してくれていた手紙ばかり....。
やさしい夫の気持ちを思うと、死ぬときは悔しかっただろうなと、あらためて泣いてしまいました。
 わたしと夫は、夫婦として一緒にいられたのはたった一日だけ。でも、いまでも夫婦の絆はなくなっていませんよ。
毎日、お水とお茶をあげて、軍服姿の夫の写真と会話をしているんですもの。それに、赤ちゃんという新しいいのちが誕生したら、
それも報告したりしてね。夫もきっと祝福してくれているはず.....。

 しっかりとした絆は、たとえこの世での別れがあってとしても、永遠につながっているもの。
でも、この世での別れの哀しみも、わたしは知っています。だからこそみなさんには、いまつながっている絆を大切にしてほしい。
絆は永遠だけれど、いまこのときの絆は、とても大切ですからね。

 『生まれてくれてありがとう』 林むつ 著


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板