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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

127さくら:2012/07/10(火) 11:12:50 ID:vxm3Yqkc
初心者さま

「寂光論争」は、信仰上の問題であって、「本物の宇宙」の真理を探究するのには、
無関係と言うことですね・。

たしかに、真理の探究に於いては、「信じる、信じない」の問題に終始してしまうことは、
その目をくらませることにも繋がります。
「本物の宇宙」が、「それはどこにあるのか」、「それは何であるのか」そのことこそ、問題になるというのは、
いままで、初心者さまが現代物理学や心理学、言語学などの見地から、真摯に探求されてきたことをうかがい知ることができ、
いままで知らなかった世界を知ることが出来て、とても勉強になっています。
「現象無し」ということは、この探求を軽視することとは、わたしはおもっていません。

わたしは、生長の家の「根本になる真理」というのは、信仰上の問題とともに、哲学であり科学であり、心理学の見地からも、検証にたえられるものであると思ってきました。
ですから、初心者さまの様々な知識からの探求に、興味を持っているのです。
初心者さまが書いておられたように、現代人の意識の変化というのは、免れません。
だから、根底に不変なものを残しながらも、もっと、自由な探求、新しい見地からの検証は、必要なことで、ひじょうに重要ではないかとかんじています。
このような検証にたえられない真理であれば、自然淘汰されるだけです。
その意味でも、初心者さまが指摘される問題点も、理解したいと思っています。

しかし、一方では、そこには、生長の家で求められている、
信仰の問題や宗教的救いの観点が、かけているのでは、と感じることがあるのです。
たしかに、前に、初心者さまは、そのことには関心がない、とお書きだったと思います。
それに、信仰とはなにか、宗教的救いとはなにか、ということを扱えば、
それはすごく奥が深く、一概に言えない問題とも思いますが・・

でも、やはり、宗教において言及するなら、避けて通れない問題ではないでしょうか。

この点では、雅春先生のお悟りされた世界観や、実際生活にあらわれた体験の数々は、
それは否定しようもない、宗教的な救いがあると思っています。
雅春先生は、人の生活や人生に、・・それは、宇宙の本質的なものであると思われる、
「真善美」の現れることを、それは愛深く教えを説かれて実践されておられました。

この「救い」の点については、初心者さまはどう感じられますか?
やはり、「超越項」として否定されますでしょうか。
実際に現れている、病気治癒や生活の改善は、簡単に「真理のあらわれ」とはいえない、ということは分かっています。
でも、こうした体験もまた、あるべきものがあらわれた結果としての、
実証として、軽んじられない一面だと感じるのです。
奇蹟をよし、としているわけではないのです。
でも、実際生活に、信仰の、しみじみとした実感が表れることは、
宗教の救いにはとても大切なことだと感じます。

・・信仰のことをこのように、扱うのは、とても難しいことです・・。
でも、わたしにとっても、内なる宇宙という、大切な世界であるのです。


>その結果、現象は「ない」のであるから、それは定義できないし、定義する必要も
ない、という話になりましたが、これは順序として逆なのですね。「現象」という
言葉を使うからには、それが何であるかをまずはじめに説明すべきであるのです
が、それをせずに、一方的に「現象はない」と宣言して、「現象はないのであるから
説明の必要もない」という話になっているのです。これでは順序がまったく逆で
ありますので、このような問題が引き起こされているともいえます。

現象無しの、この現象とはどこまで、いうのか、ということは、真理の探究する視点では、
当然求められるものですね。
初心者さまが予想される本物の宇宙は、反証可能な方法でそれが、たしかにある、ということが言えるのだとおもいます。

その「本物の宇宙」とは、人間に、なにをもたらすとかんがえられますか?



ところで、ヘルマンワイスのことは、わたしも知りません、
「20世紀の巨星」、と書いてあったので、博学の初心者さまにお話しするのには、
ちょっと知ってる体で書いただけです、笑。


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