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「部室」板/3
1986
:
さくら
:2013/01/08(火) 22:27:03 ID:e8ieIrPA
曽野綾子さんの
『なぜ子供のままの大人が増えたのか 』という著書の中で、
こんな言葉も、ありました。
「幼児性のもう一つの特徴は、人間社会の不純の哀しさや優しさや香(かぐわ)しさを、全く理解しないことだ。幼児的人生はすべて単衣(ひとえ)で裏がない。だから、厚みもなければ強くもない。
こんなことを書くだけで、政治家が嘘をついたり、政治的理念など放置して派閥作りに狂奔(きょうほん)するのがいいのですか、などと言われてしまう。不純にもいろいろあるのだ。下世話な言い方をすると、下等の不純も上等の不純もある。
不純というと一つの概念しか考えないのが、幼児性なのである。本当に有効な予防外交というものが、もしあり得たとしたら、それは上等な不純が功を奏したからである。
幼児性はものの考え方にも、一つの病状を示すようになる。理想と現実を混同することである。この混同は、自分がその場に現実に引き出されない限り、それが嘘であることが証明されない、という安全保障を持っている。」
自分の理解したことだけをもって「真の生長の家」とし、それ以外をなんの実態も明らかにしないものを「虚説」ということに、抵抗を感じるのは、
曽野綾子さんがいう、この「幼児性」と共通するものがあります。
自分が他を理解する努力より、理解できないものを、「虚説」とすれば、自分が清く保たれる善人になれるから、たしかに楽です。
例えば、これだけが真の教えだとするような、宗教の無自覚な純粋性は、一見清く思われますが、
そこに奥行きもなく、きれいな言葉だけはおどっても、人間としての切実な愛情が欠けているように感じられます。
流行りのエセスピリチュアルの考えや、カルト的な宗教の一部の信者には、この種の「純粋性」があり得ます。
生長の家の信仰は、成熟した真理であると思いますので、この種の幼児性から、成長した信仰であると思います。
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