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web誌友会 板

1699復興G:2012/12/07(金) 22:59:13 ID:vWpLkCzM

>>1694 :トキ様
>>1697 :SAKURA様

>> ウサギは、この道でなければ成らない、とこだわって、簡単に捕まってしまう。これが、野生でしたら、このウサギはいっぺんに餌になってしまいます。そう考えると、こだわるという事は、恐いことだなあ、と感じます。
 おそらく、このウサギや鶏同様、人間はもっと複雑に、思い込みが激しいのだと思いました。 <<

――考えさせられますね。

「現象あり」と見ていると、どうしても、「思い込み」が激しくて、そこから抜け出しにくい。常に「現象なし」「自分はないのである」「ただ神のみ」の自覚に立ち還らなければ、「思い込み」を持ってしまう危険性がありますね。
自戒しなければならない、大切なことだと思います。

1700復興G:2012/12/07(金) 23:01:16 ID:vWpLkCzM

皆さま、ありがとうございます。

このweb誌友会、まだあと2日間ありますから、今日は私はこれにてやすませて頂こうと思います。

ありがとうございました。おやすみなさい。

1701トキ:2012/12/07(金) 23:23:13 ID:oJHbsaTc
>>1700

ありがとうございます。

なお、ご投稿は夜間も歓迎いたします。
よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

1702さくら:2012/12/08(土) 00:14:45 ID:.noC14Us
復興G様
トキ管理人様
ご参加のみなさま

合掌ありがとうございます。

投稿を拝読させて頂いて、素晴らしい気づきにあふれていて、どの言葉もいまの自分に、ピッタリの言葉でした。

実はさいきん、個人的に、親しい知人の身体のことで…少し過剰に「心配」してしまっていました。

「大丈夫!」と頭で分かっていても、何かあると、どうしても、心は一つの現象にとどまりがちで…。

それは自分のこころに引っかかり、神のこころをあらわせない状態だったのかな…と思いました。

…一番はじめに思ってしまったのは、知人に何かあったら、と…心配なこころだったので、反省しました。



対立する気持ちがないつもりでも、
何か自分の心に「こだわり」ができてしまうと、それが現象に現れるのかな。ともおもいます。

正直、わたしには、まだまだ、「こだわらないこころ」は、難しいことが多いです。


掲示板では、ここ一ヶ月くらい、「神の子」の名で、聖典板にまで、たびたび、意地の悪い書き込みがなされていたので、ここに書き込むのも雰囲気を壊すので、本当はやめようと思っていました。
他の方は気づかない程度のことなのでしょうが、せっかくの場で、興ざめしてしまうので…。
ただ、いまの自分には、真理の学びが必要だと思いましたので、申し訳ないのですが、書かせて頂きました。

わたしにも、「こだわるこころ」があるから、反省しなければならないし、
そう言わざるを得ない気持ちが、わたしにはあるのだと、いま、思いました。

>生きていること自体が自分ではなく神であり給うのである。自分は無いのである。自分は全くのゼロであるのである。自分が存在すること自体が神であり給うのである。神は“汝は吾れであり、吾れが渾べての渾べてである”と愛し、拝し、観じ給い、吾れとなり給いて神ご自身を生き給うているのである。……(「榎本恵吾記念館」サイトの「文書館12 幽斎殿�」より)

この言葉が、とても響きました。

いまは、この「祈り」を深めていきたいです。

またよろしくお願いいたします。



1703復興G:2012/12/08(土) 07:54:10 ID:vWpLkCzM

さくら様、皆々さま

おはようございます。

書き込み、ありがとうございます。

どうぞ、また書き込んで下さいね。

ありがとうございます。

1704復興G:2012/12/08(土) 09:05:27 ID:vWpLkCzM

 ありがとうございます。

 また、少しテキストをアップさせて頂きましょう。

≪テキスト 『生命の實相』 頭注版 第2巻「實相篇 下」より (3)≫
---[Page 78]---

    病気の心的種子、決して恐れるにたらず

 しかし「病気の心的種子」は、前にもいったようにいろいろの機会にわれわれの心の底に
---[Page 79]---
忍び込んで来るのであります。この「病気の心的種子」をこうして根本的に取り除くことができればそれにこしたことはありませんが、病気の心的種子がいかに心の奥底に蒔かれていましても、これにわれわれが自身で栄養分を与えぬようにすれば、それだけでも決してじっさいの病気となって発芽せぬのであります。

 植物の肥料に堆肥(たいひ)といって馬糞や、枯草や、藁などを積み重ねておいて腐らせたのを肥料に与えると非常によく生長します。それと同じで、病気の心的種子も、その種子の周囲にいろいろの心の塵埃(ごもく)を積み重ねて風通しの悪いようにしておきますと、早く芽を吹いて生長するのであります。心の風通しのよい人は、病気の心的種子がたといまかれていてもカラカラに乾いてしまって病気の芽が吹かないのであります。

 わたしは先に売薬の広告や、病人の蒼ざめた顔や、新聞雑誌にのった病気の記事などは、真に恐るべき「病気の心的種子」のまき手だと申しましたが、この「病気の心的種子」というものはじっさいまた恐るべきでありますが、同時にまたちっとも恐れるにたりないものであります。なぜなら心の法則を知らない間こそは、知らず識らずこの病気の種子に肥料をやって「現実の病気」を生長させる恐れがありましたが、皆さんのように毎号『生長の家』を読んで本当に心の法則を知られたならば、もうこの病気の種子を養い育てるために心の塵埃で堆肥をつくるということがなくなるからであります。

 このサトリの発達の順序を考えてみますと、最初の時代は、何も知らないで、病気の解剖図
---[Page 80]---
や売薬の広告を読み、病気の心的種子を心の底に植えつけられ、それを生長させてじっさい病気にかかったのでありますが、少しく「心の法則」が解りかけてきますと、もう病体の解剖図や売薬の広告を読むとどんな害があるかということを知ったために、そんなものを見たり読んだりするのがなんだか恐ろしくなり、できるだけそれに接するのを避けよう避けようとするようになるのであります。

 むろんこんなものは避けるにこしたことはない。「心の法則」に達した人にでも迷いに強(し)いて近寄らぬということは必要なことであって、古今を通じて剣術の名人だった塚原卜伝(ぼくでん)でさえも強いて危険を冒さないことを正道としていたのであります。しかし真に「心の法則」に達して来ますと、「病気の心的種子」を避けるのだって、恐れて避けるのではなくなるのであります。

 「蛙(かわず)の面(つら)に水」がかかっても蛙の面は水をはじいて、冷たがりもしないように、われわれの心に「病気の心的種子」になりそうなものが、八方から目に入り耳に聞こえて来ましても、心が真に自由であるなら少しもそれにとらえられないようになるのであります。蛙の面に水がかかっても蛙が苦しいとも冷たいともなんとも不快を感じないのは、蛙が水というものを征服して、水に対しては実に自由自在の境地に達しているからであります。

 われわれの心も病気観念に対して真に自由自在の超脱した境地に達しますと、水を頭からブッかけるように、病気観念を正面から浴びせられてもなんともなくなる。病的観念をいくら植え付けても、自由自在に風通しの好
---[Page 81]---
い、光線がゆたかな心のうちでは発育しようがなくなるのであります。

 で、病的観念の種子が知らぬ間に何かの機会に心の底に植え付けられていましても、心がその種子に引っかからぬ――すなわち蛙の面が水に引っかからぬと同じように、われわれの心がその病的観念の種子に引っかからぬならば、水が蛙を害することができないように、その病的観念はわれわれを害することはできないのであります。病的観念の種子を養い育ててじっさいの病気にしてしまうものは、われわれの心がたまたまその病的観念に引っかかって「迷い」の塵埃(ごもく)で、その種子を育てる堆肥を作ったからであります。

1705復興G:2012/12/08(土) 09:22:33 ID:vWpLkCzM

>>1704のテキスト文で、

病気の心的種子がいかに心の奥底に蒔かれていても、「蛙の面に水」と、はじき返してしまうようになるには、
これこそ、さくら様が

『>生きていること自体が自分ではなく神であり給うのである。自分は無いのである。自分は全くのゼロであるのである。自分が存在すること自体が神であり給うのである。神は“汝は吾れであり、吾れが渾べての渾べてである”と愛し、拝し、観じ給い、吾れとなり給いて神ご自身を生き給うているのである。……(「榎本恵吾記念館」サイトの「文書館12 幽斎殿�」より)<
この言葉が、とても響きました。
いまは、この「祈り」を深めていきたいです。』

と言ってくださった、こういう祈りに、常に立ち還って行くことが根本だと、私は思います。

1706トキ:2012/12/08(土) 09:38:20 ID:tRbdVDEA
おはようございます。
 
 確かに、同じ物を食べても、ある人が食中毒になっても、別の人がならない場合もあります。
生活をしていると、病気の種から避けるという事はできませんから、そういう物に触れても、
”「蛙の面に水」と、はじき返してしまうよう”、自分がならないといけませんね。

1707復興G:2012/12/08(土) 09:50:37 ID:vWpLkCzM
 ありがとうございます。

 また、少しテキストをアップさせて頂きましょう。

≪テキスト 『生命の實相』 頭注版 第2巻「實相篇 下」より (3)≫
---[Page 81]---

    善人だのになぜ病気にかかるか

 私の友だちは実に善人だのに肺病にかかっている。これはどういうわけですか――というような問いを聞かされることがあります。なるほどこれはしごくもっともなお尋ねであります。

 この問いには、神がもしあるならば善人をこそもっと護って健康にしてもよさそうなものだという意味が含まれているのであります。しかし「善人とはなんですか」と問い返すとちょっとその人は答えにまごつくでありましょう。

 「いやしくも悪を犯さない人だ」とその人は答えられるかもしれません。あるいはまた「善悪の観念のハッキリした人だ」と答えられるかもしれません。あるいはまた「ごまかしの利(き)かぬ人だ」と答えられるかもしれ
---[Page 82]---
ません。ともかくも肺病になるような性質の善人は、善悪の観念のハッキリしたごまかしの利かない、いやしくも悪を犯さない、もしあやまって悪を犯したら、いつまでも心がその悪にこだわっていてなかなか心が自由になれないで自他の悪を咎め、いつもクヨクヨと人生を考えているような窮屈な心の善人が多いのであります。

 あらゆる他の善さがありましても、心の自由が欠け、窮屈で、気が小さく、いつもクヨクヨ自他の悪にかかわっているようではその人の善さの大部分の価値は失われてしまうのであります。

 われわれは善人でなければならない。いやしくも悪を犯すことを恥としなければならない。けれども「善」でさえもそこに引っかかってわれわれが心の自由を失うとき、われわれは罠にかかってしまうのであります。

 皆さんは、善といえばなんだとか悪といえばなんだとか、それは一目瞭然のことのように考えていられるかもしれませんが、われわれはこの世界においてある自分のきめた一つの行ないだけが善であって、そのほかのことは悪であると決めてしまうことはできないのであります。

 一人の貧しく憐れなる人間に金を恵むことを例にあげていいますと――金を恵むことはふつう「善である」と考えられていますけれども、金を恵んでもらったがためにその人が助かる場合もあるが、金を恵んでもらったがために、その人の依頼心が増長し、人間をだましやすいものだと考え、人間の慈善心を利用して、働かずに生活しようとその人が思うようになるかもしれないのであります――もし、われわれが
---[Page 83]---
こんな人に金を恵んでやったならば、かえってその人の生活を堕落に導くようになる。

 われわれはこういう人に接するとき、こういう人が金を貸してくれと頼むとき、その人の心的雰囲気を感じてなんとなく金を貸したくなくなりましょう。あるいは金を貸さないだけでなく、かえって手酷くののしりたくなるかもしれない。そして、その人は恥をかいてののしられて興奮してうらめしそうに帰って行く、帰ったあとでその人は、あんなにいわれた時の口惜(くや)しさを思い出しかえって発奮して独立独行この世の中に成功する、するとその時金を貸してくれずにののしられたということはその人にとって真の救いになったのであります。

 それだのに窮屈な善人は彼をののしって帰らせたあとで、なぜ自分はあの貧しい男をあんなにののしったのだと自分の心の狭さを悔いる。自分はなぜあの男に金をやらなかったのであろう。自分は善人のつもりでいたけれども本当は守銭奴であったのだ、一人の貧しい人にさえ施しをすることができないあさましい自分だったのだ――こう思ってその窮屈な善人は、自分を責め、自分を苦しめ、ついに自分自身が気欝症となり、この気の滞りが堆肥となってかつて心の底に植えられた病気の心的種子がそろそろ芽を吹きそれが胸に来れば肺病ともなり、心臓病ともなるのでありましょう。
<つづく>

1708復興G:2012/12/08(土) 09:51:23 ID:vWpLkCzM

<つづき>
 ここに窮屈な気の毒な善人の陥った非常な迷いがあるのであります。その迷いのために、病気の心的種子に肥料が与えられる。貧しき人に会ったならば金を施すほかに善の道はありえない――その人は善
---[Page 84]---
というものをそういうふうに一つの型に推しはめて、ある場合その型にはまらなかった自分自身を責める、あるいはその型にはまらない他の人間を見ては、その他の人間を心のうちで批難する。こうして窮屈な善人は自分を責め、他を責め、この自由な伸び伸びとした世界を、自分の心一つで不自由な狭いものにして毎日自分を嘆き、人を責めて悲しみと不平と憂欝とでその日を送るようになるのであります。

 これは一例でありますが、万事について一つの「善」というものに心が引っかかるために心の狭い善人は病気になりやすいのであります。たといこれほどまででなくとも、肺病や胃病になられるような善人は、事ごとに自他の行為に対する批判力が強くて、律義で、窮屈で、気が小さいところがあるのであります。この窮屈さを取り去ってしまえば病気の肥料となるところの気欝というものがなくなるから、病勢がとみに衰えるのであります。

    一時を救うのではなく根本的に救うことが必要

 そんなら、貧しき人に会って自分が彼より富んでいても恵む必要はないのか、恵まないでもそれでよいのか? ――とムキになって問いつめて来られる人があるかもしれませぬがここが大切なところであります。ある時には恵まないがよろしく、ある時には恵むのがよろしいのであります。恵む恵まぬが問題ではなく相手を救う――根本的に救うというこ
---[Page 85]---
とが目的だからであります。

 われわれはまず善をなそうという念願をもたなければならない、それと同時に常に、「わが行ないをして神意(みこころ)にかなわしめ給え」と祈らなければならない。そしてその祈りを深めることによって、神の聖意(みこころ)があらゆる事にあたって、自分の行ないを通じて現われて来るという自信をもたなければならないのであります。

 われわれはある人に金をやってその人が根本的に救われるか、金をやらずに彼の意気地なさを叱責する方がその人を根本的に救うことになるのか、人間心では知ることはできない。ただ神と一致することによって――神を自分の内部に祈り招(よ)ぶことによってすべてを知り給う神の聖意(みこころ)が自分を通じて働いてくださるという自信がもてるのであります。

 自分の知恵で善悪を定めるのではなく、自分に宿って、中から催してくる神の知恵に従うのであります。神に従う事こそ唯一の善であり、唯一の愛であり、唯一の知恵であって、そのあらわれは怒りの爆発となって出て来ようとも、貧しい人をののしって帰すようなことになろうとも、それを善とか悪とか、とやかく人間心で批評することはいらないのであります。そこに本当の超越的な「善」が生きて来るのであります。

 この超越的な善が生きるときわれわれは真に道徳的な自由を得るのであります。今、わたしはあの貧しき人に対してののしったが、あれは悪かったと後悔して自分を責めることはいらない、自分を責める暇があれば、「どうぞわたしのののしりが因縁になって、あの貧しき人が本当に救われますように」と心から
---[Page 86]---
の祈りを、その人の背後から捧げてあげる方がよいのであります。

 こうして本当に祈れる人なら、祈っているうちに、「これでよし、あの人は救われる」という感じが湧いて来るか、「これではいかぬ、なんとかしてあげる方がよい」とか吋から心に浮かんで来る、この祈りのうちに内部から浮かんでくる導ぎの声にまかせて次の行動をとればよいのであります。
<つづく>

1709復興G:2012/12/08(土) 10:05:33 ID:vWpLkCzM

<つづき>

    祈りに始まって祈りに終る

 すべて祈りに始まって祈りに終るとき――腹を立ててもよく、腹を立てなくともよく、ののしってもよく、ののしらなくともよく、金を貸してもよく、金を与えなくともよい――それはすべてを知り給う神の知恵が自分に宿って、自分の「我(が)」の知恵でなしに行なわれるのでありますから、どんな行為ももう後悔する必要もなく、自責する必要もない。広いゆったりとした、何をしても自由自在の境涯に出られるのであります。

 心がこうして自由自在の境涯に出られますとき、心の中に滞りというものがなく、実に伸び伸びとした「神の子」本然のよい気持になれるのであります。心が自由自在になれるから、腹を立ててもよいのだといわれても、いつまでも一つの事に心が引っかかって腹を立てているということも自然になくなる。また相手を救う必要上、一時カッと腹が立った姿をあらわしめられてもその腹の立つということにいつまでも心が捉えられないで、すぐ
---[Page 87]---
その人のために祈ってやれるようになるのであります。

    自分自身の生きる力が最上の名医

 何をしても神の聖意(みこころ)が自分を通して働いてくださる――このことが祈りによって、自分の心の内に確立して来ますならば、われわれは自由な無恐怖な状態になれるのであります。神に導かれて立つ腹ならば腹を立ててもそれがかえって人の救いになる。それと同じように、神に導かれて出る熱ならば、熱が出てもそれがかえって病気の救いになる。

 咳が出てもよいし、下痢をしてもよいし、患部が痛んでもよいし、そのほかどんな容体が出て来ても恐れることはないのであります。熱は黴菌という「迷い」を消滅さすために起こる。咳は黴菌の死体や不潔物を吐き出すために出る、下痢は今まで全身の細胞を中毒さし弱らしていた毒素を瀉出(しゃしゅつ)するために起こる、痛みはその刺激によって病患部の治癒に必要な血液を集中さすために起こる――こういうふうに今まで、病気の徴候だと思って怖(お)じ恐れていたものが、実は病気の徴候ではなく、隠れていた病気の原因をいったん形に現わして外に浮かび上がらせた上でさらにそれを消滅さすための徴候だということがわかって来る。

 こうなると、熱はけっこう、咳(せき)はけっこう、下痢はけっこう、疼痛(とうつう)はけっこう――そのたびごとに自分はいっそう今までよりも健康になりつつあるということがわかって来る
---[Page 88]---
のであります――すると熱があっても熱さましはいらないし、咳が出ても咳止めはいらないし、下痢があっても下痢止めはいらないし、そのほかどんな薬もいらない――自分自身の「生きる力」こそ、自分にとって一等の名医であることを信じて、その施術に委せきりますから、自分自身の「生きる力」も自分に信頼して委された以上は責任をもってぜひ自分自身で治さねばならぬということになり、たとい熱が高まっても、脳膜炎を起こすほどにはならず、脈搏が速くなっても心臓を麻痺さすほどには速くならず、結局薬を用いたときよりも、自然療能という名医が、病気に応じていかなる他の療法よりも、迅速に適宜の処置をとってくれるのであります。

 なぜなら、自然療能という医師は自分の外にある人を招(よ)んでくるのではなく、自分の内にチャンといる名医だからいかなる医師よりも、迅速に処置がとれ、外から患部を想像するのではなく、内にいて患部の状態を知りつくしていて、それに適応する抗毒素の製造や体温の調節や便通の調節をするのでありますから、その処置をまちがえるということは決してないのであります。
<つづく>

1710復興G:2012/12/08(土) 10:06:31 ID:vWpLkCzM

<つづき>
 ところが、内部の「生きる力」すなわち自然療能博士にその処置をまかさないで、外から呼んで来た医学博士の投薬を行ないますと、自然療能博士の内的投薬が、突然の外部的干渉で撹乱されるのであります。自然療能博士は内部にいるので、その患者が、外部の医学博士に頼る気を起こした瞬間に、もうそれをただちに知っています。彼はこの患者
---[Page 89]---
に二心(ふたごころ)あることを知って、もう自然療能の手をいく分加減し手控えして、外部から何が這入(はい)って来るかと身構えをするのであります。
 その時、次のことが起こります。

 (1)たいてい外から投薬される薬物は、内部の細胞自体にとってはある毒作用をともなった異物なので自然療能博士は今度はその毒作用を打ち消すために半分の力を割(さ)くのであります。そのため自然療能博士は全部の力を病気を治す方に集中することができない。

 (2)仮に外部からの投薬が、自然療能博士が今ちょうど身体(からだ)の中で製造しようとしていた薬物と同一性質であったとしますと、自然療能博士は内部の自家免疫薬の製造の手をいく分か休めて外からの薬物を喜んで迎えるのであります。その代り自然療能博士はこの次の時も適当なる薬物が外から来るであろうとの予想をもって、しだいに内部の自然療能力を働かせずにおくようになるのであります。消化剤の連用のごときがかえって消化力を低下せしめるごときはこれであります。
 こうなって自然療能力が弱っている時に、何かの原因で病状が変わったり外部からの薬物が急に変わったりすると、自然療能力はその全能力を発揮しない癖がついているので、ついにその人は病にたおれてしまうようになるのであります。

 (3)自然療能博士が熱を高める必要を認めて熱を高めている時に、解熱剤をのませると、一時熱はさがりますが、自然療能博士が熱を高める必要があると信じている限りこんどは解熱剤に打ち勝ってでも熱を上げねばならぬと努力しますので、熱が普通以上
---[Page 90]---
に長引くことになります。胃酸過多に重曹剤をのませれば、結局はいっそう胃酸の分泌が増加するなどもこの例であります。
 結局、外から来る薬は、たといそれが病気を治す力のあるようなものであっても、自然療能の半分の力を他に割くか、それを怠けさすか、撹(か)き乱すか、その調子をとれなくするかすることになり、結局最初より「自然の生かす力」に頼り切った人ほどにはすみやかに好結果をもたらすことはできないのであります。

 自分の内部の「生きる力」に信頼できる人は決して重い病気にかかるものではありません。なんらかの外的傷害その他で毒物が自分のうちに這入(はい)って来ましょうとも、はじめから「内部の生きる力」が全能力を発揮してそれを防ぎ止める癖がついていますから大事にいたらないで健康を回復するのであります。

1711a hope:2012/12/08(土) 10:16:43 ID:ueIDSztA
おはようございます。

復興Gさま トキさま そして、みなさま

今回は、家庭の事情でなかなか書き込みできませんが、シッカリとお勉強はさせていただいている a hope です。
すばらしい書き込みをありがとうございます。 合掌。

今回の範囲も、久しぶりに再読してみまして、あらたに大切だと気づきたところがいっぱいあり、
わたしの聖典は、さらに色とりどりに線が引かれてしまいました(笑)

復興Gさまが昨日引用して下さった箇所ではないのですが、(時間がなくて謹写できないのが残念です)
P63 に紹介されている 賀川豊彦氏の「神の乳房」というご自身の体験のお言葉ににとても感動しました。

谷口雅春先生も 、『本当の祈りは「無我」になって神に抱かれて神と一つになることであります。』と言って、
この賀川氏の体験を紹介されています。

わたしは、今朝の神想観の最中にこの賀川氏の体験を思い出していました。
素晴らしい神想観をすることができましたよ!

それでは、みなさま、あわただしくて申し訳ありませんが、わたしはこれから仕事です。

わたしの愛する「生長の家」のみなさま、今日も素晴らしい一日をお過ごしくださいね!

1712復興G:2012/12/08(土) 11:15:46 ID:vWpLkCzM

>>1711 :a hope様

ありがとうございます。

賀川豊彦さんの「神の乳房」という御文章が載っている原本を私は学生時代に読んで、

感銘を受けたことを思い出します。その本はもうぼろぼろになって、引っ越しの時に処分されたか、
今は見当たらなくなっているのですが・・・・

『生命の實相』頭注版第2巻では、63〜64頁に掲載されていますね。なつかしい御文章です。

ありがとうございます。

1713復興G:2012/12/08(土) 11:18:22 ID:vWpLkCzM

私は今日これから出かけなければならない約束行事があって、戻りは夜になります。

よろしくお願いいたします。

1714SAKURA:2012/12/08(土) 12:40:15 ID:vwhqycTM
復興G様 ヘ
こんにちは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1699に於けます「復興G様」のお言葉…ありがとうございます。 頂きました“言葉”から、
■【>「現象あり」と見ていると、どうしても、「思い込み」…<】本当に、ついつい現実を見て
しまいがちな状況は、多々あります。当に、「雅春先生の御教え…精神修行」をと、あらあためて
思います次第です。

昨日の【NANCY…】さんの投稿から〜〜私も 同様に、
■冬場になりますと、この頃、個人的ですが…潜在意識の中に【風邪…】が、浮かんでしまいます。
先程の【復興G様のテキストからの… “抜粋文”】からなのですが……
現代人は【唯物論…】が多いのでしょうかと。そうしますと、どうしても【薬剤…】に頼ります
でしょうか?多少は、心の片隅で“薬の副作用…”を、拒否しながらも…その様に思う次第なの
です。…が?ですからその時の【意志・意識力】は、現代人は希薄な面がありますでしょうかと?

≪現実に如何に対処すべきか≫を、唯物論的な考えですと…どうしても【薬剤…】に頼りますで
しょうかと。此処でその時の心理はどうかと申しまうと…例えばですが??
熱が出る!悪寒が!咳が!…云々…ドンドンと〜〜そうです〜〜〜ョネ!「病気への思い」が、
増大しますでしょうかと。病気を縛りつける事になりまうのです〜〜〜ネ!!

■>「今自分は縛られている」と信じ、その「縛られている」という…云々…< (抜粋)

そうなのです〜〜〜ョネ!これが【思い込み…執着】になりますかと??
それは、下手をしますと、“生きる活力”が〜〜〜マイナスになります事もありますでしょうか。
そこで、【信仰…真理】そうです!心の持ち方…の重要性を、改めまして、受け留めました。…

■■すべて【 心 の 法 則 】でしょうか……? 思った次第です。
                                  再合掌

1715SAKURA:2012/12/08(土) 12:43:46 ID:vwhqycTM
「復興G様」 ヘ  「トキ様」 へ  「WEB誌友会の皆様」 へ
こんにちは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今回の「復興G様」からの頂きました“該当テキスト…”の冒頭からですが……

❤心を肉体に引っかからせるな
======生命の実相 2巻から抜粋=========================
 ともかく「心が」しじゅう滞る場所には血液が滞るのでありまして、「心」が肩に、滞る人
は血が肩に滞って肩が凝り、「心」が首にとどこおって脳充血や脳溢血や不眠症などを起こす
のであります。こういう傾向のある人はとどこおっている箇所を按摩してもらうと一時その
滞っている血を散らすことになって非常によい気持ちでありますが、それは一時的であって、
「心」を滞らせている限り、そこにまた間もなく鬱血して来てそこが凝るのであります。
                              (谷口雅春著…)
===========================================

■以前は〜〜〜私も“肩コリ”…本当に“コリ〜コリ〜”なのです。特に、この寒さが増し
ます処の冬場は…いつも“首を回して”いましたかと。ですが?此処最近は、少々“肩コリ”
もありますが、以前のようには“肩コリ”飛んで行け〜〜〜♫〜〜〜なのです。
アラ〜〜〜?如何してかしらンと、思ってみますと、以前よりそうなのです。小さい物事に
【執着…】しなくなったのです〜〜〜ョネ!!

そして、今年母がなくなりましたが、此処3年間分からない事実が〜〜〜><
❤〜【亡き母の霊界通信…】で、何と「亡き母」からの【直感…】でしょうか???見え
ない事が?理解しがたい事が?今では、物事が良く見えるよな【透視…】が、多少とも
出来出しまして、それからなのでしょうか…??“肩コリ”の材料が、幾分以前より薄れ
てきまして、最近では、前以上に“物事”が見え、それが良し悪しに付けましても、こう
いう時こそ前に進む言動力の傾向にと……!!言えますでしょうかしら〜〜〜ン

■さて“心が滞る事”は、やはりこれも【執着…】からでしょうか???以前の私は、
ある面【執着のかたまり】でしたでしょうか??“コリ〜コリ〜執着?”
今では【放す事…を!すべて神様におまかせ…全托していたら?】という感じでの“行動・
スタイル“なのです!!そうなのです。モ〜〜〜ウ!何の不安もなく、まず!前進!前進!
前に進む事が【人間の使命…】でしょうかと???
それでも“血液の流れ”は滞る事もあり、この時はまだ【執着心…】が?あるのではと、今
頂きました“復興G様のテキスト該当部分”にて改めて思えます。…が?まだまだ足りない
のでしょうか?【心の執着…を放す、そして、おまかせ心になる事が〜〜〜】でしょうかと。

❤〜【私の“肩コリ”は、心の狭さから器量でしょう〜〜〜ネ!!!また、一つですが?
“心の進歩”に、私の“心のエッセンス”です〜〜〜ネ!!】
この素晴らしい〜〜〜【真理…】を勉強させて頂きます機会に感謝です。
                                   再合掌

1716トキ:2012/12/08(土) 14:57:24 ID:tRbdVDEA
 これは生長の家の人ではありませんでしたが、大学の元同級生が卒業後、医師から「精神病」と診断され
自宅に何年も引きこもっているのを知り、自宅を訪問した事がありました。
 そのとき、同級生が見せてくれたリストに、自分が毎日、医師から処方されて飲んでいる薬が書かれて
いました。それを見ると、20種類もの薬が書かれていました。驚いた私は、薬剤師をしている親戚にそれを見せる
と、「こんなに飲んでいたら、普通の人でも病気になる!」と言われました。
 ちなみに、処方をした病院には、テレビで有名な精神科医も勤務していました。

 後日、別の外科医と話をすると、「いわゆる鬱病などと言うのは、3ヶ月もじっとしていれば、そのまま治る病気
なのです。それを、医者が変な薬を飲ませるから、何年もかかるのですよ。」と言われて事を記憶しています。

 その後の事はわかりませんが、どうなったのか、気になります。

1717トキ:2012/12/08(土) 20:51:38 ID:tRbdVDEA
 追伸しますと、復興G様がご提示の聖典を拝読すると、この同級生のようなケースは極端ですが、
程度の違いはあれ、私も同じような状態にあるのではないかと思う次第であります。

1718NANCY:2012/12/08(土) 21:25:26 ID:jH5uEFzM
「復興G 様」 へ   「トキ 様」 ヘ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。

>>1716の投稿内容から〜♫~ (下記にて一部抜粋)

■>同級生が見せてくれたリストに、自分が毎日、医師から処方されて飲んでいる薬が書かれて
いました。それを見ると、20種類もの薬が書かれていました。驚いた私は、薬剤師をしている
親戚にそれを見せると、「こんなに飲んでいたら、普通の人でも病気になる!」と言われました
…云々…  (抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

拝読しまして【薬漬け…】現状を、改めて感じましたでしょうか?そして、正直申しますと、
【薬剤の副作用…】当に処方により新たなる“病気…併発する事も?”感じ取りましたでしょうか?
やはり【医者の使命…】の中に、部分的に“心のケア−”の必要性を痛感致しましたでしょうか……。
人は「生命…の生死を><」…云々…の際には、やはり絶対の信頼を、その担当医に抱きますから、
その責任は、多大なものでしょう。…が?現状を拒み?もがく状態?の精神状態の時こそ、本当に
【生きた生命哲学…真理】を、その担当医から“アドバイス”をいただきますと【生きた活力…】
いただくものです〜〜〜ョネ!

■■「復興G 様」からの“テキスト該当部…”の中から

■>自然療能という医師は自分の外にある人を招(よ)んでくるのではなく、自分の内にチャンと
いる名医だからいかなる医師よりも、迅速に処置がとれ、外から患部を想像するのではなく、内に
いて患部の状態を知りつくしていて、それに適応する抗毒素の製造や体温の調節や便通の調節をす
るのでありますから、その処置をまちがえるということは決してないのであります。<(抜粋文)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

此処で、本当に自分自身の中に【自然療能という医師…】がいますかと…自覚を致す事が…新たな
る“活力”をもつ事が出来ますでしょう。そして、この事は医者が、やはり“心のケア−”と致し
ましての“アドバイス”の必要を感じ、そして【真理の伝道…】かと、思う次第です。

                                     再合掌

1719如月:2012/12/08(土) 21:55:58 ID:ki/haAjk
トキさまのウサギのお話面白かったですね。
ウサギは構造上後退はできないんじゃ?と心の中で突っ込みを入れたらおかしくて笑ってしまいました。
でも、コース変更はできますし、やはりこだわりの心、思い込みの心は道を狭めますね。

ところで
『あらゆる他の善さがありましても、心の自由が欠け、窮屈で、気が小さく、いつもクヨクヨ自他の悪に
かかわっているようではその人の善さの大部分の価値は失われてしまうのであります。』
                                            ━━━テキストより━━━
あてはまる人を知っています。
とても正義感が強く真面目で自分にも他人にも厳しい人です。
オウムや創価のせいで宗教が大嫌いな人に、自由な心になってもらう方法はないでしょうか。

1720トキ:2012/12/08(土) 22:17:56 ID:tRbdVDEA
>>1719

 ウサギは面白いです。道を先回りして、ウサギが来るのを待っていると、私がいる場所にそのまま全速力で突っ込んできます。
で、頭をパッと捕まえると、そのまま止まります。これが、他の動物だと、こちらを見て、そのまま止まるか、横道にそれます。
今、飼っている犬なんかは、実に賢くて、うまく逃げますね。

 さて、宗教を嫌う人が多いのは、残念です。ただ、宗教家も反省しなければなりませんね。近所のキリスト教の熱心な信者が
いて、その人なんか、キリスト教以外は邪教だと言うのです。創価学会みたいなものです。こんな偏狭な人を見たら、誰でも
嫌に成ります。ただ、これは、私も深く気をつけないといけない部分です。

 で、そういう人には、宗教に入りなさい、と言ってはいけないと思います。ただ、自分の行いを正しくすることと、その人
には、明るく、親切にするのが好いと思います。誰でも時期がありますから、時期がきたら、その人も宗教に関心を持ちます。
 それまでは、神様に祈って、時期が来るのを待つのがよいかと思います。

1721復興G:2012/12/08(土) 22:25:39 ID:vWpLkCzM

 皆さま、復興Gは只今戻ってまいりました。

 あまりたくさんの書き込みはなかったようで、助かりました。
 にぎやかにたくさんの書き込みがあるのがよいとは限りません。
 大調和(みすまる)の歌にも、「宇宙(くに)静かなり」とあって、榎本恵吾先生は『「今をよろこぶ」生活のヒント』に、次のように書かれています。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 「宇宙(くに)静かなり」の「静か」とは、すべてのものが処を得ていることである。聖は聖。光りは光。神は神。人は人。すべてそのものが自らをそのものしているときを「静かなり」と言うのであります。人間は神であり、聖であり、至上であり、光りであるときを、「静かなり」というのである。

 心臓でも、異常があって動悸が大きくしているときはまことににぎやかでありますが、それは心臓のいのちが処を得ていない、充分にその働きが出来ていないときであります。心臓が処を得て、まことになめらかに作動し、人体に最もよい貢献をなしているときは、心臓があるのかないのか全く忘れられているときであります。

 「静かなり」とは、全くすべてのものが調和して、澄み切って、大活躍の出来ているときであります。全くの澄み切りの状態であります。それは全く気づかれないすがたであります。それは、吾々が迷えたと思っても、全く気づかないにもかかわらず輝きつづけ、生長しつづけている神の子のいのちの輝きと同じであります。

 いのちは、聖なるうちに聖なる生長、発展を遂げつつあるのであります。われわれの聖なる使命は、すべてのものと大調和のうちに、大調和が大調和しつづけて行きつつ果されてゆくのであります。それは神に生かされて、自ずからなされているものであります。

 山を観よ、川を観よ、木を観よ、花を観よ、空を観よ、海を観よ。そこには何か、自ずから吾らに心を開かしてくれるものがある。しかしただただ、そこには山は山し、川は川し、木が木し、花が花し、空が空し、海が海している姿があるのみである。「同じものが同じする」という、処を得た静なる姿があるばかりである。

 そして、それを偉大でないとは誰れも言わないのであります。偉大とは、自足ということである。他によって成り立っているということではない。人間はそれ自身で神の子であって、聖であって、静かであって、そのまま偉大なのである。

 神は宇宙を創造し給い、万物を生かし生長せしめていても、姿を現わし給わず。コトリとも音をたててい給わないのである。全く静かなるものである。全く己れを消してい給うのである。ここに聖なる、至上なる輝きがあるのであります。神はどこにも姿をあらわし給わず、否定しようと思えばいくらでも否定出来るようにしておられるのである。無神論者が神を否定すればするほど、それは神の無我なる、聖なるものの偉大さの自己証明となっていることを、そこに拝まずにはいられないのであります。

 静かなるうちに、聖なるうちに万物は生み出され、生長し、発展しているのである。静かなるもの、聖なるものとは、知らぬうちに、自覚されないうちに、すでにあるもののことである。神の子は「修行、修行」という大きな音をたてる必要は全くないのである。ただただ、すでに生かされてあったことに想いをいたすことがあるだけであります。ただただ輝いているだけなのが、神の子であります。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

と。

1722復興G:2012/12/08(土) 22:31:24 ID:vWpLkCzM

SAKURA様
トキ様
NANCY様
如月様

書き込み、ありがとうございます。
うれしく拝読しています。

1723SAKURA:2012/12/08(土) 22:33:56 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ  トキ様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>SAKURA投稿の続きです…。

>>1716トキ様からの“コメント”より  その①
■>同級生が見せてくれたリストに、自分が毎日、医師から処方されて飲んでいる薬が書かれて
いました。それを見ると、20種類もの薬が書かれていました。驚いた私は、薬剤師をして
いる親戚にそれを見せると、「こんなに飲んでいたら、普通の人でも病気になる!」と言われま
した…云々…  (抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「トキ様の友人」の行方は、気になります〜〜〜ネ!非常……に!

個人的な話ですが「亡き母」も、老人サ−クルに出入りしだしてからでしょうか???
“ケア−のボランティア”が、紹介しました医者から、これも【老人ホ−ムの関連会社】で、
すべて此処の病院との関連からでしょうか??急に【認知症…】との、認定判断なのです。

■当時!この診断“オカシイ…のでは?”と、パ−トナ−ともども、変に思いました。
当時の「亡き母」は、私どもから見ても【正常…普通の人】でした。…が?
但し?“姉・妹たちの判断”にて、この“老人ホ−ム”から“認知症専門??”と言いますか
その“老人ホ−ム”に入居しだしまして、更に、この医者の言葉を、絶対的に信じている傾向
でした。ところが?ある時、ひょんなことから、私は、不審を抱くようになり、その医者に、
“面会の約束”を取ったのです。…が?その時あるケア−の方が、あの先生は慶応出身の方
ですから、大丈夫です〜〜〜ョと、何度も何度も言われましたが、私は、不信が益々と…

そして、当日、一応面会しますと、単刀直入に『モ〜〜〜ゥ!第三セクタ−は誰ですか?』と、
この言葉を直ぐさま頂いたのです!!私なのに、「障害者は一人前にみていない感じ」での
偏見の態度…当時!東京の病院に聞き【人 権 侵 害 】になると、教えて頂きました。
それでも「亡き母」は、私よりも“姉…”に頼りったのが……“死期を早まらせた原因”の
一つと申しても過言ではないでしょうと、思います。そして、どうも結局は、この担当医の
先生は、慶応出身ではなく、何処かの??大医学部でした。…が?(学生の頃は、医学部
としてはバカ大と“パ−トナ−”が……)そして、
失礼ながら、東京都比較しますと地方の医療関係者の知識が【薬剤…】一つにしても、勉強
不足かと当時は思いました。閲覧者の皆様の中にも…感じますところがありますのでは?更に
「トキ様」の投稿内容から、失礼ながら、ある面「有名な先生」と言われている人程、時と
しては、何処までの【医者のモラル…】があるのでしょうか?その時は、痛切に思いました
次第です。

■私も【薬剤…】は、今は“ネット世界”がありますから、まず【調べる事に優先!】……
それでも判らない時は、やはりホ−ムドクタ−の先生に聞いています。どうかしますと、
東京のいきつけの【薬剤師…】にも聞きますと、意外と“いい情報・オモシロイ情報”も、
頂けますから、正直申しますと、此処九州は“勉強不足”の感が致しますかと??
                            (つづく)

1724SAKURA:2012/12/08(土) 22:36:04 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ  トキ様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>SAKURA投稿の続きです…。

>>1716トキ様からの“コメント”より  その②

■此の方が、まだ“薬…”を服用されていますと【副作用…】の症状も気になります〜〜ネ!
そして「亡き母」が【老人ホ−ム】に入居しましても“命の保証”は何処まで?言葉に語弊が
ありますカモ知れませんが…【何処までの介護心…介護のこころ】なのでしょうか?私には、
何も話しませんでしたが?当時“叩かれたようなアザ…”がありました。…が?
本当に、ケア−の方でも、現状!向こうの方々が担当の場合は、向こうの“ウイルス感染”も
あり得るのでは?人は少なくともウイルスをもっていますので…「亡き母」の死亡原因の病名
が、正直言って“ごまかしの部分?”かと、感じ取った次第です。今から、自分の“心”を
改めて、もう一度【鍛え直す…折り返し地点】でしょうかと。

「トキ様」も、その“友人…からのお話”にて【薬…】は??これで、前以上に
『生きた生命哲学…真理』への“進歩向上”でしょうか?(失礼な表現かと?ごめんなさい)

■更に!“知人”が、病院の“薬…”を、本人の思いのほか種類が多かったの
でしょうか?私どもに“薬…”に関して、これを東京の先生に聞いてほしいとの事で、依頼
されまして「先生…」に聞きますと、やはり?全く意味がないし?場合によっては【副作用】
がある〜〜〜???モット!モット!【カルテ…】を、見ないと判断が〜〜〜><
なるべくなら、服用しない方が良いと言われて、まず【薬の処方説明書】を送りまして、
その後、薬の種類をある程度控えて……服用しまして、この事が結果的には「いい結果」に
なりましたが……?【治る!】という本人の“ゆるぎない強い意志…こころ”でしょうかと。

ついつい【唯物論的…】になりましたが「医者もモラル…?低下の医者」もいますから、
まず!色々な方法にて、調べる事からでしょうか???
そして【こ こ ろ の 法 則】駆使すべきでしょう〜〜〜。

                              再合掌

1725如月:2012/12/08(土) 22:39:51 ID:ki/haAjk
>>1720 トキさま

ありがとうございます。 無理にすすめなくて良いのですね。
私は、今回のテキストの部分だけでも何とか読んで欲しいと思っていたのですが
「ありがとう教はカルトだ」と以前に、はねつけられた事があるので。

祈って、その時期が来るのを待ちます。
真面目で神経質で、精神を病む一歩手前の人なので、そんな人を見ていると
薬やお酒にひたっているヤクザさんの方が健康に見えるくらいです。

1726如月:2012/12/08(土) 22:57:49 ID:ki/haAjk
復興Gさま
おかえりなさいませ。

榎本恵吾先生の『「今をよろこぶ」生活のヒント』から「静か」についてのご説明ありがとうございます。
荘厳な静かさがアリアリと目に浮かぶ素晴らしいお話で感動いたしました。

1727NANCY:2012/12/08(土) 23:12:01 ID:jH5uEFzM
「復興G 様」 ヘ  「トキ 様」 ヘ
こんばんは……        ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1678 >>1692 >>1718の投稿の続きです。

>>1719>>1720の投稿から〜
■>オウムや創価のせいで宗教が大嫌いな人に、自由な心になってもらう方法はないでしょうか。<

此処の“言葉…”の処で“引っかかり”なの で〜〜〜す???
■ 宗 教 ■を、一概に【オウムや創価…】と〜〜〜♫〜〜〜限定しても??

思いますに、【宗教…】にふれますのは?その指導的立場の方以外は〜〜〜>< 学者タイプ…?
おおかたは【迷い・悩み…】からその門をたたくのでしょうかと??その時、一番身近に感じる?
或いは第三者(知人…etc)を通じて参考になります【 宗教の…門 】に、触れますのではないの
でしょうか〜〜〜?他にもありますでしょう〜〜〜かと?
一時“マスコミ”で取りざたされていました「統一教会」「法の華」…も ><

■■ですから【宗教…】この出会いも「導き…」でしょうかと思います。
厳密に言いますと「導き…人格論」に入って行くかと思うのです…。…が??

そして、たとえ【 健康面・経済面・家庭面・人間関係…etc 】多々なる問題でありまようとも?
最終的には、思いますにはどの宗教も【 人 類 意 識 … 心 の 法 則 】を、説かれて
いらっしゃいますのではないのでしょうか? 個人的に思う次第です。 …が?

いろいろと…個人的に【 宗教の旅???巡り〜♫〜 】を、致しましたが
最終的には「雅春先生の説かれました…真理」は、素晴らし〜〜〜イ!モノと、益々と思うのです。

1728トキ:2012/12/08(土) 23:15:39 ID:tRbdVDEA
>>1727

 そうですね。失礼をしました。

1729復興G:2012/12/08(土) 23:20:53 ID:vWpLkCzM

SAKURA様
如月様
NANCY様

ありがとうございます。


前に>>1711 でa hope様が触れてくださった
賀川豊彦氏の「神の乳房」という御文章ですが、その部分、テキスト『生命の實相』第2巻p.62〜64から謹写しますと、

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

    無我本然(ほんねん)の状態に還れ

 で、われわれが身体のどこかが健康でない状態になったとしますと、その時にぜひなさねばならぬことは、心を肉体のどこにも滞らせず、身体のどこからも心を放ち去って、無我本然(ほんねん)の状態に還ることであります。

 われわれの本然の生命の相(すがた)は無我でありまして、形によってここからここまでが自分だというような、そんな限られた窮屈なものではありません。それだのに身体(からだ)という有限のものを描いてそれに「心」を滞らせて病気になったのでありますから、その「限られたわれ」の感じを放下(ほか)し去って、大生命――大無我に帰一しなければならないのであります。

 大生命――大無我に帰一し、無我本然の状態に立ち還りますと、忽然(こつねん)として本来の無限自在さがわれわれの生命に立ち帰って来て病気がなおるのであります。

 日本古来の「鎮魂(たましずめ・ちんこん)」の術と申しますのも、「内体の感覚を蕩尽(とうじん)してひたすら天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)と一体になる」のが本義でありますが、仏教の禅定でも同じことであって、自己の本然の「無我」を体証することであります。

 キリスト教の祈りと申しますのでも、必ずしも「神様、どうぞこの事をわがために成就したまえ」と一つのことに執着してそれを頼み込むことばかりではないのであります。

 本当の祈りは「無我」になって神に抱かれて神と一つになることであります。賀川豊彦氏も昭和六年一月中の大阪毎日新開に「神の乳房」と題して次のようなことを書いていられます。深き体験のお言葉だと思いますので次に引用させていただきます。

 「年久しく私は、神との対坐を祈りのうちにつづけてきたが、四十を越えて今日、端坐して祈るときの嬉しさと、平安と、休息をこよなくよろこんでいる。これまで、祈りをすることが何か特殊な変態の世界にはいって行くように思われていたが、このごろになっては、睡眠と同様に一つの本能であることに気づかれてきた。

 綿のように疲れた体を床柱に凭(もた)らせ、しわがれた血の出る喉の呼気をしずめ、しずかに神にすべてをうち任せて孤坐すれば、醒めたる霊に、睡眠以上の安息が与えられる。邪気は逃げ去り、神秘の霊域は眉間(みけん)にせまり、火気なきトタン屋根の下にも、春陽の暖かさが通うてくる。求むるでもなく、せがむのでもなく、母の二つの乳房の間に、小さい顔をねじこんでいる赤ん坊のように、ただ神の乳房を両手に握り、静かに、静かに静坐すると、地震も、地辷(じすべ)りも、暴風も、洪水も、災厄も、疾病もこわいものではなくなってしまう。

 わたしはもうすでに、無窮の愛に吸い込まれ、すべての不浄を忘れて神の懐(ふところ)に帰ったものである。壁も、トタンも火鉢の灰も、それらは神の乳房の毛孔のように考えられる。神の乳房に吸い着くことを知ったわたしには、徹夜の労作も、神の与え給う睡眠に均(ひと)しい。

 ただ祈りはつづく、祈りはつづく。わたしの生命の祈りはつづく。神の乳房に吸い着いたわたしは、両眼をうち開いて、眠りよりなお安らかな安息を味わう。」

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 以上はテキスト『生命の實相』第2巻からの引用でした。

1730復興G:2012/12/08(土) 23:29:35 ID:vWpLkCzM

 私は、毎月一回、讃美歌を中心にしてアカペラ(無伴奏)の美しいハーモニーを味わって歌う合唱団にも参加しています。そこで毎回必ず歌う聖歌に、讃美歌310番「しずけき祈りの…」というのがあります。
 その歌詞は――

1.しずけき祈りの ときはいと楽し
 なやみある世より われを呼びいだし
 父のおおまえに すべての求めを
 たずさえ至りて つぶさに告げしむ

2.しずけき祈りの ときはいと楽し
 さまよいいでたる わが魂(たま)をすくい
 あやうき道より ともない帰りて
 こころむるものの 罠をのがれしむ

というのでありますが、これを歌うときの気持は、「神の乳房」に吸い付くような祈りの気持かも知れません。

「私は、ないのである。ただ神のみいます。今、ここに神が生きてい給うのである。ありがとうございます。」

と、神に全托して、「今」をよろこんで生きて――生かされてまいりましょう。

1731復興G:2012/12/08(土) 23:34:07 ID:vWpLkCzM

では、皆さま、今夜は静かに、やすらかにおやすみなさいませ。

ありがとうございました。

1732SAKURA:2012/12/09(日) 01:44:58 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ  トキ様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>> SAKURA投稿の続きです…。

頂きました【今回のテキスト該当部…】から、個人的ですが…冒頭から勉強・投稿形式を
取らせて頂きます。

❤ 生理的状態は暗示によって感染する   その①
======生命の実相 2巻から抜粋=========================
 精神的感染によって、あくびという生理作用が感染ったり、人の涙を見てこちらも涙が出た
り人の食べるのを見て唾液が出たりする事実は、誰でも知っているところであります。これを
見ればわれわれの心の状態がどんなに生理作用に影響を及ぼすかは考えてみてもわかるのであ
ります〜〜云々〜〜ラジオ・ドクタ−が衛生のことや健康法のことについて説くことは参考に
なります。けれども、黴菌の恐るべきことや、人間が少しでも不注意であれば病気に冒される
ことなどを説いて、恐怖心をそそることは感心しないのであります。それは人々を病気の想念
の中におくことになりますし、病気の想念により喚起された恐怖心によって、生理作用が攪乱
され、病気に対する抵抗力が鈍ってしまいかえって病気になってしまうのであります。予防医
学は社会政策的立場において必要でありますけれども、すでに病気になっている人が、通俗医
学の書を読んだりラジオ・ドクターの病気恐怖の話をきくのは必要でないばかりか、恐怖心を
そそられて病気に対する抵抗力を薄弱ならしめますから、なるべく避ける方が結構であります。
                             (谷口雅春著)
==========================================

■“病気になる事”は、以前の“心の種をまいた結果”でしょうか???たとえばですが?
父親が【癌に侵されて病気】になりまして、悲しいかな?死亡…そうしますと、人間の潜在
意識の中に【自分もいつか〜〜〜“癌…”になって、同じような死を迎える】という
“恐怖心の種”が、無意識に植えつけられて、いつか月日が立ち【時間・空間】でしょうか?
忘れた時に“恐怖の病気の芽”があらわれるのです〜〜〜ョネ!!

                               つづく

1733SAKURA:2012/12/09(日) 01:49:43 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ  トキ様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>SAKURA投稿の続きです。

頂きました【今回のテキスト該当部…】から、個人的ですが…冒頭から勉強・投稿形式を
取らせて頂きます。
>>1732>>投稿の続きです…。

❤ 生理的状態は暗示によって感染する   その②
これは【三界の唯心所現】として現れる!「生長の家の人」ならば、必ず知っています言葉!

■私も“5歳の頃交通事故…”に遭い、その時、空中に跳ね跳ばされて運よく“木の枝”が
クッションになり、一命を取り留める結果となりました。…が?ですから“顔のホホ”に、
傷が出来ておりまして“4センチ”くらい縫合しております。当時の医療では難しいのです
が、私の記憶では、車に乗せられて横になって運ばれていく光景を、今でも覚えています。

その後、手術が無事にすみ、目が覚めて“顔のホホを中心に包帯…”更に、腕も骨折です。
ですから、三角巾??みたいな固定していた感じ?当時の包帯をした“姿…”が、この頃よ
く浮かんできます私です。その時、当然の事ながら頭部を打っていますから「体の後遺症」
がと?当時の“両親の恐怖心”は???多大なものであった事でしょう。
ある時…小2の頃でしょうか?「担任先生」が“左の聴力”が、以前より聞こえがオカシイ
のではないのかと言われて、“病院…”へ、その時の病院の担当医の先生は、頭部を打ってい
ますから、今回は、運よく“無事”に乗り切れましたが、今度、なにか事故で…例えば、
頭部を叩かれたり?打ったり?このように“頭部”に何らかの力で、損傷しますと神経系が、
侵かされる事になると…つまり■【聴力喪失…】を言ってた事を「亡き母」は、良く言って
いましたから、私は“潜在意識”で、常に“交通事故…”を、再度!起こさなければいいと
思い、そうしますと、潜在意識に【 “大丈夫!”事故が起きなければいい!! 】と…、
いつかその自覚を、忘れてしまい、そうこうしています内に【21歳の夏の頃…の出来事】…
これが「タタキ男」に叩かれ“出血…”です。
その後、忘れもしませんが“22歳の3月10日の朝”に目が覚めても“音〜♫〜”が全く><
前日の【音のある世界…から…音のない世界】に、当に【暗闇の世界…】に引きずり落とされ
この日が【聴力喪失…日時】に、なりました。

■逆に今思いますと【 心 の 法 則 】 つまり“両親の言葉の念?”で、この様な
“悪い男…タタキ男”に、想念感情から結ぶ事となつたのでしょう〜〜〜。
「種をまく!」のも、やはり“いい種”を巻く事が、その後!結果として“大輪の花”が、
咲くのではと思います。…が?この【タタキ男の執着…】は、今日でも“腹”が立ちます
が、それを「雅春先生の言葉」から…【こころで縛りますと、また同じ繰り返し〜】になり
【四次元の世界…】に入っていくようなモノです〜〜〜ョネ!!この様に、毎日!毎日!
“決めつける事=思い込み事”は、必ずその時は、一時的にごまかしても、必ずや!
化けの皮が、出てくるのですから、そう断言して思うこの頃です。【円環…】

■あの「ヒットラ−の時代」も“永遠”には続かなかった事でしたでしょ〜〜〜う!!
これにならって【必ず!今は善くないけれど…必ず!良くなる事を信じて進む事】に、心を
振り向け…そして【祈る…】事が出来る人が❤〜【人生の勝者…】と思う次第です。

最終的に、相手に“恐怖心”を与える言葉を使用するよりも“希望の言葉”が一番!!
しかも【 正しい希望実現の言葉…】でしょうかと。?

1734a hope:2012/12/09(日) 09:53:57 ID:ueIDSztA
みなさま おはようございます。

わたしの住む所は、昨日はとても寒かったです。
紅葉もほとんど散ってしまい、いよいよ本格的な冬が到来したという感じです。

今朝、みなさまの投稿を拝見しまして素晴らしい内容に感動しています。

復興Gさまが>>1721で、

>>あまりたくさんの書き込みはなかったようで、助かりました。
 にぎやかにたくさんの書き込みがあるのがよいとは限りません。<<

とおっしゃって、榎本恵吾先生のご文章を紹介してくださっています。

ですが、実際に現象生活を送っていると、なかなかこの「静か」な心境に至れないのが現実なのではないでしょうか・・・?

今回の範囲で気になった言葉で、「人類意識」というのがあります。
さらに聖典には、「人類の通念」ですとか「人類の共通観念」という表現もされています。

たとえば、
『病気になったら、薬を飲まなければ治らない。』
『こんなに寒い日に、薄着でいると風邪を引く』
『咳をたくさんしているから、風邪をひいている』…というよな、
世間で常識とされているようなことが「人類意識」というのだと思いますが、
そのような人類意識に戸惑わされてしまい、わたしたちは心静かにしていられないのではないかと感じました。

偶然なのだと思いますが、ハマナスさまが昨晩、聖典引用板で「人類意識の大波を超出すべし」という、
雅春先生のお言葉を謹写してくださっています。
わたしは、このような偶然が起こるは、ハマナスさまのお祈りの力が深いからなのではないかと感じ、
ハマナスさまにはいつも感謝し、心から尊敬させていただいています。

以下、ハマナスさまの聖典引用板への投稿です。(ハマナスさま、勝手をして申し訳ありません。)

―――――――――――――――――――――

1777 :ハマナス:2012/12/08(土) 23:56:13 ID:mR2szZkc
人類意識の大波を超出すべし
(『新版生活の智慧365章』p.308)

「病気は無い」と“心”で念じたら病気が消えるならば、「肉体は無い」と“心"で念じたら肉体が消える筈だが、そんなに念じても肉体は消えないではないかと云う質問があるが、それは“心”と云うものが幾層にも重なっていて、一個人の単なる表層の現在意識で念ずるだけでは、人類全体の意識や、個人の意識にしても深層にある潜在意識面にある観念は容易に消えないと云う理由によるのである。

一個人一個人の意識内容は集団して一個人の人類意識と云う巨大な波動となって、個人個人の意識をその上に浮動させているのである。だから人類意識が「此の毒薬を幾グラム服(の)んだら死ぬ」と知っている毒薬を飲むならば、その人個人は、それが毒薬だと知らなくとも服用すれば、人類意識の“唯識の所現”としてその人は毒薬に当てられて死ぬことになるのである。だから其の人が人類意識の大波を超出するのだけの大信念を起し得るよう、熱心に神想観をして実相の完全さを揺るぎなく瞶(みつ)めない限りは、人類意識の大波のまにまに打ち上げられて破壊されることになるのである。

個人が「肉体がない」と心の表層で念じても肉体が早速には消えないのは、個人自身の潜在意識の中に「肉体がある」と云う観念の惰力が残っているのと、人類意識の中に「人類は肉体をもつ」と云う観念があり、その波から超出出来ないからである。

感謝合掌

―――――――――――――――――――――――


>>だから其の人が人類意識の大波を超出するのだけの大信念を起し得るよう、熱心に神想観をして実相の完全さを揺るぎなく瞶(みつ)めない限りは、人類意識の大波のまにまに打ち上げられて破壊されることになるのである。<<

とあるように、この人類意識の大波を乗り切るためには、真の神想観(祈り)をして、神の子の自覚を深めるしかないのだと思いました。


>>1729復興Gさま

賀川豊彦氏の「神の乳房」という御文章を謹写してくださりありがとうございます。
また讃美歌310番「しずけき祈りの…」歌詞も素敵ですね。
「祈り」は楽しいものなんだということが、わたしにもようやくわかってきました。
そして、聖歌を歌うことでも、神との一体感を感じられるようになったらどんなに素敵でしょうか…。

素晴らしい聖歌を紹介してくださり、ありがとうございます。

みなさまお一人おひとりのご投稿にも、コメントをしたいのですが、なかなか時間が取れなくて残念です。
ですが、拝見して、お勉強させていただいています。
ありがとうございます。

合掌。

1735復興G:2012/12/09(日) 10:21:57 ID:vWpLkCzM

>>1733 :SAKURA様

深夜のお書き込み、ありがとうございます。

>>【必ず!今は善くないけれど…必ず!良くなる事を信じて進む事】に、心を振り向け…そして【祈る…】事が出来る人が❤〜【人生の勝者…】と思う次第です。<<

ありがとうございます。
『【祈る…】事が出来る人が❤〜【人生の勝者…】』

――本当に、そうだと思います。

祈るとき、「神は完全にして神のつくり給いしすべてのものも完全なり」なのですね。

ある人の子どもが、高いところから落ちて脳震盪(しんとう)を起こした。それ以来、しばしば癲癇(てんかん)の発作を起こすようになった。それは、前に脳震盪を起こしたのが原因だから仕方がない、と思ったいたが、あるとき、過去はない! 未だかつて脳震盪を起こしたことは、いっぺんもないのが実相だ、神の子だ! と、そう思ったら、子どもはそれきり癲癇を起こすことがなくなった、という話をどこかで聞いた(読んだ)記憶があります。

実相神の子は、交通事故に遭ったことはない、完全円満なお姿がすでにある。ありがとうございます。
そのお姿を観じ、礼拝させて頂きます。
合掌礼拝

1736復興G:2012/12/09(日) 11:01:32 ID:vWpLkCzM

>>1734 :a hope様

 コメント、ありがとうございます。

>>聖歌を歌うことでも、神との一体感を感じられるようになったらどんなに素敵でしょうか…。<<

 ――谷口雅春先生作詞の「堅信歌」も、私が大好きな聖歌です。

 「堅信歌」の歌詞は、

1. われは聴く わが内なる声を
 “みひかりを常にもとめて
わが御手をしかと握れよ
安らなれすべて善ければ
とこしえに此処極楽に
なれは今まもられてあり。
  われは汝(な)の内なる神ぞ
  わが護り常に完たし。”

2. われは聴く わが内なる声を
  “われ常に汝(なれ)をまもれば、
  われ常に汝(な)を導けば、
  何時(いつ)のとき何処(いずち)にあるも、
  汝は完(ま)たく清くけがれず、
 行く道に迷うことなし。
  われは汝(な)の内なる神ぞ
  わが護り常に完たし。”

ですね。

 この「内なる」というのは、自分の内に小さくかくれている、というような意味ではない。
 榎本恵吾先生もおっしゃっていますように、

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 生きていること自体が自分ではなく神であり給うのである。自分は無いのである。自分は全くのゼロであるのである。自分が存在すること自体が神であり給うのである。神は“汝は吾れであり、吾れが渾べての渾べてである”と愛し、拝し、観じ給い、吾れとなり給いて神ご自身を生き給うているのである。……(「榎本恵吾記念館」サイトの「文書館12 幽斎殿Ⅴ」より)

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ですから、「自分はないのである」と自覚したら、おのずから
≪われわれの本然の生命の相(すがた)は無我でありまして、形によってここからここまでが自分だというような、そんな限られた窮屈なものではありません。……大生命――大無我に帰一し、無我本然の状態に立ち還りますと、忽然(こつねん)として本来の無限自在さがわれわれの生命に立ち帰って来て病気がなおるのであります。≫

というようになることだと思います。

 そうは言っても、気になる「人類意識の大波」を超出すべし――素晴らしいですね。

合掌

1737トキ:2012/12/09(日) 11:46:26 ID:dcwAKtQA
 「自分はないのである」というのは、高齢の方がよく言われます。
やはり長く人生を経験すると、そういう心境になるのでしょうか。
 ただ、何もしていないで、そういう心境にはなれないとは思います。
やはり、真面目に勉強をし、行もして、はじめてわかるのかもしれない、
と感じています。

1738さくら:2012/12/09(日) 11:48:04 ID:WA9w81Yw
復興G様
ご参加のみなさま。

>>1703
復興G様、温かいお言葉ありがとうございました。学びを機会を与えて頂いて、感謝しています。

本当は、知人の身体のことでも、わたしには、大切なものを失う「恐れ」の心がとてもあることが、分かったんです。

何かを「失うのが怖い」と思うのは、外のものに依存する心がまだまだ強いからかな、と思うのですけど…
近しいものなど余計に、「執着」の心が出てしまいますね、、



復興G様がお書きくださった「静かなり」の意味が心に残りました。

 >「宇宙(くに)静かなり」の「静か」とは、すべてのものが処を得ていることである。聖は聖。光りは光。神は神。人は人。すべてそのものが自らをそのものしているときを「静かなり」と言うのであります。人間は神であり、聖であり、至上であり、光りであるときを、「静かなり」というのである。


以下、すべてのご文章から…、
すべてのものが、処を得て調和しているとき、「自らをそのものとしているとき」それが、「静かなり」、とハッとしました。

先日、聖典板に、『静思集』からの、
「寂静にして鳴るなり」「寂静にして病むなり」という言葉を、謹写させて頂いたのですが、それを思い出しました。
わたしには、意味が難しかったのですが、とても心に響いた言葉だったので。


祈りの方向を教えて頂き、すこしずつ、心のコリが和らぎました。

ありがとうございます。

1739さくら:2012/12/09(日) 11:48:37 ID:WA9w81Yw

それから、自分の中の課題の一つでしたが、
如月様の質問にトキ様がお答えになっているところがあります。

>>

>さて、宗教を嫌う人が多いのは、残念です。ただ、宗教家も反省しなければなりませんね。近所のキリスト教の熱心な信者が
いて、その人なんか、キリスト教以外は邪教だと言うのです。創学会みたいなものです。こんな偏狭な人を見たら、誰でも
嫌に成ります。ただ、これは、私も深く気をつけないといけない部分です。

 で、そういう人には、宗教に入りなさい、と言ってはいけないと思います。ただ、自分の行いを正しくすることと、その人
には、明るく、親切にするのが好いと思います。誰でも時期がありますから、時期がきたら、その人も宗教に関心を持ちます。
 それまでは、神様に祈って、時期が来るのを待つのがよいかと思います。


この姿勢はとても素晴らしい伝道の姿勢でもあるな、と思いました。

わたし自身、宗教だけの話ではないのですが、自分がこれが「絶対正しい」と思ってしまうと、
正直、「そうではない人、それと違う考えの人」に対して、やはり反発や嫌悪を感じてしまうことがあります。
受け入れられない気持ちと、自分の考えを強制したくなる気持ちでしょうか…。
ひどくなると、人を区別して、ある意味「差別的な意識」を感じることもあったかもしれません。
自分では、この想いに、さみしい気持ちがあるのにです。

前の宗教していたときには、殊更、この傾向が強かったし、だから、ぶつかる心も多かったと思います。

そんな中で、生長の家に触れて、もっとも感銘を受けたみ教えの一つが、「萬教帰一」の教えでした。
それは、すべての良き宗教宗派の教えの真髄に光をあてて生かすのが、生長の家の教えだと知ったので、この教えこそ、宗教間の和解を実現する偉大な教えだと感じました。

…でも、やっぱり、それさえも、「これが絶対正しい」に、自分の心が凝り固まってしまうと、そこにぶつかるものがでできてしまうのですね…。
この点でも、トキ様の姿勢は素晴らしいと感じました。

如月様が謹写して下さった
聖経『続 真理の吟唱』より、「愛の絶対価値を高揚する祈り」
の中で、

>人間が誰かを”愛”したという”愛”は絶対価値であるが故に、その”愛”は永遠に
滅することも減ずることもないのである。
 日本国民が国家を愛して国家を護るためい戦った。
その”戦い”という行為は、対手(あいて)があり相対的なものであるから、立場立場の異なる
人々によってその価値・不価値を色々に評価されるけれども、その”戦い”という相対的行為の
奥にあるところの日本国民が天皇を愛し大日本帝国をあいしたというその純忠なる”愛”の
価値は相対的比較を絶した絶対なるものであるから、肉体をいう相対的存在が滅びても
永遠にその”愛”の価値が滅びることはないのである。
純粋の愛は、絶対者に属し、絶対界より出でたるものであるが故に
それは永遠の価値をもっていて滅びることはないのである。

という言葉がありました。

一見、相対的な価値観の違いや対立すると見える物事や相手があると見えても、

その奥に、永遠の価値を持つ神の愛の世界では、一体であるのが、真相だと信じることが大切なのですね。

それが、この誌友会で教えて頂いている、祈りにあると、受け取りました。

ありがとうございます。

1740「訊け」管理人:2012/12/09(日) 12:21:30 ID:???

>>1737トキ理事長


>>「自分はないのである」というのは、高齢の方がよく言われます。やはり長く人生を経験すると、そういう心境になるのでしょうか。<<


 そうかもしれませんね。ただし若輩者であれ「生死の境」を彷徨った経験などあれば、そのような心境になれるのかもしれません。少なくとも「近づくこと」くらいは、可能かもしれませんね。私なんかでもかの、リーマンショックを経験し御教えのありがたさ、堪能出来ました。なにせ「自分がある」限りは、心労が絶えぬわけです・・・

 たとえば「自分がある限り」とは、こんな意味です。

 たとえば、請求書を出した金額が¥2,000万だったとします。そうなると当然、人間知で考えれば翌月入金は¥2,000万であるはずです。(当り前の話です。請求額を超えて入金があるはず、ないわけですからね)。そしてこの場合、「入金¥2,000万では資金ショートだ」とします。こんなケース下で「自分がある」限りは、資金ショートするというシナリオ以外、思い浮かんでくるハズがありませんよね。

でも実際はその、「請求額を超えた額」が、突如入金になったりするのです。しかも「充分に運転資金として活用可能な額」がポンと、なぜか銀行口座に振り込まれていたりするのです(!)こんなことは「自分がある」(=自我を殺し終えていない)限りは、予想不能なことです。そして中には、取り越し苦労気味に〝自殺〟〝一家心中〟を選択する経営者も、出て参るわけです。

 若輩者であれ「生死の境」を、彷徨った経験などあればそのような心境になれるのかもしれません。少なくとも「近づくこと」くらいは、可能かもしれませんね。「自分はないのである」なる心境ですが、自殺寸前まで追い込まれたりすると、案外簡単に得られる心境なのかもしれません。(その意味で「自殺まで追い込まれた経験」というものも、「神の御使い」と言えるかもしれません)
 なお、余談ながら戦前期に御教えが広まった理由も、この辺りだったのかもしれません。なにせ当時は「25歳まで、生きられるかどうか」という若者が多数いたわけでしょう。そしてそんな、死線を彷徨う経験ある若者であれば現代でも、充分に通用する教えだと思っております。


>>1738さくらマネ

>>(趣旨)身近な者に対して執着が沸き、なかなか祈りの効果が現れないケース<<

 私の場合は「外注」します。祈りをアウトソース、します(^^)。意味は、知り合いの白鳩姉さんに「祈ってもらうようお願いする」ことです。

 やはり、たとえば「自分の会社の業績」なんてテーマになると、なかなか祈りの効果がありません。貴女が(以前より)言われる如く執着の念が生じるためだと思います。他人の病などは簡単に治せるんですが、自分の会社業績の場合が「なかなか上手くいかぬ」という、そんな事態に見舞われました。

 ・・・・そこで私は、「外注」しました。祈りをアウトソース、したわけです。まあ、徳久先生も「祈り合い」を重視しておられましたが、理由はおそらく、その辺りだったのではないでしょうか。

追伸

 ちなみに知人の白鳩姉さん達ですが、成就率100%です。(^^)もう、彼女たちに祈りを「依頼した時点」で私、もう、大安心の境地になれるのです。大安心の境地になれるのですからつづけて、唯心所現の法則でそのとおりに進展していくという・・・・

1741神の子さん:2012/12/09(日) 13:04:49 ID:3Dk63Vjg
神聖な誌友会の場で「祈りの外注」ってどんな心境であれば書けるのかな?
「祈り」についての根本的な理解が出来ていない。
「祈り」の事を「費用対効果」と同等に考える人って、驚きを通り越して虚しいだけだ。
尊師を呼び捨てにする理由もよくわかる。

オレはアンタのために祈るよ。

1742「訊け」管理人:2012/12/09(日) 13:16:53 ID:???

 と、言うことで皆さん「さようなら」






1743さくら:2012/12/09(日) 14:10:12 ID:WA9w81Yw
>>1740
訊け管理人様

ありがとうございます。
「祈りの外注」というのは、新鮮な言葉ですが、
本当、そうですよね。

自分に関することや自分の執着あることは、なかなか、純粋な祈りにならないことがあるな…、とわたしも感じましたので、
真理に叶っている、とおもいました。

そういえば、わたしが自分のことでくよくよしがちな時に、
生長の家の講師の方が、
「そういうときほど、人のために祈りなさい」とご指導くださいました。

はじめの頃参加した練成の、「祈り合いの神想観」は、本当に感動したのを覚えてます。
祈って頂きたい人が前にでて、練成員が向き合うようにただ、その人のために一心に祈り合う…
その時、わたしは、その姿がとても「美しい」と感じました。

グループで、小さな輪になって、祈り合いをしたこともありましたが、
その時には、祈っているうちに、本当に、ただ、涙が出てきました。
人のために祈るのは、一体である自分も救われていることなんだな、と実感したことです。

訊け管理人様の、ただ、神にそのままゆだねる、大安心のこころは、祈る上で、大切な心境ですね。

教えて頂きありがとうございます。

1744如月:2012/12/09(日) 14:22:34 ID:ki/haAjk
>>1740 訊け管理人さま

自殺未遂を数回して生死の境を彷徨った人がいますが、いまだに隙あらば死のうとします。
そこで自分は無いのだという心境になってくれていればなぁと思います。
こういう人には祈ってあげるしか無いのでしょうね。
祈りにはじまり、祈りに終わるというのは良い言葉ですね。

1745復興G:2012/12/09(日) 14:43:43 ID:vWpLkCzM

さくら様
トキ様
皆々さま

 合掌 ありがとうございます。

 ご投稿、ありがとうございます。

 ところで、私はずっと、今回のテキストを拝読しながらも、考えていました。

 現在の生長の家教団の状況も、いわば病気の症状を現しているようなものではないのか。
 それを、健康状態に回復するには、いかにあるべきか、自分はいかに祈り、いかに行動すればよいのか――そのヒントがこのテキストの中にあるのではないかと。

 これまでテキストを拝読してきて、教えられましたことは、「無我になって、神に全托して祈りなさい」ということが重要な柱であったと思います。

 しかし、その「自我をなくして」「無我になって」というのが、なかなか難しい。
 そして、自我をなくして祈るだけで、果敢な行動をともなわなかったら、症状は消えない、問題は解決しないかもしれない。

 そう思いながら他の聖典も傍証のために見ておりましたら、『實相研鑽』[第一集]にとても参考になる記事があるのが目にとまりました。「“無我”の限界について」というテーマで、昭和35・7・31、当時地方講師の方たちが熱心にいのちがけの気持で研鑽し合い、谷口雅春先生のご指導をいただいた記録です。かなり長文になりますが、もう50年以上前のことであり、ここに登場される講師の方々は皆すでに霊界へ旅立たれた方々ばかりでありますので、お名前もそのままに、謹写ご紹介させていただこうと思います。
 よろしくお願い申し上げます。

1746志恩:2012/12/09(日) 14:48:06 ID:.QY5jUA6
トキ様は、うさぎ体験を語って下さいましたが、
私も、過去に、ニワトリ体験がございます。

今回のテキストの71頁に、

「白墨の線も自分を縛る綱だと思えば,動けなくなる」とうタイトルのところに
例として、ニワトリに催眠術を施す方法が載っておりますけれど、

《ニワトリを静かに抱いて少しもその翼や足をバタバタすることができないように抱きすくめ、
それを床の上に横に置いて、眼のところから床の上に白墨で一直線を引いて静かに手を離しますと、

そのニワトリはもう起き上がることが出来ないのであります。。。》

というものですが、
私が高校生の時のことですが、

実家の父が、「生命の實相」のこの部分を拝読後、

「ほんとかどうか、実験したい」と言い出しまして、東京でしたが、たまたま近所に
ニワトリを飼ってる家があったものですから、そのおうちの人に交渉して承諾を得て、

興味津々の、われわれ家族が立ち会いのもと、
父は、一羽のニワトリを
実際に、地面に押さえつけて、ニワトリの眼の前に、白墨で白い線を引いてみました。

すると、ニワトリは、本に書いてある通り、即座に死んだように硬直して、動かなくなってしまいました。

この「生命の實相」に書かれていることは、本当だったのです。

われわれ家族は、実験者の父と共に「ほんとだ、ほんとだ」と歓声をあげました。
凝り性の父は、「もう1羽、やってみるか」と、もう1羽やりました

結局、2羽のニワトリが、われわれの眼前の足元で、死んだように硬直して動けなくなって
いるのでした。

ところがですね,今,思い出してもおかしくて笑いがこみ上げて来るのですが、
この催眠術は、施す術は書いてあるのですが、術を解く方法は、書かれていなかったのです。

まさか、変わりもんの父のように、実際にやる人があるとは、思われていなかったのかもしれません。

それで、父は、ものすごく焦りまして、汗だくになって、あれこれやって、やっと元に
戻したのでした。

今でしたら,ネットで調べれば、すぐに分ります。
「パンパンと2拍手すると、はい、催眠から眼が覚めます」と言ってから、2拍手すれば、
催眠術から解放されることを。

やはり、頭で理解したことは忘れがちですが、
感動体験したことは、何年経っても、忘れないものです。

1747NANCY:2012/12/09(日) 14:51:32 ID:jH5uEFzM
「復興G 様」 ヘ  「トキ 様」 ヘ
こんにちは……        ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1678>>1692>>1718>>1727の投稿の続きです。…が??

>>1732>>1733の【SAKURA様の投稿内容】を、閲覧させて頂きながら…(下記URLにて参照)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1732
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1733

個人的に思いました事は……今回【聴力喪失…そして“心の法則”との関連】に関しまして思い
ましたのですが?実によく“病気”をしました時に生じます【 恐怖心=ネガティブ感情 】が、
そうです〜〜〜ョネ!そこから生じます“恐怖”・“不満”…伴う“不平”……此処から、更に
【念の法則】にて、必ずや【引き寄せの法則】による次なる【出来事…アクシデント】となります
事が、理解出来ました。
そうでありますならば【ネガティブ感情でありますところの“悪感情”…】に関しては、当に
❤【幸福な生活…】を望みます私どもにとりましては、少なくとも抱くべきではないモノと!!!
改めまして、考え直した次第です。

■当に「生命の実相」中の言葉に…… (雅春先生著)
〜〜〜【抜粋文】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『三界は唯心の所現である。そこまでわかっていたから、家族たちの病気が心なあらわれである
ということは明らかであった。しかし心をいかにすれば自由になしうるかがまだわからなかった
のである。心配すればその心配の形にあらわれて病気になる、それは解る。しかし、家族が病気に
なっているのを心配しないでいることはむずかしいのである。』
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

本当にこの“言葉…”に、最も値しますモノと、思った次第なのです。そして、

■【 心 が 一 切 現 象 の 源 で あ る …!!】ですから、今回の
“恐怖の種”・“悩みの種”・“不平の種”……etc
これは逆に【マイナス要素…】になりますモノと…改めて思いましたかと…。

つづく

1748トキ:2012/12/09(日) 15:04:33 ID:dcwAKtQA
>1740

 web誌友会へのご参加、ありがとうございます。

 祈りの外注ですか。(笑)
確かに、祈り合い神想観がそうですね。面白い表現だと思いました。

1749復興G:2012/12/09(日) 15:18:18 ID:vWpLkCzM

『實相研鑽』[第一集](谷口雅春監輯)より
「“無我”の限界について」(S35・7・31)<1>

  “無我”の限界について (35・7・31)

    公憤して胃に孔あく

 橋村正治 「無我の限界について」というとちょっとおかしな問題ですが、私がこの疑問に達した経過を簡単に申し上げまして、問題の主旨を明らかにさしていただきます。

 私は昭和十五年に入信いたしました。べつだん入信の動機は病気とかいうようなことではないんですけれども、当時十二指腸潰瘍の宣告をうけて医者の薬をのんでいたのが、『生命の實相』第一巻を読ましていただいてから、薬はいらないんだということがわかりましたので止めまして、それっきり医者にもかかりませんし、長年の間別に何ともなかったんです。

 最近になりまして胃潰瘍が再発(十二指腸潰瘍とは同じようなものだそうで)、二、三回血を吐きまして、最後に胃に孔があきましたので、四月のなかばにいやおうなしにお腹を切られまして、胃を三分の二とってしまわれたんです。

 ところで私は入信以来、最近にいたりまして“我(が)”というものがなくなったと自分では思っていたんですね。ところが入院しましたとき、“まだお前には我(が)があったんだ”ということをマザマザと見せていただいたんです。それは私につきそって下さったおばさんが非常に我の強い方でして、私のいうことはちっとも聞いてくれない。むろん病人の看護ですから、病人の言うことをいちいち肯(き)くわけにはいかんのは当然ですけども、いろんなことがあって「ああ、これは自分にまだ我が残ってたんだ」ということを分らしていただいたんです。(そのおばさんは、私が退院するまでに誌友になってくれました)

 それで私つくづく考えてみまして、どうも自分には、まだ我がある。どういうところにあったかしらと思って考えてみましたところ、私が昨年来、東京都連合会の副会長をやらしていただいている期間に、都連をめぐるいろいろの問題についてちょいちょい憤慨した。そういうときに我があらわれたわけなんです。

 最初に血をはきましたのが三月の初めでしたが、考えてみるとその時に何かの問題で憤慨しとるですね。それは一週間ばかりして治りまして、今度は四月初めにまた血をはきました。その時も何か憤慨してるんですよ。それから最後に胃に孔のあいた時には、ある問題で非常に憤慨しまして、伊藤会長にも大それた進言をしたくらいで、今でも赤面のいたりなんですが、帰った翌日の次の晩かに孔があいちゃったわけなんです。

 私はそれまでただ慢然と「私事について“私”が出さえしなければ我はないんだ」と思ってたんです。ところが“公”の問題でも憤慨したりするということは、やはり“我”のあらわれだということを悟らしていただいたわけなんです。
<つづく>

1750復興G:2012/12/09(日) 15:18:54 ID:vWpLkCzM

『實相研鑽』[第一集](谷口雅春監輯)より
「“無我”の限界について」(S35・7・31)<2>

    “我”をなくせるか?

 ところが「我がない」ということは結局、相手はないということなんですから、相手があって憤慨する以上は、それは我があるわけで、大いに分らしていただいたつもりでおりますが、さてひるがえって社会の状態なんか見ますと、どうも憤慨せぎるを得ぬことが多いんですね。

 たとえば日教組だとか、総評だとか、これは憤慨せざるを得ないわけなんですよ。そういう場合にはやはり、これは“我”のあらわれにはちがいないんですけどね。我がなければ相手がないわけで、早い話が、神様になれば、あんな日教組や総評は問題にされないんだろうということになる。あれはああいうことしたとか、こういうことしたとかいう悪い状態は神様のお目には入らないんじゃないかと思いますね。

 そうすると我が完全になくなるためには(神に近くなるためには)そういう悪いことは自分の認識に入らないようにならなきゃいかんのじゃないか。認識に入る以上は、やっぱり、我はあるんだと。そこまで考えてきて私は分らなくなったわけです。どこまで我をなくしうるか、人間として、肉体人間として、どこまで我をなくしうるものだろうかと。また、なくしてもいいんだろうかと、五里霧中の状態になりましたので、皆さまの御指導をねがいたいと思うのでございます。ありがとうこざいました。

 司会 大分むつかしい問題ですが、どうぞ御遠慮なく発言を願います。現在、橋村講師のような状態におかれているという方でも結構でごぎいます。

    ガーンとやって反省

 林利男 無我になることは悟りの境地だと思うんですね。私なんか最も我の強い方でして、その証拠には前の住居のお隣りの方が、とても私の方へつっかかって来るんですよ。「立ち向う人の心は鏡」ですから、そういう人が近所にいていろいろいわれるのも私の我のある証拠だと思いまして、心に合掌しながらつきあっていました。

 しかしその後もしばしば問題が起るので、これはいったいどういうわけであるかと、私は大いに反省したんです。一つは私の職業(弁護士)がいけないんで、ある程度闘争してなきゃならない。闘争という言葉はないんですが、これは一度ガーンとやって、迷いを覚まさせなきゃいけないと思って、頭からガーンとやったところ、それから非常によくなった。

 しかしそれが、大いに『生命の實相』を説いてよくなったんなら私は手柄ですけどね、威圧を加えてよくなったというんじゃ、名誉でもない。そこに私はあとで「ああ自分には我がぬけきらないなあ」と悲しみをまざまざと感じたんですが、まあ反省するだけの私になったことは、やはりみ教えのおかげなんです。昔は反省しなかったですから。

 ところが無我ということはですね、結局は公けの問題にしろ私の問題にしろ、神と一つになり切ること、自分の個我が滅却してしまわなけりゃならない。われわれは個性の生命を神から与えられておりますから、個性の生命が働くことはいいんですが、それが神と一つの生命において働く。いわゆる個我が、普遍我いわゆる宇宙の生命と一つになった働きをする境地になることが無我ではないかと思うんです。

 だからある場合には、迷いを摧破(さいは)するためには大いに日の丸運動をおこし真理運動をおこして、共産主義や行きすぎた革新思想を催破するということは、やはり神と一つになるところの運動であり、その場合においては無我の運動である。だから大いに勇敢にやってもよろしいと思います。

 それでどこに限界があるかというと、自分のイノチが個の利益のため、個の考えのみのためにうごいているか、あるいは公けの神と一つになった動きをしているかというところに、その限界があるんじゃないかと思うんであります。私自身その限界一杯に動いていないことを非常に悲しむものですが、そういう考えだけは持っております。
<つづく>

1751復興G:2012/12/09(日) 15:19:29 ID:vWpLkCzM

『實相研鑽』[第一集](谷口雅春監輯)より
「“無我”の限界について」(S35・7・31)<3>

    影はゆれるが跡をとどめず

 白山守夫 終戦後しばらくのころでございましたが、神誌に谷口先生が官僚の横暴を非常に攻撃されたような御文章があったのでございます。そのとき私は「平和そのものと思っていた先生もやはりそういう攻撃をなさるのか」と思ってお手紙で御質問したわけです。そうしたらこういう名文の御返事をいただきました。(手帖に書きとめた原文のままを朗読する)

 「太刀先だけを見てその太刀筋を批評すべからず。憤激はせず、憤慨の語調をとる。虚にして実なり。共産党は何故あんなに拡がるか、官僚に対する憤激の形をとる故なり。滔々(とうとう)たる官僚攻撃の波に和する。これ全体に和するなり、和して同ぜず。呵々(かか)」

 私は非常に打たれまして、今でもよく覚えております。
 先ほどの御質問の中の、私事による憤慨や公共的なことに対する憤慨の場合でも、先生のお手紙を拝見しまして憤慨の語調をとるが、腹の底からは怒っていない。つまり

 「風に木の葉がゆらいでゆらいだ影が映っても、影は跡をとどめず」

 そういうように我のない場合には、そういう語調をとったとしても、自分自身がそれにまきこまれない場合は、自分を痛めるということはないという意味のお言葉だと、この御文章を非常に尊く、一生忘れんようにと覚えとるわけでございます。

 菱沼利一 「信徒行持要目」の第二項――“そのままの心を大切にすべし”というところに、お答えの意義を感じさせていただきました。私たちは常に感情に走りやすいのでこざいますが、ただ今のお答えのように、無我ということは、自己の感情をとり除いた上で行うことであると感じさせていただいたのであります。“そのままの心を大切にすべし”というのは非常に疑問でしたが、そのままの心というのは、神様の心であるということに感じまして、本当にありがたく拝聴さしていただきました。

    よごれものは受けて洗う

 伊嶋四耕 今日の本部道場の午前中の法語は田中イサノ先生の慈悲喜捨の「四無量心について」のお話でございましたが、この問題と非常に関連深く、ありがたく拝聴いたしました。

 谷口先生は常にお教え下さっていますが、不完全なものが目に入った時には、心に入った時には、やはり一応それは自分が取捨しなければならない。自分がそれを本当にとって、それをようく玩味して、そういうものはないのであると本当に考えなければ、生きていけないのであると、仰せられておるところを常に感じさせていただいております。

 さらに谷口先生がお教え下さいますように、よごれ物がここに出て来て、きれいにしようと思うならば、やっぱりそれは洗わないときれいにならないのであります。その場合、水で洗うのか、湯で洗うのがいいのか、陰ぼしがいいのか、日光にあてるのがいいのか、石鹸はどういうものを使うのか、それらを知らなければならない。それが本当の洗濯の意義である。その智慧はどこから出て来るのか、それは神の智慧によるのであり、神想観にあるのだと考えます。ありがとうございます。
<つづく>

1752復興G:2012/12/09(日) 15:20:02 ID:vWpLkCzM

『實相研鑽』[第一集](谷口雅春監輯)より
「“無我”の限界について」(S35・7・31)<4>


    相手を生かす愛

 山本暎一 伊嶋講師が申されましたように私もそう考えております。きたないものは一応うけとらなくちゃきれいにならない。その汚いものをうけとった時に腹が立つんですね。そういういろんな感情をなくするにはすべて愛である。

 たとえば全学連が運動し、共産党がさわぐ。これは真理国家としてこの日本の実相顕現という真理の点から見る時には、彼らはまちがっている。そこでまちがっていることを一応うけましてですね、どうしたら彼らを正しい真理の道に目覚めしめるか、神想観によってみちびく。のみならず、日の丸擁護会というような運動をもって徐々に彼らに知らしめることが必要で、あくまで相手を生かす。感情で相手をやっつけるんでなくして、あくまで相手を生かす。つまり愛である。生かす道はいろいろあるわけですが、議論すればいかにも腹立っているように見えるけれども、心の奥では相手を生かすということが根柢にならないと問題は解決しない。

 たとえば御本にありますように、自分の子供は何でも完全であると拝んでればいいもんじゃない。真理は、剣の如く鋭く、半面において、鳩のごとくやさしいという、愛と智慧とが表裏一体をなしている。智慧のない愛はいかん。子供が今、何か変なビンのものを飲もうとしているというときに、ただ拝んでおっちゃいかん。そのビンに青酸カリが入っているということになると、母親はいかに子供が泣き叫ぼうとも、横つらをはり倒してでもそのビンをもぎとる。この行為そのものは、いかにも腹を立てて引っぱたくような姿に見えますけれども、これはあくまでも相手を生かす精神の現われである。

 つまり涙をもって愛の鞭をふるうという場合、やはりここには鋭い智慧が必要でありまして、すべてきたないものは一応うけとっておいて(これは公けでも私的でも同じだと思う)すべて相手を生かす道が(あるいは形の上では争いのように見えるかもわからんけれども)ある。あくまでも真理を知らしめる。正してあげようという愛念に代っていくならば、ちょっとは腹が立ちましてもまた、相手本位に行ける無我の世界に入れるんじゃないかと思うのでございます。

    “そのままでいいんですよ”とは?

 中野愛子 私たちが毎日生活しておりますと、“神の愛ならばこうすべきだ”ということは分るわけなんです。心静かに考えますと、学生に対する態度や教職員との縦横一切の人間関係は、“神様ならこうする”ということから“自分はどうすべきか”ということは、もうちゃんと答えは出てるんです。(中野さんは東京女子経済短期大学教授)

 しかし実際そういう問題にぶつかりました時に、明らかに答えは判っていながら、心ならずも、その答えとちがったかんばしくない態度が出てしまうことがあるわけなんです。

 そうすると非常に反省させられまして「ああ、また悲しいことをしたな」と他の人から見ればそういうことは問題じゃないだろうと思うんですけど、一つ一つの言葉や行動の中に毎日反省させられるんです。

 そんなとき私は、『生命の實相』の中から自分に都合のいいような言葉を選んだり「神様は愛だからそのままでいいんですよ」と谷口先生がおっしゃったお言葉などを一所懸命となえてみても、だめなんでございます。それで「“神様”と言ったら、いいんだよ。そのままでいいんだよ」とか「あすはまあがんばってごらんなさい」というような形で、私などは自己を勘弁していただいておるんでございます。

 あるいはまた親鸞聖人の煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)なんて素敵な言葉を考えて、このまま菩提かしら、天国が一緒にあるとすればこれでもいいのかしらって、いうように考えて、絶対の愛というものは批判もされないんじゃないかしらなんて思うのでこざいますが、一所懸命神想観して、自分を磨いて完全にというような直線的なことは(できる方はできると思うんですけど)なかなかむつかしい。私など非常にぬらりくらりと欠点だらけでございますが、先生、その時どのように神様はお救いいただけるんでしょう。質問と共に、“そのままでいいんですよ”というこの楽な方がいいような気がいたしますので、お伺いいたします。
<つづく>

1753復興G:2012/12/09(日) 15:20:40 ID:vWpLkCzM

『實相研鑽』[第一集](谷口雅春監輯)より
「“無我”の限界について」(S35・7・31)<5>

    大いなるみ手に抱かれ

 黒田輝子 ただ今、無我につきまして皆さんから結構な御意見、御体験を頂戴したのでございます。私、それに対しまして、私の唯今の心境の一端をちょっと申しあげてみたいと思うのでございます。

 私は入信は十四年で二十二年に講師にさせて頂きました。当時、広島県におりましたが、島根県にお話にまいりまして、佐藤さんというお宅でお風呂をいただいているとき、もう周囲の一切に対しまして良い気持になりながら感謝さしていただいておったのでこざいます。そのとき突如として耳にきこえたと申しますか何と申しますか、親鸞聖人のお言葉がこう響いたのでございます。

 「煩悩障眼(しょうげん)して見えずといえども大悲倦(あ)くことなく、われを照す」(その時に私はその言葉は存じませんでした)

 「あらっ」と思いまして、同時に私は嬉しくて嬉しくて、ああそうだったんだ、私は今までこの世に生をうけてから、憎いとか可愛いとか、惜しいとかほしいとか、腹が立つとか、しゃくにさわるとか、そういう煩悩にあけくれる生活をつづけておったにもかかわらず、神様の御愛、仏様の御慈悲は「お前はこれではいけないから、こちらに向かなきゃいけない」というような激しいものでなく、私の知らないうちに私を慈悲の御手にしっかりとおだき下さいまして、今私を生長の家のすばらしい御教えの中にひき入れて下さいまして、しかも皆さんの前に立って神仏を説き人間の生きる道を説くことを教えて下さいました。

 本当にありがとうございます、と、私はお風呂の中に泣きぬれたのでございます。本当にそうだった。神様は私が行こうと思えばどこへ行こうと、憎んでおろうと怒っておろうと、それをいけないとは決しておっしゃらないけども、ゆきづまったり、かべにゆきあたった時には、自然に自分が神様の方にむくように、神さまの方からしていて下さったんだ。ありがとうこざいます。今まで仏教を研究し、いろいろな宗教をきかせていただいたけれども、どうしても分らなかったそのことを、『生命の實相』によって谷口先生に導かれて知り、私はなんてありがたいんだろうと思いまして、お風呂の中で泣いて泣きぬれたのでございます。

 それ以来、私はただありがたい、うれしい、ありがたい、というわけで生活させていただいておりました。

 そのうちに広島県の五日市に参りました時に、お床にかかっておりましたお軸にただいまの言葉、「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我(ぼんのうしょうげんすいむけん だいひむけんじょうしょうが=ぼんのうしょうげんしてみえずといえども だいひあくことなくつねにわれをてらす) 雅春書」と書いてありました。

 それを拝見いたしました時にまた泣きぬれたのでございます。(谷口先生のこの御揮毫を拝見いたしましたのはそこだけでございます) そこでそれについてお話させていただきましたら、皆さんもたいへんおよろこび下さいました。

 私はまことに我のつよい女でございまして、自分を顧みる、いわゆる常に「わが内なる声」を聞きながら、私の欠点を「ああ、これはいけなかった。そうじゃなかった。私はまたあの方をこんなふうな目で見ていた。口には出さなかったけれども、心でこういうふうに思っていたんじゃないか、申しわけなかった」というように反省し、脚下照顧しておりますが、まだまだだめなんでごぎいます。相手を、問題の瞬間に、「相手は神であった」と拝める、どんな瞬間にもすべてを拝める私にならせていただきたいと、一所懸命精進させていただいておるのです。そこに立ちましたときはじめて、世の中のすべての問題も私の心の中で浄化して、お導きすることができるのじゃないかと、私のただいまの心境でございます。
<つづく>

1754復興G:2012/12/09(日) 15:21:11 ID:vWpLkCzM

『實相研鑽』[第一集](谷口雅春監輯)より
「“無我”の限界について」(S35・7・31)<6>

    もっと日本人の我を出すべき

 法貴雪子 私は無我の限界はあると思います。『生長の家』誌三十五年八月号の明窓浄机の最後のべージを読ましていただきましたら、谷口先生は御自分の身に日本の国の危機をお引受けになって、左の耳翼から前額にかけて痛みに耐えかねると書いてございました。

 私は昔、「自分のためには汗を流し、人のためには涙を流し、国のためには血を流す」という言葉を読んだことがありますけれども、私たちが怒っていいのは、そして体が痛くてもいいのは、国の問題の時だけであると思います。

 谷口先生のは我ではいらっしゃらなくて、そのまま実相でいらっしゃるでしょうけれども、私たちは今あまりにも無我になりすぎていると思います。私たちは本当の意味で、日本人としての“善人の我”を出して、もっと団結しなければ、谷口先生お一人に全部お引受けさしたのではあまりにもったいないと思います。もっと限界をはっきりひいて、私事だとか公けのことといっても、日本の実相顕現に関係のないことなら全部ガマンすべきです。そのために胃病になっても肺病になってもそれは致し方ない。そんなことで傷つく私たちの実相ではない。

 谷口先生はこのあいだ目黒の公会堂での講演のとき、「天皇が政治をおとりにならないから、凡人が政治をとっておるから、今日本の国は乱れている。日本のため、天皇の御代になるまでがんばりましょう」と、この物情騒然たる今日、堂々とおっしゃられました。しかも公会堂の壇を踏みならさんばかりにして、(私は本当に先生が般若(はんにゃ)におなりになって、ああして怒っていらっしゃるんじゃないかと思うくらい)烈々と話される先生の御気迫に本当に打たれました。それを思いますとき、私たちは本当に、今はもう我を出してもよいと思います。生長の家の我だけは絶対に出すべきだと思います。(拍手)

 司会 それでは最後に谷口先生の御意見を伺わしていただきます。

    すべてのものは善きように働いている

 谷口雅春 ありがとうございます。皆さんからいろいろ尊い見解を承りまして、だいたい言うべきことは言い終ったように思います。中野愛子さんの非常に反省の深い言葉を承りましたが、「自分でこうするとき神様ならこうなさるであろう、と頭ではわかっているけれども、実際には腹が立って変なことを言うこともある」というのはね、“それでいいんです”よ。(笑)

 “それでいい”というのは、それは自分の過去の中にいろいろのレコードがありましてね、仏教的に言うと、業というものがあって、それがある機会にまきもどされて形に現われて消えてゆくんだから、それをもう一ぺんつかまえないようにしてですね、“それでいいんだ”と放す。

 黒田輝子さんがおっしゃったようにね、「煩悩の中に溺れているようだけれども、大悲倦くことなく我を照す」というわけで、その煩悩の流動するに従って腹立つ言葉が出てくる。そこに大生命の無限の愛があって、自分の業も自然と解消してゆきつつあり、それによってまた相手の業も解消してゆきつつあってですね、自然にこの世の中が浄化されてゆきつつあるということになるわけでありましてね。だから腹が立つとか、何とかいうような問題にひっかからないで、“そのままでいいんですよ”という所へ行くところにですね、神様の大生命の無限の愛の中に自然と生かされて、常にわれわれは宇宙浄化の働きの中にのっている、ということになると思うんです。

 共産党に憤慨するのも、これも自然と宇宙浄化の働きの中に乗っておりましてね、日本精神(顕現)のために大いに公憤するのも、これも真理国家の実現という、実相の正しい相(すがた)を実現するために動き出しているところの一つの神催しの波であります。だからそれも“そのままでいいんですよ”ということになるわけですね。

 雷が鳴って雷霆(らいてい)霹靂(へきれき)が空をゆり動かすように見えているけれども、それは宇宙の電気の不調和が中和するために動いているというのと同じようにですね、“すべてのものは善きように動いておって、悪いものは一つもない”というところへいって、落着きが得られるということになると思うんです。そうでなければ、途中にひっかかっておれば、反省して反省して反省にくたびれてしまって、自己暗示で劣等感を得て、ますます悪い方へ崩れてゆくのであってですね。劣等感なしに、宇宙の本当の大自然の浄化作用の中にのっているんだという大安心が「大悲倦くことなく我を照す」ということになるんだと思います。ありがとうございます。
<完>

1755復興G:2012/12/09(日) 15:39:46 ID:vWpLkCzM

 ――以上、長文を謹写掲載させていただきました。

 結局、谷口雅春先生のご指導は、

 ≪「煩悩の中に溺れているようだけれども、大悲倦くことなく我を照す」というわけで、その煩悩の流動するに従って腹立つ言葉が出てくる。そこに大生命の無限の愛があって、自分の業も自然と解消してゆきつつあり、それによってまた相手の業も解消してゆきつつあってですね、自然にこの世の中が浄化されてゆきつつあるということになるわけでありましてね。……≫

 ≪日本精神(顕現)のために大いに公憤するのも、これも真理国家の実現という、実相の正しい相(すがた)を実現するために動き出しているところの一つの神催しの波であります。だからそれも“そのままでいいんですよ”ということになるわけですね。≫

 ――で、「必ずよくなる」と、大生命の浄化の御働きを信じ、祈りつつ、使命感のままに行動して行けばよい、ということになるのでしょうね。

1756「訊け」管理人:2012/12/09(日) 15:43:49 ID:???
>>1753

>>「煩悩障眼(しょうげん)して見えずといえども大悲倦(あ)くことなく、われを照す」<<


>>1754


>>“それでいい”というのは、それは自分の過去の中にいろいろのレコードがありましてね、仏教的に言うと、業というものがあって、それがある機会にまきもどされて形に現われて消えてゆくんだから、それをもう一ぺんつかまえないようにしてですね、“それでいいんだ”と放す。<<


>>“すべてのものは善きように動いておって、悪いものは一つもない”というところへいって、落着きが得られるということになると思うんです。そうでなければ、途中にひっかかっておれば、反省して反省して反省にくたびれてしまって、自己暗示で劣等感を得て、ますます悪い方へ崩れてゆくのであってですね。劣等感なしに、宇宙の本当の大自然の浄化作用の中にのっているんだという大安心が「大悲倦くことなく我を照す」ということになるんだと思います。<<


 誠にありがとうございます。感動致しました。


追伸

 悪いものを観た際、どうすべきや?――よごれたものは「受けて洗えばよい」

 「洗う」とは、いかなる行動を指すや――“すべてのものは善きように動いておって、悪いものは一つもない”というところへ、行くこと。

1757復興G:2012/12/09(日) 16:09:15 ID:vWpLkCzM

私も、>>1753 「大いなるみ手に抱かれ」という黒田輝子様のお話に、とても感動しました。

「煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいむけん=煩悩障眼して見えずといえども)大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが=大悲は倦むことなく常に我を照らす)」というのは、「私たちは煩悩が障りして眼に見えなくても、阿弥陀如来の大慈悲は常に私たちを見捨てずに、(無倦=あきることなく)慈愛の光明で包んでくださっています」という意味で、親鸞聖人が「正信偈」の中に書き記されている言葉でありますね。

黒田様は、この言葉を知らなかったけれども、あるとき島根県にお話に行ってお風呂をいただいているとき、突如としてこの言葉が耳にきこえたというか、響いてきて、ありがたくてお風呂の中で涙にむせんだ、というのでありますね。

『私は嬉しくて嬉しくて、ああそうだったんだ、私は今までこの世に生をうけてから、憎いとか可愛いとか、惜しいとかほしいとか、腹が立つとか、しゃくにさわるとか、そういう煩悩にあけくれる生活をつづけておったにもかかわらず、神様の御愛、仏様の御慈悲は「お前はこれではいけないから、こちらに向かなきゃいけない」というような激しいものでなく、私の知らないうちに私を慈悲の御手にしっかりとおだき下さいまして、今私を生長の家のすばらしい御教えの中にひき入れて下さいまして、しかも皆さんの前に立って神仏を説き人間の生きる道を説くことを教えて下さいました。
 本当にありがとうございます、と、私はお風呂の中に泣きぬれたのでございます。』

 と、発表されています。

 私も、なんだか感動して、涙が出てきました。

 ありがとうございます。

1758志恩:2012/12/09(日) 16:34:24 ID:.QY5jUA6
復興G様

大変貴重な資料をご提示下さいまして、深謝申し上げます。

『實相研鑽』[第一集](谷口雅春監輯)より
「“無我”の限界について」(S35・7・31)

  
私は、昭和35年は、まだ本部には、おりませんでしたが、
復興G様が、この資料を持っておられたということは、
この頃から『實相研鑽』に出席 出来るほどの幹部でいらしたわけで…。

それにしても、よくこんな古い時代の資料を、保存されてらしたなぁ!!と、おどろくばかりです。

この時のご発言の男性の方々は覚えていないのですが、女性の方々のことは、よく覚えております。


谷口雅春先生の締めくくりのお言葉は、本当に、智慧と愛が溢れていらっしゃる貴重なお言葉だと存じました。

 >>  『すべてのものは善きように働いている』

 谷口雅春  ありがとうございます。皆さんからいろいろ尊い見解を承りまして、だいたい言うべきことは言い終ったように思います。中野愛子さんの非常に反省の深い言葉を承りましたが、
 「自分でこうするとき神様ならこうなさるであろう、と頭ではわかっているけれども、実際には腹が立って変なことを言うこともある」というのはね、“それでいいんです”よ。(笑)

 “それでいい”というのは、それは自分の過去の中にいろいろのレコードがありましてね、仏教的に言うと、業というものがあって、それがある機会にまきもどされて形に現われて消えてゆくんだから、
 それをもう一ぺんつかまえないようにしてですね、“それでいいんだ”と放す。

 黒田輝子さんがおっしゃったようにね、「煩悩の中に溺れているようだけれども、大悲倦くことなく我を照す」というわけで、その煩悩の流動するに従って腹立つ言葉が出てくる。
 そこに大生命の無限の愛があって、自分の業も自然と解消してゆきつつあり、それによってまた相手の業も解消してゆきつつあってですね、

 自然にこの世の中が浄化されてゆきつつあるということになるわけでありましてね。だから腹が立つとか、何とかいうような問題にひっかからないで、“そのままでいいんですよ”という所へ行くところにですね、
 神様の大生命の無限の愛の中に自然と生かされて、常にわれわれは宇宙浄化の働きの中にのっている、ということになると思うんです。

 共産党に憤慨するのも、これも自然と宇宙浄化の働きの中に乗っておりましてね、

 日本精神(顕現)のために大いに公憤するのも、これも真理国家の実現という、実相の正しい相(すがた)を実現するために動き出しているところの一つの神催しの波であります。

 だからそれも“そのままでいいんですよ”ということになるわけですね。

 雷が鳴って雷霆(らいてい)霹靂(へきれき)が空をゆり動かすように見えているけれども、それは宇宙の電気の不調和が中和するために動いているというのと同じようにですね、
“すべてのものは善きように動いておって、悪いものは一つもない”というところへいって、落着きが得られるということになると思うんです。

そうでなければ、途中にひっかかっておれば、反省して反省して反省にくたびれてしまって、自己暗示で劣等感を得て、ますます悪い方へ崩れてゆくのであってですね。
劣等感なしに、宇宙の本当の大自然の浄化作用の中にのっているんだという大安心が「大悲倦くことなく我を照す」ということになるんだと思います。

ありがとうございます。<完> <<

1759SAKURA:2012/12/09(日) 16:46:27 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ  トキ様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>>
SAKURA投稿の続きです。

頂きました【今回のテキスト該当部…】から、個人的ですが…冒頭から順次「勉強・投稿形式」
を、取らせて頂きます…。昨日からの続きですが……

❤  病気の真の感染原因
======生命の実相 2巻から抜粋========================
 病気は物質的感染によっても起こる場合もありますが、その根本原因は、物質的感染を
容易ならしめる薄弱な抵抗力と、その病気の忌まわしい症状を心に描く連想作用とが、病
気感染の有力なる精神的土台を作るのであります。 食中毒を起こして下痢をして赤痢に
なったというがごときは、赤痢菌の感染による場合もありますが、その食事の時「これは
変だ」と思わしめるのがあったか「あまり水を飲みすぎてお腹がじゃぶじゃぶする」とか、
「お腹が冷えた」とかいう感じが病気を連想せしめて、 胃腸の消化作用を弱め、腸内消
毒作用をもつ胆汁の分泌などを少なくし、ついに病菌に打ち勝った抵抗力をなくして病気
を起こすのであります。                 (谷口雅春著)
==========================================

■病気になりますと、必ず!【原因・結果の法則】があるようにも思えます。ので、病気の
原因をつきとめていきますと、必ず!心からの“精神作用”が多大でしょうかと??まれに
【外部要因…】で起こる事も、本当にありますモノ! 私の経験ですが、今!思いますと、
当にそのような事が、度々起きたのです。…が?

■此処で、当時「千葉の行徳在中の頃」の出来事です。そこの“賃貸住居…”で、やはり?
今振り返りますと【水…】に、何か?異物が混入された感じの経験があります。…が?
その時は、知らずに【水…】を使用していましたら“パ−トナ−”は胸にしこり、そして、
私も“出血”が頻繁に起きるようになり、当時の私の潜在意識には【病気はない!!】と
固く〜固く〜信じていました時に〜〜〜エッ!【パ−トナ−のガンの早期発見】でした。

その時、自分の病気の事に“心を振り向ける”よりも、ひたすら“パ−トナ−のガン”に
集中!!の私でした。…が?当時は、まず【祈り…】そして【治る…】これのみを“集中”
していましたら【検査の結果…】2週間後に“ガンが消えて”いましたが、この時、私も
気がつきますと【自分自身の出血も収まり】当に【祈り…】で、全て治ったのです。ややも
しますと“病気”は不安ですが、此処で【 一念集中して祈り…】に徹し、心を振り向ける
のですから、この時こそ【チ ャ ン ス 到 来】なんでしょうかと思います。それは当に!

今!今しか出来ない事を、神様が私に“振り向かせる事”その気づき…頂いたものと!
本当に【心 の 法 則 の 訓 練】なんです〜〜〜ョネ!!

「唯物論的…原因」??その前に、全ては【心の精神作用での病気】言い換えますと、すべて
【自分の心の影…迷い】ですから、必ず“治る事”を信じることが、そしてこの事への
【持続精神作用…】が必要かと思えます。
【病気こそ正しい道徳観念の気づきをもつ“チャンス到来”】と解釈しても良いかと思えます。

■■“言葉の力”で……プラス思考の暗示を続けましょう。そうしますと、必ず!
【無限の宝庫…】があらわれる〜〜〜〜そう!「なんでも出来る!無限力」

最後に、今の私は、この時の“心境”を思い出し【獅子奮迅にて前に進む事!!】でしょうか?
「病気本来無し…」これこそ【無の境地…】でしょうか〜〜〜?

1760志恩:2012/12/09(日) 16:52:49 ID:.QY5jUA6
私は、昔、谷口雅春先生が、
官僚の横暴さや、公人の間違った意見に対して,結構激しく ”憤慨 ”されてるご様子を、お近くで拝見したことがありますので
雅春先生は、あのように憤慨されておられて、お体に障らないものかしら、、と不思議に思っていたことがございましたが、

実際は、憤慨はせず、憤慨の語調をとられたいたという今回の ご発言をして 納得した次第です。


 >>《影はゆれるが跡をとどめず》3

 白山守夫 終戦後しばらくのころでございましたが、神誌に谷口先生が官僚の横暴を非常に攻撃されたような御文章があったのでございます。
 そのとき私は「平和そのものと思っていた先生もやはりそういう攻撃をなさるのか」と思ってお手紙で御質問したわけです。

 そうしたらこういう名文の御返事をいただきました。(手帖に書きとめた原文のままを朗読する)

 「太刀先だけを見てその太刀筋を批評すべからず。憤激はせず、憤慨の語調をとる。虚にして実なり。共産党は何故あんなに拡がるか、官僚に対する憤激の形をとる故なり。
 滔々(とうとう)たる官僚攻撃の波に和する。これ全体に和するなり、和して同ぜず。呵々(かか)」

 私は非常に打たれまして、今でもよく覚えております。
 先ほどの御質問の中の、私事による憤慨や公共的なことに対する憤慨の場合でも、先生のお手紙を拝見しまして憤慨の語調をとるが、腹の底からは怒っていない。つまり

 「風に木の葉がゆらいでゆらいだ影が映っても、影は跡をとどめず」

 そういうように我のない場合には、そういう語調をとったとしても、自分自身がそれにまきこまれない場合は、自分を痛めるということはないという意味のお言葉だと、
 この御文章を非常に尊く、一生忘れんようにと覚えとるわけでございます。<<

1761NANCY:2012/12/09(日) 17:17:53 ID:jH5uEFzM

「復興G 様」 ヘ  「トキ 様」 ヘ  「観覧者の皆 様」 へ
こんばんは……        ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1678 >>1692 >>1718>>1727>>1747>>の投稿の続きです。…が??

>>1732>>1733の【SAKURA様の投稿内容】を、閲覧させて頂きながら…(下記URLにて参照)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1732
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1733
■確かに、家族が病気になった場合は、心配しないということは非常に難しいモノです。…

更に「生命の実相」に雅春先生がおっしゃいました言葉に……(抜粋文)
〜〜〜【抜粋】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『心が一切現象の源であると知ったとき、その心が思うように支配せられたならばなんぼでも
ないが、その心が思うように支配されない時には、心のものがかえって恐怖の種の原因となる
のである。…云々…』
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

つまり、前回の【>>1732>>1733のSAKURA様の投稿】であります処から生じます
“恐怖の種”・“悩みの種”・“不平の種”……etcこの感情ですと何時までも『心の安住…』は、
当に!ほど遠い世界になりますものと、思います。何時も〜何時も〜この「狭い世界」での
堂々巡りとなりますのでしょうか??

■『実相の世界』は、どこでしょうか〜〜〜><
此処で「徳久先生の文章の中から…」一部抜粋させて頂きます。

〜〜〜【抜粋文】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「私は思索を重ね、静思を重ねたけれども安住の境地にはたっしなかった」と書いておられます。
それから、
「ある日、わたしは静坐合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。わたしはその時、
偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の『色即是空』という言葉を思い浮かべた。
と、どこからともなく声が、大濤(おおなみ)のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような
声が聞こえてきた。

『物質はない!!!』とその声は言った」

先生がお悟りを開かれる、「神よりの啓示の最初の言葉」が、「物質はない」であったのです。
生長の家の真理は、この「物質はない」から、はじまっているのです。つづいて
…云々…『色即是空』という言葉をつづいて思い浮かべた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

これは「実相世界…」への『悟り…の言葉』かと、思います。しかしながら、現実の私は、今
現在でも、どうしても「五感での現象世界=現実世界」にどっぷり浸り気味と、反省するのです。
病気の時は、そこに引っかかりの心…又!経済問題・家庭問題・人間関係の問題…etcも同様です。
この事は「現実世界=現象世界」は、最終的には、物事に於きまして振り回される事の原因になり
ますでしょうかと?

つづく

1762志恩:2012/12/09(日) 17:22:01 ID:.QY5jUA6
復興G様

如月様からのご質問でしたけれど、
復興G様は、うつ病について

どのようにご指導をされてますでしょうか?

私の場合は、前にも言いましたが、近所のうつ病の女性2名の
人と友達になって、ただ話を聞いてさしあげるということで、
年数はかかりましたが、その方達は,今は、うつ病は、すっかり消えています。

しかしですね。うつ病の治った女性の1人のおかたに、社会人になったひとり息子さんが居るのですが、
その息子さんが、昨年あたりから、お母さんと同じ様なうつ病にかかりまして、
半年ほど会社へ行かれない状況になりました。

でも、地方公務員なので、クビには、なっていないそうです。
そのような病気の場合は、休んでいても地方公務員の場合は、お給料もちゃんと支給されるそうです。

私は,息子さんの方まで手がまわりません。お母さんには、以前に
生長の家の真理の本を差し上げましたが、その息子さんは,宗教には、全然関心がないようです。

今は、息子さんは、心療内科へ通院してるそうですが、処方してもらった薬が合うとかで、最近ようやく
会社へ行ける様になってきたと、お母さんは、よろこんでいます。

うつになる人は、まじめでやさしいタイプの人が多いと聞きます。
実際に、うちの近所のうつになった奥さんは、2人とも生真面目なタイプです。

宇治の練成会の体験談集をみますと、練成会に参加すると、うつが治ったという人が
多くおられますけれど、生長の家の縁の無い方を、お導きするのは、限界があり、むずかしいなと、
私の場合は思っています。

1763復興G:2012/12/09(日) 17:54:19 ID:vWpLkCzM

>>1756 :「訊け」管理人様
>>1758>>1760 志恩様

ご投稿ありがとうございます。

私はこの実相研鑽会に登場されているすべての方をなつかしく存じ上げていますが、S35.7.31の研鑽会の場に私自身参加していたかどうか、参加していたような気もしますが、記憶は定かではありません。その頃私は光明実践委員になりたてぐらいだったかと思います。『實相研鑽』は単行本として日本教文社から出版されていますから、誰でも買って読むことが出来ます(今品切れでなければの話ですが)。

ともかく、この本は当時の谷口雅春先生と弟子(地方講師・光明実践委員)との丁々発止のやりとりなどが載っていて、貴重な本だと思います。

ありがとうございます。

1764SAKURA:2012/12/09(日) 18:03:00 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ  トキ様 へ  観覧者の皆様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>> 1759>>
【SAKURA投稿】の続きです。

頂きました【今回のテキスト該当部…】から、個人的ですが…冒頭から順次「勉強・投稿形式」
を取らせて頂きます。>>1759続き投稿です。

❤  人類意識と個人の潜在意識との問題
======生命の実相 2巻から抜粋========================
 病気の知識のない子どもには、病気に対する恐怖心などというものはないのであろうに、
病気にかかることがあるのは、病気が決して心の作用によるのではなく、じっさいに物質
的原因で起こる証拠ではないか――という人があるかもしれませんけれども、それは赤ん
坊の「意識」といえども「人類全体の潜在意識の大海原」の中に動いている「一波」なので
あります。したがって無邪気な赤ん坊の意識は「人類全体の病気を信ずる心」の波動に常に
乗せられて動いているのでありますから、親が病気を思わないでも、本人が思わないで赤ん
坊は病気にかかるのであります。そしてまた「こうしたら病気が治る」ということをすれば
病気がなおるのであります。               (谷口雅春著)
==========================================

■前回!記しました様に、本当にそうなのです〜〜〜ョネ!と、改めて思います、
【念の波動…】を、知らずに受け入れる!これは「無意識な状態」での事でしょうか???
「雅春先生」のおっしゃる言葉から❤〜【 「人類全体の潜在意識の大海原」 】これが
【念の波動】なんです〜〜〜ョネ!!そうしますと【 密教 】も、それに当たります。

…が?

【 密教 】とは???実際に“行”じています「黒幕デザイナ−」・「吸血鬼」・「ゾンビ」が、
更に「元々元W会長」達…もでしょうか【密教の対象…】にしています「人?」もしくは
「赤ん坊のような素直な心の人?」へ…… 知らず知らずの内に…【潜在意識…】に入れ込む
【念の波動…】が、あるのです〜〜〜ョネ!!
これを知らずに受けた方は??その人の心の中に【悪感情…ネガティブ感情】がありますと
この念波と同調し“アクシデント”が起きる事となりますでしょうか?? 逆に申しますと
この【悪念波…密教】を受けた方が、これを知って“捕まえない心境”そうなのです〜〜ョネ!

■【放つ心…捕まえない心】が、一番の対処法でしょうか?
「生長の家…現象なし!物質は無い!心も無い!……」従いまして…「無い…の世界」かと。
そして、心が【正しい心境・境地】に入っていきますと、この様な
「人類全体の潜在意識の悪波動」を、つまり受けつけない事になるはずなのです。

そうしますとこのような【環境は心の影という事!!】になります〜〜〜ョネ!!今の私は、
彼等の仕業に、更に!彼らの“心の貧しさ?=低級霊”に、引っかからない様にと…
【無我の心境】として…
【人間としての大きな使命観】をもちまして、前に進む事と・・・でしょうか??
                        
 再合掌

1765復興G:2012/12/09(日) 18:07:18 ID:vWpLkCzM

>>1762 :志恩様

うつ病の方のお導きについて。

私は、重いうつ病の方のご指導をしたことはありません。

「私は神の子、完全円満。これから毎日あらゆる点でいっそうよくなる。必ず善くなる」

私の中に太陽が照り輝く。私は太陽である。

うれしいなあ。たのしいなあ。ありがたいなあ。わあ、笑いましょう」

というような行を毎朝つづける、ということで、重症でなければ健康増進ができていましたから、

重い場合については、わかりません。

1766志恩:2012/12/09(日) 18:08:17 ID:.QY5jUA6
今回は,病気がテーマですが、


「日本のメタボ検診 海外から笑われる」とい記事を読み,私は、考えさせられました。
2012.12.06


 《調査を行なったラッセ・クログスボール医師は、調査結果についてこう述べている。

「検査項目で設定されている「基準値」である。この値は非常にあいまいなものだと多くの医師が声を揃える。

 東海大学医学部名誉教授の大櫛陽一氏がいう。
「ほとんどの健診や人間ドックにおいて、日本の基準値は年齢はおろか性別でさえも分けていない項目が大半です。

20歳の活力に満ちた男性と80歳のおばあさんが同じ基準で判断されるのはどうでしょうか。

 また、科学的な根拠のない基準値を設定している検査項目が多い。それは、各分野の臨床学会が患者数を水増しするために厳しい基準を作っているからです。

そのため、健診受診者のほとんどが異常とされる項目もある。
*********************************************************

特に、メタボ関連の基準値であるウエストや血圧、脂質などは欧米に比べて極端に狭い基準値を使っているので問題です」


 こんなデータがある。日本人間ドック学会が今年8月、昨年に人間ドックを受診した全国の約313万人について、

「異常なし」とされた人の割合が過去最低の7.8%だったと発表した。メタボ関連の項目一つで「正常者が50%」になり、複数の項目を調べることで、

 健康な人の9割以上が何らかの異常と指摘される状況になっている。
******************************************************************
これには同学会さえも「生活習慣病に関する項目の判定基準が厳しくなっている」と頭を抱えたほどだ。》



 また、  中村仁一医師著「大往生したけりゃ 医療とかかわるな」(自然死のすすめ)幻冬舍新書の ご一読もお勧めします。

1767志恩:2012/12/09(日) 18:10:58 ID:.QY5jUA6
復興G様

早速のお返事を、ありがとうございました。合掌

1768NANCY:2012/12/09(日) 18:17:46 ID:jH5uEFzM
「復興G 様」 ヘ  「トキ 様」 ヘ  「観覧者の皆 様」 ヘ
こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1678 >>1692 >>1718>>1727>>1747>>1761>>の投稿の続きです。…が??

>>1732>>1733の【SAKURA様の投稿内容】を、閲覧させて頂きながら…(下記URLにて参照)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1732
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1733
■確かに、家族が病気になった場合は、心配しないということは非常に難しいモノです。…

更に「徳久先生の書籍文章の中から…」続き投稿にて、一部抜粋させて頂きます。

〜〜〜【抜粋文】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
無いよりいっさいを生ず。一切現象は心の所現にして本来無。本来無なるがゆえに、無より
いっさいを生ず。有よりいっさいを生ずと迷うがゆえに、有に執して苦しむのだ。有に執せ
ざれば自由自在だ。供給無限、五つのパンを五千人に分かちてなお余り、『無』より百千億万
を引き出してなお余る。現象界は念のレンズによると見ゆれどもここに無し。知れ、一切現象
無し。なんじの肉体も無し』

では、心はあるであろうかと思うと、その瞬間『心もない!』とその声は言うのだった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この文章の所から『????ない』この事への理解が…この頃ようやく理解しつつでしょうか?

■■「実相」は、「物質は無い」「心も無い」と、「生長の家…御教え」は、説かれています。
この【 無 】ということに、やはり一時は私も“こだわりの心”となりましたでしょうか…!
例えば、病気に例えますと『心』と『肉体』の関係を多々なる観点からみますと…
「雅春先生の言葉」の中にも■【 想像妊娠 】ということに関しての文章があります。
当に【病 気 と い う の は 、 心 が 強 い 影 響 が あ る …】つまり
【心の影である肉体…】となりますかと、思う次第です。こうして参りますと…『ない…無!』を
更に考えますうちに……???

では?心の持ち方で“病気が治る”と捉えますといいのでしょうか??此処で、よく
“病気が治った体験談”を耳にしますが『病気が治る=心が変わる』そこの根本を、良〜〜〜く
認識すべきで、振り返りますと、当然のことながら【心が変われば…病気も治る…体も健康に】
でしょうか?

この事は【SAKURA様の投稿>>1759】 にも該当しますのではと思いました。 (下記URL)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1759

そして『 我 … 無 我 の 境 地 』ではと、解釈するようになったのです。

              つづく

1769観覧車:2012/12/09(日) 18:24:18 ID:onAYWLyc
唱和35年の「実相研鑽」、当時の真剣な信徒の求道問答は色褪せず今も感動します。

触発されて本流掲示板にあった童子さんの阿倍野道場の記事を読んで、息子さんの芳邨一弘弁護士の古いネット講演を思い出しました。

①童子さんの記事:http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=826


日時:2012年12月06日 (木) 02時50分
名前:童子

          ◆芳邨十四喜(よしむらとしき)氏は語る


 『私が四ツ橋道場へ行ったのは十四年頃でした。生長の家が別にいいと思って行ったのとちがうんです。 〃あれは邪教だ〃と思っていました。ところが生長の家に知識層が吸収されて行く。それが私には解せません。それで一つのぞいてやろう思うて、四ツ橋道場へ行きましたわ。


 道場は三階でしてね。昇って行くと丁度寺田先生が指導していなさる最中でした。田舎の村長さんみたいなけったいな人が羽織、袴はいてやってたんですね。その時の指導が面白かったんです。

 三角関係で悩んでいる中年の婦人でした。その御主人が二号さんとアメリカに渡ってしまって食えなくなって、その御主人と海をへだてて争っているのがらちあかん。 それで 〃もう私は玄海灘へはまって死ぬつもりで切符買うているんだ〃と頑張っているんですわ。


 そしたらあの寺田先生は、純情な人ですから頭から汗ぽつぽつと流いて湯気立てながら指導なさる。湯気たててね。

 そのときの寺田先生の指導は、「そのアメリカに行っている主人を拝め」というんです。 そしたらその奥さんは 

 「私がこの手でおがんだら先祖に申訳ない。拝まんならんのは主人や」

 というて寺田先生に喰ってかかるんですよ。 寺田先生は元気にね、「それでも拝むんや!」って、・・・・ 私はそれを聞いていて 〃はあ面白いな、こんな世界もあるのかいな〃 と思って、はじめて‘拝む’ということを私は其処で聞いた。 その奥さんは、

 「私は明日、玄界灘はまって死んで、主人の首にとりついて仇討ちをする」

 その時、明日死ぬというから、私は 〃この人どないなるやろう。女の人ってこわいなあ〃 と思うて聞いておった。 そしたらその奥さんは寺田先生の言うことを聞かないから、先生はとうとう 〃帰れ! 帰れ!〃 とおこりはった。それで奥さん帰ると思ったら帰らんでちゃんと坐っているんですよ。 〃あのおっさん怒らんといいのに、何でまたあんなにきつう怒りはるんやろうな〃 と思っておった。

 翌日ですよ。私は〃もうあの奥さん玄海灘へはまって死んだかいなあ〃と調べに行くこっちゃ・・・・・ それで次の日に又四ツ橋道場へ行って三階へトントンと上がって見たら、昨日の奥さんが来ていなはる。 〃やれ死なないでよかった〃 やはり私の心根は可愛らしいのね(笑声)


 それから五日位したですが、その奥さんが、「こんな遠い日本から手を合わせて拝んでもアメリカに届きますか」と質問したんですよ。寺田先生は「届きます」と言う。私は 〃ああ、あの奥さんの心、随分おさまったんだな〃 と思いました。

 私は根が坊主ですから、郷里の北陸へ帰ってこの教え弘めたらいいなと思いました。この頃になると、別に生長の家は悪いことも教えてないし、邪教だと思ったけども邪教じゃないわという気持になって、これまで土・日曜は漫才に行っておったのをやめて、四ツ橋道場に通ったですよ。


②芳邨弁護士の講話:http://www.sakaerukai.com/houraku/0717yosimura.html

芳邨一弘弁護士の本が出たとき「弁護活動をとおして見た人生の光と影―「維摩経」の心を求めて 」を弟さんからネット愛行して頂きました。

1770志恩:2012/12/09(日) 19:20:50 ID:.QY5jUA6
観覧車様

ご深切に、芳邨一弘弁護士の古いネット講演を貼付して下さいまして、ありがとうございます。
とても見たかったのですが、私のPCは、Windows対応でないので、残念ながら見れないのでした.

私は、AppleコンピュターMac(マック)でして、
これ不便。
今度買い替えるときは、Windows対応のを買おうと思います。


芳邨十四喜(よしむらとしき)氏の息子さんだということですから、お父さん同様に
話術が面白いお方なのでしょうね。。

1771復興G:2012/12/09(日) 19:41:07 ID:vWpLkCzM

 ありがとうございます。
 ここでテキスト第2章の最後の所をアップさせて頂きましょう。

≪テキスト 『生命の實相』 頭注版 第2巻「實相篇 下」より (5)≫

    刺激療法の効果は心の自由を回復するにある

 世間には鍼灸(しんきゅう)療法というものがあって、皮膚の一部を焼いたり刺したりすると病気が治るのであります。それにはその療法が効(き)くという予備的信念を強めるためにいかめしい学説的背景をもった経穴(けいけつ)すなわち灸所(つぼ)というものがあります。近ごろは皮膚の感覚過敏点というものが研究されて来まして、どの内臓の神経はどの皮膚の部分につながっていて、ある内臓が悪いと皮膚のある一定部分の神経が過敏になっている。で、逆にこの部分の皮膚を焼いたり、電気をかけたり、小さな傷をつけたりすると、その刺激で、内臓の作用が興奮されたり鎮静したりするということが研究され、また焼けた肉体の一部は吸収されて自己蛋白体療法となり、自己の抗病力を強めるということも発表されました。

 そういう学説でいかめしく武装されて来ただけこれらの物理療法はいっそう効果を収めるようになったのであります。しかし、いろいろ物理的理由や生理的理由があるにしましてもこれらの療法に効果があるゆえんは、何よりもまず、これらの療法の温熱または疼痛の刺激が病的観念に引っかかっていたわれわれの心を病気の出ている場所から解放するからであります。

---[Page 92]---
 かつて私は西村美亀太郎(みきたろう)博士の眼球温罨法(おんあんぽう)療法で、ほとんどあらゆる病気が治ると主張されている話を紹介しましたが、これはあらゆる病気が博士の主張するように眼から来るからではなく最も感覚の鋭敏な眼の方へ向けて心の注意を転ずるために、その病気と病気の出ている場所とに心がひっかからなくなるからなのであります。

 だから万病を癒す刺激療法は、何も眼球を温罨法で刺激する方法だけには限らない、平田式熱鍼快(ねつしんかい)療術でもほとんどあらゆる病気が治ると主張されているのであります。平田式の治療法をみましても患部の中心区域には決してその熱鍼を当てて刺激しないのでありまして、患部以外の点を刺激する、足のうらとか、首筋とか、後頭部とか、たいていは患部とはできるだけ遠ざかった場所を円錐形の熱い鍼(はり)の尖(さき)で刺激するのであります。

 施法者はむろん「これで病気は治る」と信じつつ施法する、受法者も「これで病気は治る」と信じて治療を受ける。その時の術者の心の態度がいかに患者に波及して影響するかは、「祈りの心、奉仕の心でするほど効果が多い」と創始者平田内蔵吉(くらきち)氏が言明していられるのでもわかるのであって、決して物理的理由ばかりで病気が治るのではありません。

 ともかく、一方には、施法者の強い「治る」という信念の波及で病的観念の根を抜きつつ、他方では病気でない場所を熱い鍼で刺激されるために、今まで患者の病気の局所の辺に低迷し滞っていた心が自由になって、そこから「心」が他へ散ることができるようになる、今まで「心」がそこに凝りかたま
---[Page 93]---
り滞って、病気の極子を養い育てていたのだったが「心」が自由になって、病気の局所に滞っていることを止めるために、もう病気の種子を養い育てる肥料がなくなり、病気はひとりでに自滅せぎるをえなくなるのであります。

 つまり、それが、どんな方法によりましょうとも「心」の自由を回復しさえすれば、病気というものは本来気の滞りが形にあらわれたものでありますから、気の滞りの消滅とともに病気そのものも消滅するのであります。
<つづく>

1772復興G:2012/12/09(日) 19:41:47 ID:vWpLkCzM

≪テキスト 『生命の實相』 頭注版 第2巻「實相篇 下」より (6)≫

    大乗仏教の根本的思想は心の自由を説いている

 では、「気の滞り」はどうしたら消滅さすことができるかという問題に再び帰って来るのであります。

 われわれが何か事物に「心」がとらえられてそこに「心」がひっかかるというのは、感覚に見える「現象世界」の事物を実在だと思っているからそれに執着し、執着するからそこに心がとらえられるのであります。

 毎度申すとおり、感覚で見る世界の事物は実在ではなく影である。影だと知ったならば執着する必要がなくなる。執着しなかったら心がどこにもひっかからない。ひっかからなくなったら「心」は本来の自由を得る。このことは大乗仏教の中心思想として説かれているのでありまして『大般若経第十般若理趣分』には巧みにこれを要約してありますから、その一部を次に読んでみます。

---[Page 94]---
 「一切の法は自性(じしょう)空(くう)なるを以ての故に、自性遠離(おんり)なり。遠離に由るが故に自性寂静(じゃくじょう)なり。寂静に由るが故に自性清浄(しょうじょう)なり。仏かくの如き般若(はんにゃ)の理趣、清浄の法を説き已(おわ)りて金剛手菩薩に告げて言わく、若し、此の甚深微妙(じんじんみみょう)の般若の理趣、清浄の法門を聞くことを得て、深く信受する者あらば、……一切の障礙(しょうげ)皆染(せん)すること能わず、謂(いわ)ゆる煩悩障、業障(ごっしょう)、報障多く積築すと雖も皆染すること能わず。……一切の法に於て皆自在を得て恒(つね)に一切勝妙の喜楽を受けん。」

 つまり、『大般若経』も「生長の家」の説くところも古今の真理は同じでありまして、感覚に映ずるいっさいの現象は空無である、現象が空無であるからその奥に清浄なるものがある、その奥に円満なるものがある、その奥に自在なるものがある。この清浄、円満、自在なるものこそ実在であるからこの真理を信解(しんげ)せよ、受持(じゅじ)せよ、読誦(とくじゅ)せよ、修習(しゅうじゅう)せよ、なんじは自由自在の境地になれるであろう。どんな煩悩障のなかにいても、業障のなかにいても、報障のなかにいても、それに捉えられることはなくなるであろう。つまり、この真理を信じ、理解し、読み、実修したならば今までにどんな悪い悪業があり、どんな悪い因縁があり、どんな悪い障りを作っていようとも、それに煩(わずら)いせられずに自由自在の境地にいることができるというのであります。

---[Page 95]---

   『生長の家』は現代人のために説かれた現代の生きたお経

 むろん『大般若経』を読んでよく解る人はそれをお読みになって実習せられるがよいのであります。真に読み信じ理解し実習せられれば病気が治るばかりでなく、事業などの上にも自由自在の境地に入れるのであります。

 釈迦はこの同じ経の中に「この金剛の法門を聞くことを得て信解受持し、読誦修習するもの有らば一切の事業皆能く成弁し、常に一切の勝事と和して、修行せんと欲する所の一切の勝知、諸々の勝福業、皆速かに円満す」と説いていられるのであります。

 お経は何も職業僧侶ばかりが読むべきものではありません。病人が読んで病気が治り、事業家が読んで自他を成就する最も完全な知恵が湧いて来るところに値打があるのであります。

 キリストは「死せる者に死せる者を葬らせよ」と断然いっていられます。死骸というからっぽにお経を読み聞かすのには生きた僧侶はいらない。生きた人に、生きたお経を読み聞かすのであってこそ、始めて生きた知恵が湧いて来る。病人が聞いたら病気が自然に治る知恵が湧いて来る。事業家が聞いたら事業を建て直す本当の知恵が湧いて来る。それであってこそお経というものが尊い。

 しかし、今の世の中に、「大般若経』を読んでその意味が本当にわかる人は、職業僧侶かその道の専門研究家のほかにはほとんどない。解る人にとっては生きたお経であるが、解らぬ人にとっては
---[Page 96]---
「生きたお経」ということができない。
<つづく>

1773復興G:2012/12/09(日) 19:42:28 ID:vWpLkCzM

≪テキスト 『生命の實相』 頭注版 第2巻「實相篇 下」より (7)≫

 釈迦の住んでいた時代と、われわれの住んでいる時代とは人間の生活状態も異うし人間の知恵も異う。それで説明の仕方や、実例の引き方や、譬喩(たとえ)のたて方も、使う言葉も、変えて来てこそ、現代人に解りやすいお経となって来る。生長の家の本を私が書いている目的は実にそこにあるので、その目的がどの程度まで達せられつつあるかは読者諸氏の知っていられるとおりであります。

 在来、家族中で一等虚弱な繊弱な体格の息子であった人が、生長の家の本を読むようになられてから誰よりも健康な、健康の標本のようになられて、自分よりも数倍体格のよい人たちの数倍も仕事をしても疲れないようになられた方もあります。

 不景気でほとんど皆が皆まで就職を求めて就職難で困っているような時代に、今まで貰っていたサラリーをきれいにさらりと捨てて、独立新開業をする知恵と勇気とが湧き出て来て現在相当にやっていっている人も出ました。

 在来薬迷信にかかっていて一日も薬なしにはいられなかった難治の慢性病患者で『生長の家』数冊を読んで服薬を申止する勇気が出て、たちまちその十数年来の難病から癒された人もあります。

 「果実を見てその樹の良否を知れ」という諺がありますが、今までのところにおいて、「生長の家」の本を信解(しんげ)し読誦(とくじゅ)し実修している方はこれだけの効果を得ていられるのであります。

 「生長の家」の本をわたしが書くのならばあまりに喋々(ちょうちょう)その効果を語ることは気がひけるわけでありますが、これはわたしが書くのではない。わ
---[Page 97]---
たしにインスピレーションを与えて書かしめ導く霊界の神があることを霊眼でチャンと見ている読者も数氏あるのであります。

 わたしは先生ではなく、先生とは天を指さして霊界の神であるというほかはない。よく生長の家の本部の建物はどこだときく人がありますが、わたしが今坐っているここは生長の家本部ではなく「生長の家本部」は霊界にあるのです。

 そしてわたしはただこの霊界の本部の神の啓示を出版する役目を受け持たされているだけですから、雑誌『生長の家』第二集第一号にもわたしのことを「生長の家」の出版部係と書いてあります。住吉在住当時のわたしの宅へお出でになった方はこぞんじでありましょうが、わたしの宅には「生長の家出版部」とのみ標札が出ていた。
 これは霊界にある「生長の家本部」と地上にある出版部とを区別せんがためであった。

 ともかく、わたしは皆さんとともに『生長の家』の一読者として、それを読み、習い、修養して皆さんとともに一歩一歩向上せんと努力している一求道者にすぎないのであります。わたしだって道をはずせば立ちどころにそれが具象化するのであります。

 かくのごとく『生長の家』は単なる人間なるわたしが書くのでないからこそ尊い現代の経典たるを得るゆえんで、読んで病気が治るほどの真理が書けているのであります。聖書やお経も肉体のキリストや釈迦の言葉ではなく神の啓示が、キリストや釈迦の口からほとばしり出たからこそ尊いのであります。「わたしがするのはわたしの業ではない、天の父のなしたまう業だ」と、キリストもこのことを知っていた。

---[Page 98]---
 わたしも今同様のことを感じています。先日も「生長の家」の昭和六年三月例会における誌友の一人の話に、その方がある日、姉の所へ『生長の家』を送ってあげられた。すると、それが姉の留守中に着いたので、その姉の良人がひらいて見て読まれた。その良人といわれる方は本来善い方だが、当時身持ちが乱れていた。その方が『生長の家』をお読みになると、ピッタリとそれ以来不品行をお止めになって、その家庭に和気あいあいたる空気が蘇生(よみがえ)って来たのであります。
 わたしは当時夫婦生活については一度も本文に書いたことがないのにこんな事が起こった。そこに神の書かせ給える神誌『生長の家』の権威が明瞭に出ているのであります。
<完>

1774NANCY:2012/12/09(日) 19:53:36 ID:jH5uEFzM
こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1678 >>1692 >>1718>>1727>>1747>>1761>>1768>>の投稿の続きです。…が??

>>1732>>1733の【SAKURA様の投稿内容】を、閲覧させて頂きながら…(下記URLにて参照)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1732
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1733
■確かに、家族が病気になった場合は、心配しないということは非常に難しいモノです。…

しかも私も良く耳にしますが「生長の家…病気を治す処?」とかいわれますが???この言葉を、
「亡き清超超先生」もそして「徳久先生」もおっしゃつていましたかと……!
この事は、最終的には【 心の持ち方で“病気が治る”と捉えますといいのでしょう】此処では、
“病気が治った体験談”を、その過程経過を冷静に見ますと『病気が治る=心が変わる』そこの
根本を、良〜〜〜く認識すべきで、振り返りますと、当然のことながらですが〜〜〜♫〜〜〜

「生命の実相」の中からの抜粋……
〜〜〜【抜粋文】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「元来「生長の家」は人類の思想中よりその転倒妄想を去らしめ人類生活の全面を光明化せん
我為に出現したので病気治療のみを目的に出現したのではありません。」(一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

そうなのです〜〜〜ョネ!
■【心が変われば…病気も治る…体も健康に】でしょうか?
最終的には【 心 の 持 ち 方! 心 の 法 則】でしょうか??
これは、全ての問題解決の『鍵…心の持ち方』と考えますと、今現在の社会問題も改善出来る…
その様に思えるのです。「ストレスからのうつ病…」とか?「自殺」とか?…でしょうか?

此処で「復興G様」の抜粋文から

〜〜〜【抜粋文】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
■>ですから、「自分はないのである」と自覚したら、おのずから≪われわれの本然の生命の相
(すがた)は無我でありまして、形によってここからここまでが自分だというような、そんな限ら
れた窮屈なものではありません。……大生命――大無我に帰一し、無我本然の状態に立ち還りま
すと、忽然(こつねん)として本来の無限自在さがわれわれの生命に立ち帰って来て病気がなおる
のであります。<
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

今から…此処の“解釈論…”を、【NANCY】 なりに考えて参りたく思います。…が?
■【 自 分 は な い の で あ る!】という“言葉…”に関しまして、更に
>>1737の投稿を、参考にしながら……
                                つづく

1775復興G:2012/12/09(日) 20:05:54 ID:vWpLkCzM

 テキストを拝読してまいりますと、結局、私たち人間は「神の子」であって、本来外なる何ものにも支配されない「心の自由」を持っている。

 その心とは、神の心である。自他の区別をしない、「本来一体」の心である。

 その本来の「心の自由」を得ることが、病気を克服し、運命を支配し、幸福を得る根本である。それが根本真理なのですね。

 ≪われわれが何か事物に「心」がとらえられてそこに「心」がひっかかるというのは、感覚に見える「現象世界」の事物を実在だと思っているからそれに執着し、執着するからそこに心がとらえられるのであります。

 毎度申すとおり、感覚で見る世界の事物は実在ではなく影である。影だと知ったならば執着する必要がなくなる。執着しなかったら心がどこにもひっかからない。ひっかからなくなったら「心」は本来の自由を得る。……≫

 この根本真理を把握して、自由自在な健康幸福生活を送り、この真理を広めて、地上天国を樹立するよう、使命を果たしてまいりましょう。

≪わたしは皆さんとともに『生長の家』の一読者として、それを読み、習い、修養して皆さんとともに一歩一歩向上せんと努力している一求道者にすぎないのであります。わたしだって道をはずせば立ちどころにそれが具象化するのであります。
 かくのごとく『生長の家』は単なる人間なるわたしが書くのでないからこそ尊い現代の経典たるを得るゆえんで、読んで病気が治るほどの真理が書けているのであります。≫

――とのお言葉をかみしめて――。
合掌

1776復興G:2012/12/09(日) 20:11:16 ID:vWpLkCzM

>>1774 :NANCY様

ご投稿、ありがとうございます。
どうぞお続けください。

1777トキ:2012/12/09(日) 20:22:14 ID:XNoBEp5E
 これは私のやり方ですが、生長の家に入る前や、入ってからもしばらくは、暗黒的な思考をしていたので、
鬱病みたいな状態になった事がありました。そこで、つとめて笑うようにしました。声をあげると、さすがに
「危ない人」だと思われるので、心の中で笑っているようにしました。すると、鬱病的な感情は出なくなり
ました。

1778SAKURA:2012/12/09(日) 20:58:18 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ  トキ様 へ  観覧者の皆様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>>1759>>1764
SAKURA投稿の続きです。

頂きました【今回のテキスト該当部…】から、個人的ですが…冒頭から勉強・投稿形式を
取らせて頂きます。(オンリ−・ワン?でしょうか?)

❤  通俗医学書の功罪
======生命の実相 2巻から抜粋========================
 したがってわれわれは人類の病理学的知識がどんなものであるか、治療学的知識がど
んなものであるかを知っておくことはある意味からいって必要なのであります。人類の通
念は、それを現在意識が知ると知らざるとにかかわらず(潜在意識はそれを知っているが
ゆえに)それに触れると害せられ、それに従うとつごうがよくゆくのは、法律はそれを知
ると知らざるとにかかわらず、触れた者は罰せられるようなものであります。だから人類
全体または一地方、一時代の多数人が「これは害がある」とか「こうすると病気にかかる」
というようなことはしないほうが「君子危うきに近寄らず」ということになるのでありま
す。しかしここがむずかしいところでありまして、「これはいかぬ」「これは善い」といろ
いろのことを知りますと、いわゆる「知恵の樹の果」をたべた結果となりまして、生活の一
挙手一投足が戦々競々として、ただこれ、栄養学に、衛生学に、予防医学にかなわざらん
ことを希うことになりますから、常に病気恐怖に心がとらえられ、ちょっとしたことにも
病気を連想し、心に描くものが形にあらわれるという原則にしたがってかえって病気にか
かりやすくなるのであります。            (谷口雅春著)
=========================================

■【知識…】は、知らないより知った方が、いいです〜〜〜ョネ!良く言われます処の
【知らずにします事より、知ってした方が大きなやけどもしません】ですから…そう!!
“知識”を習得しますと、潜在意識に無意識なる“行動”が…“ラクな方”を求めやすい
のカモ…そうしますと【楽々に治る!全てが順調にいく!…】この様になりますでしょうか?

たとえば【金…】をもっていれば、なんでも出来ると、考えやすく、そこから本人の
【自己中心的なる行動…】が生じますでしょうか!【楽〜楽〜〜〜〜♫〜〜】たとえ
不利な状態でもそこに“金”という“ステ−タス”を置いていますと、そこに、その人は
猛進なのです〜〜〜ョネ!!相手の“不幸”とか顧みずと…とりあえずは“表面上”を
つくろう形での“行動”ですかと?

このような人種が「黒幕デザイナ−」と「吸血鬼」「ゾンビ」達…でしょうか???そして
「吸血鬼」「ゾンビ達」は、必ずその言葉の中に似た“表現言葉”で、それは、必ずや
【暴力団…ヤクザ…金…】此の言葉が〜〜〜出てきますネ! これは、ある人に取りネガティブ
感情を与えますモノと…そして、この人に取りましては、相手の感情を“ネガティブな状況へと
催眠状態…に導く手段“でしょうか〜〜〜??

これは先生のおっしゃいますように「君子危うきに近寄らず」に当てはまります。…が?
ですから【正しい知識】は、大事なのです〜〜〜ョネ!!【真理…】を、正しく表現できる
ように今の私は、前に!又一つ…前に!進む過程なのですが???そして、【正しい心の法則】
を知りますと、こような人達と関わる接点も?必要性も?自然と消滅するのです。

皆様は、本当に“悪しき言葉…”は、それだけの【価値観…】だと思います。…が?
■■悪い「知恵の樹の果」食べないことは【日々…の祈り】になるはずです。…が?

                            再合掌

1779志恩:2012/12/09(日) 21:00:23 ID:.QY5jUA6
トキ様

「心の中で笑うんですね」。それはいい方法。 それなら私、得意です。だから、私、病気になりにくいのかも(笑)

笑うと、幸福な時に出るセロトニンの分泌が増え、NK細胞が活性化され、ストレスホルモンであるコーチゾールが減る。

鬱病は、脳のセロトニンの分泌が,過度に無くなるのが原因だと言われていますから、薬も飲まず、自分でセロトニンを作り出せるなんて、
副作用もなく経済的でもあり、いい方法ですよね。

 例え、つくり笑いでも脳が、カンチガイをして脳の血流が増えて脳が活性化し、NK細胞を活性化する刺激となる。
だから、苦しい時でも 悲しい時でも 腹立つ時でも、無理に 笑うことは、心と体のために良い。

ただし、つくり笑いの時は、目と口もとの両方で笑うことが刺激を送るために必要なのだそうです。

良い情報を脳に伝えるために、目の間の(眉間)のしわをとることと、左右対称な笑顔にする事が大切なのだそうです。

 目が上手に笑うと大脳皮質にまで刺激が伝わるのですが、口のみの笑いだと大脳辺縁系のみの伝わりとなるので、
効果が違ってくるのだそうです。
                     o(^-^)o(笑)… o(^-^)o(笑)… o(^-^)o(笑)


 笑いの効果は、2時間だそうですね。2時間ごとに、心の中で笑っていらば、かなりの健康増進に!
鬱病な感情は出なくなるのですよね。

近所の鬱お母さんにも、教えてさしあげようと思いました。

1780志恩:2012/12/09(日) 21:33:24 ID:.QY5jUA6
私が、
叔母さんに生長の家を勧めたときは、叔母さんは、5つくらいあった病気が
奇跡的に消えたのです。

しかし、叔母さんは、70すぎたとき、直腸ガンになって、治療も虚しく
亡くなりました。

ですから、
私は,今の気持ちとしては、病気であっても無くても、、、無いほうが、いいに決まっていますが、
どちらでも、いいような気がしています。

1781志恩:2012/12/09(日) 22:07:02 ID:.QY5jUA6
トキ様

すごいですね。生長の家は…、もう、こてこての「雅宣教」になってますよ。
あちらも、笑いの練習しています。目等さんが、先導して大笑い。
とありました。

 どこにも,創始者である雅春先生の名が,見当たりません. 
          ほんとに病んでますねえ、生長の家は、、、


光明掲示板より
>>偽経の日常化、カルチャー・スクール化が着々と進行していますNEW (4446)
日時:2012年12月09日 (日) 20時59分
名前:唖然

下記引用の本間本部講師のブログを拝見しました。
偽経の日常化、カルチャー・スクール化が着々と進行しています。


2012年11月30日 (金)
秋季大祭に於ける「全国地方講師会長懇談会」


1. 各教区に於ける経本『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』読誦の事例発表
   2. 新刊書『生長の家ってどんな教え?』の活用について
『次世代への決断』『おいしいノーミート 四季の恵み弁当』活用について

3. 新しいタイプの誌友会開催の意義と出講講師の心得について
−−質疑応答・フリートーキング−−
 6.閉会の挨拶                     ………目等 教化・講師部長
7.「新生日本の実現に邁進する祈り」・閉会の祈り     ………本間課長補佐

「開会の祈り」「自然と人間の大調和を観ずる祈り」につづき、

 
 連絡事項の後には、各教区地方講師会からの“自然と共に伸びる運動”推進についての活動報告と意見交換−
 まず、今年度発刊された新経本『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』使用の事例について各教区の講師会長から発表…

教化部での早朝行事や練成会の中で経本『大自然讃歌』及び『観世音菩薩讃歌』を拝読する時間を設けているとの報告がありました。
埼玉教区の講師会長からは、練成会の行事の中では、自ら率先して「経本」の先導を担当しているとの報告もありました。

 また、地方講師・光明実践委員研修会において、開会・閉会時に「自然と人間の大調和を観ずる祈り」・
「新生日本の実現に邁進する祈り」を拝読すると共に、研修会の中で『大自然讃歌』や『観世音菩薩讃歌』を拝読して、
神・自然・人間の大調和せる世界を実現する意義を全講師が噛みしめながら…

 更に、新刊書の活用については、『次世代への決断』や『おいしいノーミート 四季の恵み弁当』をはじめ、
特に、今秋季大祭において発刊された総裁先生の新刊書『生長の家ってどんな教え?』は、
地方講師・光明実践委員研修会や受験勉強会に於けるテキストとして十分活用し、

 
意見交換の後に、目等教化・講師部長による「閉会の挨拶」ということで、目等部長先導による「笑いの練習」が行われ、
                                  :********************

楽しい嬉しい大笑いの「閉会の挨拶−懇談会−」となりました。

 大笑いの「閉会の挨拶」の後に…
※懇談会の後、会場となった顕斎殿(龍宮殿控室)で「記念写真」を撮りました。
まだ目等部長先導の“大笑い”の余韻がつづいていました。<<
*************************

1782さくら:2012/12/09(日) 22:18:20 ID:e8ieIrPA
閉会の祈りの前に失礼します…、

もうパソコンを閉じてしまうので、お礼だけ置かせて頂きます。

復興G様

いつも、信仰の原点に立ち返らせて頂き、心より感謝いたします。
今回もまた、大きな気づきと指針を与えて頂きました。
ご指導ありがとうございました。


ご参加の皆様
生長の家の皆様

いつも、愛深い気づきを頂き、もう一度、わたしを「生長の家」に導いて下さり、ありがとうございます。


本当に、皆様のおかげです。


ありがとうございます。


礼拝

1783復興G:2012/12/09(日) 23:04:50 ID:vWpLkCzM

皆さま、ありがとうございます。

11時を過ぎ、閉会時刻が迫りましたので、ひとつ、聖経『続真理の吟唱』より、祈りの言葉を掲載させていただきます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

    われら“誠”を生きるための祈り
        (聖経『続真理の吟唱』より)

 “誠”とは「成る言(ことば)」と書くのである。自己に宿る神の至上命令たる“言(ことば)”を生きることを“誠を尽くす”というのである。その“言”とは、『ヨハネ伝』福音書には「はじめに言あり、言は神とともにあり、コトバは神なりき。よろずのもの是(これ)に由(よ)りて成り、成りたるものにひとつとして是に由らで成りたるはなし。これに生命(いのち)あり」と示されていて、更につづいて「この生命は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る。而して暗黒は之を悟らざりき」と示されているのである。

 ここに「暗黒(くらき)」とあるのは肉体を指していうのである。神の生命が肉体に宿って、肉体に生命を与え給い、見る力、聴く力、知る力、味わう力、創造する力等を与え給うて、肉体を生かして居たまうのである。それなのに、肉体はその内部にある聖なる生命の光に気がつかずして、肉体それみずからの力によって生きているかの如く錯覚していて、内なる光を見ることができないのである。それゆえに“誠”が生活にあらわれないのである。聖書はこれを「暗黒(くらき)」と名づけているのである。

 しかし肉体が生きているのは、内に輝いている神の生命の光に照らされ導かれ生理作用を営んでいるのである。そしてその光はイエス・キリストだけに宿っているのではない。だから「もろもろの人を照らす真(まこと)の光ありて、世にきたれり」と聖書は録(しる)しているのである。

 「世」とは「世界」のことであるが、「肉体」も一つの世界であるのである。ところが暗黒なる此の物質の世界は、もろもろの人を照らす真(まこと)の光ありて「世」に来り、その光は「世」に在り、「世」はその光に由りて成りたるに、「世」はこれを知らなかった。それゆえに聖書はこれを歎いて「かれは己(おのれ)の国にきたりしに、己の民は之を受けざり」と書いているのである。

 けれどもこの光を素直に受けて、自分を生かしているのは物質ではない、肉体ではない、自分を生かしている光は神の生命であると悟った者は――という意味で「されど之を受けし者、即ちその名を信ぜし者には“神の子”となる権を与え給えり」と『ヨハネ伝』は書いているのである。「名」というのは「はじめに言(ことば)あり」のコトバであって、万物及び人間生命の由って来る本質又は実相である。自分の生命の本質は“神のいのち”である。其の実相を知ったとき、人は“神の子”たる権を与えられているのである。

 「言(ことば)は肉体となりて我らの中(うち)に宿り給えり」われら即ちすべての人間に言(ことば)は宿っていて、それが仮に肉体の姿をあらわしているのである。この実相を知っても知らないでも本来人間は“神の子”であるけれども、それを知らない間は“神の子”たる権を行使することはできない、一種の放浪者であり、迷い児であるのである。彼は虚仮(こけ)不実の仮存在であって「誠あることなし」である。

 人が誠実に生きるとは“単に真剣に生きる”ということではなく、人間の本質であるところの実相すなわち“神の子”の自覚に基づいて生きることなのである。われらこの真理を悟り得たるは神の導きにほかならず、神に感謝し奉る。ありがとうございます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

1784NANCY:2012/12/09(日) 23:05:55 ID:jH5uEFzM
「復興G 様」 ヘ  「トキ 様」 ヘ  「観覧者の皆 様」 へ
こんばんは……        ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1678>>1692>>1718>>1727>>1747>>1761>>1768>>1774の投稿の続きです。…が??

先程の>>1774の投稿の中からですが……
〜〜〜【抜粋文】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
■>ですから、「自分はないのである」と自覚したら、おのずから≪われわれの本然の生命の相
(すがた)は無我でありまして、形によってここからここまでが自分だというような、そんな限ら
れた窮屈なものではありません。……大生命――大無我に帰一し、無我本然の状態に立ち還りま
すと、忽然(こつねん)として本来の無限自在さがわれわれの生命に立ち帰って来て病気がなおる
のであります。<
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

此処に、思いますには、
■>…云々…「自分はないのである」…云々…形によってここからここまでが自分だというような、
そんな限られた窮屈なものではありません<
ここの『自分はないのである』という処に、正直申しますと“引っかかり”でしょうか……

先ず!「生長の家」…で説かれています処の「雅春先生の言葉」の中から……

■>『「物質は無い!」「病気は無い」と、この「無い」ということをさとるのは、名人の階級に
属するものである、とハッキリ説いておられます。…』<   (抜粋文)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私もこの“無い…”の言葉には何時も?引っかかり、下記の「雅春先生の言葉」の中から……
要約と理解が〜〜〜しつつでしょうか?

                           つづく

1785NANCY:2012/12/09(日) 23:07:55 ID:jH5uEFzM

こんばんは……        ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1678>>1692>>1718>>1727>>1747>>1761>>1768>>1774>>1784>>の投稿の続きです。…が??

下記の「雅春先生の言葉」の中から……要約と理解が〜〜〜しつつなのでしょうか?

〜〜〜【抜粋文】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「『生長の家で物質は無い、現象界は蜃気楼のように心の影にすぎない』と申しますのは理論や
理屈でそう言うのではなく、実際真理において『物質は無い』から無いと言うのであります。
実相から観て現象は映像(えいぞう)であるから映像(かげ)であるというのであります。その
ほかに別に理屈はないのであります。むろん聖典『生命の実相』の中にはてん大の筆を揮って
物質の無い理論が詳しく書いてあります。しかしそれは実相の悟りに導くためにそう書いてある
だけでありまして、理論がこうだから『物質は無い』と結論するのではありません。理論は、
真実の悟りに導く方便として後から造ったものであって、理論より先に『物質は無い』という
真理がり、その真理の啓示を解りやすく納得させるために理論を説いているのであります。
だからその真理に権威があって、読んで信じる人の心に『生命の実相』を悟らせ、自由自在
の心境に達せしめ、その副作用として医術難治の固執でもズンズン治る例がたくさんあるので
あります」                    (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

■つまり『無い…』この“言葉…”なのですが〜〜〜
これは『真理に於きまして「無い…」という事と、「生命の実相」を拝読します内に、後日、
私自身知ることになりました。そうです〜〜〜ョネ!
❤〜『真理…心の持ち方…心の法則』というべきなのでしょうかと?

そうしますと「肉体」はあると思いがちですが【甘露の法雨…】の中にあります処の
“五感の世界を去って…云々…”といいます様に、現実世界から【実相世界…】へと入ります。
そこは自由自在なる…世界!!当然のことながら、そうしますと「肉体も無い!」という事に
なりますでしょうか……??
当に【 “こころ”次第で、自由自在 】という事でしょうか……!今回 思いましたのは
“病気”というものは、一つの現象世界での『迷いから生じます…“心”』から生まれます
モノであり、ということは『迷い…』を無くしますと、当然“病気も消える事”になりますで
しょうかと。

では『迷い…』は、思いますに“対象の事物”に対して、自分自身の“我・我欲”にて、思う
ようにならず、ある面では『 誇示・執着…etc 』がするが故に、生じますのでしょう。
ですから【 無…無我の境地 】をどこまで、この現実界での人間として出しきるかという事
でしょうか……?
【自 我 を 死 に き る べ し ……! 無 我 の 境 地】

■■従いまして『 正 し い 心 の 法 則 』を駆使します事は、
全てが…【実現可能…思考の実現】なのでしょうかと思います。……「肉体なし」「病無し」!!!
                               
再合掌

1786復興G:2012/12/09(日) 23:29:14 ID:vWpLkCzM

NANCY様

最後までご投稿、ありがとうございます。
これからも、引き続きこの道を究めてまいりましょう。


閉会の時刻が近づきました。

この第9回web誌友会、管理人トキ様の絶大なご支援ご協力をはじめ、皆々さまのご参加、ご愛念をいただきまして、有意義に行われましたことを、心より感謝申し上げます。

>>1775で申し上げましたことを、もう一度結びの言葉として掲げさせて頂きます。

 今回のテキストを拝読しますと、結局、私たち人間は「神の子」であって、本来外なる何ものにも支配されない「心の自由」を持っている。

 その心とは、神の心である。自他の区別をしない、「本来一体」の心である。

 その本来の「心の自由」を得ることが、病気を克服し、運命を支配し、幸福を得る根本である。それが根本真理なのですね。

 ≪われわれが何か事物に「心」がとらえられてそこに「心」がひっかかるというのは、感覚に見える「現象世界」の事物を実在だと思っているからそれに執着し、執着するからそこに心がとらえられるのであります。
 毎度申すとおり、感覚で見る世界の事物は実在ではなく影である。影だと知ったならば執着する必要がなくなる。執着しなかったら心がどこにもひっかからない。ひっかからなくなったら「心」は本来の自由を得る。……≫
(テキストより)

 この根本真理を把握して、自由自在な健康幸福生活を送り、この真理を広めて、地上天国を樹立するよう、使命を果たしてまいりましょう。

≪わたしは皆さんとともに『生長の家』の一読者として、それを読み、習い、修養して皆さんとともに一歩一歩向上せんと努力している一求道者にすぎないのであります。わたしだって道をはずせば立ちどころにそれが具象化するのであります。
 かくのごとく『生長の家』は単なる人間なるわたしが書くのでないからこそ尊い現代の経典たるを得るゆえんで、読んで病気が治るほどの真理が書けているのであります。≫(テキストの最終部分)

――とのお言葉をかみしめて――。


では、最後に世界平和の祈りをさせていただきます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

◇◇◇世界平和の祈り◇◇◇
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い
すべての人々の心に、愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。

◇◇◇光明思念の歌◇◇◇
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ありがとうございました。

1787トキ:2012/12/09(日) 23:44:50 ID:XNoBEp5E
復興G 様

 ご多忙の中、長時間に渡り素晴らしいご指導を賜り、深く感謝申し上げます。
この誌友会に参加された方々はもちろん、閲覧者様にも意義の深い内容だったと思います。

 本当に、ありがとうございました。

合掌 ありがとうございます

1788トキ:2012/12/10(月) 00:00:40 ID:XNoBEp5E
 また、参加者の皆様、閲覧者様にも、心から感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

1789志恩:2012/12/10(月) 07:55:26 ID:.QY5jUA6
復興G様、トキ様、

ご指導を感謝申し上げます。合掌

1790a hope:2012/12/10(月) 08:22:42 ID:ueIDSztA
復興Gさま、トキさま、ご参加下さったみなさま、

素晴らしい誌友会をありがとうございました。
今回は時間的余裕があまりなく、なかなか参加できませんでしたが大変お勉強させていただいています。
まだすべて拝見していないので、これからしっかり拝見したいです。

また、『本流対策室』板では、復興Gさまが、<<生長の家教団 戦後60年の運動 その光と影>>として、
を、執筆して下さっています。

わたしは、聖典「生命の實相」に魂を揺さぶられ、数年前に信徒になったばかりの新人で、
生長の家の歴史についてはほとんど知りませんでした。

ですから、なせ、万教帰一の教えである「生長の家」がこのように分裂してしまっているのか、不思議でしかたありませんでしたが、
『本流対策室』板の復興Gさまの書き込みや、他の先輩方のお話を伺っていると、だんだんその理由もわかってくるような気がします。


わたしの現在の感想ですが、わたしたち信徒一人ひとりが、>>1783で復興Gさまがおっしゃっている、

>>結局、私たち人間は「神の子」であって、本来外なる何ものにも支配されない「心の自由」を持っている。
>>その心とは、神の心である。自他の区別をしない、「本来一体」の心である。
>>その本来の「心の自由」を得ることが、病気を克服し、運命を支配し、幸福を得る根本である。それが根本真理なのですね。

この、「生長の家」の根本原理をしっかりと理解していさえすれば、分裂など起こり得なかったのではないかと感じました。


『わたしは「神の子」だから、なにものにも支配されないぞ!
わたしの運命はわたしが支配するのだ!
だから、もう、だれのせいにもしないぞ!』

わたしは、復興Gさまのお言葉が心に響き、そんな風に決意しました。

感謝 合掌

1791a hope:2012/12/10(月) 09:22:48 ID:ueIDSztA
>>1790訂正

>>1783で復興Gさまが→>>1786で復興Gさまが
②この、「生長の家」の根本原理→この、「生長の家」の根本真理

1792復興G:2012/12/10(月) 11:14:04 ID:vWpLkCzM

さくら様、トキ様、志恩様、a hope様、皆々さま

コメント、ありがとうございました。

さくら様が聖典引用板に謹写アップしてくださいました、「萬教歸一の藭示」に

≪われは大いなるものなるかな。すべての教を呑吐(どんと)して、これに生命を與へ、すべての相争ふ教をその眞髄に於て握手せしめる。吾れはすべてを包容し、すべてに光を與へ、すべてに栄養を與へ、すべてを生かす地下水である。他の如何なる宗教をも誹(そし)らず批(う)たず、常に讃事(たたえごと)と、善き言葉とを雨ふらして、それを浄めその眞髄に燈(ひ)を点ずる。あらゆる宗教がその眞髄を禮拝して手をつなぐやうにならねば此の現實世界の改造は完成せぬ。精藭界が先で現實界はその影である、元亂れて影完からず、宗教家よ、宗派争ひをしてゐる時ではない。≫

とある神示に、あらためて感じ入ります。

「元乱れて影完からず」

――この「元」にしっかりと立ち還らねば、生長の家出現の意味はなくなります。

合掌

1793SAKURA:2012/12/10(月) 21:29:09 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ  トキ様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>>1759>>1764
>>1778【SAKURA投稿…】の続きです。

■■>>1735「復興G様」 ヘ
こんばんは…… 
今年、最後の【WEB 誌友会…開催】に、於きまして、参加させて頂きました事、感謝申し
上げます。此処に、挨拶が、大変遅くなりました事、深くお詫び申し上げます。

そして>>1735「復興G 様の“ お返事”」…ありがとうございました。
遅くなりましたが…閲覧させて頂きまして、
「脳震盪の方」は、高いところから落ちて「脳震盪…」を起こすようになったそうで、更に
それが“きっかけ”での【てんかんの発作…】が起きるようになったとの事なのですネ…そして、
「親の愛…深い愛」で、その後!治ったとの事……素敵な【体験談…】を、ありがとうございます。
本当に【 親 の 愛 の 想 念 感 情 の 波 動】が…きっと
「神の御心」に叶いましたのでしょか?その事は、本当に人ごとではなく“良かった〜〜〜!”かと。

■さて!私の場合は、まだ異なるケ−スになりますでしょうか?
世間一般での“誤解…”が、常に感じるモノがあります。それは……
【聴 覚 障 者 と 身 体 障 害 者 の 開 き】この事は、聴覚障害団体の知人でも
常日頃から感じます問題であり、かなりの隔たりがあると思います。…が? どうしても、一般
の健常者の皆様は【身体障害…】と言いますと、必ずや【目に見える形での障害…】という観念
の捉え方が一般的傾向かと思えます。知人でも、この様な考えが、今日の日本人の大半では、な
いのでしょうか?と、良く話題にします事柄です。正直な話!まったく異なります…。
ましてや、
姿・形として【障害に見えない場合の中途聴覚障害…】には…世間一般からの冷ややかな“視線”
を、常日頃から感じ取ります。何といっても「聴覚障害」は【人間関係…コミュニケ−ション】に
於きまして、人の接触が限定されますし、この事は、もちろん【視覚障害者…】も同様です…。あ
る時は、【視覚障害団体…】の所に、個人的にボランティアに参加した事もあります…。そして、
この方達も含め“仕事”も限定されますので、やっ〜〜〜と!自力にて得た“職種”でも、
「黒幕デザイナ−」「吸血鬼」「ゾンビ」からの【 妨 害 】更に??そうです〜〜〜ネ!
「信者同志…でも?」例えば?「元々元W白鳩教区会長の妨害」は、【ある面は信仰者の道】に
反するモノと思います。

正直、今回本当に【分派…学ぶ会】の方々の参加での(常日頃)投稿内容でも、このような体験
に関し、だれ一人として“声…”をかけられない状況の現実…この事は【信仰…真理】の前に、
世間一般では、第三者的には【人格…】を見ますでしょうかと…?個人的に思った次第です…。
今回、改めて、これでは、例え【生長の家…真理】という“素晴らしい真理でありますところの
❤〜【 「生命の実相」の討論…… 】どこまでの【ネットでの閲覧者…】されました方々がの
心に、どの様に響くのでしょうか?【救 済】に関しては、弱冠“不安な気分”が生じますので
は無いでしょうか??

個人的には【WEB誌友会…】参加に当たりましては、常日頃から、思いますのは、
【迷い・悩み…ある方々】を、この素晴らしいい【生命哲学…】のお導きしたい…という根本から
【分派…云々…】の前に【生長の家…雅春先生の真理を学んだ?学んでいる?者同志…】での、
仲間意識として、あくまでも【討論…】という形の“参加”が私の“基本的考え方”なのです。

まだまだ若輩者の私ですので…【復興G様】から頂きました【テキスト該当部…】に関し、
冒頭からの選択にて、初めての方が閲覧でしたらと【私なりの引用…】を、させて頂きました。
また!テキスト該当部に関しまして“勉強続行…”させて頂きます…。やはり、私自身は、
【キ−ボ−ドで打つ…この事は、脳裏にしっかりと入り込みますでしょうかと???】それにて
スロ−・テンポ…なのです。

最後に、今年の春先より「復興G様」からの【勉強テキスト…】を頂きました事は、
私の【真理…勉強】を極めていきます過程に於きましては、多大な価値ある機会を頂きましたと、
此処で改めまして、深くい感謝の念をと。。。思います。本当に、ありがとうございます……。
今後とも、若輩者の私ですが、何卒よろしくお願い申し上げます。

                       再合掌

1794SAKURA:2012/12/10(月) 21:30:39 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>>1759>>1764
>>1778【SAKURA投稿…】の続きです。

■「トキ様」…遅くなりましたが、今回の【WEB誌友会…参加】させて頂きました事に、感謝申し
上げます。ありがとうございました…。

後で、今回の【WEB誌友会…投稿内容】を、見直しますと、確かに?もしかしますと?
一人!!【SAKURA暴走…】してるのかしら〜〜〜ンと??? (冷汗…)

今回の【討論課題…】が、“テキストの最後のペ−ジ”からでしたので、個人的な判断にて
(私の【WEB誌友会…参加】する際の基本的な考えを、「復興G様 宛へ」記載させて頂きましたが)
私は、やはり“テキスト冒頭部である最初からの方が理解しやすいのでは〜〜><”と言った感じで、
「復興G様の配慮の言葉…」に、甘えまして“ペ−ジ”を進めていきました。そうしながら〜〜と、
それでも、追いつかなくって〜〜〜><気がつきますと、【中途半端…】のような感でしょうか??

後に、また【続き投稿…】をさせて頂きます。…が?(ズウズウし〜〜〜く!)【ウサギではなく亀】

■「トキ様」の“コメント…”より、遅くなりましたが…
>>1777の投稿内容から
【心を一点にして切り替えますと“うつ病”が消えましたのです〜〜〜ョネ!今の私も、さすがに、
神経質では??と思われるくらい「吸血鬼」・「ゾンビ」…そして「黒幕…」の執拗さは、計り知れない
気持ちです。従いまして、みたくないモノを、見ていく内に、そこに「かなしばりのような生活の日々」
でしたかと??当に【暗黒世界…暗やみ〜〜〜どっぷり??】でしたかと。
ところが、これが、今回!【真面目に最初からキ−・ボ−ドで先生の言葉を打って投稿】しますうちに
……私も、本当の意味での【 こ こ ろ の 法 則 】が、見えてきたようです。
「トキ様」ように“笑う事が少ない私…”ですが〜〜〜><「トキ様」をお手本に、私も、
モット!モット!【心を開いて…心を光明化…】していこうと思います。ありがとうございます。
                                   再合掌

1795復興G:2012/12/11(火) 16:54:22 ID:vWpLkCzM

>>1793 :SAKURA様

丁寧なご投稿、ありがとうございました。

『生命の實相』第22巻「聖語篇」≪智慧の言葉≫に、次のような聖語があります。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

○名騎手はかえって駄馬をも乗りこなそうと試みる。ことさらに乗りこなせない病弱な肉体を選んでその肉体に宿って来た「生命」がある。生まれつきの不具者、難病者の「生命」はそれである。

○皆のものよ、不具者と難病者の「生命」をいっそう尊べ、彼の「生命」は名騎手であるから、特にかかる不便利な肉体に乗っているのである。彼を軽蔑するな。憐れむのさえ、名騎手たる彼の「生命」に対しては失敬である。その「生命」の悲壮美に驚異せよ。讃嘆せよ。

○不具者よ、不治の難病者よ。病苦に耐えよ。よき乗馬(肉体)をもっている人を羨むな。他を呪うな。自己の「生命」が特に名騎手であるから病弱な乗馬(肉体)に乗っていることに自信をもて。弱い音(ね)を吐くな。名騎手たる自己の(生命)を恥ずかしめるな。

○一つの「生命」は地上なる肉体を選んで這入(はい)ってくるとき、その受くべき苦しみをあらかじめ知りながらその肉体に宿ってくる。受苦の多き生命ほど「高速」の進化をとげる。

○飛行機は高速であるから歩くより震動は激しい。高速に進化する「生命」よ。歩く者の震動の少なきを羨むな。速力の迅(はや)きを見て喜べ。

――『生命の實相』第22巻「聖語篇」≪智慧の言葉≫より――

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

清川妙さんという、91歳の文筆家・古典研究家がいらっしゃいます。今も、毎月3つの雑誌に連載ものを執筆し、今年も2冊の新刊書を出されています。
『つらい時、いつも古典に救われた』と、
『91歳の人生塾』の2冊です。

そのほか、毎月3ヵ所の古典教室に講師として出講されています(その一つに谷口純子先生も通っておられるそうです)。

さて、その清川妙先生の息子さんが、完全に音の世界から遮断された「聾(ろう)」でした。でも、親と子の想像を絶する努力で、結局早稲田大学を卒業し、すばらしく充実した幸せな人生を送られることになったのです。
そのお話を、ご紹介しましょう。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

清川妙先生は昭和20年8月の終戦3日目、生後3ヵ月の赤ちゃんだった息子さんとともに、復員兵などがすし詰めのすさまじい列車に乗った。一人の兵隊が網棚から荷物を下ろそうとした時、汽車が大きく揺れて急停車。網棚から、鉄砲を3、4本布で巻いた固い包みが、眠っていた赤子の頭上に落ちた。それが原因だと思われる。成長しても、周囲の音に何も反応しないことがわかってきた。

近所の子はどんどんしゃべることばが増えて行くのに、わが子は「ング、ング、ング」と言うばかり。
清川さんは、涙と、絶望と焦慮と、そしてよその子に対する嫉妬に明け暮れた。
<つづく>

1796復興G:2012/12/11(火) 16:55:09 ID:vWpLkCzM

<つづき>
――清川さんの「聞こえない葦」という手記より――

 その地の日赤に連れていった日、耳鼻科の医長から
 「ろう学校に入れるのですね」
 と止(とど)めをさされたとき、私の悩みはくっきりと輪郭を持った。私は春嵐の町を、一史(息子さん)を抱いて夢遊病者のように帰っていった日のことを、忘れることはできない。

 この子の耳は、ただの飾りに過ぎないのか。思いなしか、耳たぶの肉も薄く、不幸そうな耳。私にはその耳が、線の切れた電灯のような気がしてくるのだった。

 もしもそんな手術が許されるならば、私は、自分の耳を、耳の神経を一史にやりたい。音のない、これからの長い一生。世間から、一人前にも扱われず、日陰の草のように弱々しく生きるかもしれぬ一生を、これからわが子が持とうとするのか。

 愛情深い結婚をした私ども夫婦の、最初の子。限りない愛情を注いでやまぬ祖父母の最初の孫なのに、一史は、どうして、そんな運命を背負わなくてはならないのだろう。

 どの子もどの子もみな聞こえるのに……。

 私は、よその子供が皆しゃべることができるのが、不思議でたまらなかった。はだしの足を泥まみれにしながら、嬉々としてしゃべり散らして、遊ぶ子供たち。私は道ばたにたたずんでそれを聞く。耳の聞こえる子が、また、その親が、たまらなく羨ましい。

 私の心には索漠(さくばく)とした風が吹く。私の顔からは生気が失せた。呆けたように目をすえ、思いはいつもひとつところを堂々巡りしていた。

 「一史は耳が聞こえないのだ」という、抜きさしならぬ事実。この足かせはどうしても取れぬ。泣いたって、わめいたって。

 私は、耳に栓をしてみる。音は、地虫のようなかそけさに変わり、まるで真空のなかにいるようなたよりなさ。一史は、一生この空白のなかで生きなければならぬ。鳥の声も虫の音も、人の声も音楽も、劇も映画も、すべての美しい物音も、なんだって聞こえはしない。

 音の闇のなかで、一生、手さぐりで生きていかなければならぬ一史よ。

 一史は、けげんな顔で私を見守り、真似して自分も耳を押さえるのだった。

 私の目には涙があふれ、一史のひなたくさい髪も、まるい頬も見えなくなった。

 ――以上は、清川さんの「聞こえない葦」という手記より――


そんなとき、ラジオで聞いた 盲聾唖三重苦の聖女 ヘレン・ケラーの

 「ありがとう、ありがとう」

 という、少ししわがれた、しかしはっきりした声が、生々しく胸に飛び込んできた。

  「ありがとう」とラジオにききしヘレン・ケラーの声よ一日(ひとひ)の耳朶(じだ)をはなれず

と、清川さんは歌に詠んだ。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

――清川さんの「聞こえない葦」という手記より――

 耳が不自由であっても、唇を読み取ることによって人の話もわかるし、また、上手な忍耐強い訓練によって、発声もできるようになるということを、私は前から、本のうえでは知っていたが、現実に、ろうの人の声を聞いたのは、これがはじめて。

 私は揺さぶられた。

 「よし、負けないでやってみよう」

 けっして、一史を人生の敗者にはしたくない。……
<つづく>

1797復興G:2012/12/11(火) 16:56:02 ID:vWpLkCzM

<つづき>

 ――清川さんは、当時山口県の山口市にお住まいでご夫婦ともに高校の教師をしていらっしゃいましたが、息子さんを人生の勝利者にする、幸せな人生を送らせるための最高の教育をしてやろうと、千葉県市川市国府台の東京教育大学附属聾学校が日本で一番進んだ聾(ろう)教育をしていると聞き、一家あげて国府台に移り住んで、必死の努力をされるのです。

 「聾教育は、底なしのつるべで水を汲むようなもので、根気が要りますよ」と、聾学校の校長さんから言われる。
 底のないつるべでは、水を汲み上げようとしても、ほとんど水は上がってこない。それでも、一滴ぐらいはつるべに着いて上がってくるだろう。その水のひとしずく、ひとしずくをためていこう、と覚悟をきめて。

 結果、息子さんは聾学校から早稲田大学に進学し、ろう学校の先生になった。生徒たちに限りない愛情を注ぎながら、歴史を教えた。恋をし、すばらしい伴侶も得た。幼いころから夢中だった中世城郭の研究を続け、仲間とともに「忘れられた城下町を歩く会」という同好会活動もおこなっていた。まわりのみんなに愛され、充実した、幸せな人生を過ごしていた。平成7年(1995)膵臓癌のため49歳で亡くなるその日まで。

 その間、清川さんは、

≪私がもの書きになったきっかけは、ひとつの記事だった。
 長男で耳の不自由だった一史が描いたお城の絵を、ある新聞の記者の方がごらんになって、耳の不自由な息子をどう育てたか知りたいと取材にいらした。その記事は、地方版、そして全国版に大きく掲載された。昭和32年(1957)のことだった。
 記事が掲載された十日後、ある婦人雑誌の記者の方から、息子を育てた経験を手記にして書いてみないかという依頼が来た。
 私はその手記を心をこめて書いた。60枚の原稿を1週間で書きあげた。
 『聞こえない葦』と題したその手記を、編集者はほめてくださった。
 「この人は、ものを書いて生きていける人じゃないかと、編集長が言っていました」
 そのひと言が私の支えとなった。それから3年間、書きたい、という気持ちが積もりに積もった私は、あの日の編集者に電話して会い、そこから縁をつないでいただいて、ライターとしての生活をスタートさせたのだった。≫

 ということになったのでした。それで、

 ≪一史の病気の正体が膵臓がんで、余命は月計算だと、医師から告げられたとき、私がまず思ったのは、彼のいのちの灯の尽きる最後の最後まで、しあわせにしてやりたいということだった。
 私は、一史の妻である千恵子さんに言った。
 「一史は、子供のときには、家族のみんなから愛されて育ち、結婚してからは、あなたといういい妻を持ち、学校時代も職場でも、たくさんのいい友だちを持ちました。最後のときが来たいま、愛しきり、愛しぬいて、一史を送ってちょうだい」
 千恵子さんは、その言葉をみごとに完了した。一史の妹の茉莉子もまた、看病に加わり、ふたりのすばらしいバトンタッチのおかげで、一史はしあわせな最後の日々を得た。
 死に顔は澄んで美しかった。私はその顔の上に涙をこぼし、こう言った。

 「一史、いい人生だったね。充実した人生だったね。」
 「そして、私も、あなたに育てられて、こうして今も幸せな、充実した人生を送らせてもらっているのよ。ありがとう。」

 今も私のなかに生きている一史に向かって、私はその言葉を繕り返している。≫

1798復興G:2012/12/11(火) 16:59:53 ID:vWpLkCzM

×繕り返している → ○繰り返している

1799復興G:2012/12/11(火) 17:43:33 ID:vWpLkCzM

>>1793:SAKURA様。

>>“仕事”も限定されますので、やっ〜〜〜と!自力にて得た“職種”でも、「黒幕デザイナ−」「吸血鬼」「ゾンビ」からの【 妨 害 】更に??そうです〜〜〜ネ!「信者同志…でも?」例えば?……<<

――>>「吸血鬼」「ゾンビ」<< なんて、そんなものは「ない」のですよ。

あなたは、聖経『甘露の法雨』を読んでいらっしゃいますか。

読み方が足りないのではありませんか。

上記のようなことを書かれる時間があったら、もっと『甘露の法雨』をお読みください。聖経『甘露の法雨』には

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

神は遍在する実質且つ創造主なるが故に
善のみ唯一の力、
善のみ唯一の生命、
善のみ唯一の実在、
されば善ならざる力は決して在ることなし、
善ならざる生命も決して在ることなし、
善ならざる実在も亦決して在ることなし、
善ならざる力即ち不幸を来す力は畢竟悪夢に過ぎず。
善ならざる生命即ち病は畢竟悪夢に過ぎず。
すべての不調和不完全は畢竟悪夢に過ぎず。
病気、不幸、不調和、不完全に積極的力を与えたるは吾らの悪夢にして、
吾らが夢中に悪魔に圧えられて苦しめども
覚めて観れば現実に何ら吾らを圧える力はなく
吾と吾が心にて胸を圧えいるが如し。
まことや、悪の力、
吾らの生命を抑える力、
吾らを苦しむる力は
真に客観的に実在する力にはあらず。
吾が心がみずから描きし夢によって
吾と吾が心を苦しむるに過ぎず。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 と書かれているではありませんか。

 「吸血鬼」「ゾンビ」なんて、そんなものは実在ではない、妄想ですよ。妄想のことなど、二度と言わないでください。
 合掌

1800「訊け」管理人:2012/12/11(火) 17:57:12 ID:???

>>復興Gさま

 素晴らしいお話をありがとうございました。さて、以前投稿した拙文を再掲致します。
話題は、「支援学校の野球部が快進撃」というものであります。


(信仰体験板より再掲)

27:「訊け」管理人 2011/07/27(水) 11:28:24

BGM
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&amp;v=xbmhCC_ygss

 最近感動した話です。我が田舎の中学校野球大会にて、なんと支援学校(障害児)の野球部がベスト4に入りました。

延岡ととろ聴覚支援学校野球部、ベスト4へ!
http://www1.ocn.ne.jp/~miyatiku/jhs/jhs62ken/jhs62ken/jhs62ken.html

 なんかこう・・・なんというのか、普通こんなこと、有り得ないと思います。なにせ我が田舎の野球部ですけど、結構レベルが高いんですよね。あ
あ、そんな中で彼らですけど、「よくやったなあ」と涙が出てきます。やはり神の子、無限力ですね。

補足

 まず野球ですけどね、聴覚障害のある子たちが「どうやって飛球を処理するのか」不思議なんですよね。

 あの「カキーン」という金属音で、だいたいの捕球位置を算出するわけなんですけど、彼ら、どうやったんだろう・・・もう、尋常の集中力でもない
限り、無理だと思います。

 そして、件の延岡ととろ聴覚支援学校ですけど、云うまでもなく全員が「聴覚障害の子」とのことです。グランドでの指示も手話だったとかで・
・・いやーホント、強豪揃いの宮崎県大会でよく、ベスト4に入ったものだ!一度、指導者の方に会ってみたいなあ。そして『生命の實相』を献本してみましょうかね(笑)そしたら「全国制覇」したりして(笑)

 でも本当によくやったよなあ・・・ものすごく感動してます。他の障害者の励みになって欲しいですね。

(終了)

◆追記◆


○肉体のハンディを克服した青年
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/52473288.html

<ダイジェスト>

 そして幼いとき、不具になって扱いにくい肉体になるような乗馬に乗っているのは、〝神の生命〟であって、〝神の子〟のうちでも高級霊なのだと知らされたのでした。つまり不具の体という扱いにくい乗馬に乗っても、ひとに劣らず人生の競争に耐えて行くためには、その乗り手である「人間の魂」がよほど勉強をし、注意をし、勇気を奮い起こし、努力しなければならない。そのような努力の中から魂の進歩が得られてくるのである。

(『真理入門25章』197頁より)

1801復興G:2012/12/11(火) 18:41:33 ID:vWpLkCzM

ありがとうございます。

1802SAKURA:2012/12/11(火) 20:10:54 ID:jH5uEFzM
復興G様 へ トキ様 へ 観覧者の皆様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>>1759>>1764
>>1778>>1793>>1794>>【SAKURA投稿…】の続きです。

■「復興G様」からの“お返事…”ありがとうございます…。…ですが??  (その1)
                   
■いろんな方が、いろんな方、改めていらっしゃいますのですかと…本当に、御自身が現実!その身に
なってみないと理解が出来ないのでしょうかと……??

特に>>1799の投稿内容にて
更に【妄想…】という感覚での捉え方でありますかとの…云々…その様な“考え方”と理解しました。
この件ですが、此処まで実際投稿します事を、躊躇しましたが、再三【警察…】に話をもっていって
おります…。尚「警察本部…」まで行った事もあります…。後は…いつか“投稿”するか“ブログ”
で…!その様な考えが、私自身にはあります。…が?しかしながら、この件は【事実…】であり、
しかも「タタキ男」の件は、他にも深い〜深い〜因果関係が、あります。

■尚!!【タタキ男】というこの定義ですが、記載したりなかったのでしょうか……?
もう一度明記しますが、この事は専門的になりますが「アイロン」をします時に使用します【棒…】
そうです〜〜〜ネ【厚みが2.5センチぐらい!長さが20センチぐらいの…板】で、頭部を一撃です…。
当に【一瞬時の出来事…】ですから…出血!!尚!直ぐ様病院に行きましたが、当時の“カルテ”は、
直ぐさま【隠ぺい工作…】でした。他にもこの事に関しての事が〜〜〜これが原因での、
現在の■【中途障害…突発性難聴】の存在なのです。

■この事も【妄想…】と“解釈論”になりますのでしょうか〜〜〜??変です〜〜ネ!

この事を、詳細に、此処にて“投稿”しますと…私自身の個人的な“プライバシ−”にもなり
ますので……いずれ「タタキ男…」の件は、「裁判…」になりますでしょうかと…。
風の便りでは……【分派側…に入会】しているとの“うわさ話“も〜〜〜チラホラ〜〜〜

■私の使命感は「服飾をとしての光明化」であり…今の私は「うらやむ!妬む!」感情は、
全くありません。当然の事ながら、知人の「中途聴覚障害者」も、むしろ自分自身の「仕事」に対して
の前向きの気持ちがありますから、そちらの方への意志・信念が強いのです。そして、同様な考え方が、
私自身の仲間の考え方の根本です…。あくまでも…健常者と対等論としての“仕事”をする認識が…

ですから、【視覚障害者へのボランティア】も同じ人間・ハンディ−がありましても【仕事】という、
前向きなる姿勢を、持っております…。かなりの狭められました「仕事内容」にはなります。…が?

■例えば…【老人病聴覚障害…】を、例に取りますと、当然の事ながら、その状況下になるまでは、正常
であり、ある事情からか“聴力の低下”となります。その場合、過去の聴力と比較しますと、そこに
当然の事ながら【葛藤】が、生じますでしょう。ですから、此処に投稿されていらっしゃいます皆様も
ある“きっかけ”からの【聴力喪失】は、今やあり得ないとは断言できません…。
その時に於けます、御自身の“感情…”は、単に、此処で一部抜粋させて頂きますが……
>>1795【病苦に耐えよ。人をうらやむな。…云々…】この事を、果たして100%思わないという感情の
持主なのです〜〜〜かと!多少は、その瞬間は、マイナス感情が生じますモノと、思いますが…。

では、そうでないという事でしたら、今までの“他のボ−ド投稿内容…”には、当に!当に!
【神の子としての自覚】の【慈 愛 あ る 言 葉】ばかりでしたのでしょうか???
それは【相手の賛嘆を少しでも言葉として表現】されましたのでしょうか……?

  つづく

1803SAKURA:2012/12/11(火) 20:13:23 ID:jH5uEFzM
復興G様 へ トキ様 へ 観覧者の皆様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>>1759>>1764
>>1778>>1793>>1794>>1802>>【SAKURA投稿…】の続きです。

>>1802投稿の続きですが…… (その2)

私が閲覧させて頂く限りには【分派…特に「学ぶ会」…】の方々の言動は、“疑問視”ですかと…?
あくまでも【WEB誌友会…】の投稿は>>1793に記載していますところの考えが私の基本の考えです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1793 (参照URL…)

今回「生命の実相」抜粋を、ピック・アップして頂きまして、誠に感謝申し上げます。
■■但し、人それぞれの【捉え方…抜粋箇所】ですから、その時の心情として、つまり……
現時点での「復興G様」自身の日頃からの【身障者への考え方】と受け止めました…。
改めて、そこでその人の【人 格 論】になりますでしょうかと……認識する事となりました。

尚!「生命の実相」の中に記載さ荒れています「雅春先生の文章」は、知っておりますが〜〜〜!
更には【甘露の法雨…】も、私なりに読誦させていただいております次第です。…が??

                                   再合掌

1804如月:2012/12/12(水) 08:35:28 ID:ki/haAjk
復興Gさま トキ管理人さま 

このたびの誌友会での御指導ありがとうございました。
最後まで参加できなくて申し訳ありませんでした。

また、ご参加下さった皆様のおかげで、新たに気付かせていただいた事も多く
充実した誌友会でした。ありがとうございました。

開会のあとに謹写させていただいた真理の吟唱があまりにもミスが多く雅春先生にも
読んでいただいた皆様にも申し訳なくて、修正版を載せると供に、深くお詫びを申し上げます。

1805如月:2012/12/12(水) 08:36:10 ID:ki/haAjk
聖経『続 真理の吟唱』より、「愛の絶対価値を高揚する祈り」

★★★愛の絶対価値を高揚する祈り★★★

今ここにわれは生きているのである。”生きている”とは何と神秘なることであろうか。
わたしが生きているということは、決して物質の機械がここに動いているということではないのである。
考える力が生きているということである。
愛する力が生きているということである。
知る力が生きているということである。
よろずのものと調和し、調和せざるものを排出し、矛盾を克服し、混乱を鎮定し、更に一層大なる
価値を生み出す不思議なる力が生きているということである。

 私は今、この不思議なる偉大なる力を尊敬し礼拝するのである。
私が今此処に生きているということは、この不思議なる神秘力が生きているということである。
この神秘力を私は”神”として讃えるのである。

それは物質の光がなくとも見ることが出来る力である。
それは電灯も、何の灯明もない胃腸の中で、食物として摂取した色々の成分を分類し、選択し
必要なるものを吸収し、不必要なるものを外に送り出すところの、それは見ずして見る力であるのである。

 私が今此処に生きているということは、この不思議なる神秘力が生きているということである。
物質の力は、物質的法則と、化学式に従って機械的に動いて行くに過ぎないが、この神秘力は
物理化学の法則を利用しながら進んで行くが、自由意志を備えていて、法則をのり越えて
新たなる独特の個性ある価値を創造する力である。

それは、他の人とは異なる個性ある血液型をつくる力であり、個性ある指紋をつくる力であり
一点一画を描いても、その”点”にも”線”にも個性を示す不思議な力であるのである。

 単なる物質は個性のない類型をつくるが、生命は単なる類型をつくることは決してないのである。
人間は絶対者の個性的表現であるから、よく似た顔をしているようだが、悉く個性の異なる
顔貌を備えているのである。
一本の樹木の単純な葉ですらも、一枚一枚個性の異なる葉脈をその葉の上に描くのである。
それは類型がないから、他に似たものによって代換えすることが出来ない。
その一つが減ずることは、かけ換えのない絶対勝ちが一つ減ることになるのである。

 生命の神秘、不可思議なる価値は、そのかけ換えのない絶対なる創造力に存するのである。
その一つすらも減ずることは絶対価値が減ずることに成るのであるが、絶対価値は、絶対であるが故に
減ずることも減することもあり得ないのである。
減じたり滅したりするものは、すべて相対価値のものばかりである。

貯金として貯えられたる貨幣の価値は、相対価値であるが故に、物価との相対的比較上
減って行くのである。
しかし人間が誰かを”愛”したという”愛”は絶対価値であるが故に、その”愛”は永遠に
滅することも減ずることもないのである。

 日本国民が国家を愛して国家を護るために戦った。
その”戦い”という行為は、対手(あいて)があり相対的なものであるから、立場立場の異なる
人々によってその価値・不価値を色々に評価されるけれども、その”戦い”という相対的行為の
奥にあるところの日本国民が天皇を愛し大日本帝国を愛したというその純忠なる”愛”の
価値は相対的比較を絶した絶対なるものであるから、肉体をいう相対的存在が滅びても
永遠にその”愛”の価値が滅びることはないのである。
純粋の愛は、絶対者に属し、絶対界より出でたるものであるが故に
それは永遠の価値をもっていて滅びることはないのである。

1806如月:2012/12/12(水) 09:02:32 ID:ki/haAjk
SAKURAさま

今回もSAKURAさまがご参加して下さって、とても有意義な誌友会になりました。
心から感謝申し上げます。

このWEB誌友会に、多くの人が参加して欲しかったので、前回あたりから個人個人に話しかけない方が
多くの人が参加しやすいのかなぁなんて考え始め、今回は意識して指導者の方以外にはお声をかけないように
していました。

唯一、訊け管理人さんにだけ話しかけたのは、訊けさんに対して神の子さんが嫌味を言われた事に
対する抵抗のつもりでした。
一般の誌友会などは、誰でも大歓迎、君は来て君は帰れなんて誌友会を私は知りません。
だからWEB誌友会でも同じようにしたかったのです。

SAKURAさまは初めから順番通りに投稿されて、私は尊敬していました。
私はマイペースで投稿してしまい、テキストを置いてくださった復興Gさまに申し訳ないなぁと思いながら
会場を見ると、SAKURAさまがきちんとテキストを使ってくださっていて救われました。

1807如月:2012/12/12(水) 09:26:31 ID:ki/haAjk
>>1724でSAKURAさまのお母様の老人ホームでのお話ですが、以前この関連の仕事を
していたとき、ある婦人が突如まったく喋ってくれなくなった事を思い出しました。

一人のスタッフだけは信用していて、誰もいない場所で『自分は神の化身に見張られていて喋ったら殺すと
言われている』と打ち明けたのですが、どう考えても薬の影響なので、お医者さんに相談して
ある薬を無くしたところ、いつもの明るいご婦人に戻られたのです。

薬ってこわいですねー

ちょっと出ますので、またのちほど

1808復興G:2012/12/12(水) 09:43:30 ID:vWpLkCzM

如月様。

貴女の深い、深い愛の心に、心から感謝をささげます。


SAKURA様。

ありがとうございます。

少しきついことを申し上げましたが、貴女がもう一歩、もう一段飛び上がって

幸福をつかまれますようにと願ってのことでした。

おゆるしください。

ありがとうございます。合掌

1809SAKURA:2012/12/12(水) 21:03:37 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>>1759>>1764
>>1778>>1793>>1794>>1802>>1803>>【SAKURA投稿…】の続きです

>>1808の「復興G様」のお返事…こちらこそ、御丁寧にありがとうございました…。

正直申しますと…現在の私の心境は、何よりも思いますには、私の場合に於いての例えですが…
【聴覚障害…生まれながらの方、及び、中途聴覚障害…】の方のこの2のタイプに於きましての
精神的【葛藤…】〜〜〜それでなくとも、度々の言葉?となりましょうか……
「タタキ男」「ゾンビ達」そして『黒幕デザイナ−』……この執拗なる私どもへの【執着…】が、
私どもにとりましては、この“ 現実世界=現象世界 ”に於きましての【壁…】であり、
この事が、潜在意識に忘れた頃に又目の前に…出てくる!この繰り返しが〜〜〜><現在も!

■どんな時でも「生命の実相」に於きまいての【雅春先生の真理の言葉…】が如何に心の支えかと?
今回は、ことのほか、長い間の心の支えとなっていますかと?痛感した次第です…。

今年『復興G様』からの「生命の実相」の“テキスト該当部”にて、個人的に勉強をさせていた
だく機会(スロ−テンポですが……)を、春先より頂きました事は、本年度に於きましての、
私自身にとりましては大きく「人生の舵とり」の上で、多くの価値を、頂く機会となりましたかと。

❤〜ありがとうございます…。 今後とも、何卒よろしくお願い申し上げます…。

                                  再合掌

PS;今回の“お言葉”は、ちょっぴり“キツ〜〜〜イ!”感が〜〜〜 ><
それでも、それを跳ね返すぐらいの意志力・認識にて【私の使命…】を、邁進していきたいと…
今年も残り少ない日々と…“冬将軍にて、寒さが厳し〜〜〜イ!昨今かと…”くれぐれも体調には、
お気を付けられます様に…そして御活躍を、心から【お祈り…】申し上げます…。

1810SAKURA:2012/12/12(水) 21:05:53 ID:jH5uEFzM
如月様 ヘ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>>1759>>1764
>>1778>>1793>>1794>>1802>>1803>>1809【SAKURA投稿…】の続きです

>>1806>>1807の「如月様」の言葉…お返事を頂きました事に、感謝申し上げます…。

■話は変わりますが…大変御無沙汰致しております…。事情も私なりに理解させて……。処で、
何時も、私自身は“如月様の投稿文章…”から、楽しく〜!心安らぐモノ〜!を、その“念波”
と申しますか?頂いておりまして、その事は、私にとり“再エネルギ−・パワ−源”かと。?
今回、お忙しそうで、そういう時に、私宛てに“お返事”頂きまして、ましてや……
私自身は【今回の復興G様…テキスト該当部】を、冒頭から順次、私なりの捉え方で投稿させ
て頂き、その事の感想を頂きました事に〜〜〜(冷汗)なのです。【吾輩は…若輩者ですモノ】

今年を振り返り【WEB誌友会…】にて、この「2チャンネルのネット世界」にて、この様に多少
なりとも「コミュニケ−ション…機会」を頂きました事に、深く感謝申し上げます…。“感謝!”

尚!時節柄、寒さ厳しくなって参りますが、体調にはくれぐれも、お気をつけられます事【お祈り】
申し上げます…。何時も“ホット〜〜♫〜〜暖かな言葉…”…ありがとうございます…。

                                    再合掌
PS:
この様に、寒さが厳しくなりますと〜〜〜【風邪??】
余談ですが…本当に“くすり…”は怖いです〜〜〜ョネ!❤〜【クスリ…は?リスクが大かと…】
やはり【 “真理のクスリ”…が、最高に“無限治癒力”でしょうか〜〜〜 (微笑) 】

1811runるん:2012/12/23(日) 10:18:09 ID:pic01rm6
SAKURA様

**尚!!【タタキ男】というこの定義ですが、記載したりなかったのでしょうか……?
**もう一度明記しますが、この事は専門的になりますが「アイロン」をします時に使用します【棒…】
**そうです〜〜〜ネ【厚みが2.5センチぐらい!長さが20センチぐらいの…板】で、頭部を一撃です…。
**当に【一瞬時の出来事…】ですから…出血!!尚!直ぐ様病院に行きましたが、当時の“カルテ”は、
**直ぐさま【隠ぺい工作…】でした。他にもこの事に関しての事が〜〜〜これが原因での、
**現在の■【中途障害…突発性難聴】の存在なのです


そ、そんなひどい事をされたのですか??訴えられましたか?同僚に?でしょうか?

ひどい奴です!!その男は今どうしてるのでしょうか?のうのうとお気楽に生きてたら許せない気分です!!

お苦しかったでしょうね。障害が残らなかったら「忘れることもできるでしょうが・・・」残ったら・・・中々・・簡単に「無」

と断ち切れるものではない・・ですよね。

1812神の子さん:2012/12/24(月) 23:32:57 ID:???

>「タタキ男」「ゾンビ達」そして『黒幕デザイナ−』……

「生長の家」なのに・・・何故?

1813神の子さん:2012/12/25(火) 00:24:57 ID:3Dk63Vjg
波長が合うんでしょ?

1814runるん:2012/12/25(火) 07:36:47 ID:pic01rm6
復興G様

1799を見ないで、1811を書き込みました。



ただ、sakura様は耳に障害が残られたので、その相手の男性にゾンビ男というのも無理ないかなと、

思いました。

でも、sakura様にも、申し訳ありませんでした。

復興G様  常に実相を観られてること、ほんとにすごいです。私はやはり、壁にぶちあたると

「現象にとらわれてしまいます」

ほんとに、難しいです・・・ね。ダメですね。

あの、結果的にいやみな書き込みをになった感じで申し訳ありませんでした。

1815復興G:2012/12/31(月) 20:56:25 ID:vWpLkCzM

トキ様
皆々さま

合掌 ありがとうございます。

現象界は有為転変いろいろあった2012年、平成24年ももうあと残す時間はわずかとなりました。

しかし、私たちの生命は神のいのち、久遠不滅の生命です。
この久遠生命の真理、生命の実相を学ぶWEB誌友会を、今去ろうとしている21012年、ここで皆様とともに9回にわたり学ばせて頂きました。ありがとうございました。

また来たる年も、よろしくお願い申し上げます。

1月は、第2金曜日からですと11日からになりますが、それだと私は12日(土)と13日(日)夜の2回、予定された行事があって、日曜日大詰めの時に不在となります。

その次の週、18日(金)から20日(日)ならば、20日午前中にはリアルの誌友会予定がありますが、あとは特に行事は予定されていませんので、私の都合はその方がよろしいのですが、いかがいたしましょうか、皆さまのご意見を伺って決めたいと思います。

よろしくお願い申し上げます。

よいお正月をお迎えください。

合掌 拝

1816復興G:2012/12/31(月) 21:17:40 ID:vWpLkCzM

なお、上記1月の第10回web誌友会でテキストは、『生命の實相』頭注版第2巻のつづきで、第3章はp.99〜115(17頁分)、第4章はp.116〜138(23頁分)で、合わせて40頁文ですから、第3章および第4章をテキストとするのが適当かと思われますが、いかがでしょうか、このこともご意見を伺いたく存じます。よろしくお願い申し上げます。

1817トキ:2012/12/31(月) 21:19:20 ID:FptI/wKI
復興G様

 今年1年、すばらしいご指導を賜り、心から御礼を申しあげます。
復興G様のおかげで、こちらを閲覧されている方々も、もちろん私も、深く真理について
学ぶ事ができました。本当にありがとうございました。

 もとより、ご指導にあたられる復興G様のご都合が最優先だと思っています。

 私個人は、復興G様のご提案には、何も異論はありません。

 では、来年もよろしくお願いいたします。良いお年を御過ごし下さい。

合掌 ありがとうございます

管理人 敬白

1818SAKURA:2012/12/31(月) 21:46:45 ID:bhGD4phA
runるん 様 へ

はじめまして……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
大変遅くなりましたが【runるん様の>>1811>>1814】を閲覧させて頂きながら……

■【やさし〜〜〜イ!言葉】に、感謝申し上げます…。実は、此処では、この様な“言葉…”を、
頂いたことがありませんでしたので?正直申しますと…躊躇致しました。本当に【感謝…】です。
何時か?何処かで?【タタキ男…】この私の人生に於きましての【汚点…】は、ブログでも?此処に
てでも“アバウト的に投稿”させて頂きますでしょうかと。

■はっきり申しますと【洗脳…マインド・コントロ−ル】されていたと、今では確信しております。
つまり【バカ!!バカ!!…親もバカ!!親もバカ!!】という事で、自分自身の【思考すら喪失】
状態でしたかと。当時は20代の前半にて、今にして思えば?その様に云えますかと。

最後に、此処の投稿者の中で「タタキ男??」と思う様な文体があるのですが〜〜〜?その事も、
いずれ【確信…】が出来ますでしょうか?

最後に【今年最後の…やさしい“言葉…”は、神様からのプレゼント】と、投稿を閲覧させて
頂きました時に、思った次第です。

■【 良い年の瀬…そして…良い“お年”を、お迎え下さいますよう「お祈り」申し上げます。…】
                                 再合掌

1819SAKURA:2012/12/31(月) 22:00:37 ID:bhGD4phA
復興G様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今年も〜〜〜“あと数時間”となりました。…が??早いモノで、今年春先から【WEB誌友会】に、
参加させて頂き…更に【復興G様…】の毎回に於けます【テキスト…】本当に、振り返りますと、
自分自身でもそれなりの【真理…掴む機会】を、頂きましたかと。この一年間は“意義ある年”かと。
此処にて、改めまして、深く感謝申し上げます。ありがとうございました…。

■最後に“良い年の瀬…そして…良い年をお迎えされます事を、心より「お祈り…」申し上げます。

再合掌

1820トキ:2012/12/31(月) 23:04:10 ID:FptI/wKI
runるん様

 ご投稿、ありがとうございます。

 楽しいご文章で、読むのが待ち遠しいです。
来年もぜひ、ご投稿をお願いします。

合掌 ありがとうございます

1821a hope:2013/01/07(月) 07:57:57 ID:E6WSUXC.
>>1815>>1816 復興Gさま

昨年は、一昨年に続き、web誌友会などで、たくさんの真理を教えていただきありがとうございました。

掲示板というのは、本当に不思議な世界ですね。
現実でありながら、夢をみているようなそんな空間で、お互いに何の素性もわからない同士が交流を深めていくのですから…

ですが、「人間は物質ではない」わけですから、このような物質人間の相手が見えない場所であっても、
魂の交流は深まっていくのだなぁと感じています。

web誌友会も、もう第10回を迎えるのですね!

真の「生長の家の教え」を勉強したいわたしにとって、この掲示板は大切な場所です。
なぜなら、管理人のトキさまは、どなたも排除なさらない、
そして、生長の家の教えで最も大切な真理である「和解」を決して忘れることがない素晴らしい生長の家人だからです。

第10回web誌友会ですが、その週末は、毎日仕事や他の用事が入っていて、少し落ち着きませんが、
自分のペースで、参加させていただきたいと思っています。

復興Gさま、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

1822a hope:2013/01/07(月) 08:06:28 ID:E6WSUXC.

掲示板をご覧のわたしの愛する「生長の家」のみなさま

谷口雅春先生の弟子であり、「生長の家」人であるわたしたちは、今、何をすべきなのでしょうか?
忘れかけていましたが、このweb誌友会の大きなテーマは、「一人ひとりの法燈継承」です。

わたしは最近、立ち向かう相手が現象においてどんな姿をしていようとも、
自分がしっかりと「生長の家の教え」を理解さえしていれば、そんな姿は現実ではないのですから、
まったく気にならなくなるような気がしてきましたよ。

わたしは、今年もこの掲示板で、真の「生長の家の教え」を学ばせていただくつもりです。
みなさまと一緒にここでお勉強できて a hopeはとても幸せです。

今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。

1823a hope:2013/01/07(月) 08:52:57 ID:E6WSUXC.
補足

>>1821>>1822において、わたしは真の「生長の家の教え」と表現させていただきました。
以前「真」と言葉を使うのはやめようと思いましたが、
やはり、「生長の家の教え」は、生長の家の大神さまから谷口雅春先生に天下った真理以外はわたしには考えられず、
それ以外の「虚説」はわたしには受け入れがたいので、あえて真の「生長の家の教え」と表現させていただきました。
わたしは、「虚説」は現象世界にはあると思いますが、闇は光を当てれば消えてしまうように、
「虚説」も「真説」をあてれば消えてしまうものだと信じています。

1824復興G:2013/01/09(水) 11:31:16 ID:vWpLkCzM

>>1817 :トキ様
>>1819 :SAKURA様
>>1821 :a hope様

そして皆々さま

ご無沙汰をお詫び申し上げます。
しばらくPCから離れておりました。PCの不調もありました。

遅れましたが
あけましておめでとうございます。

本年も、光明一元の真理=神の光をすべての人に送る神の子の使命を生ききってまいりましょう。

1月、第10回web誌友会は

1月18日(金)21:30から
1月20日(日)23:30まで

テキストは
『生命の實相』頭注版第2巻 第3章および第4章をテキストとさせて頂きます。<第3章p.99〜115(17頁分)、第4章はp.116〜138(23頁分)合わせて40頁文です>

私も、20日(日)は午前と午後2つの予定行事が入りましたので、20日の日中は不在となりますが、夜には戻って来ることができます。

では皆さま、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

1825復興G:2013/01/09(水) 11:55:09 ID:vWpLkCzM

 合掌 ありがとうございます。
 新年に当たり、「実相世界の現象化」のためにはどうすればよいかを、古事記神話の天之岩戸開きの項から、谷口雅春先生がまとめて教えて下さっていますことを。掲げさせて頂きましょう。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

≪『古事記と現代の預言』 谷口雅春先生著より≫

日の大神である天照大御神が天之岩屋戸(あまのいわやど)にお隠れになったために世界が暗黒化してしまったのを、再びこの世に天照大御神を喚招(かんしょう)し奉って、この世を光明化するための行事

一、常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を啼(な)かす。
(常住不変の実相世界の真理を宣布する――「ココケッコー、今ここ天国」と歌う)

二、鏡を作りて中枝(なかつえ)に繋(か)ける。
(現象的あらわれを心の鏡として、自己反省して心を改める)

三、弥栄(やさか)の真輝珠(まがたま)を作りて、それを上枝(ほつえ)に繋(か)ける。
(実相世界はすべての魂が真に輝いていて美しく、各々の魂は孤立分離していないで、一つの玉の緒)によって統一された大調和の世界であることを観ずる)

四、実相世界の真栄木(まさかき)を根こじにこじて現象界に移植する。
(現象が如何に暗黒に見えていてもその暗黒を見ないで、実相の根元世界の光明遍照の有様をジッと観ずる)

五、白和幣(しろにぎて)、青和幣(あおにぎて)を作って下枝(しずえ)につける。
(人に接するに、必ず和顔愛語の布をもって柔らかく包んで接する)

六、太御幣(ふとみてぐら)を奉祀(ほうし)して祝詞(のりと)をあげる。
(�`大生命�a及び祖先の生命をお祀りして聖経または祝福の祭文を読誦する)

七、天手力男神(あめのたぢからおのかみ)をして待ちもうけさせる。
(機会をはずさず断行の決意をする)

八、天之日影(あめのひかげ)を手次(たすき)にかけ、天之真斥(あめのまさかさき)を鬘(かずら)として、天香山(あめのかぐやま)の小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結(ゆ)いて、天之岩屋戸に汗気伏(うけふ)せる。――アメノウズメノミコト
(心を空しく、雑念妄想を無くして、心が裸になって、神のお導きを待つ)

九、蹈みとどろかし、神懸(かみがか)りする。
(いよいよ、神霊来臨したまい、何を為すべきかを指示し給う。その指示のまにまに、自然に行動する――アメノウズメノミコトは無我になって裸おどりをなさる)

十、八百万(やおよろず)の神共に咲(わら)いき。
(暗い表情を棄てて、既にあたかも光明が輝き出たのを悦ぶ如く、明るい笑顔をもって行動する)

――以上、谷口雅春先生『古事記と現代の預言』より――

1826トキ:2013/01/09(水) 11:57:59 ID:pFigj4Ss
復興G様

 謹んで、新年のご挨拶を申しあげます。

 昨年はすばらしいご指導を賜り、ありがとうございました。

 今年が、本当の意味での和解の元年になりますよう、精進をいたしますので、
なにとぞ、ご指導、ご鞭撻のほど、お願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

1827復興G:2013/01/09(水) 12:07:53 ID:vWpLkCzM

   一月一日 (千家尊福作詞・上真行作曲)

一、年のはじめの 例(ためし)とて
  終りなき世の めでたさを
  松竹たてて 門(かど)ごとに
  祝う今日こそ たのしけれ

二、初日のひかり さしいでて
  四方(よも)に輝く 今朝(けさ)のそら
  君がみかげに 比(たぐ)えつつ
  仰ぎ見るこそ 尊(とう)とけれ

<「君がみかげ」は、天皇様のみ姿を意味します>

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

  『叡智の断片』より (谷口雅春先生)

       ○
 新年とは新たに生れる時である。時々刻々新年の気持ちで生活せねばならぬ。
「今、天地の開ける音をきけ」と金光教祖は教えられた。必ずしも正月のみが新たなる誕生の時ではない。吾がいのちは今、時々刻々に新生する。
       ○
 いまが、永遠である。永遠の今(Eternal Now)今が吾が生の肇(はじま)りであり、今が、自分の生活のはじまりである。今、すべてが始まるのである。
       ○
 正月にはお餅をつく。それはどういう意味であるかと言えば、先ず水を入れて、火で炊く。水は陰であり火は陽である。陰陽合一して、そこに凡(すべ)てのよきものが誕生するのである。
 お餅をつけばかくして陰陽合一し、そこに一つの新しい全体が造り出される。もちごめのぶつぶつとした一つ一つの米粒はバラバラな個別ではなくして、望月(もちづき)のごとき円満な新しい一つの全体を形造るのである。全体が完全にとけ合ってまんまるいすべすべとしたお餅が出来上がる。そのお餅を大小二つこしらえて、それを上下に重ねるのである。それは新たなる陰陽合一を意味するものである。
       ○
 お餅が出来上がると更にお雑煮をこしらえる。雑煮に入れる餅は円い餅が縁起にかなう。一つの完成した円い餅が、更に色々な他の餅や、其の他の食物と一つにとけ合って新たにより一層大きな統一をこしらえ上げるのである。全てのものがもちによって一つに統一されそしてその雑煮が人間のお腹の中に入れられる――人間の心の中にその「統一」がのみこまれて人間が円満完全な調和した心になる象徴である。
       ○
 正月には松を立てる。松とは何であるかと言えば、それはときわ木であって、永遠に栄える木、即ちサカキ(榊)である。コトバの力で今年一年の栄えを象徴するために立てるのである。神前に立てるサカキは、永遠に栄える木「生命の樹」を象徴している。
       ○
 門前に門松を立て、神に榊をそなえるのは、実は自分の心の中にサカキ(栄える木)を立てることである。榊は所謂「神様」にささげるものではなくして、かえって「自分自身」に捧げるものなのである。それ故、榊をそなえる場合には美しい生き生きとした緑の葉をみんな自分の方に向けて供える。「神様」の方には裏のきたない方が向いている。されば「神様」は自分以外の建物の中に在ますのではなくして、自分自身の心の中に存在するのであることを知らねばならぬ。
       ○
 元旦の神前にはおみきを供える。おみきはサケ(酒)である。サケ(Sake)は、やはりサカエ(Sakae)を表わすことばである。サカキを立ててサケをのむのは「サカエ」るものを観る事であり、それは「サカエ」るものを創造り出すことである。新たなるいのちの創造である。サケ(酒)はサカエ(栄え)であるから陽である。ものをいきいきともえ立たせる働きである。それに対して水は陰である。
       ○
 しめなわ(注連)の縁起は次の通りである。しめなわは天照大神が天の岩戸からお出ましになった時、二度と再びお入りにならない様に張りめぐらしたものであると古事記に書いてある。それはどういう意味かと言うと「再び退転しない」という意味である。再びもとの暗い生活には帰らないという誓いをあらわす。しめなわを張りめぐらす所はどこかのかど口の様な所だと思っていたら大間違いで、実は、自分の心の中に張りめぐらすのである。心の中で、「二度と再び過去のあやまちには退転しない」と固く決心することなのである。
――以上、『叡智の断片』より(谷口雅春先生)――
<つづく>

1828復興G:2013/01/09(水) 12:14:31 ID:vWpLkCzM

  『叡智の断片』より (谷口雅春先生) <つづき>

       ○
 毎朝、御主人に向かって挨拶をなさるのに「お目出度うございます」と言っていた人がいる。その奥さんにとっては、毎日毎日が、「新年」であった、「元旦」であった。
       ○
 凡てのものを「神」として本当に拝む事の出来る時、その人は、自分自ら「神」となるのである。何故なら、此処に「神」があるということがわかるのは、自分の心に「神」があるからである。人は誰でも凡てのものに「神」を認め、「神」を拝む時、その人は既に自ら「神」となっているのである。同様に「あいつは鬼だ」と言う人は、自分自身で「鬼」となっているのであることを反省すべきである。
       ○
 観よ、――さらば現れる。
 神想観をして実相を観よ、――さらば実相が現れる。
 観を変えよ、――さらば世界が変る。
       ○
 人間は、各々一個の創造者である。そして人間は各々自分の射造った世界の中に住む。
       ○
 男性の尊厳は女性を虐待するところにあるのではない。女性を本当に拝むところにある。
       ○
 凡てのものを神として拝める人は、自分が神であるのである。神のみ神を拝めるのだ。妻を神として拝める良人(おつと)は神であり、良人を神として拝める妻は神である。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 「常山(じようざん)の蛇勢(だせい)」

 常山に住む率然(そつぜん)という蛇は、頭を攻撃すると尾で立ち向かい、尾を攻撃すると頭で襲いかかり、中央部を攻撃すると頭と尾が襲ってきます。よく兵を用いる者は、この率然のようなものだという出典(『孫子』九地)の言葉からきています。
「善く兵を用うる者は、譬えば率然の如し。率然とは、常山の蛇なり。其の首を撃てば則ち尾至り、其の尾を撃てば則ち首至り、其の中を撃てば則ち首尾倶(とも)に至る。」
  ○常山 … 中国にある山、恒山のことで、中国五岳の一つ。
  ○率然(卒然) … にわかなさま。ただし、ここでは蛇の名。
「常山の蛇勢」は兵法で先陣と後陣、左翼と右翼が互いに呼応して戦う、隙のない戦法、隙がないたとえです。「首尾一貫」していることにもいいます。この蛇(率然、卒然)のように軍を動かす事ができれば、戦上手と言えるのですが、では、その方法とは?

『呉人(ごひと)と越人(えつひと)と相悪(にく)むも、その舟を同じくして済(わた)り風に遇うに当たりては、その相救うや左右の手のごとし』――「呉と越、敵同士の二つの国の人であっても、同じ舟に乗って嵐に遭遇して、舟が危ないとなれば、お互いが協力して左右の手のように動くはずだ」――良く聞く四文字熟語・『呉越(ごえつ)同舟』です。これは、単に陣地を同じにしたり、一緒に戦うといった意味ではなく、敵味方一丸となって……という事です。孫子は、思想や政治、地の利をうまく利用すれば、全軍を、あたかも一人の人間のように扱う事ができると、孫子は説いています。

1829復興G:2013/01/09(水) 12:44:34 ID:vWpLkCzM

>>1826 :トキ様

ありがとうございます。

生長の家も、いよいよ今年は「正念場」ですね。

1830復興G:2013/01/09(水) 13:18:46 ID:vWpLkCzM

トキ様。

トキ様が去年3月に「部室」板/3 に書かれた次のご投稿は、とても素晴らしく大切なことであると思います。
もう一度ここいnコピペさせていただきます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

「部室」板/3
582 :トキ:2012/03/20(火) 19:44:09 ID:P1yrXYLM

 最高裁判所の判決は教団敗訴であるのは確実ですが、それが悪い事か、と言うと、それはそれで教団にも良い事だと思います。

 私は永年、活動をしてきましたが、ある時期までは、組織の方針には無条件で従うべきであると思い込んでいました。しかし何故、活動をするのだろう、という疑問がわきました。それで、大学で「分からなくなったら、原理原則に戻って考えなさい」と教授に言われた事を思い出し、生長の家の原理原則に戻ると解決したので、それから「原理主義者」をもって自他共に任じております。

 生長の家の原理原則とは何か? それは、「人間は神の子」ということです。

 例えば、ある人を生長の家の講演会にお誘いする場面で、「この人を本当に幸せになってほしいから」という理由で誘うのと、「教団からノルマが課せられており、それを達成するために、この人に行ってもらう」というのでは、外観は同じでも、内容は天地の差があります。前者は相手を神の子と拝んでいる姿であり、後者は自分の都合で相手を利用している姿です。ところが運動や組織の話ばかりが教団内でなされるようになり、いつしか自分も相手も神の子である、という姿勢が忘れられるきらいがありました。特に、私においては、そうでありました。

 今回、教団内でこのような騒動が生じたのは、原理原則を忘れた運動を展開した結果であると思っています。ですから、今度、行き詰まったら、また初心に戻り、原理原則に基づいた運動をすれば良いのであります。

 特に、私は個人救済の重要性を痛感しております。悩み、苦しんでいる人はたくさんいます。そういう人が真理で救われるのを見るのは、かかわった自分にも感激です。そういう光景を見ると、理屈ではなく、感性から、個人救済の重要性を感じます。今は、教団も本流復活派も「大きな話」をするのが好きですが、先ずは個人救済を見直す事が大事だと思います。

 もし、教団敗訴の判決が出たら、謙虚に反省し、何をすべきかが明らかになると信じております。その意味では、歓迎すべき事かもしれません。
 合掌 ありがとうございます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

そうですね。
今年の干支は「癸巳(きし)」。「癸(き)」は「揆」に通じ、「万事筋道を立て正しい理に従って処理しなければ、(一揆のような)事が起こる」可能性があります。しかし、筋道を失せず勇敢に溌溂と前進すれば、蛇が冬眠を終えて、或いは脱皮して新しい姿で生活を始めるように、新しい展開が始まる、ということを意味するようです(安岡正篤著『干支の活学』による)。

よい年にしましょう。
ありがとうございます。

1831さくら:2013/01/09(水) 14:15:02 ID:vKqBwMl.
>>1830
復興G様
トキ様

合掌ありがとうございます。
昨年中は、ご指導御愛念を頂きありがとうございました。

みなさまに対してそうですが、
特に復興G様、トキ様には、誌友会などでさまざまご教示頂きまして、折に触れ、個人的にも信仰姿勢に学ばせて頂きましたことを、
こころより、感謝申し上げます。

>初心に戻り、原理原則に基づいた運動をすれば良いのであります。
>理屈ではなく、感性から、個人救済の重要性を感じます。今は、教団も本流復活派も「大きな話」をするのが好きですが、先ずは個人救済を見直す事が大事だと思います。

この内容には、常々賛同していたことでしたので、
ご挨拶させて頂きました…。

本年、自分の場所で、地道に学び、地道な実践を心がけたいと思います。

本年もよろしくお願い申し上げます。



追伸

復興G様、新年に相応しいこころ洗われるご文章を、ありがとうございます。
お正月に会った姪っ子に、…今度は、ちゃんと、お正月のお飾りの意味も、お餅の意味も説明できます…(!)

1832SAKURA:2013/01/09(水) 16:59:17 ID:ybpOApPc
復興G 様 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1824 >>1830の閲覧より……

昨年は【真理の勉強…】参加させて頂きました事は、私に取りまして“意義深い”一年でした。
本年度も「復興G様」を中心に【WEB誌友会にて…真理の勉強】を開催されます事は、昨年
以上に「魂の向上」につながるモノと自覚し…内なる声と対話しながらの躍進の年に致したく
思います。何卒、本年もご指導ご鞭撻のほど…宜しくお願い申し上げます。
==============================================

❤〜去年は、私に取りまして「母…の他界」は、私にとってはある面では【精神の向上の年】で
もあったようです。そして、
■「復興G様…からの今日の言葉」より……
【原理主義は=神の子・・・】そうなんです〜〜〜ョネ!改めて自覚・認識を頂きました。

❤【大自然賛歌…】にも。。。
【吾まさに、環境は心の影なりとの教えの意味をりかいせり。自然環境も人類の心の反映ならば、
人々の争う心、自然界の乱れとなって表出せん。されど師よ、“神の子“なる人間互いに争わず。
・・・省略・・・】この様に「原理主義と決め込む心」は、「神の子・・・」ならば、自ずと
自然に入ってきますかと。そして【神の子なら、正しい理念も生まれてくるようです。】

今年は、昨年年末からの“風邪”を引きまして、逆に良い意味での【神の子の自覚…】が、
いよいよ深まっていくようです。
本日の【復興G様 からの 言葉】改めて気づきを頂きました事に、深く感謝申し上げます。

                                       再合掌

1833みすはなまる:2013/01/09(水) 18:42:52 ID:0sJRrIf2

新春のお悦びを申し上げます。

最近は、此方の誌友会板に発言させていただくことはございませんが、時々目を通させてい戴き、勉強させて戴いております。


復興G様が、>>1830におきましてトキ管理人様の

>>生長の家の原理原則とは何か? それは、「人間は神の子」ということです。>>

の御文章を引用されておられます。

この「人間は神の子」である真理は、実に深い真理であると感じました。
今日は、谷口雅春先生御著書「第二青年の書」を拝読して過ごしておりました。

P203に

>>日本皇室の御紋章が十六菊であるということは、釈尊の示された金波羅華の秘密であります。十六方向の国々が一つの中心に帰趨して渾然一体となる――そうならせなければ、世界は原水爆戦で潰滅するほかはないのであります。

それで、この生長の家の運動は、日本の使命実相を明かににして、人類を本当の平和に導いて行くところの根本自覚を日本国民に興えるために神様が地上に下された運動でありますから、ただ単に病気が治ったら、病院を退院するのと同じように生長の家をやめるのでは生長の家出現目的から外れているのであります。

病気も無論治ります。しかしそれは信仰の出口ではなく、入口なのであります。この運動を次から次へと伝えて、日本の使命を自覚せしめることが必要なのであります。

この生長の家によって少しでもおかげを受けた人、物質的なおかげは受けないでもお心の眼が開いた人は、ことごとくこの生長の家の運動を、そういう国家的な運動に、人類的な運動に結びつけて、生長の家発祥の人類救済の根本目標に近づいて行かなければならないのであります。>>


この雅春先生の御文章は、“過去のもので今は違う”ではございません。
真理であり、不変なる御言葉です。
現在、教団は、「日本の使命実相を明かにした運動」をされていません。

是非、教団内部から「日本の使命実相を明かにした運動」が展開されることを祈って止みません。


雅春先生は、「生長の家の運動は、日本の使命実相を明かににして、人類を本当の平和に導いて行くところの根本自覚を日本国民に興えるために神様が地上に下された運動」とございます。

私はこの雅春先生の御心を実践することが、「人間神の子」を生かされることであると信じ、今年も神の御心のままに運動をさせて戴きます。


合掌 再拝

1834トキ:2013/01/09(水) 19:08:32 ID:pFigj4Ss
>>1830


復興G様

 大先達の復興G様からお褒めを頂戴するのは、恐縮いたします。

 私自身、この投稿をわすれがかっていました。反省しています。
ご提示下さり、ありがとうございました。

合掌 ありがとうございます

1835復興G:2013/01/09(水) 19:59:38 ID:vWpLkCzM

さくら様
SAKURA様

レス、コメント、ありがとうございます。

そして
>>1833 :みすはなまる様。

>>日本皇室の御紋章が十六菊であるということは、釈尊の示された金波羅華の秘密であります。十六方向の国々が一つの中心に帰趨して渾然一体となる――そうならせなければ、世界は原水爆戦で潰滅するほかはないのであります。それで、この生長の家の運動は、日本の使命実相を明かににして、人類を本当の平和に導いて行くところの根本自覚を日本国民に興えるために神様が地上に下された運動でありますから、ただ単に病気が治ったら、病院を退院するのと同じように生長の家をやめるのでは生長の家出現目的から外れているのであります。

病気も無論治ります。しかしそれは信仰の出口ではなく、入口なのであります。この運動を次から次へと伝えて、日本の使命を自覚せしめることが必要なのであります。
この生長の家によって少しでもおかげを受けた人、物質的なおかげは受けないでもお心の眼が開いた人は、ことごとくこの生長の家の運動を、そういう国家的な運動に、人類的な運動に結びつけて、生長の家発祥の人類救済の根本目標に近づいて行かなければならないのであります。>>

>この雅春先生の御文章は、“過去のもので今は違う”ではございません。真理であり、不変なる御言葉です。
現在、教団は、「日本の使命実相を明かにした運動」をされていません。
是非、教団内部から「日本の使命実相を明かにした運動」が展開されることを祈って止みません。<

上記のことは、とても大事なことだと思います。
私も、「日本の実相顕現を抜きにした世界平和はあり得ない」と固く信じ、発言しています。
共に、それを言い続けて行きましょう。

しかし、トキ様がおっしゃるように、

>>例えば、ある人を生長の家の講演会にお誘いする場面で、「この人を本当に幸せになってほしいから」という理由で誘うのと、「教団からノルマが課せられており、それを達成するために、この人に行ってもらう」というのでは、外観は同じでも、内容は天地の差があります。前者は相手を神の子と拝んでいる姿であり、後者は自分の都合で相手を利用している姿です。<<

この後者のようなことが現在の運動でも一般にひろがっており、これでは全く自他共に救われません。無条件の愛を行ずることによって、自他共に救われ、それが日本の心、大和魂を発揚することになって、日本の実相顕現につながって行くと思います。この基本を原理原則として忘れないようにしたいということで、「個人救済の重要性」ということをトキ様はおっしゃっているのだと、私は思っています。

そしてもちろん、みすはなまる様がおっしゃるとおり、「日本の使命実相を明かにした運動」をして行かなければ、生長の家出現の意味はなくなります。

ありがとうございます。

1836あさひ:2013/01/10(木) 00:38:22 ID:/3nxKE2Q

復興G様  トキ様

「分からなくなったら、原理原則に戻って考えなさい」との掲示板への掲示をされたトキ様

それを コピペして下さった復興G様 有難うございます。

私も全く同感です。道に迷ったら引き返せというのと同じですね。

有難うございました。     合掌

1837志恩:2013/01/10(木) 04:37:39 ID:.QY5jUA6
復興G様

昨年も一昨年もいろいろと教えて下さいまして感謝いたしております。
今年もご指導をよろしくお願い申し上げます。

皆様がおっしゃるように、「分からなくなったら、原理原則に戻って考えなさい」という
トキ様のお話も、いいお話ですけれど

復興G様がご紹介くださいました安岡正篤氏のお言葉も、いい言葉ですね。
ありがとうございます。

>>「癸(き)」は「揆」に通じ、「万事筋道を立て正しい理に従って処理しなければ、(一揆のような)事が起こる」可能性があります。

しかし、筋道を失せず勇敢に溌溂と前進すれば、蛇が冬眠を終えて、或いは脱皮して新しい姿で生活を始めるように、新しい展開が始まる、
ということを意味するようです(安岡正篤著『干支の活学』による)。<<

1838復興G:2013/01/10(木) 11:40:51 ID:vWpLkCzM

あさひ様
志恩様

合掌 ありがとうございます。
うれしいコメント、感謝いたします。

基本の原理原則、「人間は神の子」「実相独在」「現象は影である」――その「天之御中」に立って、勇往邁進いたしましょう。

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1841復興G:2013/01/12(土) 06:37:49 ID:AB6RqYXc

トキ様

上の1839・1840を削除お願いします。

1842復興G:2013/01/12(土) 06:38:59 ID:AB6RqYXc

>>1821 :a hope様。

a hope様へのレスが亀どころではない、寿命がきた蛍光灯のようなレスになってしまって、すみません。

>>掲示板というのは、本当に不思議な世界ですね。現実でありながら、夢をみているようなそんな空間で、お互いに何の素性もわからない同士が交流を深めていくのですから…ですが、「人間は物質ではない」わけですから、このような物質人間の相手が見えない場所であっても、魂の交流は深まっていくのだなぁと感じています。<<

 ――まったく、その通りです。a hopeさまのことも、まるで自分の家族のように思っていますよ。

>>1822 :a hope
>>掲示板をご覧のわたしの愛する「生長の家」のみなさま
谷口雅春先生の弟子であり、「生長の家」人であるわたしたちは、今、何をすべきなのでしょうか? 忘れかけていましたが、このweb誌友会の大きなテーマは、「一人ひとりの法燈継承」です。
わたしは最近、立ち向かう相手が現象においてどんな姿をしていようとも、自分がしっかりと「生長の家の教え」を理解さえしていれば、そんな姿は現実ではないのですから、まったく気にならなくなるような気がしてきましたよ。
わたしは、今年もこの掲示板で、真の「生長の家の教え」を学ばせていただくつもりです。
みなさまと一緒にここでお勉強できて a hopeはとても幸せです。今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。<<

 ――「一人ひとりの法燈継承」――そうですね。

 それは、生長の家の原理原則、「人間は神の子」と自分を拝み、すべての人を拝むということ。

 私は最近、榎本恵吾先生の書かれた「誌友会への所感」という御文章が出てきて読み返し、「これだ!」「ここに立たなければ!」と深い感銘に包まれています。

 web誌友会を前に、その御文章をここに啓示、掲示させていただきましょう。

1843復興G:2013/01/12(土) 06:40:16 ID:AB6RqYXc

     誌友会への所感 (榎本恵吾)――<1>

   《これは、私が、誌友会や聖典講義に立たせていただく前に、心新たにするための憶え書きのごときものであります。》

 『信』とは『人が言う』と書いている。『信』とは他をからずして、自から発するのである。それは自分が“宣言”することなのである。

 先づはじめに、神は“光りあれ”と宣り給うたのである。そこに元(はじめ)の信ということが立ったのである。

 いまここに神なる、光りなる神の子が立っている。その光りなる、神なる人が再び“吾れ光りなり”“吾れ神なり”の言葉を発するのである。

 I am that I am という。これは信の成立を意味している。I am God しかして、また God I am (God is Me) である。

 すでに救われずみの、光りなる自分がさらに“光りなり”という言葉を発する。その光りのひろがりとして誌友会が成立しているのである。

 “信ずる”とは、創造(つく)られずみのものに合一するという意味のほかに、創造すること、産み出すことの意味があったのである。

 生長の家の集りは光りの集りである。そこには“光り”が集まって来るのである。先づ光りなるものがあるのである。集まってから光りとなるのではないのである。それははじめて来た人についても同じことである。

 “誌友会に行こう”と思うことが、内なる如来が、天照大御神がその人の内からお顔を出されて、輝き出して、そう思うのである。したがって、“誌友会に行きたいなー”と思ったとき、すでにその人は如来の輝きであり、光明そのものであり、天照らして光なる人がそこに立っているのである。

 その如来なる、光明なるいのちが家を出発する。そして周囲のすべてを輝かせながら誌友会場にやって来るのである。ある人は徒歩で、ある人は車で、あるいは電車に乗って。道路を歩けば道路を燦然たる光りでかがやかせながら。そして電車に乗れば、その人から出る光りによって電車は光りと化し、木々の間を通れば木々を輝かせながら誌友会へ、誌友会へと光りが集まるのである。

 再び言う。誌友会に来てから光りとなるのではないのである。“光り”が集まって来るのである。その光りがさらに光りする行事が誌友会である。

 その光りなる如来に坐ってもらって、会場の畳はどんなに喜んでいることであろうか。光りに集まっていただいて座布団はどんなに喜んでいることであろうか。その会場全体がどんなに喜びに輝いていることであろうか。

 そこに坐っている光りからすれば、その光りをめでて、すべてのものがその人のために輝きながら用意されていたのである。その会場となっている家は、何年前に建てられたか知れないが、その人の今日そこに坐られることのために、その家が何年か前に用意されたのである。講師もその人のために今から何十年前に今日その人のいのちを祝福するためにと神がどこどこの地に生まれさせ給うたのであるということが、わかってくるのである。

 自分を“光りである”と宣言しハイと光りに飛び込んでいるときが、人が“信”となっている時であり、そのとき、その人は、“自分がこの世にうまれてここにいることをこんなにもすべてのものが喜んで呉れているのか!”ということがわかってくるのである。“疑わずに光りに飛び込め”とみ教えに示されている。

 この話しを聴いたある誌友は、“光りだった。光りだった。”とコトバでとなえながら帰途についた。すると、歩道が“さあ、お通り、さあ、お通り下さい”とよろこんで光りの道を開けて呉れたというのである。

 またある人は、家につくとすぐに感激して電話をかけて来たのである。その人がいつものように帰るために電車に乗った。“そしたら、私の前に座席が空いていたんです!”というのである。しかし座席はこれまでもいくらでも空いていたのである。それが、今日は“光りが行くのである”と宣言して乗ってみると、その座席が光りを迎えて、光りに坐ってもらうことを喜んで“さあ、お坐り、待っていましたよ”と迎えて呉れたというのである。
<つづく>

1844復興G:2013/01/12(土) 06:41:04 ID:AB6RqYXc

     誌友会への所感 (榎本恵吾)――<2>

 光りだ。光りだ。と云っているとすべてのものが自分に祝福の光りを送ってくれており、光りの中に生かされていることがわかってくる。雨の音を聴いても、花の咲くのを見ても、何か今までとちがって、何か自分とシックリと来るようになった。“あっ、自分は、これから天地一切のものに感謝するのかと思っていたら、そうではなかったのだ。自分が天地一切のものから喜ばれ、拝まれ、感謝されていたのであった。”と解って来たのである。

 釈尊が“苦行は悟りの因に非ず”として、“すでに光りであった”と如来地に飛び込んだとき、山川草木国土悉皆成佛、有情非情同時成道と観えて来たのである。釈迦はこのとき天地一切のものと和解されたのである。つまり、自分が天地一切のもの即ち如来にとりかこまれていたことがわかったのである。

 尊師の“天地一切のものと和解せよ”の一句は、まさに釈迦の山川草木国土悉皆成佛、有情非情同時成道に相当するのである。尊師が現象を超えて、實相の大地に降り立たれたときが、尊師が天地一切のものと和解せられたときであったのである。弱肉強食、生老病死のそのままに、不完全、不調和はそのまま無く、大調和に抱き合って讃えあっている人類のすがたをそこに発見せられたのであった。その光の大調和のすがたが誌友のそのままのすがたなのである。

 誌友会は、これから光りとなるための準備をするところではない。光りとなるための決意をするところではない。それではいのち(神・光り)のゆにはということにはならないのである。準備のためであれば、それはいのちとなるためのゆにはとなる。光りは天国は、愛行やもろもろの行の彼方にあるのではないのである。實相とは、単に可能性として存在するだけなのではないのである。すでに今・ここに實相の光りは開かれ輝いているのである。その光りが輝く為の如何なる行も必要としないのである。もろもろの行が必要であるということが、天国を西方極楽浄土として遠くにおしやることになったのである。

 光りとなるため手段としての、神の前での成績かせぎとして愛行やもろもろの行があると思うとき、それがどれだけ出来ているかいないかが問題となり、それを基準として、自分を裁き人を裁くことになるのである。この裁きが地獄なのである。このような意味での愛行であるとき、親鸞のことばは次のように響いて来るのである。

  『愛行の人なおもて救われる。
    いわんや悪行の人をや』
 と。

 パウロはコリント人への手紙の中で次のように言明している。

  『たとい我、わが財産をことごとく施し、
   またわが体を焼かるるためにわたすとも、
   愛なくば、我に益なし』
 と。

 私はともすれば、よほど愛がなければわが財産を施すこと、他のために死すことはとても出来るものではなく、財産を投げ出し、死ぬことが出来るのは愛のある証拠であると思っていた。しかし、愛のないそれらの行もあるのである。

 先づ、無条件に神の大愛の中にゆるされ、生かされ切って、自分が神の光りと一つであるとの事実にハイとうなづくこと。神の中に飛び込むことによって、神の側に、光りの側に、愛の側に立つこと。その愛なる自分が行くことが愛行なのである。愛(光)となるためにこれから行くのでは、全財産を投げうっても、身を捨ててもそれは空しいことであったのである。三度びくりかえそう。もしも、誌友会に光りでないものが、光りをもらいに来るのであれば、それは乞食であるといわねばならない。乞食が集まるのが生長の家の誌友会ではないのである。光りなるものがすべてを輝かせて集まっているのである。それ故に誌友会は光りを世界に輝かせるところの光りの集団なのである。その行事は如来の荘厳行事なのである。荘厳とは何か、それはすでに光りであるという事実であり、荘厳行事とは、光りが行う行事なのである。
<つづく>

1845復興G:2013/01/12(土) 06:42:34 ID:AB6RqYXc

     誌友会への所感 (榎本恵吾)――<3>

 過去の如何なる行をも放ち去って、いまここに平等の如来光が全員から照りかがやいているのである。すでに光りであるから、光りは外に向かって輝き出でるより他はないのである。それ故、自分は、神様と一緒になってすべてを輝かせているのである。自分は生長の家の光りによって、神の光りによって照らされる側だと思っていたが、すでに自分は光りとなっており、すべてに光りを与える側にいたのであった。照らされる自分から照らす自分への生まれかわりなのである。

 今まで、自分は与えるものがないと思っていたが、自分は気がついてみれば、神とともに天地を創造し、神とともに世界を生かし、神とともに世界に光りを与えていたのであった。この光りは、今・ここにすでに無条件にわが全身にかがやいている光りなるが故に、このことを素直に「ハイ」とうけるとき、自分のみではなく、わが家族のすべてが、無条件に光りそのものであり、光りの集まりがわが家であったことが観えてくるのである。わが家族は、形の上で生長の家に入っているものもいないものも、すべて光りであり、神の子であり、神そのものであったのである。わが家はそのままで全世界を照らす灯台であり、太陽の集まりであったのである。まことに、わが家は生長の家であったとの祝福をこめて礼拝の心がおこって来るのである。

 いままでは、生長の家の聖典を読んでから光りとなり、光りとなるために誌友会に集まり、神想観をすると思っていたがそうではなかったのである。光りはすでに顕れ出でましているのである。何がなくとも先づ人間は生長の家であり、光りであったのである。わがいのちが生長の家であったのである。生きているということが生長の家そのものであったのである。

 この光りを発見されて、すべてのものへの讃嘆、礼拝のすがたとして形にあらわれたのが尊師のお書き下さっている聖典なのであった。

 この聖典は、『あなたは、この本を読まなければ神の子になれませんよ』とか、『この本によって、はじめてあなたは救われるのですよ』という姿はしていないのである。逆に『私が目覚めてみれば、すべての人々はそのままで、何もつけたすことのいらない如来そのものであったということがわかったのです! こうして、私は、本によってみなさまを拝ませていただいているのです』という合掌のお姿をこの聖典に拝するのである。

 その光りを萬物に発見されたとき、尊師は天地一切のものと和解されたのであった。生長の家の光りを点ずるとは、天地一切のものを祝福し礼拝することであったのである。人類光明化運動とは全人類祝福運動であったのであり、全人類礼拝運動であったのである。

 時は来ているのである。そしてすべての病人はすでに光りとして立っているのである。この光りであることに素直に「ハイ」とうなづくことが「疑わずに光りを受ける」ということなのである。

 われわれは「我」を消してから、「罪」を浄めてから、光りとなるのではない。それは非実在なのである。それを放っておいて、“ハイ”と光りの中にとびこんだとき「我」は消えるのであり、「罪」も消えるのである。先づもって飛び込むことが大切なのである。誌友会場主も自分が先づ飛び込むことによって光りとして立つ。するとすべての誌友の中に光りを観ることが出来るのである。自分が過去の成績にひっかかり、現象を認めて、光りを受けて立っていなければ、自分も立つことが出来ず、誌友も立つことが出来ず、共だおれとなるのである。

 『疑わずにわが光りを受けよ』とは、愛行だとか、行だとか、どれだけ長く生長の家をやっているとか、そのようなものを条件とせずはじめからそのまま自分が光りであることを“ハイ”と宣言せよということである。受けるとは、自分が光りであると宣言することである。

 光りと光り、絶対と絶対とが響き合い鳴り合うというところが誌友会である。
<つづく>

1846復興G:2013/01/12(土) 06:43:14 ID:AB6RqYXc

     誌友会への所感 (榎本恵吾)――<4>

 この絶対の光りにじっと眼をとどめれば、そこにいのちが無言のままに喜びに輝きながら唱っている、その歌が聴こえて来るのである。それは、すべてのものが観世音菩薩であり、その妙智力のひびきがそこにあるからである。ここにいたって、語られる言葉の内容は問題ではなくなるのである。体験談の大小などは問題ではなくなるのである。むしろ、体験は小さければ小さいほどよいということ。小さいものの中に如何に大きないのちの喜びを発見するかということである。小さいことを如何に大きく喜び感動出来るか。その感動の大きさこそが重大な問題なのである。どんな小さなことの中にもそこには神が鳴っていたまうのである。

 すべての人の中に神を拝むということは、真の祝福ということであり、真の祝福とは、手段としての祝福ではないということである。手段としての祝福ではないとは、将来何かをやってもらうため、その人をある能力に到達せしめるためのテクニックとしての祝福ではないということである。本当にその人の中に、今、此処に天国の実現を拝むことなのである。将来聖使命会員になってもらうためとか、愛行をやってもらう菩薩となっていただくためとか、そのような手段としての拝みであっては真の拝みということにならないということである。

 尊師は、『生命の實相』によって人類を拝まれたのであると書かれている。それは絶対の荘厳な拝みであって、“この本によって人類を神の子にしてやる”などという姿をこの聖典はしていないのである。ただただ既に久遠の昔から如来であるところの實相を拝まれている姿が聖典なのである。

 われらの拝みも尊師の拝みの延長なのである。わが合掌は尊師の合掌なのである。わが祝福は、神の祝福であり、尊師の祝福であり、天国そのものの鳴り響いている姿なのである。

 愛行とは、“愛が行く”と書いている。すでに光りであり、神であり、愛であるところのものが行くのである。これから光りとなるために行くのでは愛がゆくことにはならない。それは暗が光りとなるために行くのであるから正しくはこれを“光明化しに行く”ということは出来ないのである。それは、その行によって光りとなるための成績をかせがせてもらうために行っているのであるから、むしろ自分が“光明化されに行っている”のであると言わなければならないのである。これは、尊師の開かれた光明一元の道ではない。

 そうではないのである。既に今、無条件にわれらは金剛不壊の光りとしてここに立っているのである。それは天皇の六合照徹の光りである。われらはすでに与えるべきものを持っているのである。自分はいままで与えるべきものがないと思っていたが、そうではなかった、自分は神とともに光りを与える側に立っていたのであった。自分は世界に光りを与え天地を神とともに創造し、天地萬物をささえ生かしめていたのであった。“光りが近づくとき、すべての暗黒は消える”と神示されているあの光りは、先づ、神なる光りが自分を照らすということではなく、この光りは、神とともに今、輝いている自分の光りであったのである。

 それ故、“光りが近づくとき、すべての暗黒は消える”とは“あなたが近づくときすべての暗は消える”ということである。ここにすべての人は、光りをはなつ光明化の人として立ち上がるのである。“今、すべての病人が立つことが出来る”というお言葉は、すべての人はいま、光明化運動の光明の主体者として、神の光りの先きとして輝いていることを神が祝し給いて発せられたお言葉なのである。

 ここに来て私たちに、この無条件の光りは、自分のみかわが家の全員に輝いており、わが家庭は光りの集団であるという本当のすがたが観じられるようになるのであった。
<完>

1847rei:2013/01/12(土) 08:15:57 ID:bo95azFI


なんと、素晴らしい!!!


ありがとうございます。

いつも隅っこで座っておりますが、参加させてもらってます。

合掌
ありがとうございます。

1848復興G:2013/01/12(土) 10:08:40 ID:AB6RqYXc

>>1847 :rei 様

ありがとうございます!

1849a hope:2013/01/14(月) 07:44:49 ID:TqpbsVIM
>>1842 復興Gさま

>a hopeさまのことも、まるで自分の家族のように思っていますよ。<

うれしい御言葉を、ありがとうございます。

合掌。

わたしも、復興Gさまはもちろん、この掲示板で知り合ったすべての方々に対して、
家族のような親近感を感じています。

わたしたちは、生長の家の大神さまの導きにより巡り合った、魂の家族なのだと思います。
まさに「生長の家」の家族ですね!

ですが、たとえ家族であっても、意見の相違があったり、相手を理解できなかったりすることはあると思います。
だからと言って、決して相手を悪人と決めつけたり、排除したりせず、

>生長の家の原理原則、「人間は神の子」と自分を拝み、すべての人を拝むということ。<

が真の「生長の家の教え」ということでしょうか…?

また、榎本恵吾先生の素晴らしい文章を紹介して下さりありがとうございます。
本当に、恵吾先生の文章は、拝読しているとどんどん心が軽くなっていくから不思議ですね!

いよいよ、今週末が第10回web誌友会ですね。

このweb誌友会って、参加者が少ないときでも、
reiさまのように静かに見守って下さっている先輩方がたくさんいるのですね。


実は、数日前についにわたしのパソコンが動かなくなりました。
それで、この掲示板にも書き込みができませんでした。(今は、家族用のものを使っています。)

ですが、早朝の時間などを利用して皆さんとお勉強させていただきますので、
今回もどうぞよろしくお願いいたします。

1850a hope:2013/01/14(月) 07:49:27 ID:TqpbsVIM

『第10回web誌友会』予告

≪日時≫
1月18日(金)21:30から
1月20日(日)23:30まで

≪テキスト≫
『生命の實相』頭注版第2巻 第3章および第4章
<第3章p.99〜115(17頁分)、第4章はp.116〜138(23頁分)>

1851復興G:2013/01/16(水) 09:57:38 ID:AB6RqYXc

>>1849・1850
a hope さま

コメントと、web誌友会予告、ありがとうございます。

>>わたしたちは、生長の家の大神さまの導きにより巡り合った、魂の家族なのだと思います。まさに「生長の家」の家族ですね!
ですが、たとえ家族であっても、意見の相違があったり、相手を理解できなかったりすることはあると思います。
だからと言って、決して相手を悪人と決めつけたり、排除したりせず、
>生長の家の原理原則、「人間は神の子」と自分を拝み、すべての人を拝むということ。<
が真の「生長の家の教え」ということでしょうか…?<<

なんと素晴らしいことを言ってくださるのでしょう。

そうですよね。
そして、「八紘一宇」という日本建国の理想は、八方の世界人類みな一つの魂(たま)の緒でつながった家族のように、仲よく拝み合って行こうということですから、この日本の心を全世界に広めて行くことが、イエス・キリストの説かれた「御国を来らす」ことであり、釈尊の説かれた金波羅華の浄土を地上に持ち来すことにもなる! それが、大日本世界国(ひかりあまねきせかいのくに)の理想である。だから、この真の日本を守ることが世界平和の礎になる。それが真の「生長の家の教え」なのだと思います。

ありがとうございます!

皆さま、今月のweb誌友会も、ご一緒にこの生長の家の真理を深く学んでまいりましょう。どうぞよろしくお願いいたします。

合掌

1852トキ:2013/01/16(水) 12:44:09 ID:cVSDAep.
>>1851

 そう言えば、戦前に入信された信徒さんの話では、戦前は信徒のことを「家族」
と呼んでいたそうです。今でも、「規約」を見るも「生長の家の信徒を家族と称す」
とあったはずです。

 誌友会、よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

1853a hope:2013/01/18(金) 09:09:50 ID:TqpbsVIM

みなさま おはようございます。

いよいよ、今夜9時半から「第10回web誌友会」が開催されます。
今回も自分の参加出来る時間に参加させていただき、みなさんと「生長の家」の真理を
お勉強させていただきたいと思っています。

開会30分くらい前に、(準備祈願のお祈り)と、聖経「真理の吟唱」から、
『智慧と愛と赦しのための祈り』を謹写させていただく予定でいます。

今回も、復興Gさま、トキさまなど「生長の家」の大先輩から「生長の家」の真理を
教えていただけることに感謝の気持ちでいっぱいです。

この掲示板をご覧のわたしの愛する「生長の家」のみなさま、
わたしたち一人ひとりが喜びに満ちた『光』なんですよね。
このweb誌友会に集まって「生長の家」に大きな灯をともしていきましょう!

1854a hope:2013/01/18(金) 09:11:24 ID:TqpbsVIM

『第10回web誌友会』予告

≪日時≫
1月18日(金)21:30から
1月20日(日)23:30まで

≪テキスト≫
『生命の實相』頭注版第2巻 第3章および第4章
<第3章p.99〜115(17頁分)、第4章p.116〜138(23頁分)>

1855復興G:2013/01/18(金) 19:20:29 ID:AB6RqYXc

>>1853・1854 :a hope 様

合掌 ありがとうございます。

積極的なご参加、うれしいです。

お世話をかけます。

よろしくお願い申し上げます。

合掌

1856トキ:2013/01/18(金) 19:58:01 ID:LRgaH7Fg
 ありがとうございます。お世話になります。よろしくお願いします。

1857a hope:2013/01/18(金) 20:57:08 ID:TqpbsVIM

みなさま

第10回WEB誌友会開会30前になりましたので、「準備祈願」としての祈りの言葉を掲載させていただきます。

(準備祈願)
 住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。

  生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
  吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
  吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
  天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ

  住吉大神様、本日の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける 今夜の生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。

  住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。

  今夜の参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。

  有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます


世界平和の祈り
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。

光明思念の歌
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり

1858a hope:2013/01/18(金) 21:05:13 ID:TqpbsVIM

聖経「真理の吟唱」より
『智慧と愛と赦しのための祈り』

私は神の子である。
〝神の子〝であるということは神より小さき者という意味ではないのである。
〝神の子〝とは、〝神の具体化〝であり、姿形(すがたかたち)の幽(ゆう)なる神が、
姿形の顕(けん)なる神として自己実現して来たという意味なのである。
それゆえに神のもちたまえる全徳をわが身に体現し得(う)るのが〝神の子〝なる人間である。
もし、神の完全なる姿を具体化することができなかったならば、
それは完全な神の実相が宿っていないからではなく、神の完全なる実相が宿っていながら、
それを自覚しないからに過ぎないのである。

〝神の子〝は神の完全さを、自己の実相として内部に包蔵するのである。
それゆえに神の完全なる生命はわが内にあり、それを神想観によって自覚すれば、
その生命力はますます健全となるのである。
また、〝神の子〝なる人間には神の完全なる智慧はわが内にあり、
神想観によって、その智慧を自覚する程度に従って、それは自己を導く光となり、
日常生活にも、職業方面にも、あらゆる企画や行動に決して躓くことがなくなるのである。

人間は神の子であり、神の完全なる愛が自己の内に宿っているのであるから、
私の愛は完全であり、如何なる人の罪をも完全にゆるして咎めることはないのである。
そして罪は本来存在しないのであるから、その人に罪があらわれているのは、
その人の実相が陰になって隠されているだけであるから、その人の完全なる実相を観じ、
真理の光をもって陰の暗黒を消し去るようにしてあげれば必ずその人の完全なる実相が顕われ、
かつて敵と見えたりし者は味方となり、自分の協力者となり、相(あい)ともに真理の道を進むようになるのである。

神の愛は全包容的であり、如何なる人々をも看過(みのが)すということはないのである。
それゆえに神の子なる私の愛も全包容的であり、如何なる人々をも赦すのである。
唇にて〝彼を赦す〝というのは容易であるけれども、私は単に言葉にて「赦しました」というだけではなく、
全精神を以てすべての人々を赦すのである。
赦すというよりも、すべての人々の実相を観ずるとき、すべての人々の実相は神の子であるから、
赦すべき罪もないことを知って、その実相の完全さを解放するのである。
本当の赦しというのは、相手の悪や罪をみとめて、それを怺(こら)えながら赦してやるというのではなく、
罪なき彼の実相を観じて、それを解放し顕現させるのであるから、彼自身がそのまま完全になるのである。

われは今、すべての人間の〝神の子〝たる実相の完全さを観じて、
この世界がまことに神の創造になる完全世界なる事を知り、
一人として罪人も悪人もなき事を知り、悦びに満たされているのである。

感謝 合掌。

1859復興G:2013/01/18(金) 21:16:21 ID:AB6RqYXc

a hope 様

ありがとうございます。

素晴らしい開会「準備祈願」としての祈りの言葉と、「真理の吟唱」の『智慧と愛と赦しのための祈り』、しっかりと拝読しました。

ありがとうございます。

1860復興G:2013/01/18(金) 21:26:38 ID:AB6RqYXc

ありがとうございます。

開会時刻が迫ってまいりました。

テキスト『生命の實相』第2巻より、一部 謹写させて頂きます。

   第三章 「生長の家」の神人論

(前略 p.102 3行目より)
 それでわれわれの五官を通じて存在を見る心は「迷わしの心」であって、存在の実相を観る心ではないことがわかるのであります。だから、われわれは五官の感覚で見たり知ったりしたところのものを存在の実相だと思ってはならない。存在の実相はただの感覚では見られない状態にある。「美」を見、美を知るには、われわれの内に宿っている「美」が対象(あいて)にある「美」と互いにパッと照らし合わされた時に「なるほど、そこに美があるな」とわかる。絵心がないと絵の「美」が本当にわからない。名画はそれ自身「美」を備えていても、見る人の心に名画と同じ「美」が開発されていないと「なるほどそこに美があるな」とはわからない。すべてそこに「何か」がある事がわかるのは、自分の内にあるものと同じものがそこに出ているからであります。

 「善」でも同じことであります。ある人の善行を見てわれわれが感激して「そこに善があるな」と解るのは、われわれの内にある道徳性――すなわち「善」が相手にあらわれている「善」と、互いに照らし合わされた結果、「なるほどそこに善があるな」とわかるのであります。だから道徳性(善)の無い人、または開発されていない人には、他の善行を見てもそれを感心することができない、自分に無いものは相手にいくらあったからとてそれがわからない、聖者はひとの悪を見ないといいますが、それは聖者が悪を見ないのではない、聖者は自分の内に悪がないから、他人の悪が見えないのであります。

 ひとを常に批評的に観て、「あの人はあんな行ないをしたから、それは必ずこういう悪い動機からしたのであろう」と、常に想像をたくましゅうしているような人は、その人自身の心に「悪」があるから、相手に悪があるとわかるのであります。そうすると、他人の心情の「悪」が目につく人は必ず自身の心情に「悪」がある証拠であるから、決して他人の「悪」を批評したりする資格がないのであります。だから「他人が悪いな」と気がついた時は、「それがわかるのは自分の心のうちに悪があるからだな」と反省すべきであります。

 黒住教祖は「たち向う人の心は鏡なり」といわれましたし、大本教祖は「ひとが悪いと思っているのは皆わが身が悪いのであるぞよ」と明快に平易な言葉でこの大真理を道破していられます。イエス・キリストもパリサイ人が罪ある女を石にて打とうとしているときに「なんじらのうち罪なきもの彼女を打て」と、表面は道徳家でも審判(さば)きの心に満ちている人の心には悪が宿っていると反省を促していられるのであります。

 この反対も真実でありまして、「ひとが善い、あの人も善い、この人も善い」と常に思えるようになった人は偉い人であります。なぜなら常にその人の心には「善」が宿っているからであります。時々、ひとが善く見えたり、またすぐに悪が見えて来て相手に失望したりするような人は、時々自身の心に「善」が宿って来ても「悪」がすぐ宿って来て交替になる人であるから、われわれは自分の心に「善」ばかりを養って、他の「悪」を見ようにも見えないように修養をつみたいのであります。

1861復興G:2013/01/18(金) 21:30:14 ID:AB6RqYXc

<つづき>

     存在(もの)の実相(ほんとのすがた)は何によって知るか

 で、「美」を見るには自分の心に宿っている審美性すなわち「美」で照らし出して見なければわからない。「善」を見るには自分の心に宿っている道徳性すなわち「善」で照らし出して見なければわからない。こういうふうに何事でも、みんな自分の心の内にないものは見えないということが会得されるのであります。

 では、存在(もの)の実相(ほんとのすがた)を観るにはどうしたらよいかといいますと、「自分の実相(ほんとのすがた)」によって存在の実相を照らし出して見るほかはないのであります。「存在の実相」と「自分の実相」とが互いに照らし合わされ触れ合ってカチカチと如実に鳴る、そこに存在の不思議な円満な実相がありありとわかる。なるほどこの世界は神が創造(つく)り給うた完全円満な世界であるとわかるのであります。

 この存在の実相を知る力は五官でない。これは仏教でいえば「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」すなわち「実相覚」といって一種の霊覚であります、しかしそれは霊覚といっても人間の怨霊(おにょう)や動物の霊魂の姿を見るような第六感ではないのであります。このような第六感で見える世界はやはり鏡のように澄みきった実相の世界ではなく、「実相」という鏡の上に「迷い」という息を吹きかけてできた曇りの模様のようなものを見別けるにすぎないのであります。

 で、われわれが確実に存在(もの)そのものの実相(ほんとのすがた)を知るには、五官を超越し、第六感さえも超越してこの「実相覚」によるほかはないのであります、だからわたしはこの「実相覚」にのみ遠慮なく頼って存在(もの)の実相(ほんとのすがた)を観ることにするのであります。

 五官はその世界を眺めて「すべては物質でできている」と申します。「実相覚」はこの世界を眺めて、「すべては妙々不可思議の霊質でできている」と申します。どちらがはたして本当でありましょうか。(霊質とは仮に不可説の霊妙な本質につけた名称であります。)

 「物質」と「霊質」とは牲質においても、本質においても正反対であります。どちらか一方が「真」であれば、どちらか他方が「偽」でなければなりません。どちらか一方が「実在」ならば、どちらかの他方が「非実在」でなければなりません。二元論は自己撞着に陥ります。

 存在(もの)の実相をとらえるには、われわれは「実相覚」によって「一つの神」すなわち、在りとし在らゆるものを在らしめている一つの力、生きとし生けるものを生かしている一つの力を認めねばなりません。「在る」ということと「生きている」ということとは「実相覚」で観れば一つのことであります。在るものはすべて生きている。存在とは生命の別名である。生命とは神の別名である。神とは完全の別名である。すなわち存在するものはすべて生命であり、神であり、完全であるのであります。

 けれどもわたしがここに「存在する」というのは物質的な相(すがた)で「あらわれている」ということではないのであります。形がここにあらわれていることを人は「ここにものがある」といい、形があらわれなくなったら「それは無くなった」というのでありますけれども、それはただ「迷いの客観化したもの」(forms of error)が映って出たとか消えたとかいうことを知る五官のハタラキだけのことであって、物質は仏典の各所に説かれているように、夢の如く虚妄不実のもので、親鸞聖人も「火宅無常の世界はみなもて、そらことたわごと、真(まこと)あることなし」といわれました。

1862復興G:2013/01/18(金) 21:41:30 ID:AB6RqYXc

 ありがとうございます。
 すでに「準備祈願」で祈りをしておりますが、もう一度招神歌を唱えさせて頂きましょう。

  生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
  吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
  吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
  天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ

  生長の家大神、第10回web誌友会を導き給う。
  すべての人々を「人間 神の子」の真理の奥殿に導き給う。
  ありがとうございます。ありがとうございます。


神よ、荘厳にして美しき緑なす丘、
透きとおる蒼空(あおぞら)に漂う白き雲、
山々の樹々に囀(さえず)る小鳥の歌、
清冽(せいれつ)なる渓流(けいりゆう)に泳ぐ金鱗銀鱗(きんりんぎんりん)、
万物はあなたの影を宿して生き生きと輝いています。
あなたの輝きをもて人類の心を照らしたまえ。
すべての人類が争うことなく
唯一つの神の生命(いのち)の岐(わか)れなることを自覚し
互いに手をつないで
み心が既に�`実相の世界�aに成るが如く
現象の世界にも、至福平和の世界が実現いたしますように、あなたの無限の愛をわれにそそぎ給え。
  (谷口雅春先生『理想世界』昭和34年3月号 「3月の祈り」より)

ありがとうございます。ありがとうございます。

1863復興G:2013/01/18(金) 21:44:27 ID:AB6RqYXc

み心が既に�`実相の世界�aに成るが如く

→み心が既に“実相の世界”に成るが如く

1864a hope:2013/01/18(金) 21:46:37 ID:TqpbsVIM

復興Gさま、トキさま、みなさま
今回もどうぞよろしくお願いいたします。


>>1860に復興Gさまが、謹写してくださった箇所ですが、この箇所には、とても厳しい真理が書かれていると思いました。

特に、
p103 2行目〜

>>…ひとを常に批評的に観て、「あの人はあんな行いをしたから、それは必ずこういう悪い動機からしたのであろう」と、
常に想像をたくましゅうしているような人は、その人自身の心に「悪」があるから、相手に悪があるとわかるのであります。
そうすると、他人の心情の「悪」が目につく人は必ず自身の心情に「悪」がある証拠であるから、決して他人の「悪」を批評したりする資格がないのであります。
だから「他人(ひと)が悪いな」と気がついた時は、「それがわかるのは自分の心のうちに悪があるからだな」と反省すべきであります。…<<

わたしは今まで普通に社会で生きてきましたが、他人の悪ばかり目についてきました。
今でも仕事をしていると、同僚や上司の「悪」と思える言動が目につきます。
まだまだ、自分の心の中には、たくさんの「悪」があるのだなあ〜と反省しなければいけないのですね。

1865復興G:2013/01/18(金) 21:53:09 ID:AB6RqYXc

テキスト『生命の實相』をしっかりと拝読、心読、霊読、体読して、お感じになったことをご発表ください。

時間はたっぷりありますから、ゆっくりとまいりましょう。

私は、特に上記 >>1861の後半で、

>> ……「在る」ということと「生きている」ということとは「実相覚」で観れば一つのことであります。在るものはすべて生きている。存在とは生命の別名である。生命とは神の別名である。神とは完全の別名である。すなわち存在するものはすべて生命であり、神であり、完全であるのであります。<<

というお言葉に、感銘を受けています。

1866復興G:2013/01/18(金) 22:00:32 ID:AB6RqYXc

>>1864 :a hopeさま。

すばらしい反省ですね。
「実相世界の現象化」のために、古事記神話の天之岩戸開きの項で

二、鏡を作りて中枝(なかつえ)に繋(か)ける。
(現象的あらわれを心の鏡として、自己反省して心を改める)

とあったのを思い出しました。

神社にも、ご神体は「鏡」というのが多いですよね。

1867神の子さん:2013/01/18(金) 22:15:10 ID:LRgaH7Fg
>>1860

>>「あの人はあんな行いをしたから、それは必ずこういう悪い動機からしたのであろう」

 耳が痛いご文章です。(笑)

 ちょっと、脱線しますね。ごめんなさい。

 昔、シンドラーのリストという映画がありました。まあ、ご存知の人も多いと思います。オーストリアの山師というか
実業家というか、オスカーシンドラーという男が、第2次世界大戦でドイツ占領下のポーランドにやってきます。で、
ドイツ軍の将官に賄賂をばらまいて強制収容所の囚人をタダで使う権利をもらい、会計士のイザック シュターンという
ユダヤ人を無理矢理パートナーに仕立て上げ、ユダヤ人の金持ちを脅して出資させて軍需工場を造ります。で、大金持ち
になるのです。別に彼は、善意で始めた訳ではなくて、自分が金持ちになりたい、という動機で始めたのです。
 大金持ちになったシンドラーは、酒の女に狂います。それを見た、シュターンは軽蔑の眼で彼を見ます。

 ところが、働いているユダヤ人にとって、シンドラーの工場で働いている間は生命が保証されるのです。それで、彼らは
口々にシンドラーに「ありがとうございます」と感謝をするのです。最初はシンドラーは不愉快になります。別に彼らを
助けるつもりで工場を始めたのではないから。しかし、毎日、口々にユダヤ人が彼に感謝の言葉を現している間に段々と
シンドラーの言動が変化します。

 やがて、戦局の悪化で強制収容所が閉鎖される事になります。このままでは、工場で働いているユダヤ人はガス室に送られ
ることになります。そこで、シンドラーはサディストの強制収容所の所長 アーモン ゲートに莫大な賄賂をわたし、ユダヤ人
をアウシュビッツ移送から阻止します。もうけた金を吐き出してユダヤ人を救おうとするシンドラーに、シュターンは、尊敬と
驚きの眼で、囚人のリストを示して言います。「このリストは絶対の善です」と。

 そして安全なチェコに収容所を移転させ、役人に賄賂を渡して囚人の殺害を禁止させ、最後は破産してしまいます。
戦争が終わって、彼に感謝をする囚人にシンドラーは、泣きながら、自分があんなに浪費をしなければ、もっとたくさんの人命
が救えたのに、と後悔をします。

 別にシンドラーは始めの動機は利己的なものでした。が、途中から、人々の感謝の言葉で、動機が変化したのです。映画を
見ていて、そう感じました。そう考えると、動機よりも、やっている人を拝む姿勢が大事かな、と思いました。

 どうも、関係のない話をして、ごめんなさい。

1868トキ:2013/01/18(金) 22:15:42 ID:LRgaH7Fg
>>1867はトキです。ごめんなさい。

1869復興G:2013/01/18(金) 22:23:00 ID:AB6RqYXc

>>1867:トキ様

人間は誰でも皆、本来神の子である。

だから、どんなことがあっても、結局は神の子の実相が顕現するように、神はつくられているのである、ということかなと思いました。

ありがとうございます。

1870復興G:2013/01/18(金) 22:24:49 ID:AB6RqYXc

では、もう少し テキストを謹写させていただきましょう。 
<p.106より>

     実相の世界における神人としてのわれの存在

 本当の人間――神が造ったままの人間――わたしが常に「真の人間(リーアル・マン)」または「神人(ゴッド・マン)」といっている人間は物質の人間ではないのであります。それは円相の人間、光明身の人間、自在身の人間、清浄身の人間、虚空身の人間、無憂苦の人間、絶対無病の人間――いくらわれらが上等の最上の言葉をもって説明しても、この物質界の事物を形容するためにできている現在のわれわれの通用語ではとても説明のしようがないほど完全な人間であります。

 そんな人間がこの世界に実際あるものかと疑う人もありましょうが、皆さんめいめいが今現に実相の世界においては、この霊妙な円相の人間、光明身の人間、自在身の人間、清浄身の人間……等々であられるわけで、それが本当の「あなた」なのであります。この「真の人間(リーアル・マン)」をおいてその他にあなたはないのであります。あなたは真の人間――すなわち「神の子」で神人(ゴッド・マン)なのであって、今あなたが、これこそ自分の身体(からだ)だと思っているその肉体は「ウソのあなた」「念の影のあなた」なのであります。

 『華厳経』の入法界品第三十四ノ十七には善財童子が文殊師利の教誨を受けて、無量の大知、無量の神通を得て、普賢菩薩の所行の道場に透入し普賢菩薩を見たということがあります。すると、「普賢菩薩の金剛蔵道場に在って如来の前に坐し、大衆に囲繞(いにょう)せられ、心虚空のごとくして染着(せんじゃく)するところ無く、心に退転なく、衆生のうちにおいて最勝最上にして、いっさいの世間能(よ)く壊(やぶ)る者なく、一切菩薩もその知恵の境界を察する能わず、不思議のもろもろの妙功徳を具(そな)え……云々」とありますが、この普賢菩薩というのはなんであるかというと「衆生のうちにおいて最勝最上である」とあるから、明らかに一個の人間であります。

 その人間が、一切菩薩もその知恵の境界を察する能わずというのですからよほどの大知恵を成就しているのであります。この大知恵を成就した普賢菩薩がどこに坐しているかというと、金剛蔵道場である。金剛蔵道場とは金剛不壊の実相世界であります。また『観普賢菩薩行法経』には「普賢菩薩はいまし東方の浄妙国土に生ず……身量無辺、音声(おんじょう)無辺、色像(しきぞう)無辺なり。この国にきたらんと欲して、自在神通に入り身を促(ちぢ)めて小ならむ」と書いてあります。衆生の一人でありながら、彼は実相世界(金剛蔵道場)に坐すときは、身量無辺、色像無辺であるので、われわれは神想観によって実相世界に帰一し実相人に接触することができるのであります。

 善財童子が金剛蔵道場の普賢菩薩を見たときの心はどうであったかと申しますと『華厳経』入法界品第三十四ノ十七によりますと、「正念して……虚空界に等しき心、一切無着の心、一切刹(せつ)を浄めて障礙(しょうげ)なき心、一切法の境界において障礙なき心、一切十方に充満する」等々の心を起こしたとあります。この正念して虚空界に等しき等々の心を起こすことが神想観であります。神想観中「生長の家」の神様の姿を拝するというのは、善財童子が正念して金剛蔵道場の普賢菩薩を見たのと同じようであります。

 すべての人は普賢菩薩と同じように衆生の一人であると同時に身量無辺、色像無辺、音声無辺なのであります。音声無辺であるというのは、われわれの実相は天地に満つるコトバであるからであります。これが金剛蔵道場すなわち実相世界における「われ」の実相(ほんとのすがた)なのであります。
<つづく>

1871復興G:2013/01/18(金) 22:26:15 ID:AB6RqYXc

<つづき>
 神想観に入る時に静かに端坐合掌瞑目して「われ今、五官の世界を去って実相の世界に入る。自分の坐っているのはこれ実相の世界であって、神の無限の知恵、無限の愛、無限の生命、無限の供給に満されている大調和の世界である。この大調和の実相の世界にいてわれ神の子として神より無限の生かす力の供給を受けつつあるのである」と念じて精神統一にいるのは、自己が衆生の一人であると同時に普賢菩薩と同じように身量無辺、音声無辺、色像無辺である自己の実相を悟らんがための行法でありまして、これこそ真正の観普賢菩薩行法なのであります。

 本当の自分の実相は今も儼然(げんぜん)として実相の世界(エデンの楽園)に存在する、今までも天地とともに生きとおして来た、これからも天地とともに生きとおして、朽ちず、老いず、苦しまず、病まず、悩まざる円相的妙楽の存在、金剛身、不可壊身、無量無辺身、自由自在身、久遠の如来、アブラハムの生まれぬ前より在るところの「久遠のキリスト」なのであります。

 今まで自分たちの実相をこの肉身であると思っていたのは自己の真性を磔(はりつ)けに架け、自己の実相をエデンの楽園から仮に追放して有限身をもって無辺身に換え、有限生命をもって無限生命に換え、自己の生命の実相を蔽い隠していたのであります。その蔽いを取りさって自己の内に宿るキリストを復活せしめる、これがキリストの再臨であり、普賢菩薩の在(おわ)す実相浄土「東方浄妙国土」の地上再現なのであります。

 これこそ一切苦厄を度(すく)う神癒の根本原理であってこの原理を、自分に宿る真理と宇宙に存する真理と相触れてカチカチ鳴る体(てい)の直接的認識作用すなわち「実相覚」によって悟らなければ、われわれは「本当の自分」――金剛不壊身(こんごうふえしん)の自己を掴むことができないわけで、この自己を掴むためにする修行が、毎日一定の時間を期してみなさんに実修していただいている「神想観」の修行であります。

 天理教祖が最初神憑(かんがか)りになったときに、その憑(かか)って来られた神は、「元の神、実の神である」といわれた。この「元の神、実の神」というものこそ「本来の世界にいる金剛身(かみ)」すなわち「実相の世界にいる神人」でありましょう。それはたんに普遍的な原理とか法則とかいうような冷たい存在ではなく一種の人格的存在である。しかしそれは物質的肉体をもっていられるかというと、それは霊妙身、金剛身、自由自在身であって、肉体をもっていられるのではない。これを仏教では「如来(にょらい)」といっているのであります。

 「如(にょ)」は「真如(しんにょ)」であり「大生命」であり、「神」であり、宇宙独一真神であります。この「真如」から来生(らいしょう)せし神人が如来であります。『生命の實相』第五巻霊界篇に収録せる「デンマーク戯曲家の霊界通信」にも、「人間とは神から放射された観念である」ということが示されてあるのでありますが、「神から放射された」ということは「真如から来生した」ということと同じことであります。

 太陽から放射された光線は、太陽とは決して別な存在ではない、太陽を離れて「太陽の光線」は存在しない、「太陽の光線」と太陽とは一体である。それと同じく、「真如」から離れて「如来」は存在しない、「如来」と「真如」とは一体である。そのごとくまた「神から放射された観念」であるところの「人間」も、「神」から離れて存在することはできないのであって、神と人間とは一体なのであります。

 だから「生長の家」の「智慧の言葉」には「道を歩く時には今神が道を歩いていると思え」とあるのであります。おなじようにわれわれは机に凭(よ)っている時も「今神が机に凭っている」と思うべきであります。夜寝床に横になる時にも「今、神が横たわっている」と思うべきであります。こういうようにして常にわれは神人であるという自覚を失わないようにすると、われわれは常に朗らかな光線ゆたかな気分を維持することができ、自分の実相の円満さが「影であるところの肉体」または「境遇」に映写されてきて、肉体は健康に境遇は幸福になってくるのであります。

 ありがとうございます。

1872a hope:2013/01/18(金) 22:46:54 ID:TqpbsVIM
>>1866 復興Gさま

ありがとうございます。

唯神実相の真理から考えると、「悪は本来ない」のですから、その「ないはずの悪」が見えてしまうというのは、
『自分のかけている心の眼鏡が曇っているから』だ、ということになるのでしょうか……?

相手の「悪」が見えてしまうのは相手に責任があるのではなく、
すべて自分自身の問題だということになるのでしょうか?

また、生長の家の教えでは「悪はない」と言っておきながら、「虚説と和解してはならない」
とも言っています。

「悪」と「虚説」はどう違うのか、はっきりとしていません。

御教示いただけるとありがたいです。

いつものごとく、質問だけしておいて、申し訳ありませんが、
わたしは、明日仕事が早番なので、今夜はこれでおやすみさせていただきます。
明日、また参加させていただきます。

それでは、わたしの愛する「生長の家」のみなさま、おやすみなさい。

1873トキ:2013/01/18(金) 22:52:55 ID:LRgaH7Fg
>>1871

「神想観に入る時に静かに端坐合掌瞑目して「われ今、五官の世界を去って実相の世界に入る。自分の坐っているのはこれ実相の世界であって、神の無限の知恵、無限の愛、無限の生命、無限の供給に満されている大調和の世界である。この大調和の実相の世界にいてわれ神の子として神より無限の生かす力の供給を受けつつあるのである」と念じて精神統一にいるのは、自己が衆生の一人であると同時に普賢菩薩と同じように身量無辺、音声無辺、色像無辺である自己の実相を悟らんがための行法でありまして、これこそ真正の観普賢菩薩行法なのであります。」

 私自身、フルタイムで仕事をしているので、仕事で接する場合には、なかなか相手を拝めない時があります。
仕事をしている人の多くはそういう人が多いと思います。それで、プロ野球や漫才をみて、ビールを飲んで寝てしまう。
 そうやって、ストレスの発散をする。

 一般の人は、そういう人が多いと思います。
が、それでも、やはり昼間の事を考えてしまう場合があります。で、若い頃は、まあ、今でもそうですが、
クヨクヨと考える場合があります。

 ただ、そんな心境で考えても、ロクな事はないみたいです。

 昼間、何があっても、原理原則に戻り、祈りで考えてみる。その中で、本当の向上があると思います。
 原理、原則というのは、ここに書かれている事だと思います。

 年齢が高くなると自然と悟とばかり言えなくて、やはり、自分から求めて学ばないと、ある年代で向上が鈍化すると
思います。これは恐い事だと思います。やはり、真理の本を読み、謙虚に考える。そういう姿勢は、きっと死ぬまで
必要なのかな、と思います。

 忙しくなると、どうしても、真理は真理、実生活は実生活と思いがちですが、本当は忙しい時ほど、学ぶべきなの
かと痛感します。でも、偉そうな事を言っても、まだまだ、私は修行中です。

1874復興G:2013/01/19(土) 00:05:36 ID:AB6RqYXc

>>1872 :a hopeさま。

>>唯神実相の真理から考えると、「悪は本来ない」のですから、その「ないはずの悪」が見えてしまうというのは、『自分のかけている心の眼鏡が曇っているから』だ、ということになるのでしょうか……? 相手の「悪」が見えてしまうのは相手に責任があるのではなく、すべて自分自身の問題だということになるのでしょうか?<<

>>また、生長の家の教えでは「悪はない」と言っておきながら、「虚説と和解してはならない」とも言っています。
「悪」と「虚説」はどう違うのか、はっきりとしていません。
御教示いただけるとありがたいです。<<

――たいへんよい質問を出してくださって、ありがとうございます。
(私は、テキストの御文章をアップしてからお風呂に入ってきました)

一つずつ、じっくりと考えてまいりましょう。

まず、①ですね。
>>唯神実相の真理から考えると、「悪は本来ない」のですから、その「ないはずの悪」が見えてしまうというのは、『自分のかけている心の眼鏡が曇っているから』だ、ということになるのでしょうか……? 相手の「悪」が見えてしまうのは相手に責任があるのではなく、すべて自分自身の問題だということになるのでしょうか? <<

そういうことですね。
でも、唯神実相の真理から考えると、「悪は本来ない」のですから、『心の眼鏡が曇っている』ということも「ない」のですよね。

「ないはずの悪」が見えてしまったというのは『自分のかけている心の眼鏡が曇っていたから』だ、と気がついたら、長くそこ(反省)に引っかかっていないこと。神の子はサル(反省ザル)ではありませんから、早くそこから去る。

自分を責めてばかりいないことです。あまり自分を責めていると、かえって周囲の人が責められているような、暗い気持になってしまうものです。完全な神だけしかない! というのが根本真理なのですから、そこに立ち還らなくては。
「光明一元」の、「悪は無い」――「自分の曇りもない」ところ、「自他一体の完全な神の生命だけがある、ありがたい。ただ感謝」というところに立ち還ることですね。

完全にその境地に到れば、「衆罪は霜露のごとし、慧日よく消除す」で、悪は消えてしまう、ということになると思います。

それは、a hopeさまも、
>>1822
>>わたしは最近、立ち向かう相手が現象においてどんな姿をしていようとも、自分がしっかりと「生長の家の教え」を理解さえしていれば、そんな姿は現実ではないのですから、まったく気にならなくなるような気がしてきましたよ。<<

と書かれていた通りですね。


②については、また明日考えさせて頂きましょう。
ありがとうございます。
では、おやすみなさい。

1875復興G:2013/01/19(土) 10:01:33 ID:AB6RqYXc

皆さま、おはようございます。

今朝、神想観をしましたら、次のような思いが浮かんできました。

生長の家の人類光明化運動は、神が始められた神の国運動である。

しかし、現在の有様は、天照大御神が岩戸隠れなさった時のようだ。『古事記と現代の預言』によれば――

≪須佐之男命の乱行により、時間の順序を司る天斑馬(あめのふちこま)が逆回転して、昼が夜になってしまった。即ち明るかるべきこの世界が暗くなってしまったのであります。すると、高天原(たかあまはら)も暗く見えるし、葦原中國(あしはらなかつくに)もことごとく暗く見えるようになったのであります。高天原は實相世界ですから永久に暗くなることはないのですが、見る人の心の秩序が顛倒して心が暗くなれば、どんなに光明遍照の實相世界でも暗く見えます。それは悟りをひらいた人には、この世界は「唯心所現の世界」即ち心の想いが展開した世界だとわかりますが、悟りのひらいていない人には、この世界が物質の塊の暗黒世界だと見えるようなものであります。

 高天原は實相世界(生命の世界)であり、夜見國(よみのくに)は暗(やみ)の國(無の國・暗は“光の無”であって積極的存在ではない)であり、黄泉國(よもつくに)とも称(い)われて、死の國であります。「生命の世界」が「無の國」にはたらきかけて、その中間にできた現象界が葦原中國(あしはらなかつくに)であります。葦(あし=悪)とも蘆(よし=善)とも称する青人草(人間)の生うる世界で、善悪混淆の現象世界が葦原中國であります。それが心の持ち方が顛倒して“悪し”の面ばかりがあらわれるようになり、喧々囂々(けんけんごうごう)として、あたかも安保反対闘争時の國会内外の乱闘さわぎにも似た状態があらわれて、所狭きまでむらがる蝿がブンブンと涌き立つような大騒ぎでいろいろの妖(わざわい)が無数に起こって來たというのであります。≫

――というよな状況になっていると思われます。

 しかし、現象界は実相世界の完全なすがたを、時間的順序を通して段階を追って展開して行く映画のようなものですから、天照大御神の岩戸隠れも必要なのである。それがあればこそ、岩戸開きが行われた後、いっそう素晴らしい世界が展開して行くのである。だから、憂えてばかりいる必要はないのだ。――そのように思われたのであります。

 必ず、岩戸開きは行われて、いっそう素晴らしい光あまねき世界が展開するときが来る! そのようになっているのだ! だから、>>1825の行事を、粛々と実行して行けばよいのだ!
 ――そういう確信が湧いてまいりました。

1876復興G:2013/01/19(土) 10:16:52 ID:AB6RqYXc

>>1825 修正
六、太御幣(ふとみてぐら)を奉祀(ほうし)して祝詞(のりと)をあげる。
× (�`大生命�a及び祖先の生命をお祀りして聖経または祝福の祭文を読誦する)
○ (“大生命”及び祖先の生命をお祀りして聖経または祝福の祭文を読誦する)

1877トキ:2013/01/19(土) 10:22:41 ID:uEWrvcJY
 おはようございます。素晴らしいご指導、ありがとうございます。

 他の皆様も、ぜひ、どんどんご参加下さい。

1878トキ:2013/01/19(土) 10:40:07 ID:uEWrvcJY
 人生でも、山あり谷あり。活動をしていても、うまく行く時期もあれば、どん底の時期もありました。

 法人としての生長の家もそうでしたね。白鳩が「決戦」という名前になった時期もあれば、紙がなくて
印刷物が出せない時期もありました。谷口雅春先生が公職追放をされた時代もありました。
先達はそれを見事に乗り越えてきたのです。

 後輩である我々も、後の世代に恥じないような態度で、この難局を乗り越える姿勢が大事だと
思います。

1879神の孫:2013/01/19(土) 11:18:57 ID:pic01rm6

虚説とは= 物質有り。  ですよね。

この物質世界が、この肉体が有る。と信じる。→ これ虚説。  ですかね。

1880復興G:2013/01/19(土) 11:36:01 ID:AB6RqYXc

さて、>>1874で書いたこと――

≪ >>唯神実相の真理から考えると、「悪は本来ない」のですから、その「ないはずの悪」が見えてしまうというのは、『自分のかけている心の眼鏡が曇っているから』だ、ということになるのでしょうか……? 相手の「悪」が見えてしまうのは相手に責任があるのではなく、すべて自分自身の問題だということになるのでしょうか?<<

――そういうことですね。でも、唯神実相の真理から考えると、「悪は本来ない」のですから、『心の眼鏡が曇っている』ということも「ない」のですよね。
「ないはずの悪」が見えてしまったというのは『自分のかけている心の眼鏡が曇っていたから』だ、と気がついたら、長くそこ(反省)に引っかかっていないこと。神の子はサル(反省ザル)ではありませんから、早くそこから去る。≫

――上記は、「小懺悔」にとどまっていてはだめだ。「大懺悔」すなわち、今回のテキスト『生命の實相』第2巻では

≪本当の人間――神が造ったままの人間――わたしが常に「真の人間(リーアル・マン)」または「神人(ゴッド・マン)」といっている人間は物質の人間ではないのであります。それは円相の人間、光明身の人間、自在身の人間、清浄身の人間、虚空身の人間、無憂苦の人間、絶対無病の人間――いくらわれらが上等の最上の言葉をもって説明しても、この物質界の事物を形容するためにできている現在のわれわれの通用語ではとても説明のしようがないほど完全な人間であります。
 そんな人間がこの世界に実際あるものかと疑う人もありましょうが、皆さんめいめいが今現に実相の世界においては、この霊妙な円相の人間、光明身の人間、自在身の人間、清浄身の人間……等々であられるわけで、それが本当の「あなた」なのであります。この「真の人間(リーアル・マン)」をおいてその他にあなたはないのであります。≫

とある、その「真の人間(リーアル・マン)」に立ち還ること。そして、ただ喜ぶこと。それが「大懺悔」である。

≪自分を責めてばかりいないことです。あまり自分を責めていると、かえって周囲の人が責められているような、暗い気持になってしまうものです。完全な神だけしかない! というのが根本真理なのですから、そこに立ち還らなくては。「光明一元」の、「悪は無い」――「自分の曇りもない」ところ、「自他一体の完全な神の生命だけがある、ありがたい。ただ感謝」というところに立ち還ることですね。≫

と、>>1874に書いていましたね。

ここでちょっと、プライベートなうれしい体験を書かせて頂きましょう。

今年は、私の最初の孫が20歳、成人式を迎えたんです。
長男の長男なのですが、息子の勤務地の関係で、ちょっと離れたところに住んでいます。
で、長男家族と両祖父母(嫁の両親も招待)そろって初孫の成人祝いの食事会を持ちました。

そしたら、孫が感謝の言葉を記したカードをくれました。
私宛のカードには、こう書いてありました。

<おじいちゃんへ
信念を貫くために、いつまでも志を持って生き生きとしたおじいちゃん。
小さい頃から、いつも明るいおじいちゃんと一緒にいると、本当に楽しくて幸せでした。
おじいちゃんのように、夢のある、いつも明るくて人から慕われる大人になりたいです。
   平成25年1月14日
             孫の名>

――孫からこんなカードをもらって、私は最高に幸せでした。
そして、このような幸せな時を持つことができたのは、谷口雅春先生のお説きくださった生長の家の御教えによって生きてきたからであると、あらためて感謝の念を深くしました。そして、これからもご恩報じのために、ますます明るく勇往邁進して生きなければならぬとの決意を新たにしました。ありがとうございます。

1881復興G:2013/01/19(土) 11:44:05 ID:AB6RqYXc

>>1879 :神の孫 様。
>>虚説とは= 物質有り。  ですよね。
この物質世界が、この肉体が有る。と信じる。→ これ虚説。  ですかね。 <<

ありがとうございます。
その通りですよね。

「神の孫」様のご発言を機に、

>>また、生長の家の教えでは「悪はない」と言っておきながら、「虚説と和解してはならない」とも言っています。
「悪」と「虚説」はどう違うのか、はっきりとしていません。
御教示いただけるとありがたいです。<<

の課題に取り組んでまいりましょう。

まずは、皆さまからの活発なご意見ご投稿をお待ちいたします。
ありがとうございます。

1882トキ:2013/01/19(土) 11:50:14 ID:uEWrvcJY
>>1880


 御孫様のご成人、おめでとうございます。さすが、復興G様の御孫様です。立派な方だと感服しました。

 子供の頃は、大人になると自動的に「立派な人」になるのだろう、と想像していましたが、そんな事は
なくて、普段、強い信念をもち、まじめに努力しないと尊敬される大人にならないとわかりました。
 その意味で、正しい信仰を持つ事こそが、高齢になってからの人生を左右すると思います。
 復興G様は、その点、やはり先達だけに、尊敬できます。

 余談ですが、取引先のある老人の方が違う意味で教訓になりました。某帝国大学を卒業し、当時の
高等文官試験(今の国家公務員1種試験)に合格し、某官庁に勤めていた人です。が、威張るので
家族からも嫌われてしまい、退職後は天下り先で寂しい人生を送っていました。仕事で接する事が
あったので、休み時間に話し相手になると、喜んでおられました。生長の家の行事にも誘いましたが、
ご自分の信仰があるので、断られてしまいました。

 復興G様は、その点、ご高齢と拝察しますが、信徒から尊敬され、家族から愛され、ネットでも
頼りにされています。さすがに生長の家の先達だけの事はあります。信徒の手本ですね。

 私も、復興G様を手本に、精進を重ねたいと思います。

1883復興G:2013/01/19(土) 12:43:00 ID:AB6RqYXc

>>1882 :トキ様。

過分なお言葉に、穴があったら入りたい気持です。

でも、「実相の真人(リーアル・マン)なる私を讃嘆してくださったと思い、感謝いたします。
ありがとうございます。

1884復興G:2013/01/19(土) 12:48:12 ID:AB6RqYXc

さて、ほめて頂いたので、② の課題に取り組む前に、また調子に乗って脇道へ行くことをお許しください。課題と必ずしも無関係ではないと思いますので……

>>1880 の最後に孫のことを書かせて頂いたつづきなんですが……

私は成人式の翌日15日に、孫宛にメッセージを贈りました。次のようなことを書いて――。

≪……14日成人祝いの日、東京では朝から空は暗く雨が降っていて、やがて雪に変わり、そのため交通渋滞も起きて私は祝賀会場のつくば山水亭へ行くのに40分も遅れて、ご迷惑をかけてしまった。

せっかくの祝いの日に、なんで?
と、私もはじめは思った。

しかし、思い直した。
悪い天気なんていうものはない。雨も、雪も、嵐も、みんな素晴らしいよい天気なのだ。
毎日晴ればかりだったら、植物は育たない。干ばつで土地はひからび農作物も穫れなくなって、飢饉になる。雨も必要、雪も必要、嵐も必要なんだ。そう思い直した。

人生も、晴れのような、楽なことばかりではない。それがいいのだ。苦労もあった方が、人生の味わいも深くなり、喜びも大きくなる。人間が大きくなるのだ。だから、困難も、挫折もよいことなのだ。だから、雪の日の成人祝い、おめでとう!

ドイツの文豪ゲーテは、「若くして求むれば、老いて豊かなり」と言った。

この場合の「求める」というのは、他に求めるのではない。
志を高く持って、どんなことに出会っても貪欲にそこから魂の栄養を吸収するということ。
「豊か」というのは金持ちになることではない。精神的財産をいっぱい持っていること。

アンドレ・ジイド(1869〜1951)というフランスの文学者は、「文学における影響について」という講演で、次のように言っている。(ジイド『プレテクスト』小林秀雄・河上徹太郎訳より)
       ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆
 紳士淑女諸君
 私はこれから影響というものの弁護をいたしたいと思います。
世には善い影響と悪い影響とがある、そう一般に考えられております。私はこれを区別しようとするのじゃない、凡そ影響というものを善いものも悪いものも引っくるめて弁護しようとするのであります。
 甚だ善い影響だが、誰もそうとは思わない、そういう影響があると思う。
 絶対に善い影響、絶対に悪い影響というようなものはない、善い悪いはこれを受けるもの如何にあると思います。
 私の考えでは、世には何事につけても巡り合せが悪く、事がうまくはこばないような劣等な性質を持った人があるが、反対に、何でも結構な糧(かて)となし、言わば石ころもパンに変えてしまうような性格をもった人もあると思います。「ヘルデルがまさに私に教えたいと思ったものは、すべて貪り食らった」とゲエテは申しております。
       ○
 偉大な精神が貪るように影響を求めるというのも、そういう人たちは自分自身の富を確信し、本能的な感情に溢れ、自分に固有の豊富さに就いて淳朴で、新しい花のひらくのを楽しみにして待っている、そういう具合に生きているからです。
       ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆
――この中から生き方の糧となるものをくみ取って、幸福な人生を築いて行ってほしいと切に願っている。
 では、あらためて、成人おめでとう! 君は必ず人生の勝利者となる! ≫

――上記は、私から孫に贈ったメッセージの一部です。

1885復興G:2013/01/19(土) 13:27:09 ID:AB6RqYXc

上記のメッセージをここに貼らせて頂いたのは、アンドレ・ジイドの言葉にも、常に自分の偉大な可能性を信ずる光明思想が背後にあると思ったからです。

≪本当の人間――神が造ったままの人間――わたしが常に「真の人間(リーアル・マン)」または「神人(ゴッド・マン)」といっている人間は物質の人間ではないのであります。それは円相の人間、光明身の人間、自在身の人間、清浄身の人間、虚空身の人間、無憂苦の人間、絶対無病の人間――いくらわれらが上等の最上の言葉をもって説明しても、この物質界の事物を形容するためにできている現在のわれわれの通用語ではとても説明のしようがないほど完全な人間であります。≫

と言っても、
<釈迦の弟子中でも有数な高弟、迦葉(かしょう)さえも、この肉体にとらわれて本当の体――金剛身(こんごうしん)、不可壊身(ふかえしん)、常住身を見ることができなかったらしいことが、お経に出ているのであります>
と、テキストの112ページには書かれています。

≪『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』巻三、金剛身品には次のように書いてあります。
 「善男子(ぜんなんし)、如来身とはこれ常住身、不可壊身(ふかえしん)、金剛身、非雑食身(ひぞうじきしん)、すなわちこれ法身なり」と釈迦が弟子の迦葉にいわれた。すると迦葉は釈迦に向かって「世尊、あなたの所説のごとく、かくのごとき霊妙身をわたしは少しもあなたに見ません。ただ無常、破壊(はえ)、塵土(じんど)、雑食(ぞうじき)等のあなたの身を見るばかりです。なぜかといえば、如来よ、あなたは今涅槃(ねはん)というて肉体が滅びようとしていられるではありませんか」といった。そこで釈迦が迦葉に答えていわれた「なんじ、いまわたしの肉体が死ぬにしても、本物のわたし――すなわち如来の身を不堅(ふけん)、可壊(かえ)の無常なる凡人の身だというてはならない。なんじは今まさに知らねばならない、如来の身は無量億劫、無始無終に堅固であって破壊しがたきものである。……」と。これはキリストが「アブラハムの生まれいでぬ前(さき)よりわれは在る」といったのと好一対で、たれでも「本当の自分」というものを実相において眺めた者はそれがわかるのであります。≫
(テキスト『生命の實相』第2巻112〜113ページより)

私たちはふだん肉眼を持って目に見える現象世界を見ていますから、目に見えない実相身を悟ることは、釈尊涅槃の時でも、高弟の迦葉尊者でさえできていなかった。それくらい、ある意味で難しいことなんですね。

で、
>>生長の家の教えでは「悪はない」と言っておきながら、「虚説と和解してはならない」とも言っています。
「悪」と「虚説」はどう違うのか、はっきりとしていません。
御教示いただけるとありがたいです。<<

これも、>>1879で「神の孫」様が
>>虚説とは= 物質有り。  ですよね。
この物質世界が、この肉体が有る。と信じる。→ これ虚説。  ですかね。 <<

と書き込んでくださいました通りだと思いますが、それが「悪」とどう違うか――なかなか難しい課題だと思います。言葉の上だけで「こうだ」と論議することはできても、魂が納得して、生まれ更わりができないと――と、思ってしまいます。

でも、いろいろな面から、御教えの骨髄、精髄に迫ってまいりましょう。

皆さまのご発言をお待ちします。
ありがとうございます。

1886トキ:2013/01/19(土) 18:23:29 ID:uEWrvcJY
 ご説の通り、「虚説」とは、物質あり、という考え方かと思います。とはいえ、かって、大川隆法が
「谷口雅春霊言集」なる本を捏造し、純粋な信徒を惑わした時に、機関誌には「虚説に惑わされるな」と
いう題材で文章が載りました。広く考えると、神様から天下った信仰ではなくて、人間が造った捏造の
信仰も意味するのかもしれません。

 ただ、安易に「虚説」という言葉を使うと、濫用と言いますか、自分と違う意見はみな、虚説という
事になりかねないと思います。中世の欧州では、「異端」という言葉が暴走して、魔女狩りのような
ことを宗教家がしました。

 あくまでも自分を戒めるための言葉であると、私個人は考えています。

合掌 ありがとうございます

1887復興G:2013/01/19(土) 19:46:26 ID:AB6RqYXc

そうですね。
ありがとうございます。

「虚説に和解してはならぬ」というのは、特に『生命の實相』第14巻第4章(p.55〜65)に書かれていることでありますが、
ここを部分的に読むだけでなく、『生命の實相』第13巻〜14巻の「倫理篇」全体をしっかり拝読して、谷口雅春先生の
お悟りの境地に近づく努力を抜きにして喋々すると間違うおそれが多いと私は思います。

私は今、その点をしっかりとふまえるよう、「倫理篇」の中の大切なポイントを謹写中です。
後ほどアップさせて頂きます。

1888SAKURA:2013/01/19(土) 20:21:43 ID:dGeUHjWM
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■大変…御無沙汰いたしております。
いつも「復興G様」の【抜粋テキスト…】ありがとうございます。
実は〜〜〜><事務所に「生命の実相…2巻」を置いていましたし〜〜〜
遅くなりましたが…【WEB誌友会】に参加させて頂いても宜しいでしょうかう??

唯今【事 務 所】にいます。

「トキ様」の“コメント”に私も“後…で?”……と「先延ばし??」かと思いました。…が?
今、旨く言葉として表現が??出来かねますかもと。此処で、簡単に“コメント”させて頂きます。

さて!!実況中継ですが(冷汗)今から【2巻…】を読んでいきます。…が?現在の時点の思考です。

■■【 虚説 = 悪 】でしょうかとの事ですが???
先程「トキ様」の投稿の【魔 女 狩 り】です〜〜〜ョネ!
あの時代は、【人間が霊的な事が、できます人に対し、そうですネ!例えば“物品を移動する事”が
できる人…そのような人に対し“対象人間”とされまして【魔女狩り…】でしたモノ。
当時の「霊媒師」は、悲惨な時代背景でしたでしょうかと。
つまり、世間一般では【認 め な い 心】そのものです〜〜〜ョネ?

■例えば、私も【悪 は 本 来 無 い】と思います。…が?それはこの「現実世界=現象世界」
に於けます視野にて、見える範囲?感じます範囲?では……?今の私は…ここでよく云いますが??
【吸血鬼・ゾンビの人達】は、【悪との取引での…行動】なのです〜〜〜ョネ!そのような人達は、
【悪…との自覚】は、全く無いものと思っております。…が?この【捉え方の相違…】

では?私と云いますと【吸血鬼・ゾンビ達は…“悪”そのモノ】と見ている訳です〜〜〜ョネ!
ここが【ポ イ ン ト】で、彼らの“悩み”を、第三者である他人が、相談を受け聞いていく
事は、果たして【解決策…】は、どの様になりますでしょうかと。

それは〜〜〜“悪…”という定義の相違ともうしますか【無理…】というものではないでしょうかと。

同じような「境遇・環境の人間…」が、そこで【悪…の定義】が異なる事を、自覚しまして、
始めて“目ざめる!”とします、そのような人間を【救済ができる…】のではと思います。
【 類 の 法 則 】かと。

■【本来は、悪は無いのです。】…が?、私の見方と?彼らの見方?の相違にて見えるのは、
彼らが【お金…】に負けて、相手に対し如何なる行動【嫌がらせ行動・からかいの行動…etc】を、
しても、それは、かれらの【世界観での尺度…】で見てるのですから〜〜〜
本人達に取りましては【悪…】とは取らないのでしょうかと。つまり、私が、彼らに対し
【悪 … 悪 魔】と見なしても、通じないのも“当たり前”ととるべきでしょうか?ですから、
【私は悪は本来ない!と……彼らが、ワザと来ても…><本来は存在しない!と見ていく事】が、
この五感で見えます【現象…】に、惑わされず、いつしか消えていく事に繋がるのではと思います。

【吸血鬼・ゾンビ…】は存在しないという感じで…視界を変えて、みていけば〜〜〜
これらの「現象…」に振り回される事もなくなるのではと、皆様の投稿を閲覧しながら、
フト!フト!〜〜〜思いました次第です。…が?
この【訓 練 中】〜〜〜〜〜でしょうか??

1889SAKURA:2013/01/19(土) 20:32:45 ID:dGeUHjWM
「復興G 様」 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1887の「復興G 様」の言葉から〜♫〜
■>「虚説に和解してはならぬ」というのは、特に『生命の實相』第14巻第4章(p.55〜65)
…云々…<  (一部抜粋の言葉)

本当に【この言葉…】実感しました。“認めない〜〜〜こころ〜〜〜”ですネ!!
つまり【つかまえる“心…”も…認める事になりますでしょうかと〜〜〜】ですが?
とても〜〜〜とても〜〜〜【難問…】です。唯今!実行中…です。

1890a hope:2013/01/19(土) 22:02:04 ID:TqpbsVIM
みなさま こんばんは

>>1867トキさま

シンドラーのリストという映画の興味深いお話をありがとうございます。
わたしも、そのお話ほどではないのですが、似たような経験があります。

わたしがPTA役員をしていた時なのですが、PTA会長の役の引き受け手がなくて困っていると、
あるお父さんが快く引きうけてくださいました。
彼は年齢もとても若かったですし、わたしには最初、彼がとても頼りなく見えました。
ですが、周りから、快く引き受けてくれたこと感謝され、
「会長、会長」と呼ばれ、頼りにされていくうちに、
最初頼りなく見えた彼にだんだんPTA会長らしい貫禄が出てきました。
そして、最後の卒業式にはとても立派な感動的な挨拶をしてくれました。

そんなことから、わたしは、人というのは、周りから感謝されたり、
頼りにされたりることでずいぶん変わるものなのだな〜と実感しています。

先日、うのはなさまが、信仰/体験板>>914で「ありがとうごさいます」
の言葉が起す奇蹟のお話を紹介してくださいましたが、心からの感謝の気持ちというのは、
ほんとうにありえない奇蹟を起こせるのではないかと感じています。


>>1874>>1880復興Gさま

わたしの二つの質問を取り上げて下さりありがとうございます。
①>>唯神実相の真理から考えると、「悪は本来ない」のですから、その「ないはずの悪」が見えてしまうというのは、『自分のかけている心の眼鏡が曇っているから』だ、ということになるのでしょうか……? 相手の「悪」が見えてしまうのは相手に責任があるのではなく、すべて自分自身の問題だということになるのでしょうか? <<

に関しては、お返事をありがとうございます。
小懺悔は必要だけれども、長くそこに引っかかっていてはいけないのですね。
「真の人間(リーアル・マン)」(つまり「神の子」ですよね?)の自覚=大懺悔の心境にならなければいけないのですね。

そして、この自覚を深めるために、神想観をするのですね!
だんだん解ってきました。
すばらしいをご指導をありがとうございます。

②に関しては、わたしも、生命の實相「倫理篇」をじっくり読みなおす必要を感じています。
引き続いての御指導、どうぞよろしくお願いいたします。

また、お孫さんがご成人されたとのこと、おめでとうございます。
すばらしいお孫さんの感謝のお言葉と、復興Gさまのお孫さまへのメッセージ、
今から、もう一度ゆっくり拝見させていただきます。

感謝 合掌。

1891a hope:2013/01/19(土) 22:02:48 ID:TqpbsVIM
SAKURAさま

ご参加、とてもうれしいです。
「悪」と「虚説」の関係を本当に理解するのはとても難しいことのようですね。

ですが、これは「生長の家の教え」を正しく法燈継承するには、
避けては通れない重要な問題だとわたしは感じています。

ここで、お勉強できることに心から感謝しています。

そして、先輩方の御意見をたくさん聞かせていただいて、
自分なりに納得のいく答えが見つかればいいなと思っています。

1892a hope:2013/01/19(土) 22:18:16 ID:TqpbsVIM
>>1879神の孫さま

はじめまして!

>>虚説とは= 物質有り。  ですよね。
この物質世界が、この肉体が有る。と信じる。→ これ虚説。  ですかね。<<

つまり、唯神実相 (一元論)以外の二元論を信じることが虚説であるということなのでしょうか…?

ご参加してくだったことに心より感謝しています。
御教示ありがとうございました。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

1893復興G:2013/01/19(土) 22:37:50 ID:AB6RqYXc

a hopeさま

おかえりなさい。ありがとうございます。

『生命の實相』第13巻・14巻「倫理篇」には、今回のテキスト第2巻第3・4章に書かれてある根本真理を、さらに系統立てて詳説してあり、大変勉強になります。

そして、a hope様が提起してくだいました

>>生長の家の教えでは「悪はない」と言っておきながら、「虚説と和解してはならない」とも言っています。
「悪」と「虚説」はどう違うのか、はっきりとしていません。
御教示いただけるとありがたいです。<<

という課題についても、詳しくご教示くださっていますから、そのポイントとなるところを謹写、掲示させていただきます。

<倫理篇 永遠価値の生活学(1)>

(『生命の實相』第13巻 p.112〜118より)

   第四章 自心の展開としての客観世界

 ……(前略)……
 仏教では「三界は唯心の所現であり、心外に別に存在無し」と申しますが、それを徹底的に実生活の上でも実証せしめているのが「生長の家」であります。キリスト教でも「口に入るものなんじを汚さず、口より出ずるものなんじを汚す」とイエスがいっていますのは、外にあるように見えているものは、本当は外に独立性をもっているものではないから、それ自身で穢(けが)す力はない、外の物で穢されるとか穢されぬとかいうけれども、実は外は内界の投影であるから、もし汚されるならば、内から出るものすなわち「心」によって、および心によって発せられる「言葉」によって汚されるのだといっているのであります。

 われわれは日常生活において、「これは外界だ、われわれの心ではどうすることもできない」と思っている事件や、周囲の人々の行為や心持ちが、われわれ自身の一個の心を変えることによって、事件が変わってき、人々の行為や心持ちが変わってくる事実によって外界はわれわれ自身の内界の投影だということがわかってくるのであります。(中略)

 ……その一、二例をあげておきますならば……(略)……こういうようにこの二人の親が見本であります。子供は母親にとって一見すれば外界の存在のように見える。外界の存在だと思って、外界扱いをして、内界をうっちゃらかして、外界ばかりを治そうとしてみても治らないが、内界を治してしまうと、外界と見える子供の病気が治ってしまう。すなわちこの二人の母親にとっては、彼女の子供は彼女の「外界」ではなく「内界」だったのであります。

 これを押し広めて考えてみますと、彼女の子供だけではなく彼女の周囲いっさいのものいっさいの人々が、彼女の外界の存在ではなく、彼女の内界の存在であることが判明するのであります。さらにこれを押し広めて考えてみますと、すべて「外界」というものは無い。すべてが自己の「心内の存在」だといいうるのであります。

 こういうようにしてすべてが自己の心内の存在であるということを悟るのが、本当の知恵というものなのです。すべてが自己の心内であるということが解ると、本当に「自他一体の実相」がわかってくるのであります。言葉の便宜上、自他一体と仮に申しますけれども、「他」は本来無い、「自」ばかりなのであります。彼Aも「自分」であり、彼Bも「自分」であり、彼Cも「自分」なのであります。三界は「ただわが心の所現」であることがわかるのであります。

 で、罪とは「自他一体」の実相を知らないことであるとともに、「三界はただわが心の所現である」との真理を隠蔽して知らないことをいうのであります。客観世界がただ自心の展開であることを悟らないために、外界に見える事物を「内界の存在」だと知らず、外界に心を捉えられ、心をひっかからすために、ここに「五官的存在」に捉われる罪(隠蔽)が顕われてくるのであるのであります。
<つづく>

1894復興G:2013/01/19(土) 22:40:03 ID:AB6RqYXc

<倫理篇 永遠価値の生活学(2)>

(『生命の實相』第13巻 p.140〜141より)

     教育の目的

 教育とは道徳教育にせよ、職業教育にせよ、芸術教育にせよ、知能教育にせよ、本当にあるものを現われの世界に引っ張り出すところの方法、本当にある値打を現実の世界に延長し出してくるということであります。そこでこの人生の目的も、道徳の目的も、教育の目的も、芸術の目的もみな一つの本当にあるものに一致してくるということになるのであります。むろんそれが一致してこなければならないというのは、それはすべての価値は本当にあるものに源を発するのであり、人生の目的は、本当にあるものを現わすにあるからなのであります。人生の目的がそうであるとしますと、道徳の目的も、芸術の目的も、教育の目的も、さらにもっと進んでいえば、あらゆる人間の文化活動の目的はいずれも本当にある値打をいかに現わすか、ということが根本になるわけなのであります。

     教育方法論の根拠

 ところが、今までは教育にせよ、人生における諸般の訓練にせよ、たいてい本当にあるものを現わすために、「ここが現われておらんぞ」といって、その現われておらない悪いところを指したものです。
 「お前は腹立てているな。腹立てることは、値打のないことだから止せよ」という。すると、相手はますます腹を立てるというようなぐあいだったのです。「悪しきもの」は「真価がないこと」であり、「本当にあるもの」は必ず価値があるとすると、「悪しきもの」を指さして、そこから善きものを生み出そうとすることは、「無い」ものを指さして「有る」ものを呼び出そうとする愚かさであったのです。「悪」ということは実在が現われていないということ、本当にある価値が現われていないということであって、決して積極的存在ではないのであります。ですから、その無い現われに執着しないで、本来無い「悪」が現われているのは心の支持力で、あるかのごとく現わしているのですから、心を「悪」から放下して光明の言葉を発せば消えるのであります。ところが、これまでの教育は、無い「悪」をわざわざ言葉に現わして指摘し、これを表現して、ますます強く心に思い浮べますから、ない「悪」が言葉の支持力によって消えないのであります。今まで教育盛んにしてますます「悪」が盛んになったのは、「悪」を指摘し、「悪」を心の世界に描くようにしたからであります。心の世界で「『悪』というものはないんだ、あるかのごとく見えても、それは心をそこから放下してしまえば本来無いのであるから消えるほかはない」と、全然考えないことにいたしますと、それで消えてしまうのであります。

(『生命の實相』第14巻 p.6〜15より)

     悔い改めよ天国は近づけり

 この「生まれ更わる」ということをまた「悔い改め」というのであります。イエスはその弟子を遣わして「悔い改めよ、天国は近づけり」と宣べ伝えしめました。この言葉は英訳の聖書では“Repent, for the kingdom of heaven is at hand”と書いてあります。この“at hand”という言葉は手近にある、そこに利用しうるように手の届くところにあるという意味であって、これから近づいてくるという意味ではないのであります。だから「悔い改めよ、神の国は近づけり」というのは、「神の国がこれから来るからその準備のために改心せよ」というのではないのであります。

 悔い改めよというのは、心をクラリと転向せよ、今までこれが自分であると力んでいた「自分」はそれは「本当の自分」ではなかった、それは「ニセ物の自分」であった、「本当の自分」は別にあった、それは「神の子なる自分」であったと悟る。ここに完全に「われの転回(おきかえ)」というものが行なわれる。これが悔い改めであり、新生であるのであります。こういうように悔い改めが行なわれ、われの転位というものが行なわれますと、もうそこにはチャンと手の届くところに、生きて利用できるところに神の国というものが現われているのであります。「悔い改め」すなわち「われの根本的置き換え」と同時に「神の国」――幸福の国、常楽の国――は実現するのであります。
<つづく>

1895復興G:2013/01/19(土) 22:41:50 ID:AB6RqYXc

<倫理篇 永遠価値の生活学(3)>

(中略 p.12〜)
 「悔い改め」はこういうように「われの置き換え」――「ニセ物のわれ」を「本物のわれ」に置き換える悟りでありますから、いつまでも「自分は悪い」に引っかかっているのはいけないのであります。高橋正雄さんでも、「われの置き換え」ができるまでの「自分」を「悪い悪い」といっていられますけれども、「われの置き換え」のできてしまってからの「自分」を悪い悪いとは思っていられないのであります。むしろ「自分は偉い」と思っていられるからこそ雑誌を出したり講演に出かけていって道を説いたりしていられるのであります。この「自分は悪い」ということにいつまでも引っかかっていたら今の高橋正雄さんは無いのであります。今でも高橋正雄さんは「すまぬすまぬ」などと講演していられますが、高座へあがって講演したりせられるところを見ますと、本当は「自分は偉い」と思っていられるに違いないのであります。

     悔い改めは「悪を犯すまいの決心」ではない

 また「悔い改め」とは一悪一悪と順次悪を減じて、一善一善と順次「善」を積み立ててゆくということではありません。全体の悪が、クラリと光の方向へ転向してゆくことなのであります。われ全体の乗り換えができず、いつまでもおとぎ話の「カチカチ山」の狸のように泥の船に乗っていては、一つ、二つ、三つと水の浸入口を順次埋めていっても、結局その船は沈んでしまうほかないのであります。

 泥船はただ一つ水の浸入口が明いているだけでも沈んでしまうのであります。毎日具体的な一悪一悪を減ぜんとしてできるだけ罪を犯さないようにしましても、完全に「われの置き換え」というものができていないで、いつまでも泥船に乗っているのではまたどれだけでも水の浸入口ができてくるように、また別の悪が湧き出てくるのであります。だからわれわれはいくら悪を犯すまいと思っても「ニセ物のわれ」という泥船に乗っているかぎりは、次から次へと「悪」が出てくるのであります。

 これでは本当の悔い改めとはいうことはできない。泥船の孔を塞ごうと決心することが、われの乗り換えではない。悪を犯すまいと決心することが悔い改めではない。孔のあきやすい泥船から、金剛不壊の実相のわれに乗り換えてしまうことが悔い改めなのであります。

 金剛不壊の実相の船に乗り換えてしまうと自然に船に孔があかなくなる、その人の行ないにボロが出なくなる、自然にその人から悪行が消えてくるのであります。

(『生命の實相』第14巻 p.24〜25より)

     悔い改めと世界の変貌

 「悔い改め」というものは、ちょっと考えると心だけの問題のようでありますけれども、これは「われの置き換え」――われそのものの内容がクラリと一転してしまうことでありますから、それはただ心だけの問題ではない、世間そのものが一変して別世界になるのであります。自分が変われば世界が変わるということはちょっと考えると「そんなことはあるはずはない」と思われるかもしれませんが、自分が変わればその人の世界が変わる。自分が眼を開けば世界は明るい、自分が眼を閉じれば世界が暗い。これは事実であって、理屈ではない。理屈であればなんとでも駁撃(ばくげき)することができるのでありますが、事実であるからなんとも否定のしようがないのであります。

 われわれは心がクラリと一転して「偽存在のわれ」を見なくなり、「真実在(ほんもの)の神に創造(つく)られたままのわれ」を見ることをキリスト教では「悔い改め」と申しますが、仏教では「サトル」と申します。「サトル」には「覚」という字を書く。そして「サトッタ人」を仏といい、覚者という。この「覚」という字は「覚める」という字であります。われわれが夢を見ている、夢の中でわれわれはある環境の中に住んでいる、夢の中ではその環境は実在だと思っている。しかし一たび覚めると環境がクラリと変化してしまう。なんじゃ悲劇の中にいたと思っていたのに蒲団の中かとわかる。しかし夢を見ている人に「それは夢だよ。覚めたら、お前の周囲の事情は、お前が今見ているような不完全な状態ではない」と教えてやっても、覚めるまではわからない。それと同じで、覚(さと)れば環境までも変わってくるものだということを、まだ覚らない人に教えてあげてもなかなか解りにくいのであります。
<つづく>

1896復興G:2013/01/19(土) 22:42:37 ID:AB6RqYXc

<倫理篇 永遠価値の生活学(4)>

(『生命の實相』第14巻 p.55〜65より)

   第四章 和解の倫理

     悪魔の試みにも和解すべきや

 われわれが神の方ヘクラリと向きを変え、神に従って生活しようと決意したとき、かえってその神に従う生活に反対し邪魔をしようとするような環境があらわれて来ることがあります。この状態をキリスト教では「試みに逢わせられる」と申しますし、ある教えでは「引っかけ戻しの仕組みである」といっています。それはあたかもわれわれが神想観をして精神統一をして、ただひたすら「神と一体」なる観念に精神を集注しようとしますとき、いよいよますます雑念が浮かび上がってくるようなものであります。「生長の家」倫理学の中心思想は、「人と神と一体であり、万(よろ)ずのもの皆神より出でたるものであるから、なんじを害するものは一つもないのであるから、天地一切のものと和解せよ」ということであります。そこで天地一切のものと和解するには、天地一切のもの、すなわち異端邪説とでも和解したらよいかどうかが問題になるのであります。

 卑近な例を引いてみればいっそうよくわかると思いますから、先日、大阪から来られた浜田夫人の「家ダニ退治」のお話を申し上げましょう。それはその人が近ごろ引っ越していった家にたくさんの「家ダニ」がいて、その「家ダニ」に触れると、南京虫の食い跡のように腫れ上がって痒(かゆ)いのであります。ホルマリンガスの燻蒸消毒を三回おやりになりましたが、それでも「家ダニ」が絶えないのであります。それでその家の奥さんが、「万教帰一篇」第六章に書いてある「南京虫に食われぬ話」を思い出されまして、実相の念力で「家ダニ」を逐(お)い出して見ようとお考えになりまして、神想観をして大体次のように実相を念ぜられると、その翌日から「家ダニ」がその家から消滅したのであります。――
 この家は人間の棲居(すまい)であって家ダニの棲み家(すみか)ではない。家ダニには家ダニの棲み家があって、実相の世界においては、互いに相侵すことなく完全に調和しているのである。自分は家ダニを害することなく、家ダニは自分を害することなく、完全に調和しているのが生命の実相である。
 こう繰り返し念じながら、実相の互いに相傷つくることなき調和した相を念じていると、家ダニとその人との関係に実相が鮮やかにあらわれて、家ダニは、家ダニの棲み家に帰り、人間をささなくなったのであります。この事実は、その翌日たずねて来られた神戸の田村福子さんも、自分の家で同様に念じて家ダニのいなくなったことを、こちらから求めざるに自然話し出されたので、浜田夫人の場合が決して偶然でないということがわかったのであります。今この事実を考察してみたいのであります。
<つづく>

1897復興G:2013/01/19(土) 22:43:21 ID:AB6RqYXc

<倫理篇 永遠価値の生活学(5)>

 ここに「和解の倫理」がハッキリと顕われているのであります。和解するのは誰と和解するのかというと、「自分を害する家ダニ」と和解するのではないのであります。「害する者」と和解するのは、「害する者」をのさばらせることになるのであります。

 たとえば、結核菌という、人間を害する敵と和解することを考えてみます場合、結核菌は人間を害するものだと思いながら、結核菌と和解するつもりでことさらに結核菌を培養して、これを呼吸器に吸い込むということにいたしましたならば、いかにも結核菌と人間とは和解したように見えるかもしれませんが、それは「実相の結核菌」と和解したのではないのであります。

 「生長の家」倫理学の特色といたしますところは、存在を「実相]と「仮相(まよい)」とに別けることであります。そして「仮相」は存在するように見えても、それは非実在(ない)というのであります。そして「実相」だけが存在するのであって、その「実相」は完全であるというのであります。

 例をあげていえば、人間に結核病を惹き起こす毒物としての結核菌は、それは仮相であって実相ではないのであります。この場合、われわれが仮相の結核菌を認め、許し、それに触れ、それを培養することにすれば、われわれ人類は滅びるのであります。なぜなら「仮相」を実在だと思ってこれに和解し、「仮相」をことさらにのさばらせれば、実相はますます隠れるほかないからであります。

 ところが、神は結核菌を人間を害するようには作ってい給わないのであります。結核菌は人間に対して無害の状態に造られており、実在の世界においては、人間と結核菌とは調和して互いに生かし合っているのであります。調和が実相であって、「実在する結核菌」の本当の相(すがた)なのであります。それで「結核菌と和解する」とはこの本当の姿を認めて、その心の投影(芭として自然に結核菌と人間とを互いに相侵さない状態に至らしめるので、われわれを害する「仮相の結核菌」を認め、それに栄養を与え、培養するということではないのであります。

 大体、「仮相」というものは、あるように見えても本来無い――「無いもの」と和解のしようがないのであります。それでわれわれが和解するとは、ただ「本来あるもの」と和解するほかない。それでわれわれが、「天地一切のものと和解せよ」という場合は、仮相――われわれに対して毒性または敵性をもって顕われているウソのスガタ――に和解するのではなくて、実相(すなわち、われわれと本来調和し、われわれと互いに生かし合っているその物の内性)と和解することなのであります。

 さらに例をあげてみれば、ここに放蕩息子がいるとします。放蕩息子といえども人間でありますから、実相は放蕩息子ではないのであります。放蕩息子にあらわれているのは仮相すなわちウソのスガタであります。それでその息子に和解する場合を考えてみますと、「放蕩息子よ、よう放蕩してくれた。わしはお前の放蕩を喜ぶぞ」というように仮相に和解していたのでは、仮相はますますのさばって大きくあらわれて来るのであります。

 よく富豪の甘い親をもった家庭に始末におえない道楽息子があることがあります。これは道楽息子という仮相を排撃することをしないで、仮相に和解してしまったからであります。仮相に和解してしまったら仮相があらわれる。それではいけない。それで「生長の家」の聖経『甘露の法雨』には、「仮相(かりのすがた)に対しては実相をもって、相対せよ」「非実在に対しては実在をもって相対せよ」と書いてあるのであります。
<つづく>

1898復興G:2013/01/19(土) 22:44:03 ID:AB6RqYXc

<倫理篇 永遠価値の生活学(6)>

     仮相は本来「無」と知るのが実相への和解

 だから、真に和解するとは、「ものそのもの」の完全なる実相を認めその実相と和解することであります。「家ダニ」を見たならば、吸血鬼であるその仮相を見ず、互いに調和した場所において相侵し相傷つけないように造られている「完全なる家ダニ」と和解することであります。結局「和解する」とは、その「実相」を見て、その実相において完全を観ることであります。

 対人関係、対物関係の和解は、そういうように物そのもの、人そのものの実相を見て、それと実相において和解してしまいますと、相手の調和した実相があらわれて相手が自分に逆(さから)いまたは害しなくなるのでありますが、「迷い」に対したり「誤れる見解」に対しては、われわれはいかなる態度をとるべきでありましょうか。「迷い」に対して和解したら、真理が消えてしまうのであります。「誤れる見解」に対して和解したら実相がくらまされてしまうのであります。だからわれわれは、決して「誤れる見解」に和解してはならないのであります。

 「誤れる見解」をわれわれは「虚説」と申しますが、虚説とはよく名づけたものであります。「誤れる見解」は実相の世界にはない。それは「虚説」すなわち「無い説」でありますからわれわれは虚説と和解することは絶対にできないのであります。虚説に和解したら自分の完全なる実相が昧(くら)まされ、完全なる実相が昧まされたならば、その投影として不完全なる現象すなわち不幸、病気、災厄等があらわれてくるのであります。

     虚説に和解してはならぬ

 虚説の中でも、最大の虚説は「物質はある」という見解であります。『生長の家』誌友の中で近ごろ脱線して「物質もある、心もある」という二元論に誘惑されたり、「現象も真我のあらわれである」という説に惑わされたりした人がありました。その理由は、われわれは天地一切のものと和解しなければならないから、「物質はある」という説とも和解したとき、本当の真理がかえってわかるのだという理論から、虚説に対しても一応は耳を傾けなければならないというわけだったのであります。

 われわれは天地一切の実在(もの)と和解しなければなりませんけれども、虚説に対して和解してはならないのであります。「人は二人の主に事えることはできない」という諺があります。虚説に和解したら実相をくらますことになります。実相をくらませばみずから迷うことになるのであります。迷えば迷いの影を現象界にうつして、現象界がままならぬ相(すがた)にあらわれてくるのであります。

 「物質もある、心もある」という二元論に引っかかって、現象界が変にみだれて集金が集まらなくなったり、商売がうまくゆかなかったり、歯痛(はいた)が酷くなった数氏の実例は、かつて『生長の家』に書いたとおりであります。

 最近また「真我も迷う」の妄説に引っかかって、絶えて久しく煩わなかった頭部の湿疹になやまされて、すんでのことに医者にかかりそうになった時、初めて気がついた人があります。それは最近「生長の家」の説を受け売りして、少しばかり異色を見せて独立しようとして「迷いは真我より起こる」と発表した某々氏の雑誌を読んで、その妄説にまどわされ、真我は迷うものやら、迷わぬものやらわからなくなって、心が迷って、「本来清浄の実相」を見ることができなくなったことに原因するということを知り、神想観をして、本来迷わぬ「本来清浄の実相」を観ることを努めたところが、その頭部の湿疹が癒ってしまったという報告を受け取りました。

 「生長の家」の家族となり「真我は神であり、本来清浄の実相である」ということを知らされながら、時々そういう異端邪説に耳を傾けるようになるのが、これいわゆる「試みに逢わせられる」のであり、「引っかけ戻しの仕組み」であります。精神統一せんとすればするほどかえって雑念が浮かぶのと同じであります。この時に雑念妄想の方に心を傾けたら永久に精神統一しがたいのと同じように、この時に異端邪説に和解して耳を傾けたら、自分の実相が昧まされ不幸があらわれるのであります。

 「なんじの敵を愛せよ」といったイエス・キリストさえも、「サタン」に対しては和解していないのであります。イエスが四十日四十夜、精神統一の修行をしている時、そこに幻のように現われたサタンに対しては、イエスはそのサタンの邪説に耳を傾けようとしないで、「神を試むべからず、サタンよ退け、主なるなんじの神を拝し、ただこれのみに事(つか)うべし」と、一喝しているのであります。この場合、サタンとは異端、邪説、妄説、妄想、雑念のことであります。
<つづく>

1899復興G:2013/01/19(土) 22:44:42 ID:AB6RqYXc

<倫理篇 永遠価値の生活学(7)>

 「ただ神のみ――ただ実相のみを観よ」ということが、「主なる汝の神を拝し、ただこれのみに事うべし」ということです。そのほかの妄説妄想には決して和解して、耳を傾けてはいけない。ただ「サタンよ、去れ」と一喝しているところに、イエスの示されたる「サタンに和解すな」との範例をわれわねは見なければならないのであります。

     光は暗と和解せず

 「敵を愛せよ」と仰せられたイエスが、なぜ「サタンよ、退け」といわれて、「サタンを愛せよ」といわなかったのでしょうか。「敵」というものも、その実相は完全な人間でありますから、「敵を愛せよ」とは、その実相なる完全な人間を見て愛せよという意味において、正しい真理であります。

 しかしサタンというものはどうであろうか。それは精神統一修行中に現われた妄想が客観化したものであります。妄想というものは「本来無いもの」をあるかのごとく描いたのが妄想でありますから、その客観化であるサタンというものも、結局は存在するかのごとく見えても本来非実在であります。

 それで、敵ならその敵の実相を見れば、敵の内性に神の子なる実相を見て愛することができますけれども、異端、妄説、妄念、妄想は「本来無い説」――虚説――でありますから、その実相を見れば、「本来無い」ということがわかるだけでありますから、「本来無いもの」(虚説)に和解することは絶対にできないのであります。

 光は暗と和解することはできない。光が近づけば暗は消えるほかはない。それと同じく真説は虚説に近づけば虚説を消す働きになる。真理が妄想の客観化なるサタンに和解せんとして近づけば、かえってサタンを消す働きにならざるをえない、すなわち言葉でこれをいえば「サタンよ、去れ」の一喝とならざるをえないのであります。

 虚説を許さないことをもって、和解と寛容の徳がないように思うのはまちがいであります。また虚説を容(い)れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのもまちがいであります。虚説を排撃することいよいよ明瞭であればあるほど、真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

 わたしにも最近その例がありました。「生長の家」の某支部をみずから造るべく申し出られまして、聖典『生命の實相』を数十部みずから進んで預かって帰られた方がありました。その某氏は最近、「物質はある」「真我も迷う」の虚説を立てて「生長の家」の真説を迷わす機関雑誌を発行されたのであります。それとともに聖典『生命の實相』を誌友その他に売られたまま、その公金を私用に着服費消しておしまいになったのであります。

 わたしは「真我は神であるから決して迷わぬ」という正説をもって文章でその虚説を排撃したのでありますが、(すなわち虚説に対してはどこまでも排撃したのでありますが)その人が消費された公金に対しては少しも咎めず、無条件にその金額を進呈して決して請求しませぬという深切な手紙を書いて、その人の実相――決して公金を費消せぬような完全なその人の実相を見ることにしたのであります。これがわたしの範例であります。虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも実相を見て許すことにしたのであります。

 どうかみなさんも虚説に対しては和解することなく、どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただきたく、人間に対しては、その表面の包み(罪)を見ないで、その罪なき完全なる実相を見て、その罪を赦す(その罪を本来無いと見て捨てる)ことにしたいのであります。

 要は「天地一切のものと和解せよ」との「生長の家」の第一最大の誡命(いましめ)は「天地一切のものの実相と和解せよ」ということであって、仮相や虚説に対しては「サタンよ去れ」と排撃すべきなのであります。釈迦もキリストも同じような態度で虚説を駁撃せられたのであります。
(以上)

1900復興G:2013/01/19(土) 23:03:58 ID:AB6RqYXc

――以上、長々と聖典の引用をさせていただきましたが、トキ様が>>1886
>>安易に「虚説」という言葉を使うと、濫用と言いますか、自分と違う意見はみな、虚説という事になりかねないと思います。中世の欧州では、「異端」という言葉が暴走して、魔女狩りのようなことを宗教家がしました。
 あくまでも自分を戒めるための言葉であると、私個人は考えています。<<

と書いてくださいましたように、「虚説に和解してはならぬ」という言葉は、安易に「虚説」という言葉を使うと、濫用と言いますか、自分と違う意見はみな、虚説という事になりかねないので、自分を誡めるための言葉というように考えると間違いがないように思われます。
ありがとうございます。

「倫理篇」は、私も繰り返し拝読して、自覚を新たにして行きたいと思っています。
ありがとうございます。

1901復興G:2013/01/19(土) 23:14:27 ID:AB6RqYXc

SAKURAさま、書き込みありがとうございます。
お返事遅くなって、すみません。
「悪」本来なし、という真理は、難しいといえばほんとに難しいですが、聖経『甘露の法雨』にあるように、「悪」があると見えてるのは夢、悪夢なんだ。覚めてみればそれはないんだ、と思えば、心配がなくなって楽しいですよね。
ありがとうございます。

さて、私は明日は午前・午後ともに出かけなければならない行事が入りましたので、このweb誌友会から離れることになります。
それで、今日は集中的に書き込みをさせていただきましたが、明日は夜からの参加になります。

今夜はこれにておやすみさせていただきます。

ありがとうございます。

1902a hope:2013/01/19(土) 23:48:47 ID:TqpbsVIM
復興Gさま

倫理篇の謹写、ありがとうございます。
本当は、すぐにでも拝読してお勉強していのですが、わたしも明日また早朝から用事があって一日出かけます。
今夜はわたしもこれでおやすみします。

明日以降にじっくりと、心読して、お勉強させていただきます。
そして、後夜祭に入ってしまうかもしれませんが、また、感想など述べさせていただきたいと思います。

わたしの大切な「生長の家」のみなさま、みなさま

みなさまも、この機会にもう一度聖典「生命の實相」の真理を一緒にお勉強し直してみませんか?

この素晴らしい「生長の家」の真理を、真に理解できれば、人生に怖い物はなくなると思います。
そして、一人でも多くの人が、この「生長の家の教え」の素晴らしさを再確認して、
真理を悟れば、かつての生長の家のように数々の奇蹟がよみがえって来るのではないかと思います。

そして、その一つひとつの奇蹟が大きな灯火となって日本国を光明化し、さらに大きな灯となって、
世界平和につながっていくのではないでしょうか…?

それともこれは、アホの a hopeの夢物語なのでしょうか…?

わたしの愛する「生長の家」のみなさま、おやすみなさい。
みなさまも、素晴らしい夢を見てくださいね!

1903さくら:2013/01/20(日) 07:46:15 ID:e8ieIrPA
復興G様
トキ様

ご指導ありがとうございます。

生長の家のみ教えの立場から、「虚説」の見解を示して下さり、ありがとうございました。
宗教が、まして、生長の家においてこの言葉をやすやすと使うのには、個人的経験からも、…どうしても堪え難いものがありましたので、お二人の正知に感謝いたします。
この掲示板では、みなさまそれぞれ生長の家の真理の先輩で、学ぶことが多くありました、
真理は広大無辺なので、そのときの考えや、それぞれの課題や表現がちがうことなどは、当然のことだと思っています。
お互い理解しがたいことがあっても、それはどちらかが「虚説」なのではなく、
奥にはいっていけば、そこは神の命でひとつなのだと、生長の家で学んできたことでした。
…だから考えが違うことなどは本質的にはそれ自体が問題ではなく、
そこに対話する心の基盤さえあれば、理解や共存が可能だとも信じています。
どんな人の実相も神であるし、ただ、学びのために、それぞれの課題に取り組んでいる姿なのだと思います。
そういうことを理解する智慧が、宗教なのかな、と生長の家に出会って思ってきました。

ただ、この掲示板を経験して、それを安易に「虚説」という表現に出会い、それが心に引っかかる、個人的な課題でした。
自分の中にこそある虚説こそ排するということを自分も学びました。生長の家で学ぶ同士の表現として、正直、すこしショックなこともありました。
ほかに言葉は違っていても、「自分の正義」以外を排除する気持ちが根底にあれば、宗教をしていることが、逆に欺瞞におちてしまうな…と感じ、自戒しました。

それはそれで、宗教というものを考える学びになり、感謝しています。

このことは復興G様のご文章からも充分学びましたので、
みなさまの学びをつづけてくださいますよう…ながながかきましてすみません。

前の繰り返しになりますが、お二人の姿勢には学ぶことがあり、感謝しておりました。ありがとうございます。

追伸:
SAKURA様には、いつも料理から読書から、他宗教の体験など、勢力的な書き込みで、読みきれてはいないのですが、…多方面から学びになりました。
意見の捉え方は違いますが、人生の先輩としていろいろ、参考になりました。
ひらがな「さくら」と間違われることを懸念されていたので、お声かけは、いつも遠慮していましたが、この機会に感謝をおいてきます、ありがとうございます。



1904志恩:2013/01/20(日) 08:02:25 ID:.QY5jUA6
復興G様、トキ様様、ご指導を感謝申し上げます。
ahope様、神の孫(ルンルン)様、SAKURA様の書き込み、拝見しました。

SAKURAさんの書き込みによりますと、
お父様が、叱るタイプのお方だったそうですけれど、

私の実家の父も、情は厚い人でしたが、ものすごく怒りっぽい人で、
ちょっとしたことで、「えっ、これ、怒ること?」と思うようなことを、

かっとなって、私も含めて家族をよく怒鳴るつけるタイプの人でした。
しらふのときの父と、飲酒後の父は、ジギルとハイドの如く、別人格になる人で、

霊的な問題もあったのかもしれませんが、父は、とにかく、酒好きな人でしたけれど、
飲酒後は、暴言,暴力を振るうという、所謂 酒乱の人でした。

ある日、私が中一のとき、私が、学校から 帰宅すると,
酒に酔って、祖母に暴力を振るっている最中の父が部屋にいて、

それを目の当たりにした私は、頭の中が真っ白になりました。

私は、一瞬、祖母を守らなきゃと思い、学生カバンを放り投げ、
父に向かって体当たりで突進し、父を突き飛ばしました。

すると、やおら立ち上がった父は、深酒だったこともあり、私に対して、
怒りくるって、手加減せず、ゲンコツで
思い切り、何度も 私を殴りました。

私の、唇は,切れ、左の耳の鼓膜は 破れて血が流れ、私は、失神してしばらく、意識不明になっていました。
母は、そのとき、留守でした。祖母の心配する声で、私は、やっとわれに返りました。

それから後の事、私は,自分では、気がつかずにおりましたが、会話の声は,普通に聞こえるのでしたが、
電話のベルのような高音部分が、聞こえなくなっている事を、耳鼻科で診てもらって知りました。

ですから,私は、そのような父に、殺意を感じる程、父に憎しみを抱いておりました。

その後、私が、中2のときに、母と私が、生長の家に入信しまして、

私が、中学3年のとき、まだ生長の家ではなかった父に隠れて、私は、夏休みに
中学生でしたが、飛田給の高校生練成会に参加するという神縁をいただくことができましたので、

そのチャンスを得られたおかげで、
私の観の大きな転換があり、
憎んでいた父を赦し、母と私が、教えを実践し、父の酒乱は,すっかり消えてしまいました。
生長の家の教えは、ほんとうに すごいです。

私は、本来の生長の家の教えに救われたのでした。

その父も、しばらくのちに、自宅で誌友会を開いてくれる程の、生長の家の信徒になってくれたという体験が
あるのですが、

暴言,暴力は、なくなりましたが、父の、もともとの怒りっぽい性格は、持って生まれた性格ですから、直りませんでしたよ。

でも、私は、父にいつも叱られていたので、他人のちょっとした優しさや深切が、普通の人の数倍も、ありがたく感じられる
自分になれたのだと、今,振り返りますと、何も無駄な体験はなかったのだという思いを深めております。

そして、人生を深く考えるようになれたのも,あのような父があったればこそだと、今は、思えております。

私の耳は、自然治癒力が働いて、今は、電話のベルの音も、ちゃんと聞こえるようになっております。

「しかし、これは個人の家庭内の問題が解決した体験です。」 これを忘れないで頂きたいと思います。

公人問題は、別問題です。   つづく

1905志恩:2013/01/20(日) 08:03:54 ID:.QY5jUA6
さくらさんも,書き込んでおられました。
失礼しました。

1906志恩:2013/01/20(日) 08:12:31 ID:.QY5jUA6
さくらさんの言葉


>>「自分の正義」以外を排除する気持ちが根底にあれば、宗教をしていることが、逆に欺瞞におちてしまうな…<<

本来の生長の家の教えと照らし合わせて考えて、もともとの、その教えと、ちがう説を論じている説を、生長の家の場合「虚説」と
言っているのでは、ないでしょうか。

自分にとって、正義か不正義か、そのような自分中心の、利己的な感覚で、本来の生長の家へ復帰する運動を、本流の方々はしているのでは、
ありません。誤解のないようにお願いします。

1907a hope:2013/01/20(日) 08:13:05 ID:TqpbsVIM
みなさま おはようございます!

さくらさま!!

ご参加お待ちしておりました。
聖典「生命の實相」の真理は本当に素晴らしいですね。
そこに書かれている「真理」をしっかり法燈継承していくのが、
わたしたち、生長の家人の使命だとわたしは感じています。

わたしは今回のテキストの範囲や、昨晩復興Gさまが謹写してくださった倫理篇をしっかり心読して、
先輩方の御指導を謙虚な気持ちで受けたいと思っています。
さくらさまの投稿もいつも拝見しています。
そして、とてもお勉強させていただいています。
ありがとうございます。

できれば、今回のテキストの内容に関する、さくらさまのご感想などもいただけるととてもうれしいです。
わたしは今日はこれからでかけますが、夜また戻ります。

さくらさまと一緒に聖典「生命の實相」のお勉強が出来てとてもうれしいです!

どうぞよろしくお願いいたします。

1908志恩:2013/01/20(日) 08:18:43 ID:.QY5jUA6
今、忙しいので、公人問題は後ほど…

1909a hope:2013/01/20(日) 08:22:26 ID:TqpbsVIM

>>1903のさくらさまの書き込みだけ拝見して>>1907を投稿しました。

志恩さまもご参加くださっていたのですね。
ありがとうございます。

これから出かけるので、後でご投稿内容をゆっくり拝見させていただきます。
志恩さまのご参加がないととてもさびしいです。

今回も、ご指導よどうぞろしくお願いいたします。

1910解説者:2013/01/20(日) 08:44:02 ID:???

皆様、この板でははじめまして、ですね。

よろしくお願いいたします。

>「しかし、これは個人の家庭内の問題が解決した体験です。」 これを忘れないで頂きたいと思います。
公人問題は、別問題です。<

生長の家の教えは大乗の教えですから、個人や家庭のみならず、国家をも救済する教えであると私は教わってきました。

公人は別であるということでしたら、国家など公の機関は信仰ではなく、運動でしか救われないということになります。

たしかに雅春先生は共産党と和解せよとはおっしゃらなかった。しかし、共産党を排斥し、攻撃せよともおっしゃらなかったのでは?

いちばん大切なのは、大日本真理国家の、金剛不壊の日本がアルということを生長の家信徒一人一人が日々の祈りの中で認めていくことではないでしょうか?

志恩様の公人についての解説を楽しみにしております。

1911志恩:2013/01/20(日) 09:36:02 ID:.QY5jUA6
ahope様も、復興G様が謹写して下さったところを指摘されてますけれど、
p103 2行目〜

>>…ひとを常に批評的に観て、「あの人はあんな行いをしたから、それは必ずこういう悪い動機からしたのであろう」と、
常に想像をたくましゅうしているような人は、その人自身の心に「悪」があるから、相手に悪があるとわかるのであります。
そうすると、他人の心情の「悪」が目につく人は必ず自身の心情に「悪」がある証拠であるから、決して他人の「悪」を批評したりする資格がないのであります。
だから「他人(ひと)が悪いな」と気がついた時は、「それがわかるのは自分の心のうちに悪があるからだな」と反省すべきであります。…<<

これにつきましては、
現実世界で生きているのですから、自分の中に,悪があり、悪もみる目があること。
                自分の中に、善があり、善をみる目が、あること。
そのように、作られて
この世に生を受けた、生まれでて、修行しているのですから、両方、備わっているのが、当たり前だと思っております。

雅春先生が、おっしゃっておられるのは、なんでもかんでも、批判ばかりしている、そういう人にむかって、
諭されているのだと思います。

人の振り見て,我が振り直せ。という言葉がありますが、批判する心が人間になかったら、世の中のことが、なにも
改善しないでは、ありませんか。

他人が,悪い事をしているな、とおもったら、そう思う自分の心に,悪があるからだ、あいつが悪事を働くのも、己の責任である。

それを、家庭内の問題で考えるならいざしらず、公人がやる悪事のことまで、全て自分が、やったのと同じだなどと、
ばかな考えを持つなら、宗教など、やらない方が、まともな考えかたが出来、まともに解決出来ますから、宗教は、やらない方が、
ましだということになっるでしょう。

宗教のすばらしさは、実相の完全さを観じ、祈り、そこから、神様からのベストな解決法の知恵を頂き、
それを基に、相手の誤った行い を批判し、 これが解決法だと神様から受けた知恵を実践することにより、

宗教をやってない人には、分らない 奇跡的な問題解決を得ることができますから、そこにいい宗教をやっている価値があるのだと、
思います。

(たとえば、、、つづく)

1912志恩:2013/01/20(日) 10:07:21 ID:.QY5jUA6
昨日、新聞(産経)を整理していましたら、1/9の新聞が目につきました。

「再び、拉致を追う」と題して書かれた米国編でした。

>>「娘は、工作船の暗い船底に 閉じ込められ、

『お母さん 助けて、お母さん 助けて』と

壁をかきむしって、絶叫し続け、暗い海を運ばれたといいます』

米議会の高い天井の公聴会室に横田早紀江さんの万感をこめた声が響いた。

2006,4,27 、北朝鮮の国際的拉致に対する公聴会だった。
早紀江さんは、29年前に13歳だった娘のめぐみさんが凍土の共和国へと
連れ去られた模様を脱北した元工作員の供述等を引用して証言するのだった。

満員の会場は、静まりかえり、議員たちは涙をぬぐった。

翌日、ジョージ、W,ブッシュ大統領は、早紀江さんと息子の拓也さんを
ホワイトハウスに招き、そして、会談し、
「大統領になってから最も感動的な会合と評した。

愛する子を拉致された母への同情だけでなく、彼女のオーラに胸を
揺さぶられことを忘れられないという反応だった。略<<

この記事を読み返し、お母様と娘さん,お二人の辛い気持ちを考えますと、
私は、今更ながら、身に沁みて胸がつまりました。

なぜ、この記事をここへ載せたかと申しますと,この北朝鮮の将軍さまが
やったことも、

全て、己の責任と、自分が反省ばかりして、祈ってばかりいて、どうするんですかと
いいたいのです。将軍さまも、身内には、いいようです。

しかし、実相は神の子でも、やることといったら、あこぎ三昧では、ありませんか。

この問題は、未解決ですが、批判しているから、解決に至らないのでしょうか?

そうでは、ないでしょう。みなで,批判しているから,その後の拉致が、思うように
出来なくなっているんじゃないのですか?

悪い事は,悪い事なんです。

この現象世界には、悪い事をする人もおれば、悪人も存在しているのです。

悪い事をする公人は、断じて許しては,ならないのです。

1913志恩:2013/01/20(日) 10:12:42 ID:.QY5jUA6
読者様

ここをご覧になられていましたら、お返事下さい。

ここの掲示板には、和解派のメンバーが多数おられます。

その方達は、和解しか無い,和解しか無いと、念仏されてます。

読者様のお考えでは、雅宣総裁は、本流派の皆様と

和解されるお気持ちが、おありになるとお思いですか?

1914解説者:2013/01/20(日) 10:33:58 ID:???

そもそも生長の家の教えは、神想観や聖経読誦によって罪の子、肉体人間から神の子になるのではない。

もともと神の子であり、それを観じることによって神性が顕れてくる。私はそう教わってきました。

人類光明化運動としての愛国運動もそれと同じで、悪いものを善くするものではないと思います。

「谷口雅春に訊け」ブログ内の記事に榎本恵吾先生のお言葉があります。

清め上げなければならない日本はなく、愛国運動によって完全にしなければならない日本も無く、實相日本の完全さを見て未だ顕現していないことを嘆かなければならない日本もなく、今既に始めから高天原なる完全なる日本の實相だけがあると諭されていたのである。それを知ることによってのみ日本は神国たり得るのであり、吾等も又真の愛国者たることが出来るのである。悟ることである。新たに生まれることである。自分が無くなることである。

1915トキ:2013/01/20(日) 10:50:42 ID:UVsStHb2
>>1903

 ご丁寧なご投稿、ありがとうございました。

 ただ、私はまだまだ新米で、復興G様のような大先達と比べると、勉強中ですよ。
私も、雑巾がけのつもりで、参加しております。(笑)

 本当に、ご指導をするほうではなくて、復興G様からいただくほうです。

1916しー:2013/01/20(日) 10:56:51 ID:.QY5jUA6
解説者さま

>>そもそも生長の家の教えは、神想観や聖経読誦によって罪の子、肉体人間から神の子になるのではない。
もともと神の子であり、それを観じることによって神性が顕れてくる。私はそう教わってきました。
人類光明化運動としての愛国運動もそれと同じで、悪いものを善くするものではないと思います。<<

ただただ 祈ってるだけでいいってことですか?
そうすれば、もともとの善なる実相が現われてくる、

なにもせずに、自分の責任だと、おのれを反省し、ただただ祈っていることが、
本来の教えを実行する方法だと、おっしゃりたいのですか?

1917志恩:2013/01/20(日) 10:57:30 ID:.QY5jUA6
しーは、志恩。

1918志恩:2013/01/20(日) 11:01:22 ID:.QY5jUA6
トキ様

復興G様とトキ様は、
幹部でいらして、私は末端信者ですから、私は教えていただくほうですが、
でも、納得いかないところは、納得いかないので、生意気な言い方になり、
申し訳ありませんけれど、発言させて頂いております。

1919志恩:2013/01/20(日) 11:07:56 ID:.QY5jUA6
復興G様、トキ様、SAKURA様、さくら様、解説者様、
これで、
訊け君が参加されたら、(神の孫様は、中間派?)

WEB誌友会は、雅宣総裁擁護派の集会になってしまいます。

まるで、雅宣総裁を、批判するな,批判するな、
そういう感じにお見受けします。

1920志恩:2013/01/20(日) 11:10:32 ID:.QY5jUA6
ゆたか様が、WEB誌友会への参加を見送られておられる理由が、わかる気が致します。

1921トキ:2013/01/20(日) 11:17:12 ID:UVsStHb2
>>1919

 いえいえ、そんな場所ではないので、ご安心下さい。

1922志恩:2013/01/20(日) 11:26:42 ID:.QY5jUA6
トキ様

定年を75歳にされたのは、私が内部の幹部でしたら、雅宣総裁のほっぺにチューしたいくらい
うれしいことだと思います。

ここで、もう一息、
雅宣総裁が、『負けるが勝ち』と,心の内を内部改革され、新しい決断をされ、

負けたく無かったとおっしゃる雅春先生、貴康先生に
負けるお気持ちになれば、つまり、偽物の自我をお捨てになれば、

本流をも合わせ飲む、器に変身出来るのでは、と、
期待されてるのでしょうね、トキ様は。

1923志恩:2013/01/20(日) 11:30:13 ID:.QY5jUA6
復興G様は

親分様ですもの。和解派の。

1924トキ:2013/01/20(日) 11:36:26 ID:UVsStHb2
>>1922

 大丈夫ですよ。大事なのは、この掲示板をご覧の人達に訴える事です。つまり、
援護派もいて、和解派もいて、批判派もいて、それぞれに意見を出し合い、それを
パソコンの前で見ている人達が判断する事です。仮に、ここで志恩様が少数派だと
しても、画面で志恩様の意見を見て、「なるほど、志恩さんの言う事が正しい。トキ
はなにもわかっていない。」という人が多ければ、志恩様が投稿した意味があるの
ですから、頑張って、ご自身の意見を開陳して下さい。

1925志恩:2013/01/20(日) 11:41:47 ID:.QY5jUA6
トキ様

お返事、ありがとうございます。
私も、これから昼になりますし、昼間は雑用が多いので、なかなか書き込めませんで、
すみません。

1926トキ:2013/01/20(日) 11:48:57 ID:UVsStHb2
 復興G様がすばらしい文章を書かれていますから、感じた事や思った事をどんどんご投稿お願いします。

1927トキ:2013/01/20(日) 11:51:40 ID:UVsStHb2
 少し用事で離れますので、もし、この板が満杯になったら、「web 誌友会 板/2」へ続きを
書いて下さい。よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

1928志恩:2013/01/20(日) 13:31:28 ID:.QY5jUA6
光明掲示板より転載

「虚説とは」何かが、掲載されてました。


”虚説”とは何かに一言! (2404)

日時:2012年10月11日 (木) 08時38分
名前:「靖国見真会」参加者


「トキ」掲示板でえらく“虚説”が話題になっていますね。

“虚説”とは、谷口雅春先生の「教え」と違うことを言います、それだけのことです!

谷口雅宣先生が、谷口雅春先生の「教え」と違うことを説いているから、それを“虚説”と言っているだけのことです…。

だから、谷口雅宣先生の「教え」とは「和解」できないと言っているのですけど…。

何か、それにご不満でも…?
まだ、言ってほしいですか…?

谷口雅宣先生は、なんで谷口雅春先生の本を絶版にするんですか…?
谷口雅春先生の新刊書をなんで出版停止にするんですか…?

自分の説いていること、或いは説こうとすることが、谷口雅春先生の「教え」と齟齬をきたすということが明々白々だったからでしょう…?

谷口雅宣先生に、その自己認識があったからでしょう…?

谷口雅春先生の本を読んでいると、谷口雅宣先生の言っていることが違う、おかしいということが信徒にわかってしまう、それを恐れたからでしょう…?
私共は、谷口雅春先生の「教え」を基準に照らして、谷口雅宣先生の説いていることを“虚説”だと言っているのです。

「左翼」だったら、おそらく「大東亜戦争は侵略戦争だ」と言う谷口雅宣先生のどこが“虚説”かと言うでしょうね…?

つまり、何を基準にするかで、“虚説”であるかどうかは別れるということですよ。

私共は、谷口雅春先生の教えを信奉しているのです。

その「教え」に照らして“虚説”かどうかを判断しているのです。

ですから、谷口雅春先生の「教え」を基準にして考えようとしない人に、何を言っても無駄だと思うようになりました。
こちらの言い分に耳を貸す気持ちがさらさらないのですから!

だから、私は、一貫して、今の教団はおかしいと感じている人にこそ、言葉掛けをしていこうと思っています。
今度の新しい「経本」で、これは“虚説”だという人がどんどん増えていることを実感しております。

これを“虚説”だと受け止め得ない人には、結局、何を言っても無駄のような気がしております。

こういう人は、完全なる“谷口雅宣教原理主義者”なのですから!
ですから、そういう人との論議は、私に言わせれば、これほど“不毛な議論”はないということになるのです。

1929解説者:2013/01/20(日) 13:38:35 ID:???

>>1916
>ただただ 祈ってるだけでいいってことですか?
そうすれば、もともとの善なる実相が現われてくる、
なにもせずに、自分の責任だと、おのれを反省し、ただただ祈っていることが、
本来の教えを実行する方法だと、おっしゃりたいのですか?<

人の、国家の実相を観て、祈ることが「なにもしない」ことだとは思っていません。

私自身、危機感を抱きながら活動していた時期もありました。しかし、そこに魂の喜びはあったのかと自問自答したとき「否」との結論に到りました。やはり、信仰も運動も神の生命を生きる喜びが出発点だと思うのです。

危機感を煽るというスタイルは現教団も地球温暖化やCO2の話をよくしていますよね。それよりも先ず実相世界のすばらしさを説かないと、地球温暖化に対しての運動になってしまいます。前述の榎本恵吾先生がおっしゃっているように、生長の家の運動は決してそうではありません。

以下に初代「生長の家本流復活掲示板」宣言を転載します。

『本流復活生長の家掲示板宣言』

一、 我らは生長の家に巣食う癌細胞、谷口雅宣を生長の家から駆逐することを目的とする。
二、 我らは志を同じくする生長の家各県教化部長、本部理事、本部講師、生長の家職員、一般信徒、ならびに外部団体、生長の家の本流復帰を望むグループと共同行動を起こし谷口雅宣を生長の家から駆逐する。
三、 本掲示板は上記の目的を遂行するために設立されたものであり、多少の意見の違いはあっても、この目的のために皆が心を一つにするものである。
四、 我らは生長の家大神、谷口雅春大聖師の御心を受け継ぐものである。
五、 谷口雅宣は正統な法灯継承者ではなく、生長の家大神、谷口雅春大聖師の御心を抹殺するものであり、これゆえに生長の家の大神の下、我らは起ちあがるのである。
六、 生長の家の御教えを永続的に存続させるためには、谷口雅宣を生長の家から追放することが第一であり、谷口雅春大聖師の御教えを心から大切にし末代にわたり次世に語り継ぐ事が重要である。
七、 谷口雅宣を生長の家から駆逐するには、まず、皆が声を上げる事が重要であり、その声を上げる場としてこの掲示板は設立され、その具体的行動を示すためにこの掲示板は意義をなすのである。
八、 谷口雅春大聖師の御教えは崇高なものであり、それを低卑な雅宣教に変質せしめたところに谷口雅宣の大罪があり、谷口雅宣を生長の家から駆逐することこそが、生長家大神、谷口雅春大聖師の御心にかなうことであり、そこに我らの使命、大義があるのである。
九、 我らは慎重かつ大胆にこの目的に邁進し、一糸乱れぬ行動を以て立ち向かうのである。
十、 我らの行動は生長の家大神の御意志と共にあり、必ず成就するのである。

・・・・・・・・・。

どうしても私は上記「宣言」に魂の喜びを見出せません。

日本が、教団がどうあっても、その奥にある実相を観る自分でありたいと思っています。

1930goro:2013/01/20(日) 14:25:21 ID:nCo1DokU

Web歯友会は直接参加したことはありません。
途中参加でまことに申し訳ありませんが
一言申し上げたき事がありますのでお許し下さい。

昔、ブラックソン師が飛田給道場において講演されかことがありました。
通訳は、渋谷晴夫先生でした。

ブッラクソン師は、英語で何やら叫んで、イキナリ走って壇上の右端から飛び降り、
左端へ勢い良く走り、また、壇上に飛び乗って演壇まで走り、何やら叫びました。
聴衆者はその光景を見て、何を叫びなぜ走り回ったのか、わけが分からず、
通訳の渋谷先生がどうされるのか、固唾を飲んで見守っていましたら、
身振り手振りまで、ブラックソン師と同じようにして、壇上の右端から飛び降り
左端から飛び乗って演壇まで戻り叫ばれました。

 私(ブラックソン師)は谷口雅春先生が飛んでいる飛行機から
 飛び降りなさいといわれたら何も考えず無条件に飛び降ります。
 信じるという事はそういうことです。

というような事を、熱く激しく語られました。会場はは割れんばかりの拍手の嵐でした。

ここで、様々なお考えを展開されておられる方々は、「私・個人」としての
お考えを述べておられると思いますが、皆様方も「発展途上人」であることを
自覚しておられます。それでも「真理」「実相」について堂々と述べておられます。
「業の流転」とは関係なくです。

現総裁と教団幹部は、雅春尊師の御教えを受け継いで、悟っていてもいなくても、
また、どのような「業の流転」の中にあっても、「公人」として人類の前に立ち、
真理を説き続けることが最低限の責任であるはずです。

1931goro:2013/01/20(日) 14:28:13 ID:nCo1DokU
WEB誌友会に訂正です。すみません^^;

1932志恩:2013/01/20(日) 15:09:12 ID:.QY5jUA6
解説者様

初代「生長の家本流復活掲示板」宣言は、言い方が、過激ですね。

>>『本流復活生長の家掲示板宣言』

一、 我らは生長の家に巣食う癌細胞、谷口雅宣を生長の家から駆逐することを目的とする。…<<

それに引き換え、
今の本流掲示板である光明掲示板は、言い方がソフトになっていますね。


>>「生長の家光明掲示板」の目的 (1)

日時:2012年08月01日 (水) 13時25分
名前:管理人

私たちは、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経の著作権者と行動を共にして、
その著作権者および「行動を共にする」人々のみが「生長の家」を名のる世界を目指します。<<


初代の、雅宣総裁を、駆逐するという言い方は、きついと思いますが、
それだけのつよい覚悟を表現されておられたのでしょう。

辞めて頂くことが出来ない規約に、雅宣総裁が、書き換えてしまい、改悪したそうですから、
このまま、これからも総裁の座は、彼だということになりますでしょう。

解説者がいわれる
>>人の、国家の実相を観て、祈ることが「なにもしない」ことだとは思っていません。

私自身、危機感を抱きながら活動していた時期もありました。しかし、そこに魂の喜びはあったのかと自問自答したとき「否」との結論に到りました。
やはり、信仰も運動も神の生命を生きる喜びが出発点だと思うのです。<<

という生き方が、復興G様、トキ様、解説者様、さくら様、SAKURA様、訊け様、ahope様
、、いわゆる和解派の皆様の、統一した考え方であり、今後もそういうお気持ちで、生きていかれる方針は、
変わらないと,思います。

同じ生命の實相を拝読しましても、あちらと、こちらでは、捉え方が異なります。

それぞれが、正しいと思う生き方をするのが、お互いに幸せに生きる道だと思っております。

1933志恩:2013/01/20(日) 15:21:32 ID:.QY5jUA6
goro様

へぇ〜、goro様は、

昔、ブラックソン師が飛田給道場において講演されかことがあったとき、
(通訳は、渋谷晴雄先生)
goro様は、現場にいらしたのですか。

それはそれは、貴重な現場に!!

>>ブッラクソン師は、英語で何やら叫んで、イキナリ走って壇上の右端から飛び降り、
左端へ勢い良く走り、また、壇上に飛び乗って演壇まで走り、何やら叫びました。
聴衆者はその光景を見て、何を叫びなぜ走り回ったのか、わけが分からず、

通訳の渋谷先生がどうされるのか、固唾を飲んで見守っていましたら、
身振り手振りまで、ブラックソン師と同じようにして、壇上の右端から飛び降り
左端から飛び乗って演壇まで戻り叫ばれました。<<


渋谷晴雄先生著「光の国から」の、52頁に「ブラックソンさんの通訳になる」というテーマで
渋谷先生が、大変魅力的にそのときのことをお書きになられていますよ。

昭和50年(1975年)のこととあります。
私は、もうとっくに本部を辞めていたときです。

渋谷先生が、
「ブラックソンさんにはじめてあったのは、飛田給道場の貴賓室においてである。
夕方4時頃、いるはずの彼がいない。しかし、白い歯で,彼の居る事がわかった。」…と。

1934SAKURA:2013/01/20(日) 16:02:03 ID:4tf.tE3w
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889 SAKURA投稿の続きです…

■【 虚説 =  悪 = 現象 】…この様に、入っていきます〜〜〜ョネ!
前回【>>1888 】に、記載投稿しましたのは、やはり〜〜〜
“人間”である以上は、この問題は、その人なりに取り組んでいく【課題…】でしょうかと思えます。
…が??
今回、更に【復興G様から…「生命の実相…13〜14巻」】を、紹介して頂きました。
本当に、お忙しい中…ありがとうございます。ところで…どうしても私自身は、要約…
最初からの「生命の実相」を、今回勉強させて頂くに当たり…やはり「2巻…」からの、
順次にての“勉強”をさせて頂きたく事を、進めていきたく思うのです。…が?

■さて!私の場合は、私自身の“問題からの出発…”での体験にて、【真理…をつかむ事】に、
なった様な感じが致します。当然のことながら〜〜〜只今でも【真理への勉強・修行中…】です。

■■【釈迦…】も【キリスト…】も、確かに【悪魔のお話】はあります。…が?
此処で【キリスト…】の場合には「サタン!去れ〜〜〜!」とおっしゃつています様に、これは、
今思いますと【彼らが、悪魔と見えますのは、やはり!環境の違いなのでは〜〜〜】と、断言でき
ます次第です。…が?〜〜〜今!今!まだ引き続き「生命の実相2巻」を読んでから、最終的な
私なりの【解釈論…】を此処にて、投稿させて頂きます。
但し【解釈論…】は人それぞれですので…【類の法則…】にてのモノとなりますかと。

■只今…「生命の実相…2巻」を拝読していっている最中です・…。

                            再合掌

1935SAKURA:2013/01/20(日) 16:11:16 ID:4tf.tE3w
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934 SAKURA投稿の続きです…

■ 今日は、お昼にての「討論??」…閲覧させて頂きましての【一言…】
■■ >>1904 の投稿に関しましての感想……  その①
拝読しまして、マタマタ…【ダブリング文章】その様な感じにも見受けられる文章体でしょうか?

昨日、確かに■【聖 典 板】で“投稿…”しました。…が?? [下記URL…]
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/1956
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/1957

【 志恩様の体験談 】を、今回!閲覧させて頂きました。…が?
それは「志恩様のお父様」は、【酒乱の方??】だそうですかと。酒を飲みますと【暴 力】かと?
更に!!【暴力…】が振るわれて、更に【耳の鼓膜…】が破れたそうです〜〜〜ネ!
しかしながら【耳の鼓膜…】は戻ったそうです〜〜〜ネ!本当に、良かったと…思います。

不自由さは、尚の事、人一倍理解できますモノ…! 尚〜〜〜

                     つづく

1936SAKURA:2013/01/20(日) 16:13:31 ID:4tf.tE3w
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>> SAKURA投稿の続きです…

■■ >>1904 の投稿に関しましての感想……  その②

>>1935 その①投稿の続きです
■■【 耳 の 鼓 膜】は、おおかた再生可能…これが一般の見解ですが。
此処昨今では…【人 工 鼓 膜】もありますから??

■さて、私の場合は、一言申し上げます…。私の「亡き父」に関しましても……
この【聴力喪失…】の原因は【M・河○…がタタキ男】です。この【タタキ男…】から頭部の上を、
“アイロンのタタキ棒…(長さ25〜28CM…幅7〜8CM…厚さ2.5CM…の板)で、瞬時にして、
頭部の上層部を一撃されたのです。…が?当に、これが後に、後遺症としての【聴力喪失…の原因】
になり…現在に至るわけです。しかも【鼓膜…】では無く…【神経…】…なのです。
それに【第三者…他 人】です。…が?
当時の事を、此処にての“投稿…”閲覧しまして、思い出してしまいましたが、当に【叩かれた…】
この時は、後遺症として【聴力喪失…】になるとは、つゆとも思いもしませんでしたし、その
【叩かれた…】のち、半年ほどして【遺症…】として、出てきまして、近くの個人病院にすぐさま
診察を受けましたえが、その病院の判断では、【原因不明…】との判断にいたり…後は、大手病院を
転々としましたが??やはり〜〜〜><(尚!その個人病院の“カルテ”ですが、1年後に、問い
合わせても紛失…云々…)なのです。 変! 変!
ところが、その後!何十年後に“パ―トナ―の両親(功労賞受賞式)”が、東京に上京する事になり、
そこのホテルでの会食の後…“ロビ−”で倒れたのです。その時?居合わせて下さいました香川県の
方が「応急処置」・「救急者の手配」にて…それで搬送先の“大手病院…”にて【脳検査…】となり、
こともあろうに、これにて【聴力喪失…原因】が、【頭部上層…傷跡が脳にある】判明したのです。

当に【神経…】これを、治すことは可能だそうですが…【アメリカ…神経学】との事で、当然
医療費がかなりかかりますとのこと??願わくば“夢…”描きまして【治る!治る!…】かと。

■■さて!「亡き父」に関しまして……
皆様も、子供の頃ですが「両親に叱られる」この経験は、あられますでしょう…。
今は?皆様の家庭では、どうかは定かではありません。…が?
私の「亡き父」の場合…【お酒を飲んで…叱る?】これは、全くないのです〜〜〜ョネ!
実は「亡き父」は、【コップ1杯…】だけでも飲みますと、すぐさま横になり寝てしますうのです。
つまり【酒に弱い…タイプ】です。
この【叱る…】に関してですが、「亡き母」の性格が、母の実家の家庭環境が当時女中さんも、いま
したので“ノホ〜〜〜ン!んホ〜〜〜ン!”な性格で、「亡き父」と言えば?今で言いますと……
【転職組…最初は旅館経営】でしたので、当時の職業柄“事こまやか?”そして“気がきく?”と
いう性格で、全くその環境が違い…全てが“180度違う環境下?”と申しますか、【小言…】が多く、
そのはけ口が…一番要領が悪い〜〜〜私に対しての“ヤツアタリ…”となりましたのです。…が?
この事は、後に「亡き父」も、当時の心境を母に言っており「私に悪かった〜〜!」といっていた
事を、「亡き母」から聞いております…。
今となっては、父の精神状態から、多々なる条件も加わり【感情のコントロ−ル…】が、上手く出来
ていなかったものと…私自身も理解が出来まして、今日では「仏壇で…父との対話」をしております。

■さて上記の件を…【WEB誌友会の今回の主旨】からそれていますモノと…思いましたが、
しかしながら、私自身■【>>1904閲覧させて頂いての事】なのです。どうしても【誤解されては?】
との一存にて、此処にての“投稿…”させて頂きました次第なのです。….が?
閲覧者の皆様…何卒、御了承下さいますよう願い申し上げます。

                                再合掌

1937志恩:2013/01/20(日) 17:36:20 ID:.QY5jUA6
SAKURA様

耳のことで、本当はおっしゃりたくなかったことでしょうけれど、
詳しく教えて下さって、すみませんでしたね。

貴女の損傷した部分は、鼓膜でなく、頭部の神経のほうを損傷した後遺症によるものだったのですね。

そして、貴女の場合は、お父様からでなく、他人のタタキ男からの暴力によるものでしたか。

>>現代医学では、【神経…】これを、治すことは可能だそうですが…【アメリカ…神経学】との事で、当然
医療費がかなりかかりますとのこと??願わくば“夢…”描きまして【治る!治る!…】かと。<<

そうですか、
そういう神経再生手術を受けるには、健康保険ではなく、個人負担になるのでしょうから、どのくらいの費用が
かかるかは、知りませんけれど、治るといいですね。

貴女が、ゾンビだとかいろいろと、いわれるのも、この件は、無理ない事だと、私は思いました。

私の場合は、軽くて済みましたけれど、
「りーんりーん」という電話の音が聞こえていないということで、私は家族に不思議がられて、耳鼻科へ行き,診てもらって
高音が聞こえなくなっていることを知り、それだけでも、不安に感じておりましたから、

もっともっと、不便な状況が永く続いておられるSAKURAさんは、よくがんばっていらっしゃると思います。

娘が北朝鮮に拉致された早紀江さんに、将軍様を恨むな,感謝せよ、将軍様が悪いとおもうのは、貴女のこころに悪のこころが
あるからだ、と言ったら、すごいいやみになりません?

人間、許せない人がいたら、ゆるせなくていい自由もあって好いんじゃないかなと,私の場合は思います。

それを機動力にして、自分なりに学んで行けば、いいんじゃないかと私は、思います。

1938志恩:2013/01/20(日) 17:54:17 ID:.QY5jUA6
1932:の文中の一部、解説者様の様の敬称が抜けていました。
解説者様、ごめんなさい。

1939SAKURA:2013/01/20(日) 20:10:09 ID:e4ggbbF6
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936 >> SAKURA投稿の続きです…   その①

■「a hope様」…投稿 に関しての感想??   
❤〜(遅くなりましたが…私に声をかけて頂きまして、ありがとうございます…。【感謝…】

■>【「悪」と「虚説」の関係を本当に理解するのはとても難しいことのようですね
ですが、これは「生長の家の教え」を正しく法燈継承するには、避けては通れない重要な
問題だとわたしは感じています】<   (一部抜粋文)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■■【「悪」と「虚説」の関係を本当に理解するのはとても難しいことのようですね】
そうです〜〜〜ョネ!!
以前の私は、正直申しますと【五感…(一般的な総称)】つまり
【目・耳・舌・鼻・皮膚を通して生じる五つの感覚!】人間の感覚の総称での捉え方……
そうしますと…そこには【感情…】が入ってきますので、その時点での【念=想念】が生まれ、
例えばですが???相手が“嫌だ〜〜〜!”という感情は、【以心伝心…】と申しますか?
実に!!その通りになりますから〜〜〜この頃は、振り返りますと、変に【納得…】かと。
今では、あの当時の「悩み・迷い…」は何であったのでしょうかと?自問自答の時も多々です。

■【五 感 で 見 る 事 !!】は“現象…”で見ているのです〜〜〜ョネ!!
(ここで、「雅春先生」は…【五官…】という漢字での表現かと。)

此処で、少し理解しましたのが、難しいのではなく、その人の【こころの目で見る】此処からが、
始まりではないでしょうか??現在の複雑化します【人間関係…】に於きましては、お互いに
“嫌な〜〜〜ァ感情?”を抱くの場合、その時こそが
【神 想 観 で 相 手 の 実 相 を 見 て 行 く】このように訓練する事なのですネ!
確かに…これは【修行…】かと。【普賢菩薩=人間】なのです〜〜〜ョネ!

■■【普 賢 菩 薩 は 金 剛 心 と し て 人 間 の 心 の 修 行 す る 事…】

この様に今の私は、解釈しています。後程にて、詳しく私なりに“解釈”する事になりますかと。
さて、これに関しましては、私が【東京第一教区のY本教化部長先生…】に、以前
相談した事があります。それは、個人的な問題であります【吸血鬼・ゾンビ…の問題】でした。

先生は話の内容を聞かれまして〜〜〜【無い!無い!と、存在していないと思え!】との
【一言…】なのです。しかも、かなり強い語調で〜♫〜
 私は、それに対しまして【現在、見えるモノは、ある!!なのに何故!どうして!無いのでしょう
かと〜〜〜】聞き返しましても、更に!!先生は……笑いながら
【心で無い!と…みる訓練をする事ダョ〜〜〜】とこの様におっしゃいました。“ポカ〜〜〜ン?”

今にして思いますと「Y本教化部長先生…」少しづつですが?理解ができまして、そう思うのです。
本当に【五官の目…現象で認める事とは〜〜〜次々“難問”が厄介なくらいに、
繰り返し〜〜繰り返し〜〜自分自身に差し迫ってきますモノ!!】 大変で〜〜〜す。(微笑)

当に、彼らは【五官の眼…現象で見た事だけを、認める“視角境界…”でしょうかと。】
そして、こちらは、このような考えの方に巻き込まれますと〜〜その【根本の捉え方の相違!】にて
【もう〜〜〜ない!】という“訓練が必要”になり、そこで初めて【悪を認めない事】になるのでは?逆に…自分の“心にまだひっかる心…”がありますと、それは、まだ【悪を認めた事】になるのです
〜〜〜ョネ!!

                          つづく

1940SAKURA:2013/01/20(日) 20:12:27 ID:e4ggbbF6
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936>>1939 SAKURA投稿の続きです…      その②

■■【 虚 説 に 和 解 し て は な ら ぬ】は〜〜〜、
認めない【心の法則…】そのモノになるのではと思います。更に【類の法則…】で、仲間を増やす
事が、一番の【魂 の 訓 練 に も な る の で は ?】と思いますし、
これが…【仲間同士〜〜〜天国の門〜〜〜地獄の門】どちらかではと】この様に思います。

皆様もそうですが“病気…”をしたとしますと?【認めない心の訓練】で〜〜〜当然ですが、
皆様は【神想観で「病気は無い」と…「本来…無い!」】この様に自己顕現でしょうかと。!!
それと同じく【心の訓練…】は、【心の尺度の展開】であり、私は【祈り…】で、解決する問題と
つまり【神想観…】での切り開ける問題と思う次第です。

そして、                     
■>>「生長の家の教え」を正しく法燈継承するには、避けては通れない重要な問題だと
わたしは感じています】<<  (一部抜粋にて)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

私自身は【正しく法燈継承する】これに関しての解釈は、どのようにかと。

これは「生長の家の教え…人類救済運動」ですから…あくまでも【人 を 救 済 】が先決と…
【現総裁雅宣先生】に関しての“人格の中傷”をする事が、優先の様に思えますところですが?
あくまでも、擁護派の私は「総裁先生に中心帰一での生長の家を運動」が寛容かと。この様に
思う次第です。また「分派の皆様方々」は、各会の「代表者様に中心帰一での運動」かと……

最終的には【雅春先生…人 類 を 救 済 】しますのが【魂の向上=生長の家】かと、
この様に、個人として思う次第です。…が???
全ては…【 こ こ ろ で の 捉 え 方 の 相 違】かと、改めて思うのです。

PS:この事は、あくまでも私の捉え方ですので…
                            つづく

1941トキ:2013/01/20(日) 21:06:22 ID:DmbuLu3U
 今度のNHKの大河ドラマは「八重の櫻」です。こちらには、たくさん「櫻」様がおられるので、
親近感がわきます。

 この八重さんは、戊辰戦争では、西洋銃を持ち出し、長州藩や薩摩藩の人達をバンバン撃ちます。
当然、画面でも、会津藩の人達が、官軍に銃や大砲で攻撃をします。
どなたかがご覧になられたら、激怒するような光景です。しかし、実際には、テレビの画面だけの
話ですから、裏では、撮影が終わると、仲良く談笑しているのです。

 今、援護派だ、批判派だ、和解派だと議論をしていますが、実際には、これと同じ事かと思います。
みんなで議論をし、話し合う事で、また復興G様のご解説を拝見しているうちに、真理がより近くなる
のではないかと思います。

1942復興G:2013/01/20(日) 21:10:39 ID:AB6RqYXc

トキ様
皆々様

合掌 ありがとうございます。
只今帰ってまいりました。

このweb誌友会板を拝見いたしますと、たくさんの皆さまから活発な書き込みをいただいていて、うれしく感謝申し上げます。

ところで、私は今日一日、午前・午後ともリアルの世界で責任の一端を担う行事で奮闘してまいりまして、少々グロッキーであります。眠気をもよおして、頭がよく回転しません。

まことに申し訳ございませんが、この誌友会のまとめを私がすべきならば、まとめは明日にさせていただくわけにはまいりませんでしょうか。つまり、会期を一日延長ということに……

あるいは、ともかく今夜で締めることにして、トキ様がまとめをしてくださいますか。

トキ様、決定を一任しますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

勝手をもうしまして、申し訳ありませんが、今日はやすませていただきたく、お許しください。
合掌礼拝。

1943トキ:2013/01/20(日) 21:27:55 ID:DmbuLu3U
>>1942

 ご多忙の中、本当にありがとうございます。実は、私もリアルの世界でバタバタしておりました。

 おそらく、まだまだ書きたい事がある人が多いと思います。会期を1日延長に大賛成です。

 ご多忙の中、ご指導を賜ります復興G様、本当にありがとうございます。
ゆっくりとお休み下さい。

 また皆様、あと1日、御付き合いをお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

1944SAKURA:2013/01/20(日) 22:12:13 ID:IxTatX/w
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936>>1939>>1940>> SAKURA投稿の続きです… .
 
■■【復興G 様】…今日一日、お忙しいスケジュ−ルにて…「おかえりなさいませ〜♫〜」
ここで、スロ−テンポの【SAKURA…勉強会(2巻)】を拝読しましての、投稿をさせて頂きます

===【生命の実相…抜粋】=================================
■【五感的存在の否定】    その①
>>皆さん御承知のアイシュタイン博士でありますが、この科学界の大天才が「相対性原理」
という法則を発見した。この学説はなかなかむずかしいもので世界中で数人の天才しか本当
に理解しえないであろうと、アイシュタイン博士自身が言っているほどの学説・・・・
・・その学説の中心となるのは、われわれの五官で知ることの出来るものは、われわれの
知覚力との関係上、相対的にそう見えるにすぎないので、存在の本当の相(すがた)がわか
るのではないかということであります。
>>その一、二の例をここに解りやすく…云々…
>>たとえばある薬を服ませれば、その人には手に持った時計が床の上まで落ちるのに二十四
時間もかかって落ちるように感じられる。それかといってそう感じる人の方がまちがっている
という証拠がはない。
>>ふつうの人がはいろいろの食物や栄養をとって、それが吸収されて知覚機関に循環してい
る結果、手に持った床の上に落ちるまで瞬時しかかからないように感じられるのであります
>>・・・すべてこれは関係上の問題すなわち相対的の問題であって、本当にその時間がどれ
ほど長くかかっているものであるかは、五官では解らないのであります。(一部抜粋)
==============================================

■人によって【時間の観念…】は、本当に違うのです〜〜〜ョネ!
例えば、この時期ですと、ついつい“学生時代”を思い出します。受験の時間は、その内容に、
ある時は「難問の難しい問題〜〜><」が、出ますと、それを理解するまでは、時は、一瞬止まっ
たような感じでしょうか??そして、解答を出すのに“イライラ…焦り”かと。逆に、その問題
が、簡単に解決しますと、その時間は“時間もクリアする…”従いまして、残りの時間も“タップリ”
別の表現ですが、例えば、仕事として“販売の時…”は、売れています際、お客様との回転率が、
多く、本当に“時間の経過”も、“ア〜〜〜ッ!”という間に過ぎていきます。…が?逆に、
お客様との接客が少ない…つまり回転率が殆ど無い場合には、実に悲惨な状況ですかと。(微笑)
実に、ものすごく一日が?時間が?長〜〜〜く!感じられます。このような心理が、全ては……
【人間の心…】から、きているのではと思うのです。
狭量の“考え方”は、またそれも、ある面では【時間経過が無駄!】に過ぎていくのでは?
【時間は常に、刻々と平等に過ぎ去るモノ】では?しかしながら、【心の捉え方…】で、
一日に於けます「時間観念…」が変わり、過ぎ去り、終わっていくのです〜〜〜ョネ!!

                         つづく

1945SAKURA:2013/01/20(日) 22:13:56 ID:IxTatX/w
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936>>1939>>1940>>1944  SAKURA投稿の続きです… 

■また「雅春先生…」が、別の観点からお話をされています…。

===【生命の実相抜粋】】=================================
■【五感的存在の否定】   その②
>>われわれの眼にカーブが曲って見えたり、直線がまっすぐに見えたりするのも、われ
われの眼球がまん円い結果であって、眼球をまん円く」ないもの取りかえるとすると、カ
ーブの方がまっすぐに見えたり、直線の方が曲って見えたりするのであります。するとわ
れわれが曲線だ、といっているのも、その線そのものがまっすぐなのであるか、曲って
いるためであるかは五官では判別できない、ただそれはわれわれの眼の球との関係上、そ
う見えるにすぎないのであります。時間的長さも空間的形態も、このようにわれわれの知
覚機関との関係上、相対的にただそう感じられるだけで存在(もの)の実相(ほんとのすがた)
はわれわれの五官ではしることができないのであります。  (一部抜粋)
==============================================

■ですので【現象での物事】は、それぞれの見た事だけを、認めない見方です〜〜〜ョネ!
人によって、その人の“心の捉え方”で、【人生が短くも!長くも!ある事となり、現象での五官
とは、五感で見る事になりますよ〜〜〜ネ!!
そうして考えますと、やはり【時間の使い方…】は“楽しい心”を伸ばすことは、
【心=実相世界に入る事】でしょうか??やはり無理して“環境”の合わない人とは、避けていき、
どうしても避けられな状況の場合は【心の眼で実相…】を見て【祈る…】だけでいいと思います。
何故なら、今の私は、彼らの「世界観が理解できないし、そして、それは私に取り、理解出来無い
世界ですから」と思います。■【 時 間 の 観 念 は 心 で 決 ま る 】のでしょう。

===【生命の実相】====================================
>>先生は、さらに五官を通じて存在(もの)を見る心は{迷わしの心}であって、存在(もの)
の実相(すがた)を観る心ではないことが分かるのであります。
≫≫五官の感覚で見たりしたところのものを存在(もの)の実相(ほんとのすがた)だと
思ってはならない。   (一部抜粋)
===========================================
■■この様に「雅春先生…」は、私どもに指導しておられますので
【心の眼で見る事は、やはり“神想観”でしょうかと??神に“心…”を振り向ける事!!】が、
これが、一番の“かなめ”かと改めて思う次第です。…が?
                               つづく

1946志恩:2013/01/20(日) 23:39:20 ID:.QY5jUA6
結局

雅宣総裁が、なにをされようと、かにをされようと、現実は無いのである。
虚説mないのである。
実相は完全であるのだから、どのようなあこぎなことを雅宣総裁が、されようが、悪をみるのは、悪があなたのこころにあるからだ。

ただ、実相をみて、よろんでおりなさい。
そうしたら、完全なる実相が現れる。

雅宣総裁に中心帰一しなさい。

と、和解派の皆様は、くちを揃えておっしゃりたいのでしょう。

洗脳とは、おそろしいものです。

1947志恩:2013/01/21(月) 00:02:39 ID:.QY5jUA6
生長の家教団は、

「自然との共生運動」「エコ活動」「鶏肉は食べるけれど、ノーミート運動」
「脱原発」「民主党支持」…を中心に運動をする市民運動団体のような組織になりました。

1948志恩:2013/01/21(月) 01:12:06 ID:.QY5jUA6
いい忘れましたが
私の実家の父は、会社も経営していましたが、その他、服飾デザイナーでもあり、
当時、日本人で2人しか得ていないフランスの服飾デザイナーの称号を、フランスから得ていた優秀で、
才能豊かな人でもありました。

お酒を飲んでも、外では、人格は変わらず、温厚な人で通っていて、うちの中だけ、人格が変わっていたので、
なにか霊的な関係があったのではないかと思っています。

母と私が、生長の家に入信し、毎朝,「甘露の法雨」を読誦するようになってから、病気がうそのように
消えてしまいましたから。父のおかげで、真剣に行じられたのだと思います。

1949復興G:2013/01/21(月) 07:26:18 ID:AB6RqYXc

皆さま、おはようございます。
ありがとうございます。

トキ様、このweb誌友会の会期一日延長をお許しくださいまして、ありがとうございます。

では、もう一日、『生命の實相』の真理研鑽を続けさせて頂きましょう。

>>1944 :SAKURA様
>>===【生命の実相…抜粋】===
>>■【五感的存在の否定】    その①
>>皆さん御承知のアイシュタイン博士でありますが、この科学界の大天才が「相対性原理」という法則を発見した。この学説はなかなかむずかしいもので世界中で数人の天才しか本当に理解しえないであろうと、アイシュタイン博士自身が言っているほどの学説・・・・・・その学説の中心となるのは、われわれの五官で知ることの出来るものは、われわれの知覚力との関係上、相対的にそう見えるにすぎないので、存在の本当の相(すがた)がわかるのではないかということであります。<<

そうですね。

――これは、端的に言えば、『叡智の断片』に
≪時間空間の中に生命が生れて来るのではなくして、生命が時間空間をつくるのである。時間空間は吾が心の中にある。時間空間は生命の掌中にあるのである。≫

ということでありますね。

その、時間・空間を生み出した元のところ、時空いまだ発せざる「中(みなか)」、「久遠の今」に、「実相」がある。『叡智の断片』にはまた、次のようなお言葉もあります。

≪現象刻々流転。されど流転せざる者あり。「今・即久遠」なり。
「今」を把握すれば人の病い癒え、国の病い癒ゆ。
     ○
 久遠即今の真理を知らざる者は、滅びずと雖も亡者なり。
     ○
「今」を把握せざる者、天壌無窮を永久に知ることなし。
「今」を把握せざる者、「不死の生命」を永久に知ることなし。
     ○
「敗戦前、真の日本なし。敗戦後、真の日本なし。現象裡、真の日本なし」前後際断の「今即久遠」にのみ真の日本あり。真の日本を知らざる者は日本人に非ず。≫

――それで、テキスト『生命の實相』第2巻p.109〜に

≪本当の自分の実相は今も儼然(げんぜん)として実相の世界(エデンの楽園)に存在する、今までも天地とともに生きとおして来た、これからも天地とともに生きとおして、朽ちず、老いず、苦しまず、病まず、悩まざる円相的妙楽の存在、金剛身、不可壊身、無量無辺身、自由自在身、久遠の如来、アブラハムの生まれぬ前より在るところの「久遠のキリスト」なのであります。

 今まで自分たちの実相をこの肉身であると思っていたのは自己の真性を磔(はりつ)けに架け、自己の実相をエデンの楽園から仮に追放して有限身をもって無辺身に換え、有限生命をもって無限生命に換え、自己の生命の実相を蔽い隠していたのであります。その蔽いを取りさって自己の内に宿るキリストを復活せしめる、これがキリストの再臨であり、普賢菩薩の在(おわ)す実相浄土「東方浄妙国土」の地上再現なのであります。

 これこそ一切苦厄を度(すく)う神癒の根本原理であってこの原理を、自分に宿る真理と宇宙に存する真理と相触れてカチカチ鳴る体(てい)の直接的認識作用すなわち「実相覚」によって悟らなければ、われわれは「本当の自分」――金剛不壊身(こんごうふえしん)の自己を掴むことができないわけで、この自己を掴むためにする修行が、毎日一定の時間を期してみなさんに実修していただいている「神想観」の修行であります。≫

――神想観をして、「吾れ今五官の世界を去って実相の世界に入る」という、その「今」が、「久遠の今」である、とお教え頂いております。
<つづく>

1950復興G:2013/01/21(月) 07:27:10 ID:AB6RqYXc
<つづき>
 榎本恵吾先生は、『光のある内に』の中で、次のように書かれています。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

『生長の家』とは何か。それは自分のいのちのことである。「久遠の今」(Eternal Now)において、万物はこの一点におさまっているのである。そして、自分のいのちが「今」「此処」にあれば、『生長の家』も「今」「此処」にあるのである。
「久遠の今」に立ったとき、すべてのことは自分のいのちの中に発見され、常に自分のこととして問題とすることが出来る。
 この「久遠の今」の中に自分を発見し、『生長の家』を発見しなかったら、『生長の家』は自分からはなれたよそごととして、ついに終る。
 また、隣人に説明するにしても、自分の中に『生長の家』を発見し、話す相手さえも自分の生命の中に発見するのでなければ、ついに『生長の家』もよそごととなり、単なる遠くのものを指し示す説明に終ってしまう。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ――そして、谷口雅春先生の御講義レコード『久遠の今』のお教えを引用されています。それをここにも載録させていただきましょう。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

     久遠の今

 生長の家の生き方、あるいは生長の家の哲学の中で、一番重大な問題は、「今」ということであります。この「今」ということがわかったら、それが本当の生長の家の悟りであるわけです。

 「今」というのは、過去―現在―未来―と流れている時間の一部分の「現在」というところを「今」というのではないのであります。この「今」というのは、もう一つ精しくいうと、「久遠の今」ということであります。英語のEternal Nowという意味での「久遠の今」であります。そして「今」の中にすべてが含まれているところの「今」であります。

 仮りに、縦の線をかいてこれを時間であるとし、横の線をかいてこれを空間であるとします。そして縦の線と横の線とが交叉した所、ここがちょうど「今」に当るのであります。いまだ時間も空間も現われていない、時間と空間がそこから現われるところの、その中心の「無」であります。これは神道の言葉でいうと「常今」と言いますが、禅宗などでいうと、いわゆる「無」であります。「無」というと、なんにも無いのを「無」というと、考える人がありますけれども、全然無いんじゃないのであります。禅宗に「無字透関」という言葉があります。「無」の字の関門を透るという意味であります。『無門関』という禅宗の書物もあります。その「無」というものの関門を本当に知ったときに、吾々は自由自在になれるのであります。

 ところで、その「無」というのは――現象界のすべてのものは時間の中に、空間の中に現われておりますけれども、その時間・空間の本のところ、時間・空間が未だ現われない、その「常今」のところ、そこには「なんにも無い」かというと、「なんにも無い」んじゃない。時間・空間がそこから現われてきたんだから、時間・空間がやっぱり「有る」と言わなければならない。時間・空間が一点に巻きおさめられて、その一点もない。すべてのものが、一点もないその中にそのままアルのであります。

 これをもうひとつ別の言葉でいいますと、「絶対無」ということであります。「絶対無」と言えば、多少この意味がわかる。有・無相対の「無」、「有る」に対して「何にも無い」という「無」じゃないのであります。絶対の「無」である。対立がない。その絶対の「無」をつき貫いたところに、そこに「実相」があるのであります。

 ところで「無」というのは、「絶対」などという文字をつけると分るけれども、ただ単に「無」というと、吾々はおおむね相対の「無」を考えます。それで「無」の字の代りに「空」という字をもって来て、仏教などでは表わしているのであります。これにもうひとつ「真」という字をつけて、「真空妙有」というような言葉があります。真空――本当の空である。空っぽの空じゃないのであって、その中に一切のものが含まれておって、そしてどこにも偏らないのであります。
<つづく>

1951復興G:2013/01/21(月) 07:27:40 ID:AB6RqYXc
<つづき>
 それは、もうひとつ別の言葉でいうと、シナの『中庸』という書物に、「喜怒哀楽未だ発せざるを中(ちゅう)という」と書いてある。その「中」であります。「天之御中主神」の「御中(みなか)」であります。一切の時間と一切の空間とが未だ発せざるところの御中の中心であります。これは「未発の中」といわれているところのものである。「喜怒哀楽未だ発せざるを中という。発して節(せつ)に中)(あた)る、これを和という」とありますが、その「中」から一切のものが現われて、時と人と処に応じて、ピタリと急所にあたって、有効にすべてのものがピシリピシリと出来て行くのが、それが「和」、すなわち和解の「和」なんであります。

 生長の家の神想観の時に、「吾れ今五官の世界を去って実相の世界に入る」というのがありますが、「吾れ今」というその「今」が、「常今」であります。Eternal Nowであります。「久遠の今」であります。「吾れ、今……」というとき、自分が今ここに、「吾れ」と「今」と「此処」とが全く一つになってしまう。「久遠の今」が、「今」「此処」「吾れ」と一体になってしまって、時間と空間とを絶したところの「実相の今」というものがあらわれてくるのであります。

 その「実相の今」の、そこに私たちは生活するのです。何月何日の何時何十分、どこそこの空間において生活する――と、そんなふうに生活するのだったら、吾々はいろいろな問題にひっかかることになります。「いつ、だれが、あんなことをぬかしやがった」というので腹が立ってきたり、クシャクシャしたりするんだ。それは、本当の「今」というところに生活していないで、ある時間の流れの中で、どこかの空間的存在として生活してしまっておるから、いろいろと悩まなければならないことが起ってくる。持越し苦労とか、取越し苦労とか、疑心暗鬼――なんていういろいろの心のモヤモヤが出てくるんです。それで、常に「吾れ・今・此処」というその実相の中に、「未発の中」のなかに坐って、なんにも掴まないでいれば、時と人と場所とに応じてピシリ、ピシリと節に中る。事々物々間違いなく適当な処置がとれるということになるのであります。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ――私たちは、この「久遠の今」に立つとき初めて真の「自由自在」を得るのであります。

 谷口雅春先生のこの「久遠の今」のご講義レコードは、私も持っておりました。LPレコード2枚で、1枚がA面にご講義「久遠の今(1)」、B面に基本的神想観のご指導。2枚目はご講義「久遠の今(2)」と如意宝珠観のご指導であったと記憶しています。そしてその「久遠の今(2)」のご講義で、

≪生長の家の教えは「天地一切のものと和解せよ」という教えでありますが、その「和解」というのは、「中」に立って、発して節に中(あた)る、時と人と場所とに応じてピシリ、ピシリと節に中るということである。間違った奴をのさばらしておいて自分は天地一切と和解しているんだなんで思ったら、大間違いであります。≫

 と、激しい口調でおっしゃっていたのを思い出します。
 私はこのレコードを、すり切れるほど拝聴しまして、ある時期にテープレコーダーでテープに声を写させて頂き、レコードは廃棄してしまいました。そのテープがどこかにあるはずなので、これから探してみようと思っております。

 「虚説に和解してはならない。」

 そして、
≪虚説の中でも、最大の虚説は「物質はある」という見解であります。≫
 とお教え頂いているのであります。

 「久遠の今」なる「実相の大地」こそ真の実在であり、現象は影に過ぎないのにそれを実在と錯覚しての論議や争いは、すべて虚説、ということになるのではないでしょうか。だからここで論議されていることだって、私も含めて、みんな「虚説」であるかも知れない。

 だから、常に「自分は今、どこに立っているか。現象を超えた、久遠の今なる実相の大地に立って発言していたか、発言しているか」と顧みる、自覚することこそ大切なことだと思います。

1952a hope:2013/01/21(月) 09:09:36 ID:TqpbsVIM

みなさま おはようございます!

昨晩は、こちらに戻る予定でしたが、わたしも復興Gさま同様、昨日一日子どもの行事に付き合い、
大変疲れていて、さらに、とても嬉しいことなのですが、こちらの板にたくさんの書き込みがあって、
読み切れなかったので、参加を見合わせました。


昨日は、さらに解説者さまとgoroさまのご参加があったのですね。
ありがとうございます。

お二人の掲示板へのご投稿は、いつも拝見しています。
素晴らしい投稿内容にいつも感動したり、そしてお勉強させていただいたりしています。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。


>>1939 SAKURAさま

わたしの投稿への御感想をいただきありがとうございます。

>>【目・耳・舌・鼻・皮膚を通して生じる五つの感覚!】人間の感覚の総称での捉え方……
そうしますと…そこには【感情…】が入ってきますので、その時点での【念=想念】が生まれ、
例えばですが???相手が“嫌だ〜〜〜!”という感情は、【以心伝心…】と申しますか?
実に!!その通りになりますから〜〜〜この頃は、振り返りますと、変に【納得…】かと。<<

このSAKURAさまのお言葉には、正直「ドキリ」としてしまいました。
仕事などをしていましても、こちらら「いやだな〜」という感情をもってしまうと、
自然にその感情が相手につたわって、コミュニケーションがしっくりいかない時があるからです。
そんな時は、相手もきっとわたしのことを「いやな奴だな…」と思っているのではないかと感じています。


>>現在の複雑化します【人間関係…】に於きましては、お互いに
“嫌な〜〜〜ァ感情?”を抱くの場合、その時こそが
【神 想 観 で 相 手 の 実 相 を 見 て 行 く】このように訓練する事なのですネ!
確かに…これは【修行…】かと。【普賢菩薩=人間】なのです〜〜〜ョネ!
■■【普 賢 菩 薩 は 金 剛 心 と し て 人 間 の 心 の 修 行 す る 事…】
この様に今の私は、解釈しています。<<

素晴らしいご指導をありがとうございます!
今回、このweb誌友会に参加して『神想観』の素晴らしさを再認識しています。

感謝 合掌

1953a hope:2013/01/21(月) 09:11:25 ID:TqpbsVIM

復興Gさま

わたしは、>>1884の復興Gさまのお孫さまにあてたメッセージを拝見してちょっとした気づきがありました。

>>悪い天気なんていうものはない。雨も、雪も、嵐も、みんな素晴らしいよい天気なのだ。
毎日晴ればかりだったら、植物は育たない。干ばつで土地はひからび農作物も穫れなくなって、飢饉になる。雨も必要、雪も必要、嵐も必要なんだ。そう思い直した。
人生も、晴れのような、楽なことばかりではない。それがいいのだ。苦労もあった方が、人生の味わいも深くなり、喜びも大きくなる。人間が大きくなるのだ。だから、困難も、挫折もよいことなのだ。だから、雪の日の成人祝い、おめでとう!
ドイツの文豪ゲーテは、「若くして求むれば、老いて豊かなり」と言った。
この場合の「求める」というのは、他に求めるのではない。
志を高く持って、どんなことに出会っても貪欲にそこから魂の栄養を吸収するということ。
「豊か」というのは金持ちになることではない。精神的財産をいっぱい持っていること。<<

自分にとって、「嫌なこと」、「不都合なこと」「不幸なこと」等は、すべて「悪」であると考えがちですが、
でも、「生長の家の教え」では「悪なし」なのですよね。

わたしは、この「悪なし」の教えを、今まで"Nothing"の〝無し〝だと思っていました。
だから、『「悪い」と思うことは本来、存在自体が〝無い〝いことなのだから、気にしないようにすればいいのだ!』
と解釈していたのです。
ですが、この復興Gさまの、メッセージを拝見して、

「悪なし」の教えはそういうことではなかった!

と気づきました。

「悪」と思われる現象も、自分の考え方、とらえ方一つですべて「善」にすることが出来るのだ!!!

と。

そして、「悪」と「虚説」の関係も、自分なりになんとなく解ってきたような気がします。


トキさま

web誌友会の開催期間を一日延長してくださりありがとうございます。
ですが、わたしは今日もこれから仕事ですので、一日ではみなさまの学びには追いつかないと思いますが、
後夜祭でも、引き続きお勉強させていただくつもりでいます。
どうぞよろしくお願いいたしす。

素晴らしい学びの場を提供してくださっている、トキさまにはいつも心から感謝しています。

合掌。

1954トキ:2013/01/21(月) 09:54:29 ID:JCzlgAQE
 本当に多数のご参加、ありがとうございます。

 腰を据えて、真理の勉強をする。そういう姿勢が日常生活の中では、なかなか続かない場合があります。
面白いのは、普段、自宅で拝読する聖典と、こういう場で拝読する聖典が、何か違った感じで読める事です。
 いろいろと顔を会わさない同志が、こういう場で真理の話し合いをし、研鑽をするのは、自分自身、新鮮に
思えます。

 ご多忙のん化ア、ご指導下さる、復興G様、ありがとうございます。

1955トキ:2013/01/21(月) 10:59:33 ID:JCzlgAQE
 ごめんなさい。誤植です。

ご多忙のん化ア、ご指導下さる、復興G様、ありがとうございます。
         ↓
ご多忙の中、ご指導下さる、復興G様、ありがとうございます。

1956さくら:2013/01/21(月) 12:06:41 ID:7nETw8OI
復興G様
みなさま

>「久遠の今」
>「実相の今」
>「天之御中主神」の「御中(みなか)」

端的なお言葉ですが、すべての宗教の教えの中心が、生長の家では、とても分かりやすくとかれていて…新鮮な感に打たれました、ありがとうございます。

完全な神の子が、わざわざ不完全な 現象世界にきて、それぞれの表現の場で、このことにたどり着くために、学ばせて頂いていることは、
難儀だけれど、楽しく、奥深いですね、笑。


わたしは、だれが「真の生長の家」だとか、それ以外は虚説だといったものはないと思っています。

…たとえば、「家ダニ」にとったら、人間の方が「虚説だ」というかもしれません、笑。
例えば、ナチスのユダヤ人大虐殺は、劣勢遺伝を抹殺することが人類にとって有益だというような「正義」に基づいて行われたことともいえます。
…立場が変われば、どちらともなるのが、現象世界の「善悪の価値基準」なのではないかな…と。



ぼるぼ様が別板で書いてらっしゃいましたが、ほんとうに日本の「常識」が外国で必ずしも通用するものではありませんね、
日本は単一民族で、多少のズレがあるにせよ…だいたいが同じような「常識レベル」の範囲で安心して生きてこれたので、「人は、自分と同じように考えてくれるはずだ。そうじゃなきゃおかしい!」と甘えの中でこられたのじゃないかな…と思うこともあります。
外国に一歩でれば、向かい合う相手は、常識も違えば、宗教も違い、信じてるものが違えば、もしかしたら無条件に殺されることもあり得る激しい歴史がありました。

その中で、人間がどう和解するかという智慧や対話が、必要だということですね。

どちらの正義を主張することより、「御中」に立つ、宗教の智慧が大切だとおもいます。

「法燈継承」といいますが…雅春先生は、全人類に真理を皆伝されたもので、
ご縁があって「生長の家」にふれたものが、お預かりしているというか、…そういう感じがしました。

いまの生長の家の組織の問題も大切ですが、
…ここでも、せっかく生長の家をご縁を頂いた同じ同士として(すごいご縁ですね)
生長の家を広くお伝えするためにどのようなことができるかも話せるようになると良いな、と個人的には思います。

そんなことを考えると、ワクワクします、笑。

ありがとうございました。



1957復興G:2013/01/21(月) 13:41:58 ID:AB6RqYXc

>>1946 :志恩さま。
>>結局 雅宣総裁が、なにをされようと、かにをされようと、現実は無いのである。虚説mないのである。実相は完全であるのだから、どのようなあこぎなことを雅宣総裁が、されようが、悪をみるのは、悪があなたのこころにあるからだ。ただ、実相をみて、よろんでおりなさい。そうしたら、完全なる実相が現れる。雅宣総裁に中心帰一しなさい。と、和解派の皆様は、くちを揃えておっしゃりたいのでしょう。洗脳とは、おそろしいものです。 <<

ありがとうございます。

私も、かつては「総裁に中心帰一しましょう」と言っていたことがあります。
しかし、最近は、そうは言っていないことは、貴女もご承知のことだと思います。

「和解」とは、>>1951で書きましたように、谷口雅春先生は
≪生長の家の教えは「天地一切のものと和解せよ」という教えでありますが、その「和解」というのは、「未発の中」に立って、発して節に中(あた)る、時と人と場所とに応じてピシリ、ピシリと節に中るということである。間違った奴をのさばらしておいて自分は天地一切と和解しているんだなんて思ったら、大間違いであります。≫

とお教えくださっています。「中(みなか)」「神意」に帰一するのが真の中心帰一である、と思っております。
なんでも総裁のおっしゃることに中心帰一、というのは、間違っている。それは谷口雅春先生のお教えではなく、真の生長の家ではないと思っております。

昨日、午前中はリアルの世界で『生命の實相』第24巻をテキストとした勉強会をしました。

24巻の後半は「質疑篇」で、誌友の質問、疑問に谷口雅春先生が懇切にご教示をされた記録が収録されています。その186ページ以下に、つぎのような質疑・ご回答が載っていました。
<つづく>

1958復興G:2013/01/21(月) 13:42:34 ID:AB6RqYXc

<『生命の實相』第24巻 質疑篇より(1)p.186〜 >

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   十九、方便法と真実法

 (問) 最近「光明思想普及会」が成立いたしまして、その豊富な広告力とめざましき活動によりまして、全世界が生長の家の光明思想に浸潤して行きます様子は、大変結構なことだと存じていますが、その広告宣伝の方法について私は一つの疑義をもっています。というのはその広告に引例されたる事実談が、すべて奇跡的な異常な(われわれは体験があるのであたりまえのことだと思いますが)事実ばかりであることです。

 かくのごとくでは、宗教というものは異常の世界であるという誤解を一般人にもたせ、また、一方識者からは宗教はそんな表面の世界の奇跡のことではない、生長の家がそんなところに止まっているのでは、生長の家は実につまらない何某教同様の宗教だとの誤解を受ける惧(おそ)れがあると思います。私は古くからの信徒として生長の家を愛するからこそ言うのですが、生長の家のありがたいところは、平凡な生活のうちに神が生きていることを自覚させていただける点であり、何がなくとも喜べる生活が生長の家だということにあると思います。

 その御平生の主張に近ごろの広告文は反対であって、行文の重心が奇跡にあったり、病気にあったりしているのはすこぶる遺憾であると思います。むろん私は、『生命の實相』を読むことによって病気の治った一人でありますので、奇跡も疑うわけでもなく、病気の治る事実も疑うわけではありませんが、その宣伝が奇跡や病気治しに傾いているのは生長の家の神髄を誤解させるおそれがあると思って大変残念に思うのであります。どうか宣伝部の方々に、も少し質実な落ちついた宣伝ぶりをしていただいて、生長の家が健全な発達をするように祈って止みませぬ。(東京、大正大学学生、T生)

 (答) いろいろ御注意下されありがとうございますが、あなたのような仏教を専門に研究していられる方には、釈迦に説法でございますが、『法華経』の譬喩品にある次の話を思いだして下さい。紙面をとらないように、信徒小塚晴弘氏の要約によります。

 ある所に長者があって、まことにたくさんの財宝や大きな家を持っていました。その家の一つは古び腐れていましたが、それが物凄い火事になりました。しかし、その家の中には何十人の子供たちが「火事の恐ろしさ」を少しも知らずに、かえって火事をおもしろがって無心に遊びたわむれています。長者はなんとかして、この子供たちを無事に、この「今にも焼け落ちようとしている火宅」の中から、広い安全地帯へ救い出したいものだと考えて、「おい子供たちよ、急いで門の外へ出ておいで、とても珍しい、とてもおもしろい立派な鹿車(ろくしゃ)や、羊車(ようしゃ)のおもちゃをあげるよ」と言いました。すると、子供たちは喜んで、急いでその焼けている家の中から飛び出して、広い通りへ無事出て来ました。そこで長者は、一同に「おまえたちはみんな自分の子だから、これをあげよう」と言って、みんなに同じように、おもちゃの鹿車や羊車でなしに、ほんものの大きな七宝ずくめの立派な立派な生きた白牛がこれを曳き、多くの従僕らが護衛しているような車を与えました。

 「この火宅の中で無心に遊びたわむれている子供らこそは汝ら衆生であり、おもちゃの車をあげようといって、彼らを救い、ほんものの立派な車を彼らに与えるものは仏である。」

 あなたはこの譬話(たとえばなし)を読まれた瞬間に、「そうであったか。なるほど、なるほど」とお解りになるでありましょう。
 生長の家で病気治しや奇跡を宣伝するのは、病気治しそのもののために、奇跡そのもののために宣伝するのではありません。
<つづく>

1959復興G:2013/01/21(月) 13:43:20 ID:AB6RqYXc

<『生命の實相』第24巻 質疑篇のご教示(2)p.188〜 >

 それは、「今にも焼け落ちようとしている火宅」から一切衆生を安穏の地帯に救い出さんがために、「ここまでお出で、おもちゃをあげよう」と言って誘い出すための玩具(おもちゃ)なのです。
 おもちゃだと言っても、ただ嘘の方便ではない。君も体験しているとおり、本当に病気が治るのでありますが、肉体を治したところが、それは、百年長くて二百年すれば消えてしまうところの、「本来無い肉体」なのです。われわれはそういう「有限の宝」を与えるために大衆を呼んでいるのではない。

 しかし、大衆は、君のように宗教的法悦ばかりを今は望んでいるのではない。猫に小判という言葉がありますが、赤ん坊に百円札をやってもありがたがらないでしょう。「有限の肉体の癒し」や、ちょっと不思議な現象界の奇跡のごときは、「永遠の生命を掴む」という真実の無限の富の前には、極めて小さなることであります。しかし、無限の富を見せても、「赤ん坊に百円札」のような結果になるのではその赤ん坊を救うことができませんから、まず赤ん坊の欲している玩具を示してまた実際に玩具を与えて玩具を模型として研究さすことが必要なのであります。

 「赤ん坊とは」実際に病気や家庭苦に悩んでいる人の喩えでありましてこういう人たちには、「その病気や家庭苦の治る道があるからここへ来い」と言って引っぱり寄せ、その病気や家庭苦を実際に治してみせて、この模型により「三界唯心所現」の理を知らせるということにすると、その人が救われるのであります。

 病気や家庭苦の顕われまたは消えるのは、これ「三界唯心所現」の一大理法「模型」すなわち「玩具」であります。そして健康を回復し、家庭が治まるのは、これ人間本来仏子(または「神子」)の、一大実相の「模型」すなわち「玩具」であります。この模型によって研究し、児童の遊戯心を利用しつつ次第に工学の蘊奥(うんおう)を極めしめれば、幼児の玩具についての経験から発達してついには多数の旅客をのせて一時間に百マイルの速力で走るような飛行船も造ることができるようになるのであります。

 『法華経』を説くときにもお釈迦さんは、「止みなん、止みなん、この真実を説いたら、お前たちは誤解して地獄へ堕(お)ちるであろう」と言っていられる。
 「人見て法説け」でありまして、大衆に対する新聞広告のごときものは、まだあれでも高尚すぎるくらいであります。薬で病気が治るということはわかっても心で病気が治る、さらに三界は唯心の所現であるなどということは解らない人が多いので、これをわからすためには、新聞広告をまだまだ大々的にする必要があると思います。

 君は、生長の家は「平凡な生活がありがたい」ということを知らせる真実の教えだと言われますが、平凡でなければありがたくないのでは捉われた見解です。
 病気が治る事実を発表したらありがたくなく、平凡で感謝している人を発表したらありがたいのでは、偏った考えではありませんか。
 むろん平凡な生活もありがたいし、異常な奇跡もありがたいのです。自分が平凡でありがたいから、他人が奇跡をありがたがってはいけないということはないはずです。

 本当の真理を言えば「奇跡」がありがたいのでもなく、「平凡」がありがたいのでもないのです。「奇跡」の奥に「平凡」の奥にあるわが生命の実相が本来神であり仏であることがありがたいのです。周囲が明るいからありがたいのではなく、自分が光体であることがありがたいのです。
 自分が光体であるがゆえに周囲へ振り向けば、そこに時には「奇跡」という光線となって現われ、時には「平凡」という光線ともなってあらわれるのですが、どちらの奥にも自分の光体たる実相が輝いているのでありがたいのであります。

   <以上、『生命の實相』第24巻 質疑篇より>

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

――これを読んだときに、ある人がこう言いました。

「生長の家が今、“森の中へ行く”というのも、この譬話のおもちゃのようなものでしょうかね」と。
<つづく>

1960復興G:2013/01/21(月) 13:43:52 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 それで、私は思いました。
 
 ――なるほど。病気を治しても、百年もすれば消えてしまう「本来無い肉体」であるように、一時的に地球を救ったって、地球にも寿命があってやがては消えてしまうものである。だから、“森の中へ行く”というのも、“おもちゃ”の段階なのだ。

≪今までも天地とともに生きとおして来た、これからも天地とともに生きとおして、朽ちず、老いず、苦しまず、病まず、悩まざる円相的妙楽の存在、金剛身、不可壊身、無量無辺身、自由自在身、久遠の如来、アブラハムの生まれぬ前より在るところの「久遠のキリスト」≫(テキスト『生命の實相』第2巻p.109)

≪あなたも、私も、いまだかつて肉体として生まれたることもなく、したがってこれからも死することなき久遠永劫の存在≫(『生命の實相』第24巻P.185)

という自覚を与えることが、おもちゃでない本物の宝を与え、究極の救い、「真理は汝を自由ならしめん」とイエスが言った真理を与えることになる。それが生長の家出現の目的である――と思ったのでした。

 ところで、「今の教え」は、この「究極の救い」をもたらしているのでしょうか。

 ――そこにはまだ、ほど遠いのではないか、というのが私の思いです。

 谷口雅春先生のお書きくださった『生命の實相』などの聖典を読むと、魂が歓喜し、やすらぎを覚えます。しかし、雅宣総裁の書かれたものを読んでも、残念ながらそうはならない。(失礼なことを申して、すみません。しかし、それが実感です。)

 しかし、私たち生長の家の御教えに触れた者は、みんな「神の子だ」と教えられているのです。

 イエスは『なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる汝の神を愛すべし』これは大にして第一の誡命(いましめ)なり」といっている。ここに「主なる神」とあるから、人間の方は僕(しもべ)で、主人であるところの神様を愛するのであるかというと、そういう意味ではない。「汝、イエスの神を愛すべし」とはいっておられない、「主なる“汝の神”を愛すべし」と言っておられるのであって、すべての人間には、その自己の内に神が宿っているということをイエスは認めてこのように言っておられるのです。

 生長の家信徒は、総裁の僕(しもべ)、奴隷ではない。各々みな、自己の内に神が宿っている、宇宙の中心者である。

 「生長の家総裁がかわらなければ、信徒は救われない」のだったら、信徒は総裁の僕、奴隷ということになりませんか?

 ちがうでしょう。
 「自分が変われば、世界が変わる」というのが、谷口雅春先生の御教えではなかったのですか?

1961志恩:2013/01/21(月) 14:16:47 ID:.QY5jUA6
復興G様

ご丁寧なる貴いご講話をありがとうございました。
お説き下さいました事を、後ほど、静かな時間になりましたら、ゆっくりと
考えさせて頂きます。 合掌 礼拝

1962志恩:2013/01/21(月) 14:35:33 ID:.QY5jUA6
復興G様

ひとこと申し上げますが、自分だけで信仰している場合は、
総裁が、どんな人であろうと、
雅宣総裁が、どのような運動方針を出そうと、例え「生命の実相」をテキストに使うなと
命令されようと、

自分だけのことを考えていれば、神を対象に生きていればいいのですから、
なんの問題もないと思います。

しかし、今後の生長の家そのものを考えた場合、

生長の家全体の組織の司令官であるのは、総裁であるのですから、
どういう考え方の人が,総裁であるかは、大問題だと思います。

生長の家でない、生長の家の教えを、そのまま継承していない人が継承した場合、

どなたが、総裁であっても、いいということには、ならないのでは、ないでしょうか?

やはり、うそをついたり、
間違った事をされた場合は、心ある信徒は、黙っていずに、発言しなければ、

どんどん、間違った方向へ行ってしまいますから、
どんどん、本来の生長の家は、消えていってしまいますから、

そういう場合は、
黙認して祈ってばかり居る事は,神の道に反していると,私は思います。

1963復興G:2013/01/21(月) 14:51:52 ID:AB6RqYXc

 もし、三代目総裁が、谷口雅春先生のお説きくださった最高の真理のお悟りをそのまま受け継がれ、徳高く愛深くご指導くださっていたら、信徒はいつまでもただ総裁に寄り頼ってばかりで、総裁を神と崇めまつり、「自分が神の子である、釈尊やイエス・キリストと同じ尊い永遠の存在である、宇宙の中心者である」という自覚に到ることはなかなか難しいでしょう。

 だから、信徒皆がその自覚を持つように、神はちゃんと信徒のレベルにふさわしい総裁を配剤してくださっているのである。

 「私たちは神の子である。私たちの家は“神の子”たちの住む“神の国”なのである。神はその全智にして全能なる力をもって私たちを愛し給い導き給うのである。神の愛は近視眼的愛ではなくて遙かに前途を見越して、有終の美を飾る如き結果をわれらに与えたまうのであるから、現在の状態がたとい如何なる状態であっても私たちは神に対する信頼を失うということは絶対にないのである。」

と、『真理の吟唱』<人生の苦難を克服する祈り>にある通りです。

>>1953で a hope様が書いてくださったことにも通じますね。

また、>>1843 に引用させて頂いた榎本恵吾先生の「誌友会への所感」で、「誌友会」というところを「講習会」と置き換えれば、次のようになります(一部抜粋です)。

≪生長の家の集りは光りの集りである。そこには“光り”が集まって来るのである。先づ光りなるものがあるのである。集まってから光りとなるのではないのである。それははじめて来た人についても同じことである。
 “講習会に行こう”と思うことが、内なる如来が、天照大御神がその人の内からお顔を出されて、輝き出して、そう思うのである。したがって、“講習会に行きたいなー”と思ったとき、すでにその人は如来の輝きであり、光明そのものであり、天照らして光なる人がそこに立っているのである。
 その如来なる、光明なるいのちが家を出発する。そして周囲のすべてを輝かせながら講習会場にやって来るのである。ある人は徒歩で、ある人は車で、あるいは電車に乗って。道路を歩けば道路を燦然たる光りでかがやかせながら。そして電車に乗れば、その人から出る光りによって電車は光りと化し、木々の間を通れば木々を輝かせながら講習会へ、講習会へと光りが集まるのである。
 再び言う。講習会に来てから光りとなるのではないのである。“光り”が集まって来るのである。その光りがさらに光りする行事が講習会である。
 その光りなる如来に坐ってもらって、会場の椅子はどんなに喜んでいることであろうか。光りに集まっていただいて、その会場全体がどんなに喜びに輝いていることであろうか。≫

 ――講習会受講者のたとえ一割でも、このような気持を持って輝く姿で集まり、よろこびの光を発すれば、必ず総裁のお姿、ご講話の内容も素晴らしいものに変わってくること必定だと私は思います。

 信徒一人一人が中心者である。奴隷ではないのである。神の子なのである!

 なんという素晴らしいことでしょう!

 そんなことを考えると、本当にワクワクしますね、さくら様。

1964復興G:2013/01/21(月) 15:05:27 ID:AB6RqYXc

志恩さま。

上記>>1963は、志恩様の>>1961>>1962を見ないで書き込みました。

しかし、>>1963でだいたいお答えになっているのではないかと思います。
つまり、現在の総裁は、現在の信徒のために、最もふさわしい方が現れてくださっていて、それが神の配剤なのではないかと思われるのです。

このような思いを引き出してくださった志恩様は、まさに尊い観世音菩薩さまでいらっしゃると、礼拝し、感謝申し上げます。
ありがとうございます。

1965志恩:2013/01/21(月) 15:22:41 ID:.QY5jUA6
復興G様

お答えを,ありがとうございます


復興G様のコメント

>>もし、三代目総裁が、谷口雅春先生のお説きくださった最高の真理のお悟りをそのまま受け継がれ、徳高く愛深くご指導くださっていたら、
信徒はいつまでもただ総裁に寄り頼ってばかりで、総裁を神と崇めまつり、「自分が神の子である、釈尊やイエス・キリストと同じ尊い永遠の存在である、
宇宙の中心者である」という自覚に到ることはなかなか難しいでしょう。

 だから、信徒皆がその自覚を持つように、神はちゃんと信徒のレベルにふさわしい総裁を配剤してくださっているのである。<<


何事も偶然の出来事は、発生しないという法則を思い起こせば、

雅宣総裁のように、生長の家の教えを、継承してない人なのに、左翼的な思想の人なのに、そういう人が、
この世界的使命を持つ 

たいせつな たいせつな
生長の家の教団の、総裁の座に居座ってしまっているということは、

復興G様が、おっしゃっるように、人智では計り知れない 深い意味が、あるのかもしれませんね。

ご深切にご教示下さって、ありがとうございました。

1966復興G:2013/01/21(月) 15:27:40 ID:AB6RqYXc

志恩様

ご丁重なレス、誠にありがとうございます。

礼拝

1967トキ:2013/01/21(月) 18:20:58 ID:JCzlgAQE
 少し話がずれますが、今、総裁を批判する人もいれば、援護する人もいます。私自身は和解を唱えている人間ですが、批判派も援護派も
それぞれしっかりとした根拠があり、その反対にそれぞれに弱点があるとも思います。しかし、両者に共通しているのは、「総裁」の立場
をかなり特別視している部分が強いと思います。

 もちろん、総裁は教団にとって最高指導者であり、その意味では特別であるのは間違いがないのですが、総裁の発言一つで、今まで西に
向いて走っていたのを、いきなり東に向かって走るようなあり方が本来の活動あるいは信仰の姿勢ではないと思います。これは、全く復興G
様が言われる通りで、私個人は復興G様のお考えを支持します。

 今、少し思案をしている点があるのですが、それもまとめて投稿をしたいと思います。

合掌 ありがとうございます

1968SAKURA:2013/01/21(月) 19:17:46 ID:dGeUHjWM
a hope様 ヘ  

こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936>>1939>>1940>>1944>> 1945の【SAKURA投稿】
の続きです…。 

>「a hope」様の【>>1952の投稿】を頂きまして……

■早々の“お返事”感謝申し上げます…。大変遅くなりました事…申し訳ございませんでした。
今日は、私事で、日中【 バタバタ!ドタバタ!の〜〜〜一日…】でした。…が?
ヤ〜〜〜ット!今!!皆様の“投稿”を閲覧させて頂いております…。 【進行形…】

私も、この【 WEB誌友会 】にて、「a hope様 」と、この様に“真理の勉強”をさせて頂きます
機会を…当に!この様に【ネット上での対話】ができます事に、深く感謝申し上げます。

今後とも、何卒宜しくお願い致します。
                                再合掌

1969トキ:2013/01/21(月) 19:23:34 ID:JCzlgAQE
 この掲示板が登場した頃は、まだ聖典の裁判も地裁レベルでの判決が出た頃でしたから、法律に詳しい人に尋ねると、十分に
法律上の和解も可能な時期でした。弁護士によっては、具体的な方法をあげて「私なら、和解できる」という人もいました。
 しかし、高裁の判決も出てしまい、もうすぐ最高裁判所の判決も出ます。

 もう一つ言えるのが、これが始まった頃は、まだ「分派」の勢力や評価が信徒の間では、重要視されていなかったのです。が、
高裁判決、さらには「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」が出てしまい、一気に信徒の間に動揺が走るようになりました。それに
比例して、「分派」の勢いは急激に増大し、それに反して教団からの脱退者が増加しました。言い方は悪いですが、以前なら
教団が「分派」を呑んでかかっていたのですが、今は、「分派」が教団を呑んでかかっている状態なのです。

 すると、今、法律上の和解をしようとしても、「分派」側は、簡単には応じないでしょう。今、教団側は、例の「新経本」で
「聖経」の不在を乗り越えようとしていますが、信徒の多くは、そこまでお目出度くないです。

 そういう状態を見ると、それでも「和解」を唱える意義があるのなか、という疑問は確かにあります。しかし、生長の家の
和解とは、「天地一切のものと和解せよ」と言う事です。難しいから「和解」をしないとか、相手が誰だから和解しないとか、
という意味ではないので、こんな状況でも「和解」を唱える意味はあるかと思います。

 そもそも、考えると、この一連の争いは、「下層」の信徒や職員、幹部には関係のないところで始まった事です。教団や「分派」
の元偉い人達は、それなりの理念や信念で、それぞれの運動方針を決めていますが、我々、「下層」の人間とは関係のないところ
で始まった争いに、右往左往するのは、おかしいと思います。

 思うに、今回の紛争があって、多くの人ははじめて戦前や戦後の谷口雅春先生の御著書、あるいは吉田國太郎先生や榎本恵吾先生
の御著書を読んだと思います。このような争いがあった事は本当に残念な事ですし、個人的には恥ずかしい事だとも感じています。
が、この紛争がなければ、信徒は安逸な信仰を継続していたかもしれません。

 余談ですが、今回の「森のオフィス」の建設のために、長さ4m以上の木材が4万本も使われます。最初、それを見たときには
「もったいない事をするなあ」と思ったのです。が、その後に、若い木を植えたら、それは次世代への生命の伝承となると思います。

 今、この紛争に当たって、私達、一人一人が、自分の本当の信仰を確立し、生活に生かす姿勢を保つ事が大事だと思います。

と、偉そうな事を言っても、まだまだ修行中ですので、ご教示のほど、お願いいたします。

1970トキ:2013/01/21(月) 19:46:29 ID:JCzlgAQE
 復興G様の御指導を拝読して痛感したのは、やはり求めて、真理を勉強しなければならない、という事ですね。
まだまだ、谷口雅春先生のご本も入手可能ですから、自分から動かないといけませんね。

1971SAKURA:2013/01/21(月) 19:48:03 ID:dGeUHjWM
「復興G」 様 ヘ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936>>1939>>1940>>1944>> 1945>>1968の【SAKURA投稿】
の続きです…。 

>「復興G 様」から頂きました【>>1949…】に関しまして・・・・・

お返事ありがとうございます。昨日は、大変の疲れとの事で…それでも
早々の時間に、お返事を頂きました事に、深く感謝申し上げます。
只今…引き続き、「生命の実相…2巻」の続き投稿として、今!ヤ〜〜〜ットのことですが
【パソコン…】の“key!…”を打ち始めております。

本日の“テキスト”…(頂きました“お返事…”の中からです。…が?)

■>時間空間の中に生命が生れて来るのではなくして、生命が時間空間をつくるのである。
時間空間は吾が心の中にある。
時間空間は生命の掌中にあるのである。<  (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■【 時間・空間 】は、【 心 の 中!】と云う言葉に、確かにそうですかと、改めて思います。
【 心 の 力 】と表現させて頂きますが…
例えば…「朽ちず、老いず、苦しまず、病まず、悩まざる、円相的妙楽の存在」全てが…
改めて【 こころ 】と、頂きました言葉から、改めて認識しました。

但し、その切実なる【自己の真の願い…】が、不動のものであり…
神に対して切実に願うとしますと、それは【心の法則…】によりまして、成就すると…

「復興G 様」様の“抜粋文章”を閲覧させて頂きながら【人間の心が創る】と確信しました。

引き続き【生命の実相…2巻】このテキストからの投稿をさせて頂きます。
但し【こころ…】この捉え方の相違が…個人個人と思いますので、最終的には【類の法則】かと。
尚!スロ―テンポにてでの、投稿となりますので…閲覧者の皆様方も御了承頂きますと、
幸いに思います。

                                  再合掌

1972SAKURA:2013/01/21(月) 20:15:21 ID:dGeUHjWM
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936>>1939>>1940>>1944>>1945>>1968>>1971
【SAKURA投稿】の続きです…。 

===【生命の実相…2巻よりの抜粋】===========================
■【五感的存在の否定】   その③

>>名画はそれ自身「美」を備えていても、見る人の心に名画と同じ「美」が開発されていな
いと「なるほどそこに美があるな」とはわからない。すべてそこに「何か」がある事がわか
るのは、自分の内にあるものと同じものがそこにでているからであります。「善」でも同じ
ことであります。ある人の善行を見てわれわれが感激して「そこに善があるな」と語るのは、
われわれの内に道徳性――すなわち「善」が相手にあらわれている「善」と、互いに照らし合わ
された結果、「なるほどそこに善があるな」とわかるのであります。だから道徳性(善)の無い人、
または開発されていない人には、他の善行を見てもそれを感心することができない、自分に無い
ものは相手にいくらあったからとてそれがわからない、聖者はひとの悪を見ないといいますが、
それは聖者が悪を見ないのではない、聖者は自分の内に悪がないから、他人の悪が見えないので
あります。ひとを常に批評的に観て、「あの人はあんな行ないをしたから、それは必ずこういう
悪い動機からしたのであろう」と、常に想像をたくましゅうしているような人は、その人自身の
心に「悪」があるから、相手に悪があるとわかるのであります。そうすると、他人の心情「悪」
が目につく人は必ず自身の心情に「悪」がある証拠であるから、決して他人の「悪」を批評し
たりする資格がないのであります。だから「他人が悪いな」と気がついた時は、「それがわかる
のは自分の心のうちに悪があるからだな」と反省すべきであります。  (一部抜粋)
==============================================

■【人間関係 の問題】では、まず!必ず起きる問題です〜〜〜ネ!!
【相手が悪い!!という前に、こちらが、相手をさす“こころ…”がある分けですから、
「雅春先生」の言葉からも、【相手への念】が、必ずや伝わるのモノでしょうかと。??そして、
私の場合を、例えますと、【関わりたくな〜〜〜い】と強く“心で想念…”してしまいます事は、
反対に【念の具象化…】で、これが、かたちとして、現われてくるのです〜〜〜ネ!!

同じように見たものでも、例えば【絵の鑑賞…】をしますと、その【絵…】が「素敵〜〜〜ネ!」
と聞きますと、私は「どこが〜〜〜ぁ?」と答えます。それに対し、相手が「ここがいいの〜〜ョ」
と云いますと「フ〜〜〜ン?」理解できます。…が? “環境の違う人”は、これが分からない
のと、逆に息まいて、こちらがまるで“バカ扱い…”されますかと。これは【類の法則…】

これは、こちらの【念からの具象化なのか?】〜〜〜少なからずもと、悩んでしまいます。…が?
どう考えても、その人の“環境…”から来る事に〜〜〜おなじ絵を見てわからないけれど、
そこには『 何処か?同じ共通点が?あるという事を探すこと』が〜“始まり”かと思いながら…

今回!相手に対し、まずは“相手の気持ち”になっての【理解する事…】が歩み寄りでしょうかと。
こう考えますと【 類の法則 】でも、相手を讃歌しながら“良い美点…”を見ていく訓練も
大事です〜〜〜ョネ!
此処で【相手への讃嘆言葉…】いざ!25〜30項目を挙げてくださいと言われますと…意外と時間が?
やはり、これは日頃の訓練であり、瞬時にして【讃嘆…言葉】が出ないと言います事は、
私もそうですが…“相手をさす心…”が、潜在意識の中に定着していますかと???

■まず身近にできる事は、すぐ近くの【 隣の〜隣人から〜始まり 】それは、やはり、
【 類 の 仲 間 】になる事でしょうかと??そこから【人間関係の訓練】ですネ?
 
                        つづく
PS;今回の【生長の家…お家騒動】は〜〜〜???

1973SAKURA:2013/01/21(月) 21:02:01 ID:dGeUHjWM
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936>>1939>>1940>>1944>>1945>>1968>>1971>>1972の 
SAKURA投稿の続きです… 

===【生命の実相…2巻の抜粋】=============================
■【五感的存在の否定】   その④

>>時々、ひとが善く見えたり、またすぐに悪が見えて来て相手に失望したりするような人は、
時々自身の心に「善」が宿って来ても「悪」がすぐ宿って来て交替になる人であるから、
われわれは自分の心に「善」ばかり養って、他の「悪」を見ようにも見えないように修養を
つみたいのであります。                    (一部抜粋)
============================================

■そうです〜〜〜ョネ?果たしてどうなのでしょうか?【こころは毎日かわるとの事です。…が?】
この事を、ふんだんにおっしゃつている方がいた事を、思い出しました。それは、ある面では
情緒不安定な感情〜〜〜がありまして、ある面では【感情のコントロール】も関与しての
常日頃の【 “こころ”は、毎日変わる… 】でしょうかと。此処で、改めて問題が…
そうなのです…。【感 情 論…】そして【環 境】も多大と思います。

■前回も申しました。…が? 私の現実の「体 験 談」からなのですが〜〜〜
今の私も、やはり“捉え方・考え方”が全くといってそぐわない【人種…そう!吸血鬼・ゾンビ】です。
何度も〜何度も〜関わりたくないと、毎日!事あるごとに!言っています。それくらいの【想念…】
そして【感情…】でしょうかと??
今回、昨年の年度末から病気して近くの「内科病院…」に診察して頂き、そこは、意外と
「威厳のある先生」であり、更に「看護婦さん…」との会話が、楽しい雰囲気でもあります。実は、
最初診察に伺いました時、当初の「看護婦さん」の応対に“ビックリ…”でした。…が?(やはり、
東京と応対が違う事に、正直戸惑い感かと。><)と云いますのは?そこに伺う従来の“患者…”の
方と、異なっていたのでしょうか?“嫌〜〜〜な視線??”を頂きましたのです。(微笑)
しかしながら、こちらも負けずに、その応対をかわしまして行きますと、気がつきますと、向こうの
方が、私どもから受け取ります感じが〜〜〜いい方へと良くなりまして、お互いに“好感度…”と
なりました次第です。本当に、最初の診察時の印象は?当時は“ビックリ”でしたかしら〜〜〜ン!
…が、今日では「先生」も「看護婦」さんも親切にての応対です。【以心伝心…】かと。

そこは、ある程度の患者さんが〜〜〜落ちついた!マナーのある患者!が多くて、安心しておりまし
たが、今回の病気で、最初はいつもと変わらない患者の方々なのに、気がつきますと、
周りの患者は、変!変!〜〜〜変な感じが、通院するたびに増えていって、看護婦さんも〜〜〜
“アタフタ感…”になっているようです。診察を受けるに「コートも着ないで?どうみましても??
部屋着(ネマキなの??)このような感じなのです。??ふと!【吸血鬼・ゾンビ…??】かと。
こうなりますと“心…”が、だんだんと“すさんだ心”になります。…が?

■【相手の美点…】を見ても、直ぐさま納得して“変わる心”という事は?こうして考えていきま
すと、やはりこれは【 類 の 法 則 】でしょうか??
…と!そこからの【訓練・修行】に、なるのではと思いました次第です。…が?そうしますと〜〜〜
今の私どもの“環境…”は、ある面では、これが【一番の修行の場】になるのですかと。

つづく

1974復興G:2013/01/21(月) 21:23:34 ID:AB6RqYXc

 皆さま、ありがとうございます。
 会期の一日延長をさせていただきましたが、それももう間もなく終了時間となります。
 もちろん、後夜祭もありますから、じっくりと落ち着いて勉強させていただきたいと思いますが――一応補遺・まとめをした方がよいと考えます。それで――

 今回のテキスト『生命の實相』第2巻第3章の冒頭に、〈参考〉として、経典・聖書などから四つの引用文が掲載されています。次の四つです。

 ① 是(こ)の身は幻の如く顛倒(まよい)より起こる。是の身は夢の如く虚妄(こもう)の見(けん)たり。是の身は影の如く業縁(ごうえん)より現ず。是の身は響(ひびき)の如く諸々の因縁に属す。是の身は浮雲の如く須叟(しゅゆ)にして変滅す。是の身は稲妻の如く念々に住(とどま)らず……<『維摩経』方便品(ほうべんぼん)>

 ② 迦葉(かしょう)、仏に白(もう)して言(もう)さく「二十五有(う)に、我(が)有りや否や」 仏のたまわく「善男子(ぜんなんし)、我とは即ち是れ如来蔵(にょらいぞう)の義、一切衆生悉く仏性あり、即ち是れ我(が)の義なり。……如来今日、普く衆生の諸々の覚宝蔵を示す、所謂(いわゆ)る仏性なり。一切衆生この事を見已(おわ)らば、心に歓喜を生じて如来を帰仰(きごう)す。」<『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』如来性品(にょらいしょうほん)>

 ③ たとい無量百千億の魔も如来の身血を侵し出すこと能わず。故は如何ん。如来の身は血肉、筋脈、骨髄にあらず。如来は真実にして実に悩壊(のうえ)なし。<『大般涅槃経』月喩品(げつゆほん)>

 ④ イエス答え給う、「我もし已(すで)に栄光を帰せば我が栄光は空(むな)し。我に栄光を帰する者は父なり。即ち汝らが己(おのれ)の神と称(とな)うる者なり。然(しか)るに汝らは彼を知らず我は彼を知る、もし彼を知らずと言わば汝らの如く偽り者たるべし。然(さ)れど我は彼を知り、且つその御言(みことば)を守る。汝らの父アブラハムは、我が日を見んとて楽しみ且(かつ)これを見て喜べり。」ユダヤ人(びと)いう、「なんじ未だ五十歳にもならぬにアブラハムを見しか。」イエス言い給う「まことに誠に汝らに告ぐ、アブラハムの生れいでぬ前(さき)より我は在るなり。」(『ヨハネ伝』第八章五四−五八節)


 以上の四つの原典引用文は、とっつきにくくて難しいと思われるかも知れませんが、>>1949〜1951に書きました「久遠の今」(時間・空間を生み出した元のところ)に吾々の生命の本体が時空を超えて実在していること、そして現象・肉体は、その生命が創り出した3次元スクリーン(あるいは時間という次元を含めて4次元時空間のスクリーン)に映し出された映像、影だ、本来無いものだとわかりますと、理解しやすくなると思います。

 さらに、谷口雅春先生著『維摩経解釋』『大般涅槃経解釋』『ヨハネ傳講義』などを拝読しますと、いっそう分かりやすくなります。

 それで、上記三聖典から、関連部分を抜粋謹写させていただきましょう。
<つづく>

1975復興G:2013/01/21(月) 21:24:15 ID:AB6RqYXc

 ① 是(こ)の身は幻の如く顛倒(まよい)より起こる。是の身は夢の如く虚妄(こもう)の見(けん)たり。是の身は影の如く業縁(ごうえん)より現ず。是の身は響(ひびき)の如く諸々の因縁に属す。是の身は浮雲の如く須叟(しゅゆ)にして変滅す。是の身は稲妻の如く念々に住(とどま)らず……<『維摩経』方便品(ほうべんぼん)>

について、『維摩経解釋』より――

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 是の肉体は幻のようなものである。幻というものは、「無い」ものを「ある」かの如く幻想するのであって、「無い」ものを「ある」と見、「ある」ものを「無い」と見る顛倒(さかさま)の想いの産物であるのである。

 是の肉体を物質として見るのは夢みているようなものであって、虚(むな)しきものをあると錯覚して妄想をたくましうしているにすぎないのである。

 是の身は影のようなものである。一種の影像であって、業(ごう)の波動が「縁」に触れて形をあらわしたのは、恰(あたか)も、影の波動(業)がスクリーンという「縁」にふれて形をあらわした「銀幕上の人間」みたいなものである。

 この肉体は響きのようなものであって、山峡(やまかい)に立って谷へ向って「オーイ」と呼ぶと、谷間から「反響(こだま)」が「オーイ」と返事をして、恰も実体のある人間が返事をしてくれたように見えるけれども、それは実在するのではなく、こちらから出した声の波動が因(原因)となって、谷間の岩壁等が反響を起す「縁」となって生じたもので、それは因縁の産物にすぎないのであり、「因」が滅するか、「縁」が滅するか、或いはその両者ともに滅すると、結局消えて行くもので、不滅の実体なんて存在しないものである。

 此の肉体というものは、空に浮ぶあの雲のようなものである。その浮雲を眺めていると、あの雲は人間の形をしていると思ってみている間に、須叟(しばらく)の間に、その形が変ってなくなってしまうのである。

 此の肉体は稲妻(いなづま)のようなものである。念々持続ということがない。一瞬にして消え去ってしまうものである。
<つづく>

1976復興G:2013/01/21(月) 21:25:04 ID:AB6RqYXc

 ② 迦葉(かしょう)、仏に白(もう)して言(もう)さく「二十五有(う)に、我(が)有りや否や」 仏のたまわく「善男子(ぜんなんし)、我とは即ち是れ如来蔵(にょらいぞう)の義、一切衆生悉く仏性あり、即ち是れ我(が)の義なり。……如来今日、普く衆生の諸々の覚宝蔵を示す、所謂(いわゆ)る仏性なり。一切衆生この事を見已(おわ)らば、心に歓喜を生じて如来を帰仰(きごう)す。」<『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』如来性品(にょらいしょうほん)>

について、『大般涅槃経解釋』より――

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 釈尊が実相は無常・苦・無我・不浄ではなく、常・楽・我・浄が実相じゃとお説きになつたものですから、迦葉菩薩は「二十五有に転々と生れ更る存在にも『我』というべき本質的な実体があるのでございますか」と訊いたのであります。

 二十五有というのは、我々の霊魂が生れかわって行くと考えられている世界に、欲界・色界・無色界の三種の「界」があり、その「界」を分って二十五種類の「有」の世界があるのであります。「有」というのは「仮有」すなはち「仮存在」の世界なのであります。(中略)

 「実相」は真如法性(しんにょほっしょう)であり、そのうちに一切のものを蔵しており、ここから如来が生れて来るのでありますから、これを如来蔵ともいうのであります。

 そこからすべてのものが放送されて現象界にあらわれて来るという点から喩(たと)えてみますと、実相は如来を蔵する放送室のようなものであります。それが色々の波長を放送いたしますから現象界という色々のテレビ受信機に受像されて、そこに「転現」します。この「転現する」ことを「生れ更る」というのであります。

 受像は転現しますから「生れ更る」ように見えますが、すなはち「無常」であり、「無我」であり、「変易」するように見えますが、放送室には儼然(げんぜん)として「如来蔵」が存在するのであります。この如来蔵こそ不滅の「我」の本体であります。

 すなわち我々は、不滅でありながら滅をあらわし、「生れ更らない」でいながら、いろいろの「界」に転現して生れ更るごとく見せているのであります。

 こうして衆生として生れ更って来るように見えるのは、ともかくも、その放送室「実相」に「仏性」(という我)が存在するからであります。これを「一切衆生ことごとく仏性有り、すなわちこれ我の義なり」と釈尊は仰せられているのであります。

 現象としてみて見れば三界というテレビにあらわれた衆生でありますけれども、その奥を見れば「実相」に仏性があるのであります。仏性があるのに、仏性の方を見ないで、転現する現象だけを見て、その転変に心を奪われ執著して煩悩をおこしているから、仏性の方はおろそかになって、衆生は仏性を見ることが出来ないのだと仰せられたのであります。
<つづく>

1977復興G:2013/01/21(月) 21:25:45 ID:AB6RqYXc

 ④ イエス答え給う、「我もし已(すで)に栄光を帰せば我が栄光は空(むな)し。我に栄光を帰する者は父なり。即ち汝らが己(おのれ)の神と称(とな)うる者なり。然(しか)るに汝らは彼を知らず我は彼を知る、もし彼を知らずと言わば汝らの如く偽り者たるべし。然(さ)れど我は彼を知り、且つその御言(みことば)を守る。汝らの父アブラハムは、我が日を見んとて楽しみ且(かつ)これを見て喜べり。」ユダヤ人(びと)いう、「なんじ未だ五十歳にもならぬにアブラハムを見しか。」イエス言い給う「まことに誠に汝らに告ぐ、アブラハムの生れいでぬ前(さき)より我は在るなり。」(『ヨハネ伝』第八章五四−五八節)

について、『ヨハネ傳講義』より――

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 (「汝はわれらの父なる、ユダヤ人の大祖先として最も尊敬しているアブラハムよりも大なる者であるか、彼は死んで、それから後に出て来た多くの預言者たちも死んでいるではないか。それにお前の言を守らば永遠に死なないと言う、貴様は一体何であるか?」 とユダヤ人たちがいきり立って言ったとき)

 その時イエスはこう言われたのであります。

 「『我もし己(おのれ)に栄光を帰せば、我が栄光は空(むな)し』 自分を自分が尊い者であると言ったらその栄光は空しいけれども、私に栄光を帰する者は我が父である。我が父は、お前達の崇めておるところの本当の神様である。本当の神様が我が父であって、その神様がわたしの実相を讃嘆して、『汝は神の子であるぞ』とわたしに栄光をあたえているのである。神が、お前達の崇めている本当の神が私をここに遣わし給うて、実相の子としての実相の響きを出させておられるのである。

 『然るに汝らは彼を知らず、我は彼を知る』 私は本当に神を知っている。お前達は『神』を説いても本当には神を知らないのである。ところが、私は、本当の父なる『実相の神』を知っているのに、今更、神を知らんなどと言えば嘘吐(うそつき)になってしまうから、断じてそう云うことはできない。自分は肉の子であるとはどうしても言わないのだ。自分は実相(かみ)の子であるから、実相(かみ)の子であるというより仕方がないのだ。

 『汝らの父アブラハムは、我が日を見んとて楽しみ且(かつ)これを見て喜べり』――汝らの父アブラハムは、このイエスが出て来てそうして人間の実相を伝える――この日の出て来るのを予感していられて非常に喜んでいたのである。」 こうイエスが言われたら、
 「なんじ未だ五十歳にもならぬにアブラハムに会ったことがあるか。そんな出鱈目(でたらめ)、出放題(でほうだい)を言ったとて誰も信ずる者はないぞ」とユダヤ人はそれを反駁したのであります。

 数千年前に生れたユダヤ人の遠祖であるアブラハムであります。そのアブラハムがお前を知る筈はない。お前はまだ五十歳にもならぬじゃないか。どうしてアブラハムを知る筈はない――これが一般常識であります。

 それに答えられたイエスの言葉が有名な 「まことに誠に汝らに告ぐ、アブラハムの生れいでぬ前(さき)より我は在るなり」 と云う一句であります。この肉体の自分は三十三歳位に見えているけれども、こんな肉体は、本当の自分ではない。自分は、久遠生き通しの実相がここに顕現しているのである。だからアブラハムの生れぬその前の前の前より、自分は久遠の実在として存在しているのだ――こう言われたのであります。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

――以上、ありがとうございます。

1978復興G:2013/01/21(月) 22:24:59 ID:AB6RqYXc

SAKURA様。

テキストに添って、精力的に書き込みをしてくださいまして、ありがとうございます。

それを無視したわけではありませんが、割り込んで投稿したようで、申し訳ありません。

お詫びします。感謝します。

一応終了時刻になっても、まだ後夜祭がありますから、どうぞお続けください。

1979トキ:2013/01/21(月) 22:26:03 ID:JCzlgAQE
 復興G様、ご指導、ありがとうございました。

 私個人の感想ですが、大事なのは、聖典を拝読し、その上で各自が感じた事が「正解」なのかと思った次第です。
もちろん、慢心に陥ってはいけなのですが・・・・。過去は、信徒にとっては、教団や総裁の示す解釈が唯一で無二の
正解であった、という事だったと思うのです。これからは自分が神の子である、という事から発想を初め、聖典を
拝読して、各自がベストだと思う事を行動に移すべきかとも感じるのですが、そのためには、先ずは、行をしっかり
することが大事かもしれません。
(だからと言って、好き勝手な事をしても良いとはおもいませんが。)

 しかし、この解釈は私の我流ですから自信はありません。これをご覧の多くの信徒の方々のため、ご指導を
お願い申し上げます。

1980a hope:2013/01/21(月) 22:50:18 ID:TqpbsVIM
みなさま こんばんは

ちょっと前にやっとパソコンの前に座ることができ、今日一日のみなさまの投稿をさっと拝見させていただきました。
とても深い内容に魂が震えています。
これからプリントアウトした今回の誌友会のすべての内容をじっくりお勉強させていただく予定です。

ですが、わたしは明日も早いので、閉会前ですが今夜はもうお休みさせていただきます。

聖経 真理の吟唱から、「有限そのままに無限を悟る祈り」を謹写させていただきます。

感謝 合掌

1981SAKURA:2013/01/21(月) 22:52:06 ID:dGeUHjWM
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936>>1939>>1940>>1944>>1945>>1968>>1971>>1972
>>1973>>のSAKURA投稿の続きです。

===【生命の実相…2巻の抜粋】=============================
■【存在(もの)の実相(ほんとのすがた)は何によって知るか】   その①

>>で、「美」をみるには自分の心に宿っている審美性すなわち「美」で照らし出して見なければ
わからない。「善」を見るには自分の心に宿っている道徳性すなわち「善」で照らし出して見なけ
ればわからない。こういうふうに何事でも、みんな自分の心の内にないものは見えないということ
が会得されるのであります。では、存在(もの)の実相(ほんとのすがた)を観るにはどうしたら
よいかといいますと、「自分の実相」によって存在の実相を照らし出して見るほかないのであります。
「存在の実相」と「自分の実相」とが互いに照らし合わされ触れ合ってカチカチと如実に鳴る、
そこに存在の不思議な円満な実相がありありとわかる。 (一部抜粋)
============================================

■■「神想観…」で奥深く見つめる〜〜〜【実 相】
但しこの時の“心の持ち方”になりますでしょうか?【善…なる心のみ】かと。
そして、それは【祈り…】そのものになります〜〜〜ョネ???そうしますと、
本当に【 エデンの園…世界観が変わる 】事になりますのでしょうかと。

===【生命の実相…2巻の抜粋】=============================
■【存在(もの)の実相(ほんとのすがた)は何によって知るか】   その②

>>このような第六感で見える世界はやはり鏡のように澄みきった実相の世界ではなく、「実相」
という息を吹きかけてできた曇りの模様のようなものを見別るにすぎないのであります。
で、われわれが確実に存在そのものの実相を知るには、五官を超越し、第六感さえも超越して
この「実相覚」によるほかはないのであります、だからわたしはこの「実相覚」にのみ遠慮
なく頼って存在の実相を観ることにするのであります。 (一部抜粋)
==========================================

■■本当の“奥の〜奥の〜心”に入っていくには、【甘露の法雨】にもありますが、
〜♫〜五感を超越〜〜さらに第六感も超越して貫く心の〜〜深層に入っていく〜♫〜
これはもう【神との一体】になるほかは無いと、改めて思いましたかと。
そう【 実相を見つめる訓練 】それは、本当に【祈ること…神想観】になりますモノ!!
「心の奥底の心〜〜〜」に入っていくようです。【祈り…】も深くなりますと
〜♫〜宇宙に貫く〜〜心〜♫〜 ……に“本当の心”に戻るのです〜〜〜ョネ〜〜〜
そうしますとこの【五官…目・耳・舌・鼻・皮膚を通して生じる五つの感覚】は物質でできていますから、
当に【仮の姿…】となりますでしょう!!それを“超越すには???”
【物質は無い!から始まる分けで、悪も無い!という事から始まる】訳です〜〜〜ョネ!
■【 心 の 眼 】どの様なものでしょうか???

                  つづく

1982a hope:2013/01/21(月) 22:53:08 ID:TqpbsVIM

聖経『真理の吟唱』より

有限そのままに無限を悟る祈り

み光は降(くだ)りたまえり、み光は降りたまえり。
大神の伝え給える御言葉は、まことにぞ光にましますのである。
我らすべてを照らし給い、迷いの暗黒より我らを救い出(いだ)さしめたまうのである。
聖なる神の御言葉(みことば)は、その真理の御光をもてわれらの実相を照らし出(いだ)したまい、
我らに人みな〝神の子〝たることを知らしめたまうのである。

人が〝神の子〝であるということは、〝人の形〝として顕われたる〝神〝であるということである。

神は無限であるが、人の形は有限である。
有限なる形のうちに、無限を表現することが、人間が地上に生まれ出(い)でたる使命であるのである。
画家は方尺(ほうじゃく)の画布(がふ)の上に無限をあらわす。
無限そのままに無限になるときには、何ものも表現されないのである。
無限がみずからを局限して有限ならしめることによって表現は行われる。
完全なる自由を享受して何らの抵抗もなき空中には絵を描くこともできないのである。
画家が、自己の絵筆の自由なる運行に摩擦して抵抗し、絵筆の無限の自由を制限するところに、
美しき絵が描かれるのである。
普賢菩薩は虚空(こくう)に満ちて普遍なるその智体(ちたい)をみずから縮小して
六牙(りくげ)の象に乗りたまえる普賢菩薩の現象身をあらわすのである。
現象の中に実相あり、これを覚らなければならないのである。
実相の顕現としての現象となるとき、そこに浄土現前し、地上に天国が建設せられるのである。
人身(じんしん)このまま有限にして内に無限を蔵(ぞう)す。
蔵するに非ず、有限そのままに無限であるのである。
肉体の中(うち)に、実相〝神の子〝が宿っていると仮にいうといえども、
肉体の中に小さく宿っているのではないのである。
無限の実相の中に於いて肉体が表現されているのである。
それゆえに、この身は実相の表現として、有限そのままに無限であるのである。
この身は実相の表現として有限そのままに無限であるから、
人間の寿命は無限にして永遠に死することはないのである。
時に、〝死する〝如く見えることがあっても、それは表現身が、
ただ表現の場を換えただけの事であり、人間そのものは死するのではないのである。
人間は不死であり、無限であり、虚空に満つる霊身である。
それゆえに我れの本体は阿弥陀仏であり、大日如来であり、普賢菩薩であり、観世音菩薩であり、
一切所(いっさいしょ)に転じ現われて大自在であるのである。
われは、〝内在のキリスト〝であり、物質としての肉体は本来無いのである。
肉体無し、本来霊身なりと知ることが、肉体を十字架にかけるということである。
何人も肉体を十字架にかけるとき、本来のキリストがあらわれる。
これが新生であり、復活である。
「もはやわれ生くるに非ず、キリストわれにあって生くるなり」と言いしパウロの言葉は真理である。

1983復興G:2013/01/21(月) 22:55:23 ID:AB6RqYXc

a hope様、ありがとうございました。

1984復興G:2013/01/21(月) 22:58:28 ID:AB6RqYXc

 ありがとうございました。

≪現象刻々流転。されど流転せざる者あり。「今・即久遠」なり。
「今」を把握すれば人の病い癒え、国の病い癒ゆ。≫

≪汝は真理を知らざるべからず。真理は汝を自由ならしめん。≫

――この「久遠の今」なる「実相の大地」に立って、光なる永遠生命を輝かして、愛と喜びの生活に邁進いたしましょう。

この第10回web誌友会は、皆さまのご協力により、まことに意義ある誌友会となりましたことを、心より感謝いたします。
ありがとうございます。ありがとうございます。

これにて一応第10回web誌友会を閉じさせていただきたく損じます。

では、最後に世界平和の祈りをさせていただきます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

◇◇◇世界平和の祈り◇◇◇
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い
すべての人々の心に、愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。

◇◇◇光明思念の歌◇◇◇
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ありがとうございました。

1985SAKURA:2013/01/21(月) 23:04:42 ID:dGeUHjWM
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936>>1939>>1940>>1944>>1945>>1968>>1971>>1972
>>1973>>1981のSAKURA投稿の続きです。

>>1978 『復興G様』からのお言葉…ありがとうございます…。
【 心 遣 い の 言 葉 】に改めて…【感謝!!】です。ありがとうございます・・・。
続けて… 更に、私なりの【解釈論…】を
此処で引き続き投稿させて頂きます事に、『復興G様』…への感謝の念を……申し上げます。
                               
再合掌

1986SAKURA:2013/01/21(月) 23:06:57 ID:dGeUHjWM
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こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936>>1939>>1940>>1944>>1945>>1968>>1971>>1972>>1973
>>1981>>1985のSAKURA投稿の続きです。

===【生命の実相…2巻の抜粋】=============================
■【存在(もの)の実相(ほんとのすがた)は何によって知るか】   その③

>>「物質」と「霊質」とは性質においても、本質においても正反対であります。
どちらか一方が「真」であれば、どちらか他方が「偽」でなければなりません。どちらかが
一方が「実在」ならば、どちらかの他方が「悲実在」でなければなりません。二元論は
自己憧着に陥ります。   (一部抜粋)

===========================================

■■こうして考えていきますと。私のもの見方も、どれが正しいのかといった感じは
時折でありますが“疑問”になる事も、今の【生長の家の騒動】は何かが“おかしい感じ?”
に見えてしまいます。
どちらが正しいのかは、これは【今後十年後に、結果が出てくる】のではと思います。

よく、早急な言葉に思えます【失敗…との否定論】をおっしゃいますが?私にしてみますと…
これだけの【現総裁先生…中傷・人格否定論・結果否定論…etc】を考えますと……
果たして、【この方々が…現役=本部職としての勤務】時点で、果たして上司の指示を
何処まで行動としてなされていらっしゃいましたかと?ある面では【疑問…】を抱きます。

私は、今回の【現総裁雅宣先生のお経】を読誦していますが、意外と“奇蹟”に近い事も
あるのでは?まだ「お経…」は、昨年の夏から(4月頃?)から始まったモノかと…。
世間一般でも【石の上にも3年・・・】この様な言葉もありますかと。この期間が、余り
にも早急に見えます。…が?私自身は、新しいこの「お経…」を読誦しながら、言葉を理解
していきますと“さわやかな気分”に入っていき「お経…」も楽しくなり、毎日!毎日!
【甘露の法雨…】と、両兼用にての読誦をしております。
これが、すごく“グ−”なのです〜〜〜ョネ!!

■そういう【きめつけ心】でいきますと、
やはり【物質】と【霊質】との正論は、本当に、雅春先生の言葉の
【自 己 憧 着 に に 陥 り ま す】は、本当に、そうなのですかと。!!
今!今!を活かしながらの生活に密着する事が【自己の信仰の形…】ではと思うのです。

やはり、各々の皆様の捉え方が異なりますのは致し方の無い事になるのでしょうかと思いつつ、
私は【類 の 法 則】にて、「現総裁雅宣先生…擁護」とさせていただきまして、
今の総裁先生に…私なりの【真理の探究…が深くなりつつある事に…感謝】でしょうかと。

                 つづく

1987志恩:2013/01/21(月) 23:41:09 ID:.QY5jUA6
復興G様、トキ様
一日延長してまで、ご指導くださいまして、ありがとうございました。
ahopeさん、最初と最後のお世話を、いつもすみません。
SAKURAさんも、私とは,考え方はちがう人ですけれど、たくさんのご発言、拝見していました。
復興G様が謹写してくださった真理の言葉、改めて拝読させていただいているところです。
ほんとうに、ありがとうございました。合掌 礼拝

1988復興G:2013/01/22(火) 10:02:33 ID:AB6RqYXc

志恩様、ありがとうございました。

トキ様、皆々さま、ありがとうございました。

合掌 礼拝

1989さくら:2013/01/22(火) 10:28:49 ID:gMZh2DOU
復興G様

心より感謝申し上げます。

ワクワクする誌友会を、ありがとうございます!

\(^^)/←…バンザイマークで失礼します。

合掌拝。

1990トキ:2013/01/22(火) 11:52:46 ID:uNu2SSuM
 復興G様、すばらしいご指導を賜り、ありがとうございました。
ご多忙の中、後進の我々に貴重な時間を使って下さり、とても嬉しく思います。

 今後とも、ご指導のほど、お願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

1991a hope:2013/01/24(木) 09:35:48 ID:TqpbsVIM

みなさま おはようございます。

第10回web誌友会もたくさんの真理が詰まった素晴らしい内容だと感じています。

復興Gさま、トキさま、そして参加くださったみなさま、閲覧してくださったみなさま、
ありがとうございます。

わたしは聖典引用板に「新版 生活読本」を謹写させていただいているのですが、
ちょうど今謹写中の内容が、本を読むコツについて書かれているのです。

谷口雅春先生も、たくさんの本を執筆されています。

わたしは、その中には、雅春先生に直接「生長の家の大神さま」から天下ったお言葉もあれば、
その時の時代背景に応じて、雅春先生御自身が「生長の家の真理」にそって、
その時代の現象世界を光明化するために書かれたお言葉もあるような気がします。


それは、谷口雅春先生ご自身が、

>>読む分量ばかり多くて、読んだことについて深く自分で考えてみない者は、
本に読まれたのであって、本を読んだのではないのであります。
「ことごとく書を信ずれば書なきにしかず」という諺(ことわざ)もあります。
書に読まれてしまっては、自分の力はつきません。
自分で本の善いところを吸いとるだけの力がなくてはなりません。<<

と「生活読本」でおっしゃっていることからも、谷口雅春先生は、
「たとえ自分の書いた本であっも表面だけ読んで盲信せず、しっかり心読して『真の教え』ををつかみなさい」
とおっしゃっているような気がしてなりません。

このweb誌友会は、生長の家の真の聖典『生命の實相』をテキストにして、
生長の家の根本真理「久遠生命の真理、生命の実相」を学んでいるのですよね!

わたしは、今回の内容に合わせてテキストの範囲や倫理篇などをじっくり心読しています。
本当に素晴らしい「生長の家の教え」に魂が震えています。

みなさま、『生命の實相』は本当に素晴らしい真の聖典ですね!

ここで皆さんと一緒にお勉強できて、a hopeは、とても幸せです。

感謝 合掌

1992SAKURA:2013/01/24(木) 13:12:22 ID:hX/B0oxc
こんにちは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■■>a hope様 へ
>>1891 a hope 様よりウエブ誌友会ありがとうございました。
>>1939>>1940>>【SAKURAの返事】です…。

今回の【WEB誌友会…】の、参加を躊躇していましたが?もしくは参加しないといった方が、
当初の私の正直な気持ちでした。…が?
【ノ―ミ―ト運動…】の“写真をトリック…”といった感じでの以前の“別板ので投稿”で、結局
この“写真…”が、「現総裁雅宣先生のお嬢様」だと分かり、更に「フエスブック…」にて確かに、
写真を閲覧できましたが……今回!私の判断での投稿に誤りがありまして、心の中に“皆様にお騒せ”
してしまい、【WEB誌友会】の前夜ですので…参加の方に影響がと心配になりまして、更に、考えの
相違はありますが【総裁先生…擁護派】としての【真理への討論】に、もう一度、参加させて、
頂こうとオもぅた次第です…。…が?
何故ならば、テキストの中に【五感の否定…】といいます、人間の通常の心情に“ピッタリ”と、
今回の私自身の“お騒がせ”も含め、皆様の真理の捉え方を…この様なる思い出参加となりました
のです。

■余談ですが…此処の「管理人様…トキ様」は【ノケモノ…総裁先生擁護派…異分子】扱いですが…
今回は、特にヒシヒシと感じましたでしょうかと。[裏メ−ル]が、かなり名指しできているのでしょ
うと思いましたが…此処で末端信者(献金斜陽族)としては【生長の家…お家騒動】の行く末もです。
…が?此処昨今の世間でも暗い事項ばかりが目に付き、日常生活に於けます【真理…追究】をいたし、心に一筋の安らぎ…これを求めているのでしょうかと。
これを…■【誌友会…WEB誌友会】に求めての…参加に…

今回は、失礼ながら、第一印象の通りの「a hope様」でいらっしゃいました事に…改めて感謝です。
❤〜実は【故人…義春様】との【ト−キング・ボ−ド】にての【投稿対話…】を閲覧させて頂いて
おりました。それを閲覧しながらいつの間にか「a hope様」の考えが?変わっていかれたのでしょうか?
これが昨年からの正直な話で…これも私の【五感の否定…】から生じるのでしょうかと…その様に、
心に抱きながらの今回の「a hope様…お返事」を頂き…【真理の勉強…】を前向きにされる…最初の
“イメ−ジ!”の方と、思った次第です。この様に、多々なる意味で、勉強になりました。

■やはり【真 理 の 追 究】は、「人生の問題」をかかげました時に、前向きなる姿勢を頂きます…。
そして「生命の実相」をテキストにての勉強会は、改めて自己を振り返り見ることの機会と…
本当に【魂の向上へ…】繋がるモノとの判断です。…が

改めて…「a hope様…」に感謝申し上げます…。      再合掌

1993SAKURA:2013/01/24(木) 13:23:58 ID:hX/B0oxc

こんにちは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1992の投稿に関しまして… 
■【 訂 正 事 項 】下記の様になりますので…申し訳ございません…。

≪ 旧 ≫   頂こうとオもぅた次第です…。…が?      ×
  ↓       ↓        ↓
≪ 新 ≫   頂こうと思った次第です。…が?        ○
                               再合掌

1994SAKURA:2013/01/24(木) 14:27:13 ID:hX/B0oxc
こんにちは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■>「復興G 様」 へ

■■ 【WEB 誌友会…第10回…】から〜〜〜

「復興G 様」から頂きました「アインシュタイン…のお返事」で“捉え方”が、いろいろ
あって面白いです。…その様に思いました次第です。そこからです。…が?私も“リズム”が
出来まして、楽しくなった次第なのです。「復興G 様」のやはり【経験からの真理…】も、
何時か?閲覧出来ます機会がありましたらと思いますが、お忙しい中での【WEB誌友会…指導】に
深く感謝申し上げます…。

更に!いつも、貴重なる資料を此処に転写して頂き、スロ−テンポの【SAKURA】は、後日に
読む事になってしまうのですが、その時は“理解…”が、今一つの私は、後からついていく
【真理…勉強】にと、どうしてもなっていきます時に、此の多々なる資料が、きっと私なりに
活かされて来るモノと、改めて思いまして、更には、その事が、今後の私の体験に繋がっていき、
活かされる事になりますかと、この様に感じた次第です。…が?

ただ、私の未熟な脳内解釈ですから、やはり「生命の実相」の頂きましたテキストの範囲でしか、
【真理の勉強】に於きまして、余裕がない私なのです。今…【今回のWEB誌友会】にて、転写
して頂いた抱きました資料を、拝読していってる次第です。…が?〜〜〜また時間を調正しながら、
理解出来ない事が?分からない事が?…出てきましたら、質問投稿させて頂きたく思います。
私も、まだまだ「雅春先生の書籍」の数々は、拝読していませんので…「復興G 様」には、
叶わないです。色々なる本からの抜粋に…多々なる先生の解釈論があります事に“ビックリ”なのです。

そして「復興G 様」に甘えまして、事前に指摘頂きました『生命の実相』のテキスト範囲内容から
の私なりに、解釈した事を、投稿しました事を、お詫び申し上げます。
それと共に、また、引き続き“投稿形式”を、させて頂きますので……
何卒、今後ともご指導の程、宜しくお願い申し上げます…。         再合掌

1995SAKURA:2013/01/24(木) 15:45:54 ID:hX/B0oxc
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936>>1939>>1940>>1944>>1945>>1968>>1971>>1972>>1973
>> 1981>>1986>>の【SAKURA投稿】の続きです…。 

===【生命の実相…抜粋】===============================

■【実相の世界における神人としてのわれの存在】   その①
>>この普賢菩薩というのはなんであるかというと「衆生のうちにおいて最勝最上である」
とあるから、明らかに一個の人間であります。その人間が、一切菩薩もその知恵の境界を
察する能わずというのですからよほどの大知恵を成就しているのであります。この大知恵
を成就した普賢菩薩がどこに座しているかというと、金剛蔵道場である。金剛蔵道場とは
金剛不壊の実相世界であります。省略〜〜衆生の一人でありながら、彼は実相世界(金剛
蔵道場)に座すときは、身量無辺、色蔵無辺であるので、われわれは神想観によって実相
世界に帰一し実相人に接触することができるのであります。 (一部抜粋)
========================================

■■普賢菩薩は【人間…】なのです〜〜〜ョネ!!私たちは【人間の神の子…】ですから、
思いますに?【半分は霊的人間…】なのです〜〜〜ョネ??ですが【半分は現象人間…】で
もあるという事になりますでしょうか?【 肉体は仮りモノ 】ですから、いつかは ><
“滅ぶモノ?朽ちるモノ”?…でしょうかと!しかしながら【 心=魂 】は永遠に残るモノ
次の世界へも連なるモノかと…この時、私達は、【心の深層〜〜〜】へと深く入っていく訓練を
していませんと【死後の世界…】と云いますか?次なる世界=霊界で、いつまでも〜いつまでも
【肉体…】に拘ることにもなりかねませんモノ!此の現実社会に於きましても【半分霊的人間】
ですから“精神統一”しますと【神と一体】になれるのです〜〜〜ョネ! 要するに、
【神と一体とは、普賢菩薩の座する金剛蔵道場にて…それは“神想観による祈り】この事なの
ですかしら〜〜〜ンと、思うに至りました…。精神統一に入りますと【神の叡智を司る〜〜】
それは【神の知恵…】を受けるの事なのです!改めて思いました。

人間智では?解決できませんですモノ!

私達は【普賢菩薩になれる〜〜〜何もかも“モ〜〜〜ウ!”既に頂いている事に確信…して、
「大知恵」をすでにいただいている〜〜と思います】この、確信した【祈り…】が、
ダンダン〜ダンダン〜深く深層に入っていく過程で【実相世界…】に突入なのでしょうか??
そう【タイム・トンネル】みたいですネ〜〜〜〜 ??次元世界へかと
                               
つづく

1996復興G:2013/01/24(木) 16:57:24 ID:AB6RqYXc

>>1991 :a hopeさま。

>>……それは、谷口雅春先生ご自身が、
>>読む分量ばかり多くて、読んだことについて深く自分で考えてみない者は、本に読まれたのであって、本を読んだのではないのであります。「ことごとく書を信ずれば書なきにしかず」という諺(ことわざ)もあります。書に読まれてしまっては、自分の力はつきません。自分で本の善いところを吸いとるだけの力がなくてはなりません。<<
と「生活読本」でおっしゃっていることからも、谷口雅春先生は、「たとえ自分の書いた本であっも表面だけ読んで盲信せず、しっかり心読して『真の教え』ををつかみなさい」とおっしゃっているような気がしてなりません。<<

 そうですよね。

 私は、昔学生時代に、『生命の實相』拝読に没頭するきっかけとなる影響を受けた本のことを思い出しました。

 それは、前にご紹介したアンドレ・ジイドの『プレテクスト』から「文学に於ける影響について」という講演記録、それからトルストイの『人生読本』、亀井勝一郎の『読書に関する七つの意見』などです。

 トルストイの『人生読本』には――

 ○ 最も野蛮な迷信の一つは、人間は信仰無しに生き得るものだという独断に対する、現代の所謂学者の大多数の迷信である。

 ○ 真の宗教とは、吾人を囲繞する無限無窮の人生に対する吾人によって打ちたてられた一種の関係の謂いである。即ち、吾人の生活をこの無限無窮と結びつけ、吾人の行為を導く所の関係である。
 あらゆる宗教の本体は、何の為めに私は生きるか、自分を取り巻く無限無窮の世界に対する私の関係は如何なるものであるか、という疑問に対する解答の中にのみ存する。

 ○ 知識は記憶力によってではなく、自己の思想上の努力によって獲得された時にのみ、知識であり得る。

 ○ 学問に於て是非とも究め知る必要のある唯一の知識は、吾人が如何に生くべきであるかという事実に対する知識である。そして此の知識は、何人にも凡て獲得されるのだ。

 ○ いろんな知識をかき集めている学者共は不憫なものだ。ひとりよがりの哲学者達、飽くことを知らぬ研究家等は不憫なものだ。是等のよくない富者等は、ラザロの徒が絶えず飢えに悩んでいるにも拘わらず、毎日毎日自分たちの知識上の饗宴で無為徒食しているのだ。是等の人々は皆無に等しい代物でお腹が一杯になっているのだ。何となれば、そうした空しい知識は、道徳的完成にも社会的完成にも力を致すところがないからである。

 ○ 無益な学問をうんとこさと学び知るよりは、人生の法則を少し知る方がましである。

 ○ 自己の無識を恐れず、虚偽の知識を恐れよ。真実でないものを真実と思惟するよりは、むしろ何にも知らない方がましである。

 ――などとありました。
<つづく>

1997復興G:2013/01/24(木) 16:58:03 ID:AB6RqYXc

<つづき>
 そして、亀井勝一郎著『読書に関する七つの意見』 には

 ○ 読書の目的は、自分の理想とする人間像を心の中に確立することである。或は自分の座右の書を持つということだと云ってもいい。それは世代や年齢や気質によってそれぞれ異なるのは当然だ。しかし私の経験では十年から二十年の歳月が必要である。多くの迷いを経なければならないのは当然だが、様々に訓練されて、ある程度の読書を積み重ねて行くうちに、大体これだけあればいいという自分の座右の書というものが次第にきまってくるものである。つまり自分の原典である。
 
 ○ 自分を統一するためには結局は一冊あればいい。という意味は信仰があればいいということなのである。

 ○ 青年諸君にすすめたく思うのは、……原典の中の原典に帰れ。ヨーロッパで云うならば、プラトンの対話篇、バイブル、あるいはギリシャ神話を読むこと。日本の場合には万葉集とか古事記とか、書紀を読む。あるいは広く東洋の場合は論語とか老子の教えに接する。これは強調していいことと思うが、私の接した偉大な思想家や文学者は、例外なく思想の源泉に還ることを忘れなかった人ばかりである。トルストイは原始キリスト教に還り、ゲーテは古典ギリシャに還り、親鸞は釈尊に還り、本居宣長は古事記に還った。還るという意味は、思想の源泉に浴して身心を新にし、よみがえるということである。私は原典中の原典をあげたが、むろん自分の発見した原典であってもいい。それが自分の邂逅し信愛するものであるならば、いっそ自然へ帰ったって差支えないわけだ。精神の背骨はここでのみ養われるであろう。このことは、年齢の如何にかかわらず生涯にわたってくりかえすべきことだと思う。

 ○ ……一流の哲学や文学を読むのはいい。しかし読んだとたんにわけのわからぬことを口走るのは困るではないか。自分の肉親や友人に向って語るように、あたりまえの言葉で表現すればいいのである。読書によって所謂「大きな言葉」だけを覚えるのは、読書の害というものではあるまいか。

 次に何か問題に直面すると、誰はどう考えているか、誰某の説はどうかと、やたらに本から引用する人がある。学者や評論家などに多い例で、東西古今にわたって権威ありそうな説を引き出さなければ気がすまないらしい。ひまで読書ばかりしている人の中にもそういう例がある。読まない人よりましかもしれないが、他人の意見の中に自分を埋没していいものだろうか。この場合の読書とは一種の自殺ではあるまいか。

 我々は自分の意見、他人の意見と言うが、「自分の意見」なるものを詳細に分析してみると、それは殆んど他人の意見の複合体であるような場合がある。むろん人間は自分ひとりだけの努力で成長することは出来ない。必ずそこには読書、あるいは師や先輩の指導があり、つまり私の謂う「邂逅」によって成長するものである。しかしそうして受けいれた思想が全然消化されず、ただ学説や理論として頭脳の中にぎっしり詰っている人間ほど厄介なものはない。つまり臆病になるのだ。自分の自発的発言に対し危険を感ずるのだ。

 古代ギリシャにターレスという哲学者がいた。彼はいつも天を仰いで星の秘密を探ろうとしていたが、あまり熱心に空ばかり見ていたので、足下の穴に気づかず、或るときその穴に落ちこんでしまった。これを見ていた一人のトラキアの娘が大いに嘲笑したという伝説がある。
 ターレスは或る意味では愚かな人かもしれない。しかし東洋に「大愚」という言葉があるように、「大愚」でなければ大きな仕事は出来ないということも考えねばならない。
 つまり私はこういう学者のタイプが」好きなのだ。ターレスの愚さに親しみを覚えるのである。

   ************************

 上記のような読書論などに深く影響を受けて、私は『生命の實相』拝読に没頭したのでした。
 なつかしく、思い出しました。

 合掌 拝

1998復興G:2013/01/24(木) 17:14:01 ID:AB6RqYXc

SAKURA様。

熱心な学びのお姿、投稿に感謝します。

私たちは、今、そのまま神に生かされているしかないのですね。うれしい! ありがたい! と、よろこびましょう。

合掌

1999SAKURA:2013/01/24(木) 18:10:06 ID:x24JjvTk
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>> 1981>>1986>>1995 の【SAKURA投稿】の続きです…。 

===【生命の実相…抜粋】===============================

■【実相の世界における神人としてのわれの存在】   その②
>>善財童子が金剛蔵道場の普賢菩薩を見たときの心はどうであったかと申しますと
『華厳経』入法界品第三十四ノ十七によりますと、「正念して……虚空界に等しき心、
一切無着の心、一切刹を清めて障礙なき心、一切法の境涯において障礙なき心、一切十方
に充満する」等々の心を起こしたとあります。この正念して虚空界に等しき等々の心を
起こすことが神想観であります。

>>音声無辺であるというのは、われわれの実相は天地に満つるコトバであるからであります。
これが金剛蔵道場すなわち実相世界における「われ」の実相の世界に入る自分の座っている
のはこれ実相の世界であって、神の無限の知恵、無限の愛、無限の生命、無限の供給に満た
されている大調和の世界である。この大調和の実相の世界にいてわれ神の子として神より無限
の生かす力の供給を受けつつあるのである」と念じて精神統一にいるのは、自己が衆生の一人
であると同時に普賢菩薩と同じように身量無辺、音声無辺、色蔵無辺である自己の実相を悟ら
んがための行法でありまして、これこそ真正の観普賢菩薩行法なのであります。(一部抜粋)
============================================

■■私達は、「普賢菩薩様…」のように【日々の祈り】の自覚が、そして、日々のこの行事で
あります【神想観=瞑想】で〜〜〜【神との一体】になれる素晴らしさは、計り知れないモノ
でありまして、それは【心の青空…あの澄み切った世界観】がみえてきますのでしょうかと。

時折ですが?仕事の関係上【先祖供養…】だけですませる事がありましたが、最近は、
【神想観…】を中心に致しますと、やはり【発想の転換…】ができまして、良い事と云いますか?
物事が、スムーズになる事が、生じます。…が?そして、如何しても【現象で物事捉える】この
ような傾向がちですが、今の私は「活かされている〜〜〜実感」がフツフツ湧きあがり、この
素晴らしい【精神統一…神想観】に感謝です。もっと、深く【祈り…】に徹していき〜〜〜
私も【普賢菩薩の仲間入り】になれるようです〜〜〜ネ!!

■毎日「金剛蔵道場すなわち実相世界における「われ」の実相の世界に入る自分の座っている」
私は、“実に〜幸せかな〜〜♫〜〜”と、あらためて「雅春先生」に感謝です。そして、
現在の「総裁先生」に感謝です。では、今から、そうですとも!
【人間…神の子ですもの!!】と認識しながら“金剛蔵道場”の中へ入っていきましょう!!

                                  つづく

2000SAKURA:2013/01/24(木) 18:25:57 ID:x24JjvTk
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「復興G様」 へ…
ご丁寧に頂きました“お返事”感謝申し上げます…。特に>>1997 の中の投稿からなのですが、
■>自分を統一するためには結局は一冊あればいい。という意味は信仰があればいいということなの
である。< (一部抜粋)

此の言葉が…私には心に“ズシ〜〜〜ン!”と入り込み…益々と【テキスト…コピー】にて、
【真理の追究…】を邁進したく思います。新たなる“資料…”感謝申し上げます。

では最後に〜〜〜❤〜〜〜〜
===【生命の実相…抜粋】===============================

■【実相の世界における神人としてのわれの存在】   その③
>>この自己を掴むためにする修業が、毎日一定の時間を期してみなさんに実修して、
いただいている「神想観」の修行であります。
>>だから「生長の家」の「知恵の言葉」には「道を歩く時には今神が歩いていると思え」
とあるのであります。同じようにわれわれは机に*よっている時も「今神が机に*よっている」
と思うべきであります。こういうようにして常にわれは神人であるという自覚を失わないよう
にすると、われわれは常に朗らかな光線ゆたかな気分を維持することができ、自分の実相の
円満さが「影であるところの肉体」または「境遇」に映写されてきて、肉体は健康に境遇
は幸福になってくるのであります。
======================================

■【神想観の重み…】を、深く理解しました。私も、今から【神想観の素晴らしさ】にて、
遥かかなたの「宇宙に〜〜宇宙に〜〜☆」に、入っていきそうです。
毎日が〜毎日が〜“楽しい修行”になりそうな気配なので〜〜〜す。
当に【祈り…】も、生かす事ですネ!            つづく


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