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女子会 板
1911
:
みすはなまる
:2012/10/03(水) 17:44:41 ID:mtwqZGkM
(引用開始)
〜前省略〜
最近、よくこういう質問を受けるからです。
生長の家は大調和の教えでしょ、どうして「谷口雅春先生を学ぶ会」は生長の家本部と「和解」しようとはしないのですか?どうして批判ばかりするのですか?それこそ生長の家の教えに反しているのではありませんか?
それにお応えする前に、ここで注目したいのが「“最後の審判”に就いての神示」であります。とりわけ重要だと思うのが最後の箇所です。
『わが臨れるは「真」と「偽」と「実在」と「虚妄」とを選り別けて、「偽」と「虚妄」とを永久に非実在(じごく)の中に葬りて封印を施さんがためである』
ここでも「わが」というのは「神が」ということでありますから、即ち、「神が臨れるは」、何が『真』であり『偽』であるのか、何が『実在』であり『虚妄』であるのか、それをまず甄別(けんべつ)するためであるというわけです。
そして更に注目いただきたいのが、この神示の天降った「昭和六年九月二十八日朝神示」という日時であります。
つまり「大調和の神示」(昭和六年九月二十七日夜神示)の、その翌朝ということになります。この事実から鑑みて、「大調和の神示」と「“最後の審判”に就いての神示」とは一体として考えるのが妥当だと考えます。
つまり「神」をあらわすには「天地すべてのものと和解」することが必要である、しかし、だからと言って、何とでも「和解」したらいいというのではない、何が『真』であり『偽』であるのか、何が『実在』であり『虚妄』であるのか、それをまず甄別した上で、『真』なるもの、『実在』なるものとしか「和解」してはならない、それがこの二つの「神示」が教え諭しているところの本当の意味であろうと解するのです。
〜後省略〜
(引用終了)
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