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トーキングスティックボード

568初心者:2011/11/05(土) 12:42:38 ID:hogyfr1M
さくらちゃんへ

違和感ということでいえば、たしかにぬぐいがたいものがありますよね。
わたくしがとくに感じるのは、生長の家の人たちの信仰的態度にたいする
違和感ですよね。そこには2重のごまかしがある。そんな気がしてならない
のでありますね。

文化的状態における宗教というのは、ダナオイの贈り物を受け取ったことによって
生じた失敗をとりつくろうためのものであるはずです。生長の家の人たちの信仰的
態度を見ておりますと、そうした失敗による宗教を受けいれて、なおかつそれを
正当化しようとしているように感じられるのでありますね。こうした2重の失敗が
あるのではないかと、こんなふうに感じられてなりません。

はっきりとした確証があるわけではないのですが、感覚としてぬぐいがたく
感じられる違和感の正体のひとつが、失敗をなおも正当化しようとする信仰的
態度に向けられたものであるよう気がいたしますね。もちろんこれは、これから
考えていかなければならないことだろうとも考えております。

孤独な旅。それは仕方のないことでありますよね。

569初心者:2011/11/05(土) 13:08:40 ID:hogyfr1M
さくらちゃんへ

失敗を正当化する。もしもこうしたことが、生長の家で恒常的におこなわれている
とすれば、それたいして違和感を抱くのはとうぜんのことでありますよね。

失敗を失敗と認めて、それでもあえてその失敗にとどまってみせる。浅い見方で
あるのかもしれませんが、これがヘーゲルのいう「否定的なもののもとへの滞留」
の根本的な意味あいであるような気がいたします。

このあたり、まだ何も断定できる段階ではありませんが、こうした切り口からも
違和感の正体にせまってみたいと考えているところであります。

違和感の正体を見きわめ、可能なかぎりそれらのものを払しょくしてみせるには、
このまま孤独な旅をつづけるしかないということでありましょうね。

570八百比丘尼:2011/11/05(土) 13:54:36 ID:j8iOdie.

さくらちゃんの言うところの違和感、実は私もずっと感じてはいたのです。
もっとはっきり言えば、胡散臭さみたいなもの。
でも、生長の家の信徒として、そういう感情は自分の心が悪いのだろうと
自己嫌悪に陥ってしまったのです。
信仰すればするほど、自分を責めて苦しくなる。
でも、そんな気持ちは心の奥にじっとしまって、ひたすら良い人のふりをして
組織の中でお世話をさせていただきました。
本当は、潜在意識の私は苦しんでいたのです。
いつでも楽しげに笑っている私の表面しか知らない周囲の人達。
嫌なものは嫌、辛いときに辛いと言えない私の苦しみを、たぶんほとんどの人
は知らないでしょう。
今は、ちょっとうまく言うことができませんが、
少し整理がついたら、また書かせていただくかもしれません。
                          合掌

571初心者:2011/11/05(土) 15:21:36 ID:hogyfr1M
さくらちゃんへ

真理の批判をいたします。根本的な批判です。

生長の家では「無の関門」ということをいいますね。「無は関門である」、こんな
言い方がなされます。「無の関門」とは、はたしてなんなのでありましょう。明確に
説明できる方がおられますでしょうか。

わたくしに流に説明すれば、「無の関門」とは、言語的2分法からの離脱ということ
になります。言語がほんらい的に持つ2分法的性格からの離脱。これが「無の関門」
であると考えます。

動物の世界というのは、基本的に2分法的世界であるということがいえそうです。
敵か味方か、安全か危険か、食えるか食えないか、オスかメスか。こうした
2分法的な世界を動物は生きているということがいえるような気がいたします。

言語もまた、これとさして変わらない2分法的な性格を持ちます。大きいか小さいか、
軽いか重いか、遠いか近いか、ウソかホントウか、あるかないか、つまりは、それで
あるか、それでないかという2分法的性格を言語は持つということがいえるのでは
ないかとおもうのであります。

2分法で世界のすべてを説明しようとするのが言語であると考えられます。もし
そうであるとすれば、わたしたちは、あるかないかという単純な仕方でしか世界を説明
できないということになってしまうのですね。こうした単純な仕方による世界の理解を
乗り越えようとするのが、言語的2分法からの離脱、すなわち「無の関門を通過する」
ということなるのではないかと、わたくしは考えるのであります。

ここで問題となるのは、言語的2分法を離脱して無の関門を通過することに、はたして
どれほどの意味があるのかということでありますね。生長の家では、「無の関門」を
通過することは、あたかも大変なことのように取り上げられていますが、それがいわれ
ているほどに大変なことなのか、というのが、言語的2分法からの離脱でしかない
「無の関門の通過」を大仰なこととしてとらえておられる、生長の家のみなさま方に
たいする、わたくしの根源的な批判ということになってくるのであります。

「無の関門の通過」は、言語的2分法からの離脱でしかありません。これはそれほど
たいした問題ではないということであります。通過してみせたところで、言語的2分法
の限界を突破してみせたということでしかありません。そんな程度のことで真理の
一端に接近できると考えておられるということに、生長の家の方々の、真理の見方に
たいする甘さがあるように、わたくしにはおもわれてならないのであります。

世界の真の姿、それを真理と名づけるとするなら、その真理に到達するには、
言語の限界それじたいを乗り越えるしかありませんね。言語の限界、それを
「ソシュールの関門」と名づけるなら、生長の家は、いまだ「ソシュールの関門」
を通過しえてはいませんね。ソシュールの名前でさえ語られたことはないはずで
ありますから、通過しえていないというのは、とうぜんのことなのであります。

「ソシュールの関門」を通過せずして真理は語れない。わたくしはこのように考え
ます。それであるがゆえに、たとえ「無の関門」を通過しえたにしても、いまだかつて
「ソシュールの関門」を通過したことのない生長の家に真理は語れるはずがないと、
わたくしはこのようにも考えるのであります。

生長の家は、いまだかつて真理を語ったことがない。これが、真理を語っていると
錯覚しておられる生長の家のみなさま方にたいする、わたくしからの根本的な批判と
いうことになるのであります。こうした批判をかわすために、「霊的直観」という超越項
を持ち出すのは可能でありますが、もしもそれができるのであれば、「無の関門」を
通過することに、はたしてどのよう意味があるのかという問いかけがなされることに
なります。「霊的直観」ですべての問題が解決できるのであれば、そもそも
「無の関門」を通過する必要はなかった、ということになるのであります。

572志恩:2011/11/05(土) 15:26:21 ID:psrFh/ZU
初心者さまも、さくらちゃんも、八百比丘尼さまも、たぶん、義春さまも、「違和感」について、強く感じておられるようなので、
「違和感」は、確かに存在するのだと思います。

私の大昔の本部時代は、まだ組織が、動き始めたばかりのときで、私は、地元に青年会を新たに作ったりしていましたが、まだ、組織としての違和感が、感じられないときでした。
思い出せば、上部の人で、自分の手柄にこだわる人も、いらしたことは、いらしたけれど、ごく少数でした。
信仰すればするほど,自分が苦しくなる事も無く、そのころから、いやな事はいやと言い、辛いときは,辛いと言ってたし、いい人でありたいと思いましたが
無理にいい人を演じようとしたこともなく、自然体でいれました。胡散臭さについても、なんとか、
思い出そうとしましたが、ないし、生まれつき、能天気な性格なのかもしれません。

生長の家人だから,いい人だということではなく、いい人が、生長の家をやっているか、性格の悪い人が、生長の家をやっているか、どういう精神の人が、生長の家を
やっているか、なのかもしれません。

でも、思い出しました。あの当時(昭和30年代後半〜)企画局の佐脇先生、林先生、大狭先生と、時間外にお茶をのみながら部屋で団欒したとき、佐脇先生がおつしゃったこと。
「まだ、組織がはじめのころは、今よりもっとよかったんだよ。もっともっと家族的だった。皆、貧乏だったけれど、大判焼きをほおばりながら、皆、徹夜で真理を語り明かしたり、光明化運動を
ひろめるためにはどうしたらいいか、語り明かしてた。あのころが、一番たのしかったな」

私としては、当時も充分、家族的に思えていました。お山の先生方も本部職員との交流を深めてくださっておられた時代でした。
清超先生も、まだ副総裁でいらしたので、心も時間もゆとりが、おありになるご様子で、私は、なにかの集まりで、お山に行った時、お山に卓球台がありまして、
私は、みなさまと はずれて畏れ多くも清超先生と、まじで卓球の試合をしたこともございました。勝ったのは、私です。高校のとき卓球部で卓球の対校試合にでていたほどの腕でしたから。
その他も、数多くのエピソードは、ありますが、差し障りがあるといけませんので,省きます。そのくらい家族的だったということです。

あのときから何十年と月日が流れて、組織も信仰も、年月とともに、初心者さまが、おっしゃるように信仰的態度やその他のことも、変わって来たのでしょうか。
それとも、最初から、あのころから、この信仰運動は、まちがっていたのでしょうか。

573志恩:2011/11/05(土) 15:32:53 ID:psrFh/ZU
いま、書き込みをし終わってから初心者さまの571の投稿文を拝見しました。どうも、私の文は、横道にそれているようです。
初心者さまの疑問は、組織の違和感というより、生長の家の根本的な真理に対する違和感のようですね。
ピントが、はずれているようで、すみませんでした。

574初心者:2011/11/05(土) 16:00:47 ID:hogyfr1M
志恩様

すでに志恩様が言及しておられますように、わたくしは、根源的なところで
違和感の正体をあきらかにできたらと考えております。個別に、あの人はいい
とか、あの人はよくないとかのレベルでの違和感を語ろうと考えているわけでは
ないのでありますね。

わたくしが、生長の家のみなさまにたいして抱いている違和感とは、それが
救済であるにもかかわらず、真理であるかのごとく語られていることにたいする
違和感であるような気がいたします。

生長の家で語られているのは、救済に役立つ真理でありますね。このように
信じれば救われる。そのような言葉が語られているのでありますね。なのに、
そうした言葉があたかも「真理それ自体」であるかのごとく語られていることに、
いいようのない違和感を抱かざるをえなくなっているような気がいたします。

生長の家で、おそらく「真理それ自体」は語られておりませんね。生長の家で語られて
いるのは救済であります。そうした救済の言葉を、あたかも真理のごとく思い違い
している人たちが、真理でないものを真理と思い込むことによって生じる矛盾を解消
するためにシニフィアンを暴走させているような気がしてならないのでありますね。

生長の家の方々の信仰的態度にたいする違和感とは、矛盾を解消するために、
たえずシニフィアンを暴走させているみなさま方にたいする違和感でもある
ような気がいたします。

ではその「矛盾」とはなんであるのか。それを突きとめてゆけたらと考えおります。

575義春:2011/11/05(土) 16:40:13 ID:iu5Ar./Q
根本的なところかどうか、私には分からないのですが、
宗教全般に関しての違和感で、一つ確実に言い切れる所があります。
キリスト教では特にそうなのですが『真理は汝を自由にならしめん』と言いますが、
この言葉に反して、キリスト教では真理の強制と云うものが、よく行なわれていました。
何と申しますか、『真理は汝が自由である』って変換されたの?と思えるくらいなのですね。
または『真理は汝を自由にならしめん、但し真理の間だけである』なのかもしれませんが・・・。
そして小なりとも、その傾向は生長の家でもあり、真理で以て、往々にして他人を裁き、
『真理で自由である』と変換されている事を見かけるようであります。
それなので、今でも悩むところがあるというのが正直なところであります。

576さくら:2011/11/05(土) 16:49:20 ID:T/77sMGw
初心者さまへ

初心者さま。
あなたは、知っていましたよね、ずっと。

私は宗教組織にいたので、
真理への道は、たった1人の道だと、
忘れるところでありました。

何度も、ここへ書く意味を失いそうになっています。
何度も、もうこんな話題いいんじゃない、って思っています。
こんなこと書いて、何の役に立つ?
だれが宗教の矛盾になんて興味持つ?
だれが、宗教組織の矛盾になんか本気で考える?
どうでもいいでしょ、もう。
こんな一部のバーチャルな世界で、向き合おうとする問題なのか?
デートも断って、取り組むべき問題なのか?
宗教のいいとこどりして、楽しんだ方がお得じゃない?
私は神を求めて、身も心もぼろぼろにされたんだ。
でも、もう終わったじゃないか。
そんなの忘れて、自分を楽しもうよ。


それでも、あなたの言葉があって、なんとか、ここに留まっている、
それだけのことです。

孤独な旅は続けるしか、ありません、
その通りですね、
たとえここへ来なくても、私から、この問題が消えるわけじゃないですし。

孤独な旅に、たった一人でも、たったひと時でも、
心寄せてくださる方がいれば、私には、救われる思いであります。
どんな、抜き書きの真理のきれいな言葉よりも、どんな立派な行いの表明よりも、
真実を語ろうと真摯に向き合って下さる姿勢を、
私の心にとても近くに感じる思いであります。

分かりますか。

577さくら:2011/11/05(土) 16:50:42 ID:T/77sMGw
比丘尼ねえさま

あなたのセンスには、いつも宗教組織の中で活動してたら
なかなか感じられない、
すごく人間的なあたたかさと
なんというか、色気を感じています。

志恩さまも言ってたけど、
いい恋愛もしてきたのでしょうね。
そんな話もしたいなー、
って思わせて下さる、素敵な女性です。

だから、大好き。

わたしも、
ほんとは、いい子ちゃんの仮面をかぶって、宗教組織にいて、
すごく苦しかった。
やってられないですね。

おかしいことをおかしいっていえないんだもん。
愛や神を真摯に求める人の方が、
結構おかしい扱いされたり、する。

比丘尼ねえさんとなら、
はなせるなーって気がしてます。

宗教への違和感。
どうぞ語ってください。

ありがとうございます。

578さくら:2011/11/05(土) 16:51:32 ID:T/77sMGw
志恩さま

大変失礼ですが、
私も初心者さまに同じで、
生長の家の、人間関係がどうあったか、
宗教をしていて、どう社会的に成功したかの中に、
解決方法があるとは思っておりません。

根本的に、真実を知りたい。
そのことに焦点を当てたいのです。

失礼をお許しください。

579義春:2011/11/05(土) 17:02:23 ID:iu5Ar./Q
>>575に続きます。
初心者さまの御文章を拝読して、この違和感がそれが原因であるのかなと
気がついたのですが、『真理は汝を自由にならしめん』は救済での言葉なのかもしれません。
ですので、真理そのものに関しての言葉ではないのかもしれません。
確かに、初心者さまの仰るトリプルバインドは起きていると納得できます。
今、私が記しています、誓願も救済についてかもしれません。
まだまだ勉強不足で申し訳ありません。

580さくら:2011/11/05(土) 17:15:47 ID:T/77sMGw
義春さま

前のところで、肉食について書いてくださり、
ありがとうございます。
すみません、後でこのことにも、ちゃんと、向き合います。
いつも真摯に考えて下さり、感謝に堪えません。

生命尊重の観点
健康への影響
命を扱うということを軽視する社会システムの問題
食糧飢餓に繋がる問題
資源の奪い合いを引き起こす問題

様々な視点から、肉食の弊害を考えて訴えていく必要がありますね。



義春さま、なぜ宗教が、崇高な理想を掲げながら、
その理想を実現できないのでしょうね。
自由をならしめるはずの真理が、人を縛るのでしょう。
人を愛するはずの真理が、人を判断したり、お互いをを裁くようになるのでしょう。

根本的な問題を考えていかないと、
やはり、このことは繰り返しになるように思います。
生長の家も、例外ではなく、やはり向き合うべき問題だと考えるのですが。
試行錯誤です。
よろしくお願いいたします。

581義春:2011/11/05(土) 17:32:47 ID:iu5Ar./Q
さくら様
いえ、板の性質から外れてしまったので、トーキングスティックの姿に戻そうとして、
どうしたら良いのか悩んで、取り急ぎ、前の流れを生かしただけなのです。
肉食の弊害については後ほどという事で。

>義春さま、なぜ宗教が、崇高な理想を掲げながら、
その理想を実現できないのでしょうね。
自由をならしめるはずの真理が、人を縛るのでしょう。
人を愛するはずの真理が、人を判断したり、お互いをを裁くようになるのでしょう。

私は真理と救済が一体化させないといけないというものがそうさせていると考えています。
確証はありませんが、真理は万能でないといけず、真理で救済も行なわれなければならない。
それだから、真理からはずずれば、その真理の証になっています救済も出てこない。
だから、人を縛り、裁いてしまっているのでは・・・?と個人的に考えています。

>根本的な問題を考えていかないと、
やはり、このことは繰り返しになるように思います。
生長の家も、例外ではなく、やはり向き合うべき問題だと考えるのですが。
試行錯誤です。
よろしくお願いいたします。

是非、参加させていただきます。誓願について記しながらでありますが・・・。
真理と救済、どちらについても考えていかなければならないと感じております。
至らぬ点は多々出てくるでしょうが、宜しくお願い申し上げます。

582志恩:2011/11/05(土) 17:32:51 ID:psrFh/ZU
さくらちゃん

私は、宗教をしていて、どう社会的に成功したかという外見的なことをいって、それが、今回のテーマの解決法だということを言った覚えは、一度もありません。
また、人間関係がどうあったかで、解決するともいっておりません。
たまたま、姉妹が、生長の家の教えを実行して、夢を実現できたことを、以前に別のスレッドで体験談として申し上げたことは、ございましたが。

私は、違和感が生まれたのは、組織の長い年月による変遷によるものか、それともこの信仰運動自体が、まちがいだとおもわれているのかという疑問は、申し上げました。

535:のさくらちゃんの今回のテーマは

・宗教組織と本来の信仰心との間にある、違和感、嫌悪感の正体
・これからの生長の家の活動の新しい可能性を考える(組織を超えた信仰運動として様々な問題に取り組むために、どう考えどう行動するかという課題) でした。

そして、何にたいして一番初心者様とさくらちゃんが、違和感をかんじているのか、私は、先に言いましたが、組織の変遷にあるのかなと感じたりしていましたが、さきほどの
初心者さまの投稿文を拝見して、初心者さまは、この生長の家の真理自体に、違和感をお持ちだと、理解した次第です。

あとは、わかりませんので、みなさまの投稿文を拝見して、勉強させていただきます。

583さくら:2011/11/05(土) 18:20:43 ID:T/77sMGw
志恩さま

私は、今藪の中を、かき分けかき分けすすんでいる気持ちでいます。
自分の課題に精一杯で、配慮の欠けた言い方をしているかもしれません。
申し訳ありません。
これは、皆さまにもお許しいただきたいことでございます。

志恩さまの信仰姿勢には、尊敬しているのです。その点は変わりありません。
どうぞ、この板では、御理解いただけたら、大変ありがたい思いでございます。

584さくら:2011/11/05(土) 18:21:31 ID:T/77sMGw
初心者さま

本来「シンプル」であるはずの真理や信仰が、
大変複雑なものとして扱われるのが、
宗教組織の様な気がしますね。

複雑にしておけば、「得」をする人間がいる。
社会そのものもそのようなシステムかもしれませんね。

救済、真理、信仰。
初心者さまが言われていたように、
それぞれのことがはっきり示されていないまま、
生長の家でも、信、ということに、片付けられているような気がします。
まだまだ、信仰が足りないから、未熟なのだ、
信仰が足りないから、教えを理解できないのだ
信仰が足りないから、人が集まらないのだ
信仰が足りないから、社会的に成功もできないのだ
信仰が足りないから、雅春先生の教えを否定するのだ

宗教やってるとどうしてもこのような思考に陥りやすいです。
組織の運動の問題も、いつもこのことで、堂々巡りの様な気がします。
何も根本的な問題の解決にはならない、考えだと思えますが。
それは、雅宣先生も指摘していました。
ではなぜ、信が足りなかったか、信とはそもそもなんなのか、何に対する信なのか。
今までそうしたことにまで言及しようとは、為されなかったようです。


真理そのものと、救済ということは、繋がっていながら、
きちんと分けて把握しなければならないことと、感じられます。
そして信仰とは、個人と神を繋げるのに、どのような意味を持っているのか、
向き合わなければならないと考えられます。

初心者さまが以前、
>ブッダやキリストは、ジュリアン・ジェインズの二分心の仮説によれば、左右の脳が脳梁でむすばれたことで、高度な言語能力を獲得した人類が、自然状態をはなれ、文化状態へとひきこもったことによって生じた不具合を矯正するために登場したということになっていますね。

そう仰っていました。
このことを聞いて、宗教の出現自体、人類にとっては、不自然だったと思わずにはいられません。
その不自然な産物を、権威として扱ったり、人を操るためのからくりをつくったり、
今までのそうした宗教組織の実態こそ、不自然なものの、違和感を感じるものです。


>こうした「視線の一致」を、ジジェクは倒錯的な享楽と見なします。もっとも禁欲的で
あるべき宗教が、ほかのあらゆる欲望よりもさらに欲望的である享楽を追い求めて
いると、ジジェク的にはこのように解釈されるのであります。

宗教が欲望的である、というのは、宗教をしている人には、
認めたくない、ものかもしれません。
宗教が欲望の抑制をうたっていて、
しかし、欲望とはなんなのか、自覚がないまま、
宗教的な欲望を結局は追い求めている、
このことを自覚した時、ある違和感の一面にも気づくはずだと思いますが。

違和感の自覚自体もなかなか難しいものがあると感じるようになりました。



>こうしたやり方は、男性には好まれても、女性にはあまり好まれたりはいたしません。
男性信仰者は、神が神する、実相が実相する、という言いまわしを好んで
もちいますね。そうすることで脳内物質を分泌させ、ひそかな享楽を楽しもうとして
おりますね。このようなやり方で、宗教的享楽を、どこまでも追い求めようとする
男性信仰者に、女性のみなさまは、もしかしたら心のどこかで気づいておられて、
そのことでいい知れぬ不信感と違和感をいだいておられるのではありませんか。

男性の快楽の感じ方求め方と、女性の快楽の感じ方求め方は、明らかに違いますね。
それも興味深いテーマでありますが、あらぬ脱線を起こしそうですので、ここでは深入りしないことに致します。

男性女性の真理の求め方、実践しようとする仕方も、違いがあるようですね。
宗教社会の中で、男性は「宗教的享楽」を求めることに夢中になりすぎて、
女性の真理の求め方や真実の愛の実現の仕方を、
時に、軽視することがございませんでしょうか、?
どちらが崇高であるのか、そちらが神に近いのか、
分からないところでございますが。

585義春:2011/11/05(土) 18:48:22 ID:iu5Ar./Q
>>581に関して訂正と云うべきか補足させていただきます。

>真理は万能でないといけず
ですが、真理と救済を分けて考えていかず…の方が正確な私の考えでした。
手探りで考えているので、ご容赦下さい。

586初心者:2011/11/05(土) 19:41:42 ID:zmyXmAyk
さくらちゃんへ

>孤独な旅に、たった一人でも、たったひと時でも、
心寄せてくださる方がいれば、私には、救われる思いであります。
どんな、抜き書きの真理のきれいな言葉よりも、どんな立派な行いの表明よりも、
真実を語ろうと真摯に向き合って下さる姿勢を、
私の心にとても近くに感じる思いであります。
分かりますか。

1里を行くものとともに2里を行け、という言葉がありますね。さくらちゃんとともに
であれば、わたくしは、2里どころが、3里でも5里でも行きたい気分であります。

それにしても、心を寄り添わせるというのは、むつかしいことではありますよね。
自分では寄り添わせているつもりでも、相手は迷惑に感じているということが
ないとはいえませんね。さくらちゃんからこのように表明していただけたことで、
寄り添わせていただけてる、ということが確かめられたような気がいたしております。

>男性の快楽の感じ方求め方と、女性の快楽の感じ方求め方は、明らかに違いますね。
それも興味深いテーマでありますが、あらぬ脱線を起こしそうですので、ここでは深入りしないことに致します。

女性は、自然にあるがままに、男にくらべてより多くの快楽を享受できるような
仕組みになっておりますよね。男は、女性にくらべて、自然に受け取ることのできる
享楽は圧倒的に少なくできているようであります。こうした享楽の分量の不足を、
男は人為的な仕方でおぎなうよりほかはないでありましょうから、真理の求め方に
おいてすら享楽的にならざるをえないのではありますまいか。

真理とは、少なくとも男にとっては享楽でありますね。享楽は、それを追えば追うほど
外傷的な体験となってはねかえってまいります。それが、ジジェクのいう、「共生を
学ぶべき堪えがたい真理」ということになるのでありましょうか。

真理それ自体への接近。それは享楽的な体験であるがゆえに、外傷的な体験と
なってはねかえってくるのでありますね。外傷的な真理といかにして対決するか。
これが、少なくとも男にとっては、ほんらい的な真理とのかかわり方であるような
気がいたします。

わたくしが感じる違和感が、ほんらいであれば享楽的で外傷的であるべき真理を、
欲望のレベルにおしとどめることで、外傷的体験を回避しようとつとめる男性諸氏に
向けられたものであるのは、ほぼ間違いのないところだろうという気がいたします。

>宗教社会の中で、男性は「宗教的享楽」を求めることに夢中になりすぎて、
女性の真理の求め方や真実の愛の実現の仕方を、
時に、軽視することがございませんでしょうか、?

わたくしは、不思議と、生長の家の女性のみなさまにたいしては、違和感を抱くと
いうことがないようでありますね。「宗教的享楽」を追い求める必要のない女性の
みなさまにたいしては、「宗教的享楽」の求め方に違和感を抱くこともないという
ことになってくるのでありましょうか。そのぶん、女性のみなさの信仰の姿勢に
たいする関心のうすさというのは、あるのかもしれませんね。

587初心者:2011/11/05(土) 20:11:57 ID:hogyfr1M
志恩様

わたくしは、生長の家で語られる真理自体に違和感があるといっているのでは
ありません。真理でないもの真理と思い込み、その間違いを、シニフィアンを
暴走させることで覆い隠そうとしている方々にたいして違和感があるということを
申し上げているのであります。

「ソシュールの関門」を通過しないかぎり真理を語ることはできないとわたくしは
考えます。真理とおもわれているものの正体は、シニフィアンの連鎖であります。
シニフィアンを連鎖させることが真理を語ることであると、思い違いをなさって
おられる方々が少なからずおられるということなのであります。

シニフィアンの連鎖で真理を語ることはできません。ですが、シニフィアンの連鎖で
人を救うことはできるはずです。たとえそれがシニフィアンの連鎖であったとしても、
人が救われたのだから、それは真理であるにあるに違いないと、そのように思い
込まれてしまうのでありますね。

こうした思い込みによって、生長の家では、そしてほかのほとんどの宗教においても、
シニフィアンの連鎖が真理であると思い違いされているのであります。

シニフィアンの連鎖が真理であれば、シニフィアンを暴走させることもまた真理である
と考える人たちが出てきたとしても不思議ではありませんね。こうした、不思議とも
いえない出来事がじっさいに起きているのかいないのか、それを突きとめていく
ことが、さくらちゃんの問題提起によってはじまった、今回のボードの中心的なテーマ
のひとつであるような気がいたしております。

588初心者:2011/11/05(土) 20:15:58 ID:hogyfr1M
義春さん

真理は汝を自由ならしめん。わたくしは、この言葉の意味がいまだにわかりかねて
おります。本流の掲示板でこの言葉を引用しておられる方が、ときとしておられる
ようでありますが、掲示板で引用される以上は深く理解しておられるはずであります
から、いちどたずねてみたいとはおもうのでありますが、なにせ書き込み禁止の
身の上でありますので、いまだかなわざる願いということになっておるのであります。

じっさいは、トリプルバインドでがんじがらめになっている、というのが実情のように
感じます。たとえばですね、「真理は汝を自由ならしめん」という言い方は、真理を
知ったからには自由に生きよ!という命令形につながっていたりもするはずなので
ありますよね。真理に命令され、しばりつけられている方々があまりにも多いのでは
ないかと、このようなことを考えてしまいますね。

たとえば救済活動。これもまた、「救済せよ!」との真理の命令にかりたてられる
ようにしておこなわれている可能性がありますよね。信仰もまた、「真理とともに
あれ!」との命令形でなされているのかもしれません。

真理、救済、信仰が「ボロメオの輪」の関係にあるとすれば、それぞれは、たがいに
分離され離れ離れであるにもかかわらず、一見すると、強固に結びつけられている
ような錯覚にとらわれてしまいますね。こうした錯覚から、救済や信仰は真理と結び
ついていなければならないとする思い込みが生じている可能性は否定できないので
ありますよね。

こうしたことがらについて、いまいちど考えてみる必要があるようにもおもうのであり
ますが、「信が第一である」といっているような方々にどこまで受け入れていだける
のかといえば、それはほぼ不可能であるといわざるをえないのが、これもまた実情
であるようにおもうのでありますね。

そういった方々のご参加は無理としても、かぎられた人数であってもよいので、
このボードで考えてゆければという気がいたしております。

589ももんが:2011/11/05(土) 23:04:39 ID:XXCuaQns
皆様、ありがとうございます。

今日は、東北被災地に、ダライ・ラマ法王来られ、被災地の寺院で、法要に、参加されたそうです。御既得な、事です。ダライ・ラマ法王は、我が国なら、天皇陛下と同じ存在です。何故なら、ダライ・ラマ法王は、観世音菩薩の化身ですからね。


ダライ・ラマ法王だけが、出来る、仏教後期密教、最高の儀式、時輪タントラの灌頂は、ダライ・ラマ法王だけが、出来る、儀式です。

我が国の、高野山で、行われてる、真言密教の、伝法灌頂や結縁灌頂は、仏教中期密教の灌頂で、儀式としは、未完成品の灌頂とされてます。


チベットの仏像や、曼陀羅には、男女抱き合いの、仏像や仏画が、あります。


日本人の宗教感覚とは、違う、優れた、宗教感覚や、宗教思想があります。

それに、彼らは、祖先は、敬いますが、お墓は、無いのです。

自然葬ですね。


私も、向こうへ、旅行へ行った事が、あるの、分かるですが、何せ、富士山より、高い所で、人々が、生活し、在家も、出家も、決めらた、戒律、必ず、守り、生活してるのが、印象的でしたね。

宗教即生活、生活即宗教と、いゆう事です。


とにかく、食事たいする、戒律、宗派や、信じる、仏様によっても、違うようです。


日本もかって、戒律を守って、宗教生活を実践できましたが、現代人は、私も、含めて、我が儘だから、本当の宗教生活は、難しいでしょ。

自分の心の我が儘を、無くす、訓練をするよう、皆様、共に、頑張っていきましょう!

神様、皆様の我が儘治り、仲良く、慣れますよに。ありがとうございます。

590八百比丘尼:2011/11/05(土) 23:08:39 ID:j8iOdie.

 信仰すればするほど苦しくなる、というジレンマ。
これも自分の信仰心の薄きがゆえと己を責めます。

人を責めるなかれ、裁くなかれ。の教えに従って、間違ったことにも
目をつむってきた自分が情けない。

不二子ちゃんは、非常にまっすぐで正義感の強い女性ですから、
おかしなことは、おかしいとはっきり会議の席でも発言しました。
そのために誤解され、出講停止になり周りから敬遠されました。
でも、私は彼女のまっすぐさが羨ましかった。
彼女のことをずい分悪く言う人もいました。
その代わりのように、私は良い人(たぶん都合の良い人、使い勝手の良い人)
とおだてられ、色々と頼まれてきました。
波風を立てるのを好まぬ私は、取り合えず笑顔で皆さんに接していました。

でも、本当に愛深い人間はどちらでしょうか。
耳の痛いことでもちゃんと言ってくれる人でしょうね。
私は、いばりんぼう夫人にも地雷女にも、いつも低姿勢で話を合わせていました。

それは、彼女たちが私にとってどうでもよい存在だったからです。
世間から嫌われようが、評判が落ちようが知ったことではなかったから。
とてもひどい言い方をすれば、人間と思えば腹も立つが、道端の石ころだと
思えば腹も立たない。
気づかずにつまずいて転んだとしても、相手が石ならば自分の不注意さを
責めればよいと。

われながら、とてつもない冷酷な人間だと思います。
不二子ちゃんは違います。正面からぶつかって行きます。
彼女の中には熱い情熱と愛があるのです。
でもそのために彼女は、身も心もボロボロになりました。
生長の家の人達は、彼女を助けてはくれませんでした。
かえって嘘つきの地雷女を持ち上げて、不二子ちゃんを責めました。
地雷女が自分の都合のいいように話をでっち上げて、彼女を陥れたから。

地雷女は人格が崩壊していました。
それは子供時代に親に捨てられたか、虐待されたかのトラウマのせいだった
らしいのですが。
それならば何故、生長の家の人達はただ、気の毒な人だから言う通りに
してあげて。などというおためごかしを言うのか。
それが本当の宗教的な救いになるのですか。

私は絶望しました。
これでは、大声でわめき散らす人間だけが得をする社会と同じではないか。
もう私がここにいる理由はない。
このまま教区に留まれば、心の中に地獄の風が吹き荒れそうな気がしました。

本当の救いとは何ですか?
本物の信仰って何ですか?

591HONNE:2011/11/06(日) 00:00:37 ID:jtmmmlXY
神は「喜び」だそうです。
ですから、自分の行いについて、魂の底から喜びを感じるならば、自分の行いに自身を持って良いのだと思います。
そしてまた、自分の行いを理解してくれる人が、一人でもいてくれたなら、それはそれは、うれしいものです。

592ももんが:2011/11/06(日) 07:37:19 ID:XXCuaQns
皆様、ありがとうございます
お釈迦様のお言葉には、『自己のより処は、自己のみである、どうして、自己を知らないのに自己が、他者を救えるのか?自己の心知り、思い尽くして、修行することが、悟りへ近道であり、世を救う道である』と


此れと、近い、お話が、昭和の名僧、山本玄峰老師と、当時、老師にお世話に、なってた、田中清玄さん、会話から、理解できます。


老師は、ある当時、清玄さんに『お前、何の為に、修行してるのか?』と、問います。
清玄は『はい、日本の為です』と答えます。

この時は、老師は、何も言わずに、帰ります。

また、暫くした日に、老師は、『お前は、何の為に、修行してるのか?』

自信満々の清玄さん『はい、日本の為でございます!』

すると、にわかに、老師の顔色が、激変、怒声ともに『バカ者め!わし、わしの為に、修行している、一変足りとも、他人様の為に修行した事なぞ無い!』


清玄は、この一つ渇に、修行の本来の意味を悟られたそうです。何故、『自分自身の為に修行してる』と言われた老師は、たくさんの人々を救われてる姿まのあたりし、逆に、『日本の為に修行してる』と言った自分が、誰の約にたっていないからでした。

清玄さんは、この言葉で、目覚めて賢明に修行なさったようです。


私は、『他人救う』と考えは、好きでは、有りません。


寧ろ、それは、自己の驕りに、繋がるからです。

私も、また、修行未熟者ですが、他者に手差しのべる時は、『神様から頂いた、修行』と思い、ありがとう!と言う気持ちで、行います。


本来、生長の家の、救いも、修行の一環だから、救う側にありがとうが、無いと、無い、成立しない、行だと、私は、心得ます。


では、皆の、今日の幸せを、お祈りして、ありがとうございます。

593さくら:2011/11/06(日) 08:49:14 ID:T/77sMGw
宗教組織において決定された教義や方針に対して、
それに従う信徒の良心の葛藤、という構図は、良く見られそうですね。

宗教組織の権威的に決定される教義や方針に従うことは、
個人の良心や、本当に神に従うことになるのか、
そんな葛藤が生まれることがあります。

前にも書きましたが、「エホバの証人」の中枢幹部のレイモンド・フランズが
書いた「良心の危機」という本がありますが、
これは、純粋な動機で始まった宗教運動が、組織の成長とともに、
次第に権威的支配をふるうようになり、信徒や幹部の信仰や生活を犯していく様を、
組織幹部としての立場から、赤裸々につづったものです。

この著者は、自分の経験した宗教的権威に対する憎悪の気持から書いたのではなく、
真実を知った者は、
ある事実が人々を危険にさらされることであるならば、
たとえその真実が、何かを傷つける結果になったとしても、
自分が知った真実を隠すことは、道徳的義務から逃れる言い訳にはならない、
との信念から、この本の出版を決意した、と記しています。

真実を明らかにする、というのは、勇気がいるし、
自分だけでなく、周りのものを傷つけることになるかもしれないし
その真実と向き合わなければ、なんの抵抗にも遭わずにすむ、
たいてい、その場その場で、なあなあに随うことを選んでしまうことが、
大半の様な気がします。


生長の家のような良心的宗教組織において、
宗教の権威的支配など大げさかもしれません、
表だって、信徒の生活や信条を犯すことのない自由がありますし、
他の閉鎖的宗教組織の構図に、そのまま当てはまる、というわけではありません。

しかし、組織の方針と、信仰との間の葛藤という点は、他人事の事情ではなく、
どの宗教団体であっても、真剣に活動すればするほど直面する問題だと感じられます。

この団体でも、組織の教義や方針に異議を唱えて、追放になった幹部が大勢いました。
その方たちには、自分の宗教的良心に反していると感じ、
耐えられない衝動があったのだと思いますが、
その行動から起こる事態は、宗教に関わらない一般の方が考えるより
物質面でも心情面でも損失が大きいことと言える事実があるようです。

ある一面の見方として、生長の家では、現在、雅宣総裁という、いわば生長の家においては「権威的」存在の決定する方針や教義の解釈に、
異議を唱える、また信仰的良心というものに葛藤を覚える幹部や信徒がいる、いう状況があると言えますね。
雅宣総裁に、異議を唱えて、方針に従えない、とする人にとっては、
自分の信仰の良心に従うことという信念をもっていることであり、
その良心に従うことこそ、正義なのだと信じていると思います。

エホバの反乱においても、異議を唱えて追放になった幹部のその後の行動は様々で、
反対運動をして声高に正しいことを主張するものや、
内部暴露であることないこと中傷する行為にはしるもの、
ただ、自分の信じる信仰生活を穏やかにおくるもの、
正しいと思う聖書の解釈を信じて伝える運動をおこすものなど。

組織型宗教には、多かれ少なかれ、そうした構図が見られるのかな、と思いました。

594さくら:2011/11/06(日) 08:50:08 ID:T/77sMGw
ももんがさまが書いて下さってる内容は、
このボードのテーマでも、大切なことであるように思います。
信仰は、あくまで個人の犯すことのできない神との関係を築くためのものだと、
わたしも感じます。
信仰は、世の中や人を変えるためには用いられない、
宗教組織においては、これを混同していることで、
葛藤が起こるような気がします。

なんのための信仰であり、
なんのための真理であり、
なんのための救済運動なのか、
それをはっきり分けて考えないと、
宗教においての、運動、活動というものは、
どうしても、行き詰まりや矛盾、葛藤に突き当たるような気がします。


比丘尼おねえさまの葛藤は、
わたしには、良く理解ができます。
時に宗教団体において、自分の良心に従うことが、
あまりに抵抗を生むことだったりするので、
ほとほと疲れてしまうことがあります。
だから、無難に組織にいようと思えば、
そんな葛藤を感じ無くなれば、一番楽なことです。

組織にいなければ、自分の自由の意志で宗教的良心から選ぶことができたの行動が、
組織の方針、組織の義務、組織の命令、組織の雰囲気に
かなり縛られてしまっていることがあります。

595さくら:2011/11/06(日) 11:09:05 ID:T/77sMGw
宗教哲学家であり教育者であるJ・クリシュナムルティは、
「宗教組織や組織的な活動によって真理に到達することは不可能である。」
として、自ら率いていた宗教団体を解散し、
生についての真実は、各々のそれぞれが自分自身で発見しなければならない、としました。

どんな宗教的教義や権威も信じず、永遠を見つめ、真に生き、何の束縛も受けない自由な人間のあり方を提唱した方のようです。

このクリシュナムルティは、言葉によってつくられるシンボル的概念的世界で生きている人間は、真実を生きているのでなない、という指摘をしています。
宗教的な組織的、霊的経験も、
実在する真実そのものよりも、シンボルや言葉が重要視され、
言葉によってもたらされる刺激により、あるシンボルが最高の内的権威、努力の対象である理想となるような仕組みがある、それを超えなければ、個人の精神的変容(悟り)はありえない、としています。

「ソシュールの関門」と初心者さまが仰いましたが、
そのことに通じ重要なことがある気がいたします。

他にも、宗教に対する批判で、この方の主張は、
とても共感できるところがたくさんあります。

596ももんが:2011/11/06(日) 11:34:06 ID:XXCuaQns
>>594

さくら様、私のレスに、コメント、ありがとうございます。

しかし、私が、レスで、書いた、お話は、宗教生活の、神様と自分と関係は、あくまでも、個別の問題あるというとです。


さくら様が、『もし』? 組織の問題で、御悩みなら、それは、さくら様の自身の心の問題であり、神様が、さくら様が、与えた、さくら様が、神想観をして、解決していくべく、与えらた、問題だと、私は、思います。


神様は、各個人、個人に、解決すべき、問題を、与えるのであって、それが、自己の内部(心の目)で、解決出来ないかぎり、苦痛や、違和感に、成って、感じらるのは、私の数少ない、体験からでも、明らかです。

病気であれ、人間関係、会社の問題であれ、自己の問題が、自己の心の内部で解決した時、宗教生活をし、神想観なり瞑想したりしてる人々は、自己の内部に真の神を観るはずです。

真実の神を観る事によって、『信』が養われて行くのだと思います。だから、生長の家において、理屈より、神想観を実習して、毎日神様と対話する事が、必要なんでは、ないでしょうか。


私は、谷口雅春先生の講和テープを聞き度に『神想観をして、実相の鍵を持って、内部の神と対話する事が大切です』

各、雅宣先生、講習会で、同じ事、言われていたので、雅春先生も、雅宣先生も、私には、変わらないな、思われます。


さくら様、多少、無礼な、言葉に、成ったとした、ごめんなさい。

さくら様の実相が、より一層輝きますよ、お祈り、いたしたします、ありがとうございます。


皆様も、つまらない、私のお話、ご拝察、ありがとうございます。皆様、幸せでありますように、ありがとうございます。

597さくら:2011/11/06(日) 11:50:33 ID:T/77sMGw
ももんがさま

わたし個人のことを申しますと、
組織のことで悩んではおりませんし、
信仰のことでも苦しんではおりません。

生長の家の今の問題が、どこにあるのか、
組織がなぜ現在の状況になったか、考えたいと思っているだけです。
生長の家の純粋な信仰をもちたいと思っている信徒が
悩む状況があるわけですから、ただ、考えたいだけです。

神想観で、幹部の皆さんでも、信仰深い信の確立した皆さんで、
解決していただいたら、一番いいですね。

信仰深きみなさまには、
わたしの心の戯れの独り言を、ただ、聞き流して頂ければ、
幸いです。

また、ご指導ください。

598さくら:2011/11/06(日) 11:53:35 ID:T/77sMGw
信仰を確立した方、お願いいたします。
神様と対話して、
神想観で、
世の中の問題も、すべて解決してください。
お願いいたします。

599さくら:2011/11/06(日) 12:05:58 ID:T/77sMGw
否定性の中にとどまることを選ぶのは、
神を宿してあえてこの制限ある世の中に生まれれて来た、
人間の大きな自由であると、私には、感じられます。

心に神を宿すと確信しているからこそできる、
とてつもない勇敢な自由であると、感じています。

600初心者:2011/11/06(日) 14:27:35 ID:hogyfr1M
さくらちゃんへ

クリシュナムルティがいっているように、現実世界というのは言葉によって
つくられた世界ですから、そこで何がおころうとも、そのすべては言葉の効果
と考えるしかないのでありますね。病気も言葉の効果であれば、病気の治癒も
言葉の効果であり、それがたとえ奇跡的な治癒体験であったとしても、それも
また言葉の効果でしかないのではないか、との疑いを持たざるを得なくなって
くるのでありますね。

すべてが言葉の効果であるとするなら、真理もまた言葉の効果であると考えるしか
ありませんね。シニフィアンを連鎖させることで、その効果として「真理らしきもの」が
あらわれてくるのであります。一般的には、シニフィアン連鎖によって生じた
「真理らしきもの」が、真理と受け止められているようであります。

言葉の効果ではない本物の真理があるとすれば、それは「ソシュールの関門」の
向こう側にあるはずであります。ですから、本物の真理に接近しようと試みるので
あれば、「ソシュールの関門」を突破するということが、どうしても必要であると、
わたくしは考えるのであります。クリシュナムルティも、おそらく似たようなことを
考えていたはずであります。

なんどもいいますが、生長の家は、「ソシュールの関門」を突破しえていないはず
であります。雅春先生においてすら、「ソシュールの関門」にかんしての考察を
なされたという形跡を見いだすことはできません。一般の信徒の方々がソシュール
の限界を超えたという可能性は、ほとんどゼロに等しいものと考えます。

以上のことからわたくしは、生長の家では、これまで真理について語られたことは
いちどもなかったということを申し述べているところであります。生長の家で語られて
いるのは、真理ではなく、「シニフィアンの効果としての真理」だけであると考えます。

こうした批判にたいする生長の家の切り札は、神想観でありますね。神想観で真理に
接近できる。この信念が切り札であります。神想観によって、はたして「ソシュールの
関門」は突破できるのでありましょうか。はたして神想観とはなんなのでありましょう。

言葉によるイメージの喚起力。神想観はこれを利用しているようにも感じられます。
言葉によるイメージの喚起力によって言葉の限界を突破する。神想観には、こうした
効力があるということなのでありましょうか。

601初心者:2011/11/06(日) 14:51:42 ID:hogyfr1M
おもえば、生長の家の運動は、神想観と実相知と、そして神によってなされてきた
のであります。その、神想観によってなされたはずの運動が、失敗につぐ失敗という
現実となってあらわれてきたのでありますね。

それはなぜなのか、問題点はどこにあったのか。それをこの場で考えようとして
いるところでありますが、「理屈ではない、神想観せよ」との回答が与えられました。

こうした回答が与えられるところに宗教の本質があるようにおもいます。神想観に
よる失敗を神想観で解決する。こうした無限後退のループを温存させることで、
問題の解決を永遠に先送りできるというのが、宗教の宗教たるゆえんであるような
気がいたします。

602ももんが:2011/11/06(日) 14:59:02 ID:XXCuaQns
>>597

さくら様 レスお話、ありがとうございます。

さくら様は、『組織について、悩んでない』言われてますが、以下の様に、言われても、いますね。

>『生長の家の今の問題が、どこにあるのか、
組織がなぜ現在の状況になったか、考えたいと思っているだけです。
生長の家の純粋な信仰をもちたいと思っている信徒が
悩む状況があるわけですから、ただ、考えたいだけです。』

と言事は、さくら様の、『心の内』上記の問題が、存在すると、言う事です。

『考える=悩む=自己の心問題』ですね。


すなわち、さくら様が、ここに、テーマにしてるのは、全て、『自己の内成る』問題ですね。


例え、組織の事に、違和感じて、嫌な思いや、色々考えてるなら、それよも、自分の毎日の行いや、働きに、よって、変えて、いかれたら、よいのでは、ありませんか?


あとは、神想観していたら、神様の思いとさくら様の心一致したら、自然に変化して行くと思われます。


偉そうな、事ばかり、申しましたが、

さくら様も、神想観や聖経読呪を、頑張って、たくさんの、人、物、父、母、そして、神様に、感謝して、生活して、参りましょ!


皆様、また、下らない、お話、申し訳ありませんでした。皆様の、お幸せ、お祈りして、ありがとうございます。

603初心者:2011/11/06(日) 15:45:32 ID:hogyfr1M
わたくしはこちらで、真理と救済はべつものだ、ということを申し述べさせていただい
ております。これによって救われた、だからこれは真理だ。人はこのように思い込もう
といたします。

救われた、とはどういうことでしょう。それは、不都合な出来事が消えて、自分にとって
都合のよい出来事が起きた、ということでありましょう。自分にとって都合のよい
出来事が起きた。だからこれは真理だと、人は考えてしまうのでありますね。

悪はない、善のみがある。これは真理でしょうか。悪とは、不都合ということですね。
善とは好都合ということですよね。自分に不都合なものはなくて、都合のよいもの
だけがある。これが真理ということになるのでありましょうか。

悪はない、善のみがある。これは真理ではありません。これは救済です。都合のよく
ないものはなくて都合よいものだけがあるとすれば、これは、救済ではあっても、
断じて真理ではないということを、ここで強くいっておきたいとおもうのであります。

善や悪とは、言語による2分法でしかありません。善の反対が悪であり、悪の反対が
善であるという、相対的な尺度による2分法でしかないのであります。こうした2分法
で真理が語れるはずがありません。善悪とは「無の関門」以前の問題なのであります。

善悪の判断で真理を語ることはできません。語れるのは救済であります。「善一元の
世界」とは、真理ではなく、救済について語られた言葉なのであります。「神は善なり。
善一元の世界、これが真理だ」と口に出した途端に、その人は大きな過ちをおかした
ことになるのであります。

604初心者:2011/11/06(日) 16:02:34 ID:hogyfr1M
ももんが様は、ここで提示されている問題が、すべて「自己の内なる問題である」
と考えておられるのでありますね。組織に問題があると見えているのも、活動が
ことごとく失敗に終わったと見えているのも、すべてが「自己の内なる問題」と
考えておられるのでありますね。

もうそうであれば、それは正しい考えであります。「ソシュールの関門」とは、それが
すべて「自己の内なる問題」であることから生じてしまうものなのであります。した
がって、この世界のすべての出来事は、客観的な世界とは何の関係もない、すべて
が「自己の内なる問題」でしかない、ということになってくるのでありますね。

たとえ神想観で問題を解決しえたとしても、それもまた「自己の内なる問題」でしか
ありません。たとえどんなに神想観をつづけようとも、「自己の内なる問題」を出て
客観的世界とつながることはできない。ここれが「ソシュールの関門」ということに
なるのであります。

ももんが様がいっておられるように、すべては「自己の内なる問題」であります。
そして、たとえ神想観によって何かが変わり、何かが解決されたとしても、それも
また「自己の内なる問題」の域を出ることはなく、それは客観的世界とはまったく
無関係の、ただ「自己の内なるささやかな問題」でしかないということになるので
あります。

どうか神想観をおつづけになってください。自己の内なるささやかな問題のために。

605さくら:2011/11/06(日) 16:40:43 ID:ME8aqZFE
ももんがさま

アドバイス、ありがとうございます。

悩むことを、わたしは、選び、
そして、後悔をしておりません。

毎日、わたしは、生きています。
神様の余りに、偉大で、静かな奇跡の中で、
感謝の中を、私は、生かされております。
拝。

606さくら:2011/11/06(日) 16:41:44 ID:ME8aqZFE
初心者さま、
またゆっくり、読んで、書きます。
拝。

607さくら:2011/11/06(日) 16:53:52 ID:ME8aqZFE
これが、わたしの心の内にある問題か…

面白いですね、

608ももんが:2011/11/06(日) 18:42:42 ID:XXCuaQns
>>604

初心者様、レス、ありがとうございます。

初心者さまのレス読みました。

失礼ですが、初心者さまは、余り、神想観なされない方のようです。


例えば>また「自己の内なる問題」の域を出ることはなく、それは客観的世界とはまったく
無関係の、ただ「自己の内なるささやかな問題」でしかないということになるので
あります。



上記の、表現の中に、初心者さまは、『自己の内在する心』を『ささやかな』と、表現されてます。


谷口雅春先生も、『自己の内なる神と対話すること』

神想観する事により、現象と実相が、一つに成り、実相独在になるような世界が、自分の内部から、外の世界に、現れて車ようになるのです。


神想観しなければ、

実相は現れないし、現象のままの世界で、主、客、二元の世界のままです。


そう、先程、レスされた、初心者さまの、書かれた世界が、二元論の世界です。初心者さまの心の中は、二元論の世界で、物事を捉えておられるのです。


初心者さまも、しつかり、神想観して、神の子として、ともに、頑張って、いきましょ!


初心者さま!ありがとうございます

皆様、ありがとうございます!

609初心者:2011/11/06(日) 19:01:08 ID:hogyfr1M
ももんが様

その、神想観をして、神と一体となった「内なる世界」は、客観的な世界においても
反映されるのでありましょうか。もしそうであれば、ぜひ反映なされて、現教団に
おける2元論的問題を、できるかぎりすみやかに解決していただきますよう、お願い
いたします。わたくしのことはさておき、ももんが様の偉大なる内的世界が、外の世界
にも反映されますことを、期待しております。

610ももんが:2011/11/06(日) 19:48:08 ID:XXCuaQns
>>609

初心者さま、レス、ありがとうございます。

初心者さま、『主、客』二元に、観てらしゃるのは、失礼だが、初心者さまの『心』です。


初心者さまが、まず、その、二元的、観方を、神想観に、よって、打ち破らない、限り、私や、また、他者に、何かを、求めもて、同じ、実相世界は、ご理解出来ないと、思われます。


まずは、理屈をいわず、毎日、ご自分の、日々の神想観を、頑張って、下さい。

そうしたら、組織を見るめを、多少は、変わる事でしょう。
初心者さまが、幸せに、成りますよに、ありがとうございます!

611初心者:2011/11/06(日) 20:04:16 ID:hogyfr1M
ももんが様

お望みとあらば、24時間神想観意識状態というものを実現することも、わたくしに
は可能でございます。ももんが様がいっておられることは、すべて理解しております。
実現しようとおもえば、今すぐにでも実現できます。ですが、この場でそれを実現する
ことがわたくしの役目であるとはおもえません。理屈も言える。神想観意識状態にも
なれる。それでよいではございませんか。あまり堅いことはいわないでくださいませ。

612神の子さん:2011/11/06(日) 20:17:59 ID:???
おい、初心者さんよ
あんた以前の書き込みで「神想観は苦手です」と発言していたことを
忘れてはいないよ。
ぼくも、ももんがさんに同意します。初心者さんの論には神が抜けている


禿げちゃびんな机上のコトバ遊びだね。

613ももんが:2011/11/06(日) 20:31:00 ID:XXCuaQns
>>611

初心者さま、レス、ありがとうございます。


堅い事、は、言って、おりませんよ。


普通の事を、言わせ、頂きました。


主、客一体、実相と現象の一体を体験できるのが、神想観ですね。


初心者さま、色々、ありがとうございます。

614初心者:2011/11/06(日) 20:44:00 ID:hogyfr1M
神の子様

わたくしは、神想観とはいってませんよ。神想観意識状態といったはずです。
それが正確に、神想観とおなじ意識状態であるとはおもいませんが、それなりに
近いものだろうと考えております。そうした意識状態を実現しようとおもえば、
いつでもできます。今すぐにでも。

神の子様は、神想観意識状態は、正式な神想観によってしか実現できないと
考えおられるのでありますね。わたくしも、正式な神想観意識状態というものが
どのようなものであるのかは存じませんが、これが正式なものとは異なっていた
としても、とくに問題があるとは考えておりません。

机上のコトバ遊び、ですか。どういう意味なのか、べつのスレッドで、より具体的に
言及してくださいませ。

615さくら:2011/11/06(日) 20:51:11 ID:ME8aqZFE
神の子さま

さくらのトーキングボードへようこそ。
神を知ってる方が、
あんた呼ばわり、するのかしら。
お願い、します。
初心者さまが負けず嫌いなの、知っておりますでしょ。
挑発的な論議は、お控え下さいませね。
あなたも、生長の家の、未来について、話して下さいませ。

616さくら:2011/11/06(日) 20:54:10 ID:ME8aqZFE
別のスレッドにおいても、発展的議論とは、思えません。
お二人共、未来の生長の家のために、お願いいたします。

今時間なく、一言で失礼、

617神の子さん:2011/11/06(日) 20:54:41 ID:???
神想観意識状態?そんな造語は聞いたことがありません。
貴殿は、練成会を受けたことも無い方のようです。

つまり、知らない事を知っているかのごとくわざと難解な言い回しで語りつづけているのは
どのような意図があるのか、不思議な人ですね。負けず嫌いの人だとはわかりますがwww

618神の子さん:2011/11/06(日) 20:56:01 ID:???
ごめんなさい。さくらさん。消えます。

619神の子さん:2011/11/06(日) 20:57:58 ID:???
あんたのバラーード♪  あんたって親しみをこめたのになぁーバイバイ

620さくら:2011/11/06(日) 21:03:38 ID:ME8aqZFE
神の子さま
どうしたら、神想観で、今の生長の家を導きましょう。
一信徒に、教えて下さいますか。

621さくら:2011/11/06(日) 21:05:47 ID:ME8aqZFE
消えないでお答え下さいますか?
初心者さまが、大好きなんですのね、
初心者さまの、ファンが多くて、困りますわね…。

神の子さま、あなたとお話したいと思っておりますのに。

622初心者:2011/11/06(日) 21:28:56 ID:hogyfr1M
神の子様

きわめていい加減ではありましたが、わたくしは、25年ほど神想観らしきものを
実習いたしました。もちろん、「らしきもの」であって、時間は、超がつくほどに短く、
正式なものとは雲泥の差であります。あのようなスタイルは、わたくしには向かない
のでありますね。

自己流。これが、すべてのわたくしのやり方であります。神想観意識状態。
これは、ついさきほどこしらえた造語であります。神想観を実習してどのような
意識状態に入るのか、それは人それぞれで異なるのではありませんか。それを
総称して神想観意識状態と呼ぶ。とくに問題はないと考えます。

たとえばわたくしの場合、気功の本を購入して、わずか5分で基本をマスターする
ことができました。いっさいの修業をおこなってはおりませんが、体内の気であれば、
自在にコントロールできるはずです。それができたのも、神想観意識状態であった
からこそと考えております(世間では、これを変性意識状態と呼ぶのかもしれませんが)。

もちろん、ひとことで神想観意識状態といっても、レベルは人それぞれで、わたくしの
それがハイレベルのものであると申し述べるつもりはありません。レベルは低くとも、
それなりのことはできるということであります。ただしこの場では、理屈以外を語ろう
とはおもいません。

623「訊け」管理人:2011/11/06(日) 21:50:01 ID:UodBcqiE

>さくらマネ

<今回の『生命の實相』問題に関し>

 情報源がトキさんご投稿文しかないのですが、今回の件(取り越し苦労かも
しれぬが)やや心配をしております。
 貴女ご提題と絡めるかたちで今回の件、貴女のご意見など頂戴できますか?
貴女の意見はいつも、感心するくらいに核心を突いておられます。貴女の意見
なども聞いた上で今回の件、自分なりに考えてみたいのです。

 貴女の問題意識と関連するかたちで構いません。一度貴女の意見を参考資料
としてご開陳願えれば幸いです。ややTSBの趣旨と外れるかもしれぬと申せ、
「さくらマネの意見は重視」な声、内部から聞こえてくるためです。


追伸
 
 もうホント、今回の件を如何に解釈すべきか不明なのです。

 ちなみに現状の個人的意見では「下記、雅春先生の御言葉が最も重いの
では?」と思っている現在です。

●七つの燈台の点燈者の神示
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65603623.html

624さくら:2011/11/07(月) 01:07:38 ID:T/77sMGw
ややイケメンの、訊けかんとく

おかしいですね。
内部の人間であるトキさまなんて、
ここ、読んでくださってないのですよ。
わたしがいままで3回、削除してくださいって頼んだ3つの文を、
削除して下さらないのです。
・・でも、トキ王子のいじわるは、甘んじて受けようと、わたしは思っています、。


それはさておきまして・・
今回の件、これは、信徒が教団に対する不信感の決定的根拠にするのに、
充分な理由になると、危惧を感じるところです、。

つまり、この事実に関連する情報、(独り歩きも始める情報も含め)
例にもれず、過剰な反応を、またもや生むことになることとなると思いますし、
その反応自体もまた、おそらく、
問題を大きくする原因になっていくだろうとも思われます・。
もうすでに、過剰反応は起こっておりますので、それが加速するだけのこととは思いますが、。
物事を複雑にしていく過剰反応が、私には、いまだにとても厄介に感じてしまいます。

雅宣総裁率いる現教団は、生長の家の命ともいえる、生命の實相を抹殺する。
・・というような。
今までの経緯からしても、この情報は独り歩きをするのに充分な内容ですが、
感情的な反応が、またさらに、分裂を大きくしていくような気がしています。


訊けさま
わたしのような一信徒が、このような重大な事柄に意見を述べようとすることは、
難しい、と改めて感じています、
情報を冷静に把握して、みなさまともに、考え話していく大切なことですよね、

わたしの問題意識に関連して考えますなら、
まず、根本的に、生長の家が、言葉を使った運動であること、
これが何を意味するのか
まず、このことを考えていかなくては、ならないと感じてしまいます、
この「言葉の正体」とは何であるかということです。

雅春先生のお悟りや教えの根本は、本物でありますが、
その運動の展開は、「言葉による運動」であったのは、何を意味するのか。
今まで、初心者さまとの対話でも、焦点になってきたことだと思っています。

はたして、「生命の實相」を、
このような形で、頑な迄に守ることは、
まず、根本的に、どこに意味があると思っているのか、
わたしは問いたくなってしまうというところがあるのです・。
この疑問は、ちょっと、簡単に言い切れないところですが、・・

生長の家の教えの神髄は、どこにあるのでしょう。
「生命の實相」は、裁判という世俗なものに落としてまで守るべきものなのでしょうか、
一番大切にされているのは、信徒の信仰ですか、それとも、組織の事情ですか?
言葉による、宗教運動とは、どんな意味があり、どんな結果をもたらしてきたのでしょうか。
「生命の實相」を失った、生長の家の「信仰運動」とは、どんな運動になりますか。

この点は、訊けさまとは、違う視点かもしれません・・。

そして、現教団は、大きな流れの中で、もしかしたら、
「生命の實相」を失うべくして失っていく。
そのようなこともあるかもしれません、
それは、善し悪しの判断を加えなければ、
なるべくしてなっていくような流れ、なのかもしれません・・、

個人的には、色々な想いが湧いてきますが・・
感情的な反応だけで、考えたくはないのですね。


訊けさまと方向を同じくしているのは、
では、信徒として、何をすべきか、という点でしょうか。

信徒は、なんらかの理想を求めて、その理想を叶えるためという理由で、
組織に関わってはいけないということを、最近さらに感じます。
組織に、期待ばかりを求めては、いけないということを感じます。
逆に組織に影響を与えるような思いで、自分の信仰や行動を考えていかなくてはならないと思うようになりました、

さて、信徒の皆様には、どんなことができますでしょうか。

わたしも考えていきたいのですが、
あくまで最も大切にしたいのは、
各人の信仰、
ということだと思っています。

それは、私の問題意識に関連しますなら・・
「生命の實相」を、頑なに守ることには、限定されてはいない気がしているのですよ、。

あなたの求める答えには、なってないかもしれません・・
ただ、ボードで対話することで、見えてくるものもあるかもしれませんね、、
訊けさまの今後のご参加を、期待する次第であります。

追伸:そういえば、義春さんが、旅に出たっていうのは、本当ですか。
もしそうなら、ここでも、とても、困りますね・・。

625さくらモノローグ:2011/11/07(月) 02:19:14 ID:T/77sMGw
わたしも、自分で納得いくまで、考えられたら、
卒業して、自分の果たしたいことに、
きちんと取り組んでいこうと思います。

626さくら:2011/11/07(月) 03:30:10 ID:T/77sMGw
訊けさまがおっしゃってた。教団に頼らずとも。
この姿勢、わたしも、賛成です。

もう組織の方針に頼ったり、非難するのでなく、
具体的に何ができるのか考えていくことが、各々大切になってきているとおもっています。

それで、むしろ、そのことが組織を変えることにもなっていけばよいとおもうのですよね。

訊けさまは、ブログで、「雅春先生関連のブログ」を開始しましょう。
との提案をされていました、

ただ、もっと現代の問題に即した、
できれば、その問題を抱えた人たちに、さらに寄り添う心で、
「真理の真髄」、を伝えていかなくてはならないとも、おもうのですね、

各人の立場で実践しながら、具体的に取り組めることがあるとおもうのです、
真理の実践を、各人の立場で、展開して出来ることが、たくさんあるとおもっています。
その中で、正しい方向を伝えられることが、あると思います。

ブログももちろん、そのひとつですよね、


それから、真理、信仰、救済。
この違いの把握は、
やはり、どうしても。大切であるような気がしています。

人は、何を求めて来るのか、
そのことにたいして、明確に示すことができないと、
現実的な対応に、限界があるような気がします。

このことは、ちょっとまだ、考えていきたいです、。

627「訊け」:2011/11/07(月) 11:39:43 ID:ujuBWtC6

>さくらマネ

㊉ お 知 ら せ ㊉

 ご丁寧な返信をありがとうございました。

 今、プリントアウトしまして拝読中です。現在多忙ですが、必ずレスしま
す!(一部は作成しましたが、まあ、他スレで話しが進んでしまった際は、
申し訳ありません)

628役行者:2011/11/07(月) 12:58:06 ID:odX3izAU

 >初心者さま


 さくら美人マネージャーに呼ばれたので、ついつい、こっちに来てしまいました。弱いのよ(T_T)

 先コメントは・・・なんと、役行者でした(^^;)


 >ご理解いただいて、ありがとうございます。<

 身に余るお言葉ですけど、
 ご期待に添えるほどの、理解力はないかと、存じます。

 では、早速!

 >思うに、今のこの事態は、雅春先生の教えが、批判にたいして、超越項で擁護する
よりほかはないほどに、すでに劣化してしまっているということを示しているのでは
ないでしょうか。<

 ここですが、一般的に解釈すると、雅春先生の教えが劣化しているのでなく、反証不可能な超越項をもってくることでしか対処できない、いわゆる思考の停止状態が問題なんでしょう。
 この違いは、問題が、実相哲学にあるか、それを把握する側にあるか、という大きな違いとなるのです。大切です。


 >ひも理論、M理論、Dブレーンにかんしては、雅春先生は、いっさい
言及をなされておりません。Dブレーンは、救済という意味で、雅春先生の教えを
はるかにしのぐ可能性を持つとわたくしは考えます。さらに、量子力学の主流と
なった多世界解釈にたいしては、雅春先生の教えは、超越項をもってしても対処でき
ないのではないかという気がいたしております。超越項で対処できなければ、あとは
否認があるのみであります。<

 まあ、難しい哲学、物理学用語が連ねてありますが、昼休みということもあり、飛ばします( ・_・;)

>雅春先生の教えの再活性化は、説得力のある、反証可能な言説に
よってなされるべきものと考えます。それができなければ、『生命の實相』を再活性化
させる意味はないと、わたくしは考えます。<

 とりあえず、ここは同意します。ならば、現存の生命の実相哲学を土台としての、再活性化となりますね。劣化していると烙印を押すのでなく、土台にしてアウフヘーベンしてゆくよう、つとめるのが、後世、生まれた我々の使命かと存じます。

 実相哲学により、生長の家の方は救われているのです。
 ここは、みなさま、譲れないと存じます。
         合 掌

629初心者:2011/11/07(月) 13:16:03 ID:hogyfr1M
役行者様

救済としての雅春先生の教えの有効性は、わたくしも認めております。ただそれが
真理かというと、どうもちがうような気がいたすのであります。救済としての有効性を
持つものは、それが即、真理であると認めてよいのか、という問題提起であります。
これが争点になるかと存じます。

もっとも、真理とは何かという定義が、第一でありますね。生長の家では、このあたり
の定義が、きわめてあいまいなままに、「真理」という言葉が使われてまいったような
気がいたします。もちろん、救済にかんしても定義が必要となるでありましょう。
まずは定義の問題を、最初にかたずけることにいたしましょう。

真理とはなんでありましょう。訊けさまが、「真理の言葉をブログに書く」といって
おられますので、まずは、「真理」とは何かということについて、訊けさまに定義して
いただくのがよいかと存じます。

それとですね、M理論やDブレーンにつきましては、数式で示されても、わたくしは
チンプンカンプンであります。ただ「真理」を考えるにあたって、M理論やDブレーンは
きわめて重要な概念になると考えます。避けておとることはできないと考えております。

630さくら:2011/11/07(月) 13:24:43 ID:MVa4lFHc
役行者さま

あら、いらっしゃいませ。
せっかくですから、
お抹茶でも点てましょうかしら、
何か気のきいた和菓子の差入れでも、ありますかしら…

まあ、差入れがなくとも、
いつもながら、理解と共感で、
本質をまとめて下さり、
感謝しております。

わたしも、救済に関する、ひも理論、M理論、Dブレーンの理論など、なにやら、さっぱり分からないのですが、

生長の家が、言葉による救済運動である以上、
初心者さまが、再三言われているように、
言葉というものの本質にも、
無関心では、いけないと感じています。

そして、宗教が、言葉をどのように扱うべきか、
ある方向で言葉を扱えば、どのような結果がもたらされるかも、
慎重に考慮する必要もあるとも感じています。
今までの歴史に、学ぶべき点は、ここにもあると感じます。

また、信仰とは、その言葉の関門を、通過したところにあり、
どのような言葉であってももたらされず、
また言葉でつくられたこの世の何ものにもよらないものだということを、
はっきり自覚する必要も感じています。

そして、真理とは、人間の善悪を超越したところに厳然と存在するもので、
この真理に直面した時に、人間ができるのは、ただ恐れること、敬うこと以外にないのではないかと、感じています。

信仰、そして、真理、によって、他人を救うことは出来ないし、
世の中は、変えることはできない、
このことの自覚がたいせつだと、感じています。

初心者さまが言われるように、それを、まず、はっきりさせなければ、ならないのでしょうね。

この混同を解消しなければ、
雅春先生の言葉を、
語っても、
同じことが繰り返されるように、
わたくしも、感じているのです。

631トキ:2011/11/07(月) 13:31:19 ID:BAKVEHUo
さくら 様

 おはようごうざいます。礼の通達の問題、教団内部でもじわじわと波紋が広まっていますね。
さくら様の教区での反応はどうでしょうか? 私の教区では大変な状態になっています。
 教団上層部にも、光明思想社や社会事業団にも、信徒一般からは強い非難の声が出ています。

 昨日から今日にかけて、本流掲示板にこの問題が取り上げられていました。全文を掲載していたので、
関係者から原文を入手されたのでしょうね。さくら様の教区では、もう広まっているでしょうか。私
もさくら様と同様、現場の人間ですから、今回の事は唖然としております。原文を見せてくれた人もそ
それなりの立場のある人ですが、やはりものすごく怒っていました。同時にこの話を聞いた別の会員は
今までは、総裁万歳の立場の人でしたが、「さすがにA先生は支持できないが、M先生となら手を組んでも
良い」とか口走っていました。

 現実を見れば、聖典を信徒に滞りなく提供する、という最低限の事すら組織はできなくなっています。
この数年の組織指導には、納得のできない部分が多々あり、だから分派がこんなに大きくなったのです。
しかし、多くの信徒は、今は理解できないだけで、将来は分かるはずだ、という期待だけで頑張ってきた
のです。その挙げ句が生命の実相や甘露の法雨の在庫切れというのは、裏切り行為であります。

 どんな組織でも、定款には「目的」があります。今、手許に規約集(教団の定款を書いた書面などを
集めた本)はありませんが、生長の家は、谷口雅春先生が始められた信仰の研鑽と宣布が目的であり、
その中で中核になるのが「生命の実相」であることに疑いの余地はありません。教団も裁判でそう
述べています。これが信徒の手に届かなくなったのは、どういう観点から見ても重大事です。

 そうすると、教団の理事なり参議なりは、今回の事態につき、詳細な説明をすると共に、信徒のお詫び
をし、対応策を説明する義務があると思います。少なくとも、「生命の実相は行事に使わないで下さい」
で済む話ではありません。

 うがった見方をしたら、今回の通達は、生命の実相がなくなった場合に信徒がどういう反応をするか
という観測気球なのかもしれません。もし、これに信徒の反応が鈍ければ、裁判が敗訴しても、そのまま
生命の実相を使わない、というつもりかもしれません。しかし、私の周囲の現場の人間の多くは、怒っていました。

 ただ、この件が契機になり、教団側も本流復活派も、初心に戻る事が必要なような気がします。

 どうも、横レスでつまらない事を書いて、すみません。

合掌 ありがとうございます

632役行者:2011/11/07(月) 13:40:13 ID:odX3izAU
>初心者様


 >救済としての雅春先生の教えの有効性は、わたくしも認めております。
ただそれが真理かというと、どうもちがうような気がいたすのであります。救済
としての有効性を持つものは、それが即、真理であると認めてよいのか、という
問題提起であります。
これが争点になるかと存じます。<


 なぜなら、病気直しがもし救済なら、あちらこちらの宗教団体が救済してますから
・・・救済の定義も大切かと!
また、真理と救済がイコールなら、これまた、真理が歪曲されやすくなりますね。
救済というのは、個人の感情によりどころがある場合が多いですから。


>真理とはなんでありましょう。訊けさまが、「真理の言葉をブログに書く」
といっておられますので、まずは、「真理」とは何かということについて、訊け
さまに定義していただくのがよいかと存じます。<

訊けさあ!!
お願いされて!!


>それとですね、M理論やDブレーンにつきましては、数式で示されても、
わたくしはチンプンカンプンであります。ただ「真理」を考えるにあたって、M
理論やDブレーンはきわめて重要な概念になると考えます。避けておとることは
できないと考えております。<

ならば、わたしも挑戦しましょう! 合掌
 
 さくらさま!
 歓迎の言葉、ありがとうございますσ(^_^;

633初心者:2011/11/07(月) 13:50:09 ID:hogyfr1M
さくらちゃんへ

たしかに、生長の家の方々は、「完全でなければならない」と決めつけておられ
ますよね。思い込んでおられますよね。どうしてなんでしょうね。疑問であります。

神は完全であるから、神の子である人間も完全でなければならない。言うのやめて、
といいたくなるような、使い古されたセリフでありますが、きっとこのようなことを
考えておられるのでありましょうね。

それと、雅春先生の教えの劣化ということでありますが、これは、雅春先生の教え
じたいが劣化するという意味ではありません。対抗勢力が日々、進化を遂げて、
批判力を強めているということであります。

宗教にたいする批判は、より精密化し、高度化していますよね。それにたいして、
雅春先生の教えは何も変わらないのでありますから、相対的な尺度でいえば、
日々劣化している、ということがいえるような気がするのであります。

神は完全であるから、神の子である人間も完全でなければならない。おなじことを
いうにしても、もっと表現を現代的な言いまわしに変えて、センスアップしていただき
たいとおもうところであります。

神は完全であるにしても、神の子が完全であるべきかどうかは選択の問題である
から、完全でありたいと願うものだけが完全であろうと努めればよい。せめて、こうした
言いまわしに変えていただきたいと思うのであります。表現のセンスアップは、センス
のある方におまかせいたします。

634初心者:2011/11/07(月) 13:57:27 ID:hogyfr1M
生長の家って、意外と心情主義的でありますよね。みんなおなじでなければ
ならない。こうした心情主義が蔓延しているような気がいたします。

自分は信が第一と考えるから、ほかのみんなも信が第一でなければならない。
悪しき心情主義の代表例でありますよね。

635「訊け」管理人:2011/11/07(月) 14:27:58 ID:UodBcqiE
>トキさま

>生長の家は、谷口雅春先生が始められた信仰の研鑽と宣布が目的であり、
>その中で中核になるのが「生命の実相」であることに疑いの余地はありません。教団も裁判でそう
>述べています。これが信徒の手に届かなくなったのは、どういう観点から見ても重大事です。

 チェスト!!!


>校長
>役さん

>真理とはなんでありましょう。訊けさまが、「真理の言葉をブログに書く」
>といっておられますので、まずは、「真理」とは何かということについて、訊け
>さまに定義していただくのがよいかと存じます。

 ぎゃー!!!

 しばし時間を(笑)

636「訊け」管理人:2011/11/07(月) 14:30:18 ID:UodBcqiE

>さくらマネ

―――――――――――――――――――――――――――――
ややイケメンの、訊けかんとく
―――――――――――――――――――――――――――――

 ええっと重要な話ですので強調致しますが、ここは、「ややイケメン」で
はなく、「やや、スーパーウルトライケメンな監督」にご修正願います。
「やや」という言葉の懸る、分母が小さい、そんな問題が・・・(中略)・・・以下、
本題に入ります(笑)

 ・・・なお事前にお断りを致しておきますが、ここはTSBであります。その
趣旨を理解したうえで対話をする所存です。つまり、たとえば以下で、貴女
に疑問を呈する場面も出てこようかと思いますがそれは、単なる反論なので
はなく、「貴女の反応を見て真意を理解せんがため」という意図があるため、
であります。他意はありませんし、まして攻撃意図はございません。その点
をご確認ください(いきなり斬り付けるなんてこと、私は好みません)


――――――――――――――――――――――――――――――――
それはさておきまして・・
今回の件、これは、信徒が教団に対する不信感の決定的根拠にするのに、
充分な理由になると、危惧を感じるところです、。
――――――――――――――――――――――――――――――――

 たぶんそうなるでしょう。たとえばもう本流掲示板、お祭り騒ぎになって
はいないかと危惧します。(まあ私、かの掲示板に接続するとPC不調になる
ため読めないんですがw)

――――――――――――――――――――――――――――――――
つまり、この事実に関連する情報、(独り歩きも始める情報も含め)
例にもれず、過剰な反応を、またもや生むことになることとなると思いますし、
その反応自体もまた、おそらく、
問題を大きくする原因になっていくだろうとも思われます・。
――――――――――――――――――――――――――――――――

 その通りでありましょう。しかし今回の問題は「事実のみ」でも結構な衝
撃のような気がします。つまり今までの問題と違い、普段は過剰反応しない
人たちでも騒ぐのではないか?そんな懸念はあります。
 喩え話が不適切ですが、たとえば美女が体育を休みますと男子は「あいつ
●●日か?」と(ドキドキしながらw)噂をするわけです。これは、デマの
可能性もあるわけであり、そしてデマ可能性である限りそこには、「男子、
黙りなさい!」な弁護人も登場する余地が、生まれるわけです。
 しかしたとえば「本当に●●日だった!」な事実を、先生が発表すればそ
れは、デマではなくなります。(そんな教師、いないがw)その後は「事実」
を基にした反応が生まれましょう。
 今回の件(『生命の實相』講義禁止)はこれ、デマにして扇動する必要も
ないくらいに、衝撃があります。「あの子、体育休んだけど、●●日じゃな
いわよ!」「野球部の男子、黙りなさい!」な弁護人、生まれる余地が無い
気がしてます。扇動者は「扇動の手間も省けて」大喜びではないでしょうか。
(てか、「喩え話が下手過ぎてすみません」なのですが)

つづく!

637「訊け」管理人:2011/11/07(月) 14:33:21 ID:UodBcqiE
――――――――――――――――――――――――――――――――
もうすでに、過剰反応は起こっておりますので、それが加速するだけの
こととは思いますが、。
物事を複雑にしていく過剰反応が、私には、いまだにとても厄介に感じ
てしまいます。
――――――――――――――――――――――――――――――――

 ・・・済みません。それは私のことだと思います。言い訳しますと変な祭
りに参加した直後でありまして「戦闘モード全開」状態での書き込みであり
ました。(この平成の御世に「朝敵♪討つべし♪」「関東サムライ、討つは
薩軍♪」な歌を、歌っていた直後の投稿でした)
 しかしながら同時に、こうも考えました。「削除依頼、これはしない」と。
やはりなにか、個人的に怒りを覚える事態であったから、かもしれません。
 なお後日、考えが変わりましたらトキさんに、「削除してください」とお
願いすると思います。

――――――――――――――――――――――――――――――――
雅宣総裁率いる現教団は、生長の家の命ともいえる、生命の實相を抹殺する。
・・というような。
今までの経緯からしても、この情報は独り歩きをするのに充分な内容ですが、
感情的な反応が、またさらに、分裂を大きくしていくような気がしています。
――――――――――――――――――――――――――――――――

 ただ現在、組織部外者による愚生妄想談ではこれ、「そのとおりなのでは?」
になります。疑いが強いのです。つまり、雅宣総裁は本当に『生命の實相』
を抹殺にかかっておられるのではないか、そんな疑念は拭えない現状です。
 無論、「抹殺」という言葉は強すぎかもしれませんがそこは、組織部外者
の身にはなんとも判断がつきません。まあ、抹殺ではないにせよ、「『生命
の實相』をスキップしようとされておられる?」な疑念は、ございますでし
ょうかね。


――――――――――――――――――――――――――――――――
訊けさま
わたしのような一信徒が、このような重大な事柄に意見を述べようとすることは、
難しい、と改めて感じています、
情報を冷静に把握して、みなさまともに、考え話していく大切なことですよね、
――――――――――――――――――――――――――――――――

 いやー、本当にそうでしょうね。本当に難しい問題です。貴女のように組
織が判り、かつ聡明な方すらそうなのですから、私にはなおのこと「難しい」
わけです。
 私が不調和なマンガ(AA)を掲載して、現教団を茶化しました。そしてそ
の反応は(志恩さま等以外)あまり無かったわけですが、それで私は「小さ
い問題を大きくしちゃった?オレ?」な疑いを、自分に対して持っていたと
ころでもあったわけです。ところが・・・・我がメアド宛には「よくぞ言っ
てくださった!」な激励文、結構寄せられております。皆さん、言葉に気を
つけて、考えをまとめられておられる現在なのでしょう。現時点で騒いでい
るのはこの、組織にしがらみの無い私だけですが、これから噴出してくるか
もしれませんね。

 ただその際も「情報を冷静に把握して」が大前提になりますが。云うまで
もないですけどね。

638「訊け」管理人:2011/11/07(月) 14:35:19 ID:UodBcqiE
――――――――――――――――――――――――――――――――
わたしの問題意識に関連して考えますなら、
まず、根本的に、生長の家が、言葉を使った運動であること、
これが何を意味するのか
雅春先生のお悟りや教えの根本は、本物でありますが、
その運動の展開は、「言葉による運動」であったのは、何を意味するのか。
今まで、初心者さまとの対話でも、焦点になってきたことだと思っています。
――――――――――――――――――――――――――――――――

 そうですね。私もそのやり取りには、尋常ならざる関心を持って注目して
おります。ただしなかなか私の頭では付いていくことが難しく、参入できま
せん(すんもはんw長州DNAの校長さあw)

 ただ一点だけツラツラ語るならば・・・いわゆる〝本流掲示板的なるもの〟
と、〝雅春先生の御教〟とはこれ、「 全 く 別 物 」というのが私見
です。
 一例を挙げるならば「書き込み禁止にしました」なる処置、これは雅春先
生の御教が「暴走している」のでは〝ありません〟。この処置はあくまでも、
御教の「暴走」と称されるものではなく、「曲解」(「誤読」)と表する方
が適切だと考えております。重要なので念を押しますが、雅春先生の御教に
感化されておられれば、「あんな反応はないよね?」と思いますし、極論め
いた印象談になるかもしれませんが、「御教が〝真に暴走〟していれば、大
調和する」と確信します。(〝御教えの暴走〟って表現は、ややヘンとは申
せ)

――――――――――――――――――――――――――――――――
はたして、「生命の實相」を、
このような形で、頑な迄に守ることは、
まず、根本的に、どこに意味があると思っているのか、
わたしは問いたくなってしまうというところがあるのです・。
この疑問は、ちょっと、簡単に言い切れないところですが、・・
――――――――――――――――――――――――――――――――

 ここは私が誤読してるかもしれませんが、「ああさくらマネ、おはんまで
そぎゃんこと言うトか(寂しかあ)」てな感じでしょうか(笑)
 でもまあ、真摯な求道者ならばそんな段階、必ず通るのでしょう。あの雅
春先生だってかつては、『神を審判く』なんて御著書、お書きになられたわ
けですからね。善悪二現論で世の中を深く悲しく嘆かれたわけですから。

 なお、「このような形で、頑な迄に守ることは、」の〝このような〟です
が、これが指す内容はマイナスなものでありましょう。しかしその、マイナ
スな要素ってのは(聡明な貴女ならお気づきだと思いますが)それ、雅春先
生の御教とは、別のものではないでしょうか?信徒側の曲解暴走を指し示し
てはいないでしょうか?(つまり下手人は『生命の實相』に〝非ず〟なので
は?)


――――――――――――――――――――――――――――――――
生長の家の教えの神髄は、どこにあるのでしょう。
「生命の實相」は、裁判という世俗なものに落としてまで守るべきもの
なのでしょうか、
――――――――――――――――――――――――――――――――

 貴女ご主張は「裁判沙汰にまでなった。故に破棄する」という、そんな意
味では〝ない〟とは思っています。その前提で以下も拝読します。


――――――――――――――――――――――――――――――――
一番大切にされているのは、信徒の信仰ですか、それとも、組織の事情ですか?
言葉による、宗教運動とは、どんな意味があり、どんな結果をもたらしてきたのでしょうか。
「生命の實相」を失った、生長の家の「信仰運動」とは、どんな運動になりますか。
この点は、訊けさまとは、違う視点かもしれません・・。
――――――――――――――――――――――――――――――――

 トキさん曰くですが生長の家、組織としてはこんな感じで、形成されたよ
うですね。雅春先生と輝子先生が(入金率10%の中で懸命に)雑誌発行を
継続され、その感動に包まれた方々が自然発生的に〝集まってこられた〟と。
 この、「自然に集まって出来た組織」という事実ですが、これは結構、貴
女にも良き思考の補助線となりはしないだろうか?信仰歴の後輩の身で僭越
ながら、そのようなことを思う次第です。

639「訊け」管理人:2011/11/07(月) 14:37:13 ID:UodBcqiE
――――――――――――――――――――――――――――――――
そして、現教団は、大きな流れの中で、もしかしたら、
「生命の實相」を失うべくして失っていく。
そのようなこともあるかもしれません、
それは、善し悪しの判断を加えなければ、
なるべくしてなっていくような流れ、なのかもしれません・・、
――――――――――――――――――――――――――――――――


 うーん・・・ここもきっと、私が誤読しているでしょうけども私見を述べ
ます。そして敢えて、愚見真意を了解して頂く為、極論めいたことを述べま
す。

 ・・・オフィスが森に移るは、〝よし〟としましょう。絵手紙や自殺問題
よりもCO2重視、これも〝よし〟としましょう。宇治の竹林が切られるのも、
〝よし〟としましょう。さらには、教団のマークが変更されるのも〝よし〟
としましょう。服部先生のブロンズ像が、破壊されても〝よし〟としましょ
う。長崎の本山建物が消滅してしまっても、〝よし〟としましょう。ですが
・・・『生命の實相』だけは、失ってはならぬのではなかろうかと。「大き
な流れの中で」失われるものがあろうとも、この神殿だけは死守せねば、な
らぬのではなかろうかと。

――――――――――――――――――――――――――――――――
信徒は、なんらかの理想を求めて、その理想を叶えるためという理由で、
組織に関わってはいけないということを、最近さらに感じます。
組織に、期待ばかりを求めては、いけないということを感じます。
逆に組織に影響を与えるような思いで、自分の信仰や行動を考えていかなくてはならないと思うようになりました、
――――――――――――――――――――――――――――――――

 その求める「理想」とはなになのか?それ次第なのでしょう。そして以下
は余談とは申せこれ、「入り口ではどうしても、現世利益が必要」となろう
かと(貴女がこの視点、外しているとは思いませんが。)わたしのような凡
夫では、現世利益なき宗教など意味をなしません。同時に「現世利益を求め
るな!そのほうが余計に現象界が整う」の意味も了解できつつある、信仰五
年目の秋でもあります。信徒は問題の解決、これを求めてくるでしょう。そ
れに対して「余裕で応え」ながら、「現世利益・・・これよりも信仰の方が
大事ですよね?」なことをなにか絶妙のタイミングで示してくれる組織なら
ば、最高だと考えます。(難しいとは申せ)


――――――――――――――――――――――――――――――――
それは、私の問題意識に関連しますなら・・
「生命の實相」を、頑なに守ることには、限定されてはいない気がしているのですよ、。
――――――――――――――――――――――――――――――――

 繰返しになりますが、これが貴女の本音であるとすれば・・・残念な気が
して参ります。「自分側の誤解であって欲しい」そう思えてなりません。
その「頑な」の意味されるところが不明とは申せ、頑なに守るものが生長の
家に於いて「『生命の實相』以外に、なにかあるだろうか」というのが本音
のところであります。

余談

 というか提案なんですが、榎本恵吾先生の『弟子像』・・・これを拝読し
て頂けないかなあ、と。貴女が組織に抱かれておられる疑問ですが、榎本先
生も同質のところで悩まれておられたような気がします。問題意識の全部が
全部、貴女と恵吾先生のものが一緒とは申しませんが、かなり良質のヒント
が得られるのではなかろうかと・・・これまた信仰の先輩に対し僭越ながら、
そのように考える次第です。

<了>

640さくら:2011/11/07(月) 17:31:20 ID:M/Y5HBTg
トキさま

トキさまは、このような状況になっても、
これからも、和解を、提唱いたしますか?

怒りの声を、信徒の本音を、
声をあげて、教団に訴えるれば、いいのですよね。
はじめから、そうすれば、
良かったのです。
本音なんて、いくらでも、
言えば良かったのですよ。
なぜ、こうなるまで、
押さえつけられ、誤魔化され、
生命の實相を、失うまでの状況を、止めることができない、
そういう、組織なのですか?
だれも、本当に、止められなかったのですか?
生命の實相を、
失うとは、なんですか?

今までの信徒の声をなんだと思っていたのですか?
学ぶ会だの、復活だの、
分派を起こして、
本当にそれは、信徒の信仰を、
守るためだったのですか?
本当ですか?
この状況は、雅宣総裁や本部幹部だけが望んだのですか?

この状況を選択したのは、
生命の實相を同じく読み、
神想観をし、
生長の家の信仰を同じく持った、方々ですよね。

どちらにも、反省を求める、ですか。

生長の家では、信仰が足りなかったと、反省することは、無いように聞きましたが、
では、なにを、だれが、反省するのでしょうか。

生長の家への、不信感。
ますます、はっきりしてくると思いますよね。

どちらも、誰でも、どこまでも、
自分の信念を、貫いたらよいのですよ。
「生命の實相」なく、信仰運動をしたらいいのですよ、
「生命の實相」を頑なに守りながら、
それだけを、伝えていったらいいのですよ。

でも、これ以上、組織の都合で、
信徒の信仰を、惑わすようなことだけは、
やめて頂きたいですね。

私は、どちらにしろ、もともと、組織に対して
信仰への、期待もありませんでしたので、
冷たい言い方かもしれませんが、
組織が、これからどうなるか、
観察するような、それだけの
気持ちでいます。


トキさまへの、怒りではありません、
が、少し力の入った表現であれば、
失礼をお許し下さいますように…

641さくら:2011/11/07(月) 17:51:34 ID:M/Y5HBTg
微妙にイケメンで、
スーパーお祭り男の、
訊けかんとく。
(ごめんなさい、これ以上、分母、むり、笑)

かなり、曖昧なわたしの表現、
かんとくには、さぞや、
気持ちの悪いことでしたでしょう。
それを丁寧に返信して下さり、ありがとうございます。
とうとう、高名なる、「谷口雅春に訊け」ブログ管理人さまが、
ボードにツッコミをいれてこられました。
わたしは、ある程度は、●●ネタOKな女子、
ということで、そんなことは、
全く気にしないのですが、

あなたのような、
生長の家に対して、
真っ直ぐな信仰をもった方に対峙するのが、
ここでは、何といいますか。

色んな意味で辛いことのように、感じる面があります。

…意味分かりませんね。

時間の都合があり、また後で、
書きます。

642初心者:2011/11/07(月) 18:20:33 ID:hogyfr1M
さくらちゃんへ

この掲示板にもたしかにいますね。何をいっても言葉がつうじない人。自分の
いいたいことだけをいいづける人。

いましたよ、青年会にも。かたくなに自分の信念だけを持っていて、まわりが
何をいっても、自分のいいたいことだけをいいづける人。まるで社会病質者の
ような人でした。

こういう人を、宗教はつくりだしてしまうんですね。『生命の實相』を読んで、こういう
人間ができてしまうんですよ。もちろん、まともな人もいますよ。だけど、まともで
ない人も生み出してしまう。それが宗教であり、『生命の實相』でもあったんですよね。

宗教はこわいですよ。救済を必要とした、人類の失敗の象徴ですよ。

わかっている人は、たぶん大勢いる。言葉のつうじない人には、永久にわからない。

643トキ:2011/11/07(月) 18:46:25 ID:BAKVEHUo
>>640

さくら様

 個人的な回想になりますが、私が青年会時代にも、激しい対立がありました。
そのおかげで、小生はずいぶんと虐められました。

 しかし、その後、「和解をする」と決意をし、話し合いをし、互いの立場を
思いやるようにすると、自然と対立は消滅し、憎んでいた人とも再び友達になり
ました。後になると、そういう事があったなあ、という程度の感じです。

 今は、本流復活派も教団側も頭に血が上っている状態です。また、聖典の事も
あり、教団自体も危ない状態です。が、最終的には、和解できると信じています。
 カルトのスパイならともかく、生長の家の人間なら、きっと和解を望んでいる
と思いますから。

 それまでは、少しいろんな事があるでしょうが、それは覚悟して、いきたいと
思います。

合掌 ありがとうございます

644うのはな:2011/11/07(月) 19:10:04 ID:iM0b0bt6
>>642

失礼ですが、初心者さんは以前ご自分のブログでも、ここでも、
さくらちゃんと延々と対話なさってと思いますが、またそういうブログを
再開されたらどうでしょうか?

645さくら:2011/11/07(月) 19:20:23 ID:M/Y5HBTg
>640
感情的になり、トキさまには、
失礼いたしました。
トキさまの、信念、理解いたしました。
これから信徒がどう考えていくべきか、
どうぞ、共に考え、ご指導下さいますよう、
お願いいたします。
私も、もう少し本気で考えますから。

わたしはカルトスパイでしたので、
大変組織に不信感をいだいております。
それを、認めます。


静かないじわるは、身に応えますね、

笑。

ここは、共生すべき堪え難き、真実を、求める場となりそうです。

646初心者:2011/11/07(月) 19:26:33 ID:hogyfr1M
うのはなさま

なかなかに鋭いことをおっしゃいますね。いずれ、ということにしておきましょう。

647初心者:2011/11/07(月) 19:37:56 ID:hogyfr1M
トキ様

わたくしは、雅春先生は、宗教というものを必要としない古事記的世界への
回帰を模索しておられたとおもうのですが、いかがでありましょう。

宗教を必要とする世界にたいして、雅春先生は異常性を感じておられたと
おもうのでありますが、いかがでありましょうか。

もしそうであるとすれば、『生命の實相』に固執するということは、宗教を必要と
する異常な世界に固執することにもつながりかねないような気がいたします。
『生命の實相』でさえも必要としない世界。そうした世界への回帰を、雅春先生は
模索しておられたように、わたくしには感じられて仕方がないのであります。

648トキ:2011/11/07(月) 20:32:36 ID:BAKVEHUo
>>645

さくら様

 コメント、ありがとうございました。さくら様の事をさしたつもりはなかったの
ですが、気分を害されたら深くお詫び申し上げます。
 現在のさくら様は、立派な生長の家の人ですから、私はその件をすっかり忘却
しておりました。いや、すみませんでした。

合掌 ありがとうございます

649ももんが:2011/11/07(月) 21:28:31 ID:XXCuaQns
皆様、ありがとうございます。

今日も、1日、お仕事(愛行)お疲れ様でした。また、明日も、頑張って、神様に、与えらた、お仕事を、頑張っていきましょ!

さて、今日は、私が、強化部の早朝行事に、毎週日曜日に、参加して、いた、時のお話をします。


早朝行事は、毎日やってますが、私は、日曜日のみ、出席してました。朝、6時〜8時位まで、ですが、神想観、聖経読呪、地方講師の方の講話、朝の感謝行(お掃除)、笑いの体操、と、充実してます。


その中で、『生長の家・信徒行持要目』を、全員で、読み上げます。

1、天地一切の物に、感謝すべし

2、そのままの心を大切にすべし
3、何事にも真心をだすべし
4一切の人に物に事に行き届くべし。
5常に人と事物との光明面を見て暗黒面を見るべからず
6常に自我を死に切るべし
7人生を神生となし常に必勝を信じて邁進すべし。
8毎日一回は必ず神想観を実修して、心を光明化すべし。

以上が、『生長の家の信徒』あるいわ、生長の家を信仰する人が、守るべき、通常の宗教なら、戒律ですが、生長の家は、比較的、優しいので、『戒め』や『心得』ですね。これを、なるべく、普段の生活に取り入れ、守りながら、生活するのです。神想観しないで良いみたいに、言って、方や、やらない方、速やか、神想観を実修しましょう。

後、もう1つ、早朝行事での、思い出は、ある、御高齢 の地方講師の先生で、大変、ご立派、宗教生活ぶり、改めて、頭の下がる、思いでした。その、先生の御年齢は、86才で、小さな、リホーム会社会長さんです。

その方の凄いのは、毎朝3時起きて、シャワールームで、『禊(みそぎ)』を、して、聖経をあげてから、神想観をして、朝仕事に、入るそうです。その、生活を、もう、30年以上、毎日、休まず、続けて、こられたとの、事でした。その時、使われて、いた、テキストが、『生長の家誌・第1号』から、日時計日記のお話や、谷口雅春先生のお話などをされてました。

帰り際に、先生と、少しお話する機会が、あり、先生となんだか、大変、ウマが合い、その日使った『生長の家誌・第1号』のテキストを譲り受けました。先生のアンダーラインの後が、あり、今も、大切に、読んで、います。


仕事を持ち、毎日欠かさず神想観をする、その、姿勢こそ、宗教を実践者として、お手本のだ思いました。


忙しいときは、つい、出来ない、時も、ありがちですが、なるべく、継続出来るよう、頑張って行きたいですね。


それでは、皆様が、幸せで、有りますように、ありがとうございます。

650トキ:2011/11/07(月) 21:31:54 ID:BAKVEHUo
>>647


初心者様

 コメント、ありがとうございます。いつも知性的で、優れたご投稿をして下さり、勉強に
なります。心から感謝申し上げます。ご指摘の件も優れた内容だと感嘆しました。

 個人的な印象では、谷口雅春先生の発想は、現在のスピリチュアルイズムに似ていると感じて
おります。例えば、地方講師は、別に職業を持たなければならない、という規定などを見ている
と、従来の宗教組織の形骸化を谷口雅春先生は警戒されたと思っています。その点、初心者様の
ご指摘は鋭いものがあり、さすがに傾聴に値すると思っています。

 ただ、その問題と、生命の実相などの聖典の裁判問題とは、別に考えないといけない問題かと
考えています。現在、谷口雅春先生の教えは唯神実相哲学として一つの体系を持ち、また宗教法人
生長の家は100万人以上の信徒が在籍し、その勢力範囲は、南米、欧州、東アジアにも及んでお
ります。大変な数の利害関係者が存在しているのです。
 このような現状を考えると、生長の家という信仰、そしてその中核になる「生命の実相」は、
教団や社会事業団はもちろん、著者の谷口雅春先生の手からも離れた存在だと言えるでしょう。
谷口雅春先生が、版権を社会事業団に寄付されたのは、生命の実相が一個人の私有物ではない、
既に社会的な存在になった、というお考えが背景にあったと拝察しております。

 しかし、今回、裁判になり、結果、生命の実相の在庫がなくなった件は、単に出版社である
日本教文社(と実質上の所有者である生長の家教団指導部)と著作権の法律上の保持者である
生長の家社会事業団(と心情を共有する人達)との感情的な齟齬によるものが原因です。このような
経過で、生命の実相や甘露の法雨が一時的とは言え、信徒へ頒布されないのは、訴訟当事者である
両者を除けば、他の利害関係者、特に信徒には納得のいくものではありません。

 確かに、過去の生長の家の運動では、行き過ぎもあり、間違いもありました。その点は私も異存
はなく、冷静に検証をされるべきだと信じております。が、それは組織の指導者や運動方針の
問題に帰結すべきで、聖典の存在とは全く違う問題だと思っています。聖典自体は、過去も現在も
信徒の心のよりどころであり、多くの人が救われ、また現在も沢山の人が必要としている存在であ
ります。

 今回、聖典が発端になり争いが生じた事も悲しみですが、一部の人達の間の問題で聖典が信徒の
手に入らない事態に至ったのは、やはり現場の信徒には納得の行かない話かと思います。今回の
訴訟についても、両当事者とも言い分があり、それぞれに理解はできます。が、当事者以外の
多くの利害関係人の存在を考えると、両者とも社会的な責任という観点がかけているような印象
は持っております。

 ただ、両者ともに、すぐれた知性と人格を持った、尊敬できる人達であり、共通の信仰を持つ
人同士ですから、話し合いを繰り返せば、双方とも納得の出来る解決が可能だと信じております。

 以上は、現場で活動する「三下」の会員である私のミクロの視点から見た感想であり、至らない点
が多々あるのは、お許し下さい。

 では、今後とも、宜しくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

651「訊け」:2011/11/07(月) 21:42:15 ID:UodBcqiE

>校長どの

 横槍かもしれませんが私見をツラツラと。

>宗教を必要とする世界にたいして、雅春先生は異常性を感じておられたと
>おもうのでありますが、いかがでありましょうか。

 そう思われる記述はたしかにありますよね。生長の家もこれ、税金対策
のために「宗教法人」格、取得したんではありませんでしたっけ?(戦時
中になにか、文部省から指示があったとの記述を読んだ記憶があります)
 また雅春先生はたしか、「勉強会や研究会のようなものにしたかった」な
んて記述もありましたよね。ですんで〝宗教団体〟を必要とするような世の中
には、異常性を感じておられたと、言えなくは無いのかもしれません。ただ、


>もしそうであるとすれば、『生命の實相』に固執するということは、宗教を必要と
>する異常な世界に固執することにもつながりかねないような気がいたします。

 『生命の實相』に固執するということは、「神の祝福を認める」という意味
になりはしないかと思います。宗教団体は(ひょっとすると)必要ないとお考え
だったかもしれませんが、「諸君はこれだけ、神から生かされた存在なのだ」
といったことに振り向く機会(=『生命の實相』拝読)までも、否定されては
おられない気がします。

>『生命の實相』でさえも必要としない世界。そうした世界への回帰を、雅春先生は
>模索しておられたように、わたくしには感じられて仕方がないのであります。

 そうなれば最高でしょうね。ただ「知恵の果」を食べてしまった人類を相手
にするならばやはり・・・『生命の實相』は必要となるでしょう。最終的に
不要になるその日までは。

 これが私見になりましょうか。不完全ですみません。

652ももんが:2011/11/08(火) 00:01:42 ID:XXCuaQns
>>650

トキ様、合掌、拝。

トキ様、レス、読ませて、頂きました。大変ですね、色々、御言葉に、出来ない、ご苦労、御有りだと、心底拝察、申し上げます。


皆様の、ご苦労も、きっと、神様の何らから、知恵の現れなのだから、皆様の御苦労も、必ずや、報われる日が、来ます。


私も、一信徒として、神想観中に、必ず、元の、生長の家に、成り、トキ様が、言われいる『和解』出来るようになると、確信しております。


その為に、生長の家の信仰心のある信徒は、利害を越えて、神想観して、『和解』の為、祈るのが、神様へ道、生長の家の本道と、私、個人は、思います。



私が、良く拝聴する、雅春先生の講話テープで、雅春先生は、大東亜戦争中、生長の家で、『皇軍必勝、必勝生還』を、全国の信徒に、呼び掛けたそうですが、戦前は、信徒数が足らず、残念ながら、この、祈りは、国民の潜在意識までには、と届かず、逆に、お昼のラジオで流していた『海ゆかば』を当時、政府は、大々的に国民に歌わせていたことに、当時、生長の家は、反対していたと、お話されて、いました。雅春先生は、講話の中で、祈りの力で、全体意識さえ変え事が、出来る事のお話をされていました。


だから、トキ様、お力落とさず、頑張って下さいませ。

トキ様が、幸せで、有りますように、合掌、拝。
ありがとうございます。

653さくら:2011/11/08(火) 00:12:53 ID:M/Y5HBTg
トキさま
わたしは、本当のことを言われたり、
静かないじわるをされたりすることには、
気分を害したことは、ありませんよ。

本当のことを知りたいときに、だれも本当のことを知ろうともしなかったり、
本当のことを語ろうとはしないときに、
苛立ちが表にでてしまいます。気をつけますね。
未熟者です。…あ、生長の家では、言わない言葉ですね、
失礼しました。

私が、立派な生長の家の人、ということだけは、
違っています。

今回の裁判のことは、トキさまが書かれている様に、
やはり、一部の組織のご事情や、相互の感情的な齟齬が、
原因なんですね。

よく分かりました。


今後とも、よろしくお願いいたします。

654<削除>:<削除>
<削除>

655【はあ?】「訊け」【ええ?】:2011/11/08(火) 07:51:05 ID:D0Kb5yw.

>萌えのおくりびと

 削除依頼してもいいですか、ご主人さま?

656初心者:2011/11/08(火) 08:05:48 ID:hogyfr1M
神想観をつづけていたはずの生長の家に亀裂が走った。
その亀裂を、またしても神想観だけで修復しようとする。
宗教に反省はなく、おなじことのくり返しですね。

657初心者:2011/11/08(火) 08:21:13 ID:hogyfr1M
うのはなさま

たしかどこかで、わたくしのことを書いておられましたね。いいたいことだけを
いう人。この発言にかんして書いておられたような気がいたします。

どこでしたか、ちょっと見つかりませんので、ここで書かせていただくことにいたします。

わたくしが述べましたのは、いいたいことだけをいう人ではなく、人の話を聞かずに
いいたいことだけをいう人、という意味でする。

人の話を聞きながら、いいたいことをいうのは、よいのではありませんか。

658役行者:2011/11/08(火) 08:47:07 ID:odX3izAU


 >>633

 >初心者さま


 >雅春先生の教えの劣化ということであ りますが、これは、雅春先生の教え じたいが劣化するという意味ではありません 対抗勢力が日々、進化を遂げて 批判力を強めているということであります。 宗教にたいする批判は、より精密化し、高度化 していますよね。それにたいして 雅春先生の教えは何も変わらないのであります から、相対的な尺度でいえば 日々劣化している、ということがいえるような 気がするのであります。<

 
  真理というのは、弁証法的にアウフヘーベンされ、無限大に進化向上してゆく。このような存在かと存じます。ですから、常に、歓喜とともに進化向上してゆきたいものです。
 真理探求のシンクタンクが生長の家に必要なのかもしれませんね。


 >神は完全であるから、神の子である人間も完全 でなければならない。おなじことを いうにしても、もっと表現を現代的な言いまわ しに変えて、センスアップしていただき たいとおもうところであります。 神は完全であるにしても、神の子が完全である べきかどうかは選択の問題である から、完全でありたいと願うものだけが完全で あろうと努めればよい。せめて、こうした 言いまわしに変えていただきたいと思うのであ ります。表現のセンスアップは、センス のある方におまかせいたします<


 と、初心者さまが仰られております。対処すべきは、広報の関係者になるのかな!?

 確かに、表現方法は、常にリフレッシュしてゆく必要性があるかと、私も存じます。

 退化しているか、進化しているか、は別として、現代に相応しい、真理探求・言葉の表現方法は、大切なことだとぞんじます。

 がしかし、そのことと、広くいいますと、昔書かれた仏典、聖書、生命の実相は、現代に必要ない書物だと、割り切ることとは、別問題だと思います。

 特に、生命の実相は、
時代背景は別として、聖書、仏典より、わかりやすく解説してくれているところが随所に見当たるからです。

 このような時代には、尚更、必要とされる書物かと存じます。
 それにプラス、これからますます、我々の手により、真理のアウフヘーベン化は必要とされるのではないかとぞんじます。

659さくらモノローグ。:2011/11/08(火) 08:50:45 ID:M/Y5HBTg
さくらが寝ている間に、ボードには、メイドカフェ、まで
出来たのでございますか。
たえがたき真実に相応しく、なんでもあり、ということにいたしましょう。

660初心者:2011/11/08(火) 08:59:48 ID:hogyfr1M
トキ様

わたくしは、みなさまがなぜ、『生命の實相』を重要視なさるのか、正直いって
その理由が理解できずにおりました。わたくしにとって、『生命の實相』は、それほど
重要ではないのですよね。なぜかといえば、『生命の實相』には、わたくしの知りたい
ことが、ほとんど何も書かれていないからであります。

けっきょく、みなさまとわたくしとでは、求めているものが違っているのですよね。
わたくしが求めているのは真理です。真理に救済を求めてはならない。これも
正しいことだと考えています。

みなさまが求めていられるのは、救済ですね。そして真理に救済を求めようとして
おられるのでありますね。このあたりに、根本的な考え方の違いがあるような気が
いたします。

『生命の實相』には、救済の言葉がちりばめられているのでありましょうね。ですが、
わたくしの求める真理は何も書かれていない。それはたしかなことであります。

わたくしが求める真理とは、物質世界の成り立ち、人の世の成り立ち、言葉の
成り立ち、人の心の成り立ち、こうした成り立ちを知るということが、わたくしにとっての
真理を知る、ということになるのだろうという気がしています。

わたくしは、神想観はいたしません。神想観を実習することで、たしかに救済は得られ
るかもしれませんが、物質世界や言葉の成り立ちについての説明は、おそらく得られ
ないと考えるからであります(もし得られるというのであれば、わたくしが納得できる
形で、それぞれの成り立ちを説明していただきますことをお願いいたします。ただし、相当に深く、詳しく説明していただかなければ、とうてい納得できるものではありません。生長の家で語られている程度の説明は、まったく意味がありません)。

神想観よりも重要であるのは、ドリーミングですね。それとフロンティア。以前、
わたくしは、神想観意識状態という言葉を使いましたが、これは右脳意識状態と
言い換えたほうがよさそうです。ドリーミングは、世界の成り立ちを実感できる、
という意味では、神想観よりもすぐれた方法であると、わたくしは考えております。

以上のように、わたくしにとって、『生命の實相』は、重要な書籍ということには
なり得ません。このあたりが、みなさま方とは、根本的に考え方が異なっている
ところだろうという気がいたしております。ですから、教団から『生命の實相』が
消えたとしても、それはそれで、少なくともわたくしにとりましては、なんの問題に
もならない、ということになってくるのでありますね。

まずは、真理と救済の混同をやめること。これが重要であります。救済を求めて
おられる方々は、救済を求めていかれればよろしいのであります。ただ、それを
真理と混同することはやめていただきたい。真理と救済を結びつけることが、
問題を大きくしてしまうのでありますよ。

総裁先生が、『生命の實相』は必要ないと判断されたとすれば、それは、現教団が、
救済活動から離脱するということを表明されたものと考えます。求めるのは真理。
そういうことであるのかもしれませんね。

それと、救済を求めているかぎり、真理にとどくことはないと、ひと言、このように
いっておきたいとおもいます。それが真理であるとおもえていても、真理でない
可能性が高いとおもいます。

661さくら:2011/11/08(火) 09:08:03 ID:M/Y5HBTg
トキさま、初心者さま、訊けさま、役行者さま、みなさま。

合掌ありがとうございます。
わたしは、生命の實相を、頑なまでに守る必要があるのか、という、
と誤解を招く様な表現を使いましたこと、失礼しました。

私のテーマとして、ここで、いざこざの原因の、表面的ではない、
もっと本質的なものは、どこから来るのか考えたいと、このボードをお借りしてきました。

宗教組織の弊害、生長の家という、宗教団体の問題、

宗教が意味する、信仰とは何か、真理とは、救済とは。

正直言いまして、わたし自身には、確信に似たある信仰の核となるものがすでにあり、
これは、どんな教えにも、
どんな宗教的権威にも、
どんな宗教的真理にも、
どんな信仰の先輩にも、
どんな現象の出来事にも、
犯されることのない世界であると、感じているものがあります。
この一点だけは、譲れないものが、わたしの中でふつふつと、日々、湧いて来る想いです。
それだけで、わたしは、どんなに日々満たされているか、それは表現しきれませんが、
この想いを感じると、どんな真理の言葉も、僭越ながら、陳腐に、感じるほどです。

わたしの、その信仰の核となるものは、宗教組織や、真理の書を、全く離れた時に、おとずれたものでした。

正直言いまして、既存の宗教から、離れれば離れるほど、
その核は、育ち、わたしは満たされるようになりました。

この確信があったからこそ、
わたしは、また、生長の家に戻りました。
それは、生長の家が、ご縁が深く、また良心的な、善良なる、宗教でありましたし、
そのなかでなら、わたしがずっと疑問に思っていた、
組織の実態を、宗教団体の本質的問題を、話したり、考えることができると、思ったからです。

生命の實相や、榎本先生のご著書にも触れたとき、
真理の真髄に触れる想いに打たれますし、
その言葉に触れる度に、新たに学ぶべきことがあることを、感じています。

ただ、わたし個人的には、
それは、わたしの辿った道ではなく、わたしの表現ではない、
という、
本当に、ただ、それだけの理由で、静かに執着を手放している、そういうことも、感じておりました。

わたしにとって、真理、真実とは、
結局、神を宿したこの不完全な自分が生きている、という、
その事実だけに、集約されている気がしておりますので、そのような拙い真理への想いがありますので。

誤解を招く様な表現をしまして、
生長の家の生命の實相の問題に対する発言として、相応しくないものとなり失礼いたしました。

このボードで、はっきりしましたのは、
やはり、自分の言葉を見つける為に、学ばなければいけないということ、
また、ここでは、言い切れないことに、正直、少し苦痛を感じることも多くなりました。

これからも、こちらで学ばせて頂くことに変わりはありませんが、
わたしは、わたしのテーマにおいては、納得し、スティックを、今、置きたいと思っております。

お付き合い頂いた方、
他の板においても理解を示して下さった方、
参加して下さった方、
色々な学びや気づきを与えて下さった方、
大変、お気遣いを頂きまして、
心から感謝しております。

話はどうか、このままみなさま、お続けください。

わたくしは、ボードの続きを、
初心者さまにして頂くことを、提案いたしますが、いかがでしょうか。

662初心者:2011/11/08(火) 09:14:11 ID:hogyfr1M
役行者様

聖書や仏典は古いがゆえに価値がありますね。それは、あまりにも聖書や仏典は
古すぎて、その古さにリアリティーが感じられないからであるかと存じます。

雅春先生の言葉の古さは、リアリティーのある古さなのですよ。いかにも古い
という、リアリティーが感じられ古さなのですね。月日がたてば、そうしたリアリティー
も消えて輝きを放つでありましょうが、 今はリアリティーが阻害要因になっており
ます。聖書や仏典とちがい、それはすぐそこにある古さであるような気がいたします。

663初心者:2011/11/08(火) 09:23:24 ID:hogyfr1M
さくらちゃんへ

たしかにこのままでは中途半端でありますし、しばらくは語り続ける必要があり
そうです。あきらかに方向性が異なっているわたくしの発言につきあってくださる
方がおられるかどうか、トキ様の許可がえられるかどうか、それは疑問でありま
すが、さくらちゃんが希望しておられるように、とりあえずは、このまま書き込んで
いこうとおもいます。

ただし、スティッカーの希望者があれば、その方に語っていただくのがベストかと
存じます。

664さくら:2011/11/08(火) 09:33:14 ID:M/Y5HBTg
初心者さまの言葉や方向性は、
わたくしの感覚的な想いを、的確に表現して下さることが多く、
有難く思っておりました。
このまま、お続けくださいますよう、
このスティック、いかがでしょうか。

665初心者:2011/11/08(火) 09:35:30 ID:hogyfr1M
このボードで、スティッカーにたいして、「それはあなたの問題であるから神想観せよ」
と、強要、あるいは要望するような発現がみられましたが、それは、共感と理解、
無条件の受容的態度、積極的傾聴を標榜するこのボードの趣旨とは、あまりにも
かけはなれた発言でありました。

わたくしも、スティッカーの意向を無視して、いいたいことをいってきたという経緯が
ありますので、あまり大きなことはいえませんが、少なくとも、スティッカーに何かを
要求するというのは、ここの精神とはあまりにもかけはなれた物言いであるという
気がいたしました。

666さくら:2011/11/08(火) 09:36:46 ID:M/Y5HBTg
あ、返信もらってて、ごめんなさい、初心者さま。
反応、はや…。

ということで、それはたのしみにしております。

申し訳ありません、不謹慎ではございますが、
ひとことだけ。…


わーい!旅の準備しよー、!

667初心者:2011/11/08(火) 09:38:30 ID:hogyfr1M
このテーマでのスティッカーは、役行者様が最適であると考えますが、
いかがでありましょうか。


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