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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板

1806ももんが:2012/03/24(土) 20:47:14 ID:XXCuaQns
>>1781

あさひ様

あさひ様、先日は、素敵なお返事を頂きまして、誠にありがとうございます。感謝、合掌、拝。

<<1781:あさひ
12/03/23(金) 15:44:51 ID:/3nxKE2Q
ももんが様

ご回答有難うございました。感謝申しあげます。

せいぜい努力して本当の自分に到達したいものと思います。

宗教からも本当の自分に到達できると思いますが、心理学、フロイト ユング
 ラカン アドラー派などからの自己分析からも到達できるように思います。
なぜなら、人間は無限成長の過程を生きていますから。その時、同行2人のその人の無限の可能性
を信じる付添人が存在するとベストだと思いますが。

ももんが様はどう思われますか?お尋ね申しあげます。

色々有難うございます。     合掌>>


同行2人ですか?

私は、心理学や、哲学の事は、良くわかりまんせん。

しかし、仏教でも、他の宗教でも、“冥想”には、必ず“正師”を置きます。

正師から、色々な、“冥想”時に起きた、“心の状態”の点検、“修行の上”の注意などをしてもらいます。

例えば、“独参”では、老師の室内に入る時は、老師と一対一です。他者は、入れません。色々、老師とやり取りしている内に、“自分の自我”が、無く成っていきます。

本で読んだ感じでは、カトッリクの“告解”は、黙想の修行者の心の葛藤や自我を取り除く為の物で、一般に言われてる、“罪”の懺悔とは、違うような、印象が、私には、あります。
黙想も、師から課題が与えられるようですね。

この様に、ただいたい、冥想は、冥想の上級者が、必ず、指導をして、その“心の状態”を常に、チェックするように、成っています。
神想観は、そうした、冥想では、無いので、なんとも、言えませんが、神想観専門の正師に教わる形は、一つの方法だとは、思いますが、生長の家に馴染むかは、わかりません。

だだ、“懺悔の神示”に神想観の指導をたのめと出てきますから?

悪くは、ないように思います。

要は、指導者と生徒の関係に、常にある事ですね。

余り、上手とは、言えない、回答ですが、申し訳ありません。春ですね、花の香りに、心を観るのも、また、楽しいです。いつも、ありがとうございます。心から、感謝いたします。合掌、拝。


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