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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板

1714ハマナス:2012/03/20(火) 01:00:47 ID:u5mC.eb2


神の子のみなさま
こんばんは。

ももんが様
ありがとうございます。
>それから、ハマナス様、私の、“嫌がらず、ハイ”とする、“姿”素敵です。
私は、此からも、“信仰版”にハマナスの御言葉は書いていただきたく、思います。<

お褒めの言葉をありがとうございます。お言葉に甘えて、これからも“信仰版”に
投稿させて頂きます。

訊け様
 >以前、復興Gさまが言われておられたことなのですが、「法燈継承」に関連し印象深いことを
述べられておられましたよね。そしてその、総裁の法燈継承よりも重要なものは、「我々ひとりひとりが
法燈を継承しているのか」、それが問題だ、といったものであ りました。
  方便的な言い回しになりますが、まあ、最初に赦した方が「ホンモノの生長の家である」、こう思います。
  そしてそんなことを実行することで「法燈継承」、これを行って参りたいと
  思います。ありがとうございました。<

そうですね。総裁先生や幹部の方々だけの問題でなく、我々信徒一人一人の問題でも
あると思います。しっかりと、「神の子」の自覚を持ち、「法燈継承」して参りたいです。


『真理』第一巻の最後の章にまたまた心の響くご文章がありましたので、引用させて頂きます。
新版がなくて、すみません。

    「幸福の時も神を呼びなさい」 (旧版『真理』第一巻P.401より)
 
  キリストは「七度を七十倍たび赦せ」と教えましたが、一体「赦す」と云うことは
どんなことでしょうか。腹が立つけれども、まま怺(こら)えていて我慢するのを赦す事
だと考えている人があるかも知れませんが、それでは形は赦していましても、心の中で
赦していないから本当にゆるしたと云うことにはなりません。本当に赦すと云うことは、相手を
怒りの念で縛っていた心を、釈放してしまうことなのです。
漢字を当て嵌(は)めると「釈(ゆる)す」と云う字が当たるのです。怒りの念から釈放して
自由に「罪なき者」として相手を扱うことなのです。「暴に報いるに暴を以ってせず」
と云うのは形の上だけにもとれますが、暴に報いるに感謝をもってするとか、
「あなたは神の子で、素晴らしい方です」と礼拝をもってするとか云うのが、本当に「ゆるす」
と云うことになるのであります。

 英語の「ゆるす」(forgive)と云う言葉は、for(に対して)give(与える)と云う言葉の
組み合わせによって出来ています。即ち、相手の悪しき心又は言葉又は行為に対して感謝とか
礼拝とかを与えることなのであります。法華経の常不軽菩薩品(じょうふぎょうぼさつほん)には
、常不軽菩薩が自分に石を擲(なげう)つ者に対しても、自分に石の達(とど)かない点まで逃げて
往って、其処から跪(ひざまず)いて「吾れ汝を軽んぜず」即ち「あなたを卑しい者、悪い者とは
思いません。あなたの中には仏様の実相が宿っていらっしゃいますから、屹度、やがて仏様におなりに
なる方であります」と云って拝んだと云うことでありますが、これが即ち悪に対して「礼拝」を与えると
云うことであります。これこそ真に相手を赦すと云うことなのであります。


感謝合掌



 



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