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死んだらどうなるの?
51
:
メビウス@管理者
:2012/04/26(木) 19:48:13
ここまでくると一元論的な結論に必然的にたどり着きます。
多数の意識トークンがあって、それらの「流れ」が「私」という意識タイプを
構成しているとするのが素朴心理学的な見方です。
しかし、少し考えればわかるのですが、意識の「流れ」を感じるような反省的意識も
実は個別の意識トークンに過ぎず、その存在だけで過去に別個の意識トークンが
あったことの証明にはなりません。
たとえば、私に以下のような一連の意識現象があったとします。
①、車が地点Aにあると知覚する。
②、車が地点Bにあると知覚する。
③、車は移動しているのだと理解する。
④、①から③までの心理を反省し、意識は連続し、流れているのだと実感する。
ヒュームからすれば①から④はそれぞれ別個の知覚ですが、私は「変化」の実在性を
否定する立場から①から④までは纏まった「ひとつらなりの」意識トークンに過ぎ
ないだろうと考えています。
アシモには理解できない時間の「流れ」の「感じ」こそが、時間の性質であるように、
「①から④までがあった」という「感じ」こそが「ひとつらなりの意識トークン」の
性質だと考えます。(つまり「一個の観念」とみなすわけです)
これは①から④までが数秒の出来事でなく、数十年の出来事、あるいは人の一生その
ものであっても論理的には同じことです。
これは擬似科学でいう所の「パノラマ視現象」のようなものです。
中国では「邯鄲の夢」の故事があり、信長、秀吉なども人生を儚い夢に喩えました。
人生が夢に喩えられるのは、人生の「多数の体験」が、実は「一個の観念」
であることを論理的に否定できないからなのだと思います。
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