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仏教

97無名:2013/12/24(火) 23:12:55
「無我」というのは、何物もそれ自体それのみで存在できない、「実体は無い」ということ。
「無自性」とか「空」とも言う。
釈迦在世当時は、「人の魂が存在していて」それが輪廻する、それに従え、つまり、「奴隷の子として生まれたら奴隷として一生全うしなさい」
そういう、バラモン教、ヒンズー教の「カースト制度」によって、人々は縛られていた。
つまりそれは、侵略者が原住民を奴隷にするための、「言い掛かり」である。

そこで釈迦は、「人の価値はそんな妄想で決まらない、その行為によって決まるんだ」と言ってそれを否定した。
カースト制度=妄想を棄却した。

また、「無我」を理解し会得すれば、「真の我」が見えてくる。

真の我とは、前述したとおり、それ自体それのみで存在していない、「要素の集合」であるが、
その要素1個1個、たとえば、沖縄出身だとか、親が商人だとか、バトミントン部で活躍したとか、そういう経験も含めたいろんな要素が
現在の自分を形作っていることを悟れば、自分を客観視して分析できるようになる。

自分から他人を見る時には、自動的に客観視できるが、それプラス自分をも客観視して分析できるようになる。
しかし他人を見る場合でも、その他人もまた、いろんな要素、
たとえば、殺人犯だとか、大富豪だとかがあるので、それらを安直に浅墓に判断してしまうといった、愚かな過ちを犯さなくなる。

安直に浅墓に判断してしまう愚かな過ちは、ではいったいそこで何が問題とされるのか。
そのようなミスがあるからといって、
無我を会得しなくてもそれが困窮や生死に関わらないならいいだろう。

しかし、前記した「カースト制度」などの愚かな判断は、支配者層の利益にはなるが、人類全体の利益にはならない。
中国のように「目先だけを見る利己主義」になれば、周りの恨みも買い、
寂静という至福には至れない。

無我を知り、すべてを客観視できるのが、悟り、涅槃であると言えるが、
そうなれば、自他、万物に対し、公正に対処できるから、それは人類全体の利益になり、自らも救われる。
つまり、皆がそれを目指し、仏陀になる勧めが、仏教の根幹である。

しかし、釈迦が往生し暫くすると、仏教は他の宗教の圧力を受け、
人気取りせざるを得なくなる。 釈迦が排斥した巷の宗教要素「呪文や儀礼や迷信」が取り入れられ、仏教は骨抜きにされてしまった。
印度から中国を経る間にいろんな要素が混入され日本に伝わっている「仏教」は、
その残滓である。


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