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仏教

71無名:2013/09/09(月) 21:07:49
自灯明法灯明(じとうみょうほうとうみょう)
http://toudaiji.sakura.ne.jp/nyoze05.htm

 「自らを灯明とし、法を灯明とせよ」と読めるこの文句は、釈尊がなくなる直前の最後の教えとして知られています。
 異なる複数の漢訳があるため、ここでは原典であるパーリ語の経典「大パリニッバーナ経」の現代語訳を引用します。
 「この世で自らを島とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ(中村元訳「ブッダ最後の旅)」とあります。

 「灯明」とは、「島=大海の中でのよりどころ」、頼りとするもの、とされています。
 釈尊は、「私の教えに従えばいいのですよ」とは言わず、「私がいる、いないにかかわらず、自分を頼りとし、正しい教えを頼りとしなさい」といったということになります。

 釈尊は、若い弟子阿難尊者を伴っての説法の旅の途中で死病を得ますが、その苦痛を耐え忍び、一度は病から回復します。
 そこで阿難は「これから進むべき道、さまざまな教えも私にはまだ明らかでない。それなのに尊師の病のため、もうこれでお別れかと心配でしたが、教えを述べ尽くさない間は尊師は涅槃に入られることはないと安心しました」といいます。
 ところがこれを聞いた釈尊は、次のように阿難を諭します。

 「私に何を期待するのか。すでに分け隔てなく教えを説いており、何かを弟子に出し惜しみするなどしていない。悟った人は、『私は仲間を導く、仲間は私に頼っている』などとは思わないのだ。だから修行僧の仲間に何を語ることもない。私は老いて、ようやく命を保っているに過ぎないのだ。だから、自らを頼りとし、他人を頼りとせず、法を頼りとし、他人のものを頼りとしてはいけない。どうすればいいかというと、身体、感覚、心、周りの事象を観察する時、よく気をつけてこれらを心に留めて思い起こし、正しいことを見極め、間違った観察から生じる欲望を捨て去る努力をする。そうすれば、自らを頼りとし、法を頼りとすることが可能となる。学ぼうとするものにとってはそれが最高の境地なのだ」。

 独立した一人の人間として、自分で自分自身の言動に責任を持つ。
 よく考えるほどに、他人に迷惑をかけるようなことはおのずと出来なくなります。
 その時「自分」と「法」とは表裏一体の関係です。
 自分のわがままを通すのではなく、現実に適わないルールに縛られるのでもない。
 自分の意志によって、自分だけでなく周囲の全てによく気を配って正しい結論を導く努力をする。
 「自分」がよく気をつけて正しく生きようとするときに、必然的に「法」が生じます。
 なんと当たり前のことではありませんか。

 難しい理屈は何も言っていません。
 自分で自分に責任を持ってより善く生きようと努力する事は、私たち一人一人が、自分さえ気がつくならば、誰にでも歩むことの可能なただ一つの道なのではないでしょうか。


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