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仏教

53無名:2013/09/08(日) 06:00:04
釈迦 葬儀
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6

仏陀入滅の後、その遺骸はマッラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた八大国の王たちは、仏陀の遺骨仏舎利を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否された。そのため、遺骨の分配について争いが起きたが、ドーナ(dona、香姓)バラモンの調停を得て舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%AC%E5%BC%8F%E4%BB%8F%E6%95%99
本来の仏教は、葬送儀礼を重視する宗教ではなかった。
釈迦は弟子に死後の遺骸の処置を問われた際に、僧侶は遺骸の供養等考えず真理の追求に専念すべきだ、供養は在家の信者がしてくれる、と答えたとされる。
しかし、インドから中国へと伝播し民衆へと教化が行われるうちに、漢民族の道教や儒教に由来する先祖供養の民間信仰と習合し、仏教は葬送儀礼も司る様になった。例えば位牌は、儒教の葬礼に用いられる神主(しんしゅ)が変化されたものだと考えられている。
日本仏教が葬式仏教へと向かう大きな転機は、江戸幕府が定めた檀家制度である。

禅宗からはじまる仏教式の葬式
http://uminekodo.sblo.jp/article/54759042.html
仏教式の葬式が開拓されたのは、道元が開いた、やはり鎌倉新仏教の曹洞宗においてである。
禅宗はもともと中国で確立された仏教であり、中国の伝統的な宗教である儒教の影響を受けやすい立場にあった。儒教では先祖を敬う祖先崇拝が重視される。その祖先崇拝が禅宗にも取り入れられていくのである。
戒名は本来は出家した者へ付ける名前だが、江戸時代の中期以降、檀那寺との関係を密接にする必要性が説かれ、葬式の際には、戒名を授かることが掟として定められた。

葬式仏教
http://ameblo.jp/cm116096471/entry-11543358959.html

仏教学者である中村元博士は、『中東洋人の思惟方法3(中村元選集3)』(春秋社)の中で、次のように言っている。(以下、引用)
少なくとも原始仏教の時代においては、出家修行者が在俗信者のために葬儀を執行するということは決して行われなかった。 インドでは一般に葬儀はバラモン僧侶が執行するものであった。

 仏教徒はその葬儀によってはなんら死者の救いは得られぬと考えていた。 『バラモンたちの誦する呪文をひたすら嘲り罵る』というのが原始仏教における指導者たちの態度であった。 原始仏教聖典によると、出家修行者が葬儀に参与することを釈尊自身がこれを禁止している。 人が死んだ場合には、葬儀によるのではなく、その人の徳性によって天に赴くともいう。 葬儀は世俗的な儀式であるから、出家修行者はこれにかかわずらうことを欲しなかったのである。

 ところが、仏教がシナを経て日本へ来るとともに、仏教の形而上学的な性格のゆえに、いつしか死の現象と結びつけられ、亡霊の冥福は仏教の法力によってのみ得られるものであると考えられ、ついに今日では葬儀が仏教行事の主要なものと見なされるに至ったのである。』P.361 (引用 終わり)

『ブッダ最後の旅』
http://d.hatena.ne.jp/shins2m/20110720/1311087788

葬儀は遺言によりマッラ人の信者たちの手によって行われました。7日間の荘厳な供養の儀式のあと、丁重に火葬に付したといいます。

ブッダは、決して葬式を軽んじてはいなかったはずです。もし軽んじていたとしたら、その弟子たちが7日間にもわたる荘厳な供養などを行うはずがありません。なぜならそれは完全に師の教えに反してしまうことになるからです。

それともマッラ人たちは本当にブッダの教えに反してまで、荘厳な葬儀を行ったのでしょうか。教えに従うにせよ、背いたにせよ、マッラ人たちは偉大な師との別れを惜しみ、手厚く弔いたいという気持ちを強く持ったことは間違いありません。本書『ブッダ最後の旅』を読むと、葬儀についてのブッダの本心が見えてくるような気がします。合掌。


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