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宗教・哲学・思想を語るスレッド

91退会者:2011/02/13(日) 22:31:25
たとえ自分が積極的に努力しておこなった「行為」や
苦労してようやく得ることができた「経験」や「知識」であっても

それは自分自身の「力やわざ」によって、なし得たことではなくて
(=自分自身の「手がら」「功績」であるのではなくて)

「神様」が「私を通じて」そのように達成して下さったのだ
「神様」の見えない働きに促されて、やらせて頂いただけなのだ
「神様」の力によって、私が器として用いられたのだ

というように「自力」をも包み込んで、それを可能としている
「他力」の大きな恵みを「重ね合わせ」で感じ取る

というところにこそ、
宗教性の本当に深く豊かな世界があるのではないだろうか?

KKには、そういったバランスの取れた救済論が存在しない。

ホンモノの宗教者や聖人には、
そうした「謙虚さ」「へりくだり」の姿勢が
誰に言われるまでもなく、自然とにじみ出てくるはずで、

自分を凡人とは違う「生き神」だと崇めさせて、
その自画像やら写真やらを額縁に入れて、御本尊といって拝ませて
金を巻き上げるようなことをする宗教家が「ホンモノ」なはずがない。

そうした自己愛的な教祖を拝んで、手本にしている信者たちもまた
人ができない秘儀やマニアックな知識を「自分の力とわざ」として
誇って、思い上がり、自分の功績と自己証明にばかり励むようになる。

いかに自分がすごい人間で、自分の「わざ」が素晴らしいかを誇り
自分以外の凡人に対して「高飛車」で高圧的態度を示すようになる。

この「抜きがたい傲慢さ」「見下しの姿勢」こそが、
自己愛性パーソナリティー障害の「目印」と言える。

幸福の科学会員は、まずはそうした自分の傾向性を自覚し
その劣悪な人間性を改善するようにデトックスに励むべきだろう。

いかに自分が思い上がった「傲慢」な人間になり下がっていて
自分以外の多くの人に支えられて生きているという「恵み」に
目を向けておらず、感謝が薄い生き方をしているか、という事実に

まずしっかりと目を向けなければいけないのではないだろうか。

掲示板にたびたび登場する典型的な「傲慢信者」やら
「マニアック知識秘儀型」の「電波系信者」には
そうしたクスリを付けてあげるべきなのだろう。


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