[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
宗教・哲学・思想を語るスレッド
111
:
サイカイアトリー
:2011/03/10(木) 13:09:34
続き
これは、聖書などの福音書を読む時にでも、正しい心の準備(諸力と均衡を知る事)が必要だと言いました。
何故ならば、そのような書物が具象的に叙述されているからだというのです。
シュタイナーがキリスト者から批判を受ける時、彼はこう答えました。
「キリスト的なものの本質は、絶えずキリストの名を口にしたりすることの中には存在しない。」
「私たちはキリストについてあまり多くは語らない。なざなら私たちは十戒を知っているからである。」
「あなた方はキリストについて非常に多くの事を語るが、『主、神の名をみだりに口にしてはならない』
という戒律を決して知らないからである」と
「本来人間は『何が重要なのか』ということを正しく理解した場合にのみ、
キリストの名を口にするべきである。」
「私たちは実際に正しい意味においてキリスト的であろうとしますが、
迷信的になったり、信心深そうなふりをすることはありません。
人智学はただ、真に学問的であろうとします。このような姿勢に基づきながら、
ゴルゴダで起こった出来事を世界の歴史にとって決定的な意味をもつものと見なすのです。」
キリスト教の初期の時代から、13,14世紀に至るまで
一般キリスト教徒は聖書を読むことが禁じられていました。
それは、聖職者が「聖書を正しく読まなくてはならない」という事を理解していたからです。
正しい心構えの出来ていない人が聖書を読むなら、四つの福音書は相互に矛盾しています。
けれども、それは至極当然な事であり、正しい視点から見れば、
「四つの福音書はそれぞれ異なった視点から叙述している」という事を知ることができると。
ところが現代にいたり「福音書を読むために心の準備な何もする必要がない」というのなら、
それでは、本当の意味での聖書の理解、そしてキリストの存在意義、
更にはキリストに至る事もできないであろうと、シュタイナーは説いたのです。
これは当時のキリスト教に受け入れるべくもないのですが、
彼は教条主義的な態度、妄信では彼らはキリストには至れないと語った一つの真相です。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板