[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
少林寺拳法or丸廉への批難・文句受容スレ
2495
:
興味
:2011/01/01(土) 20:08:39
>>2492
私は拳士ですがダーマと言う言葉は余り使いませんが諸法の働き=空性=ダーマだと言う前提ですと
ダーマは我々の自己を成り立たせる働きでしかないと思います、故にダーマに感謝と言うのでは?
では、個人の幸不幸というのはいったい何か?これは金剛禅でもある仏教の教義の四諦にあるように渇愛(自己愛)=無明の作用であると考えられます。
この自己愛が仏教の煩悩の根本だと教えます、仏教は無我論ですが人の心の奥深くの作用(マナ識)が自我が存在すると勘違いすることによる過ちが煩悩の根源だと言うからです。
なぜかと言うと、自我があると思った瞬間に分別智が起こり自分とそれ以外の他を形成する。そうするとそこに美醜優越が出来る、そうすることで怒り 貪り 愚かさという
三毒といわれる行為に発展します、これはダーマの働きというか個人の行為である業=カルマの働きです。
ダーマ自体は真理ですが、この真理を理解できないので凡夫は業に支配され苦しんでいるのです。
(密教では真理の当体として大日如来を拝みますが、それと似たように ダーマに感謝とは真理そのものである法を拝む題目のようなものなのでは?)
ダーマは真理ですので善も悪もないのですが、ここに我というフィルターがかかると苦が生まれるのです。
故に釈尊は無我を説くのです。
それと、金剛禅の教えの中には四法印をきちんと説かないのこの世の苦は社会の歪みの生であり理想郷建設を言いますが
人間が本来持つ根本的な四苦八苦からの開放というのがあまり問題視されていないので、苦の問題解決にはちょっと弱いかもしれません。
これは、仏教が元来個人救済を目的とされて来たのを、開祖の時代の一部の日蓮主義者が仏教を集団救済として解釈したのに影響を受けたのかも知れん
ごめんなさい、分かりにくい文章で
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板