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倉工ファン Part2

321名無しさん:2021/02/06(土) 10:50:02
☆ 同上  ②


【 甲子園 甲子園 甲子園。 絶対に甲子園に行くんだ 】 小沢監督に憧れ、倉工の門を叩いた和泉。
倉工に行けば甲子園に行ける。 夢を追いかけた。 「 倉工の迫力ある打力、打撃に憧れましてね 」と、和泉。

しかし、小沢監督の背中を、追いかける時間は長くはなかった。 いや、短かすぎた。


和泉が、一年生の時(10月) 小沢監督が引退してしまったのだ。 選手たちは『 小沢監督の指導を受けたい 』
『 そんな、はずじゃあないのに 』と。  「 次は、誰が監督になるのか、心配でした 」と、和泉。

小沢監督の後任に当時、コーチだった脇田が監督に。 しかし、脇田監督も、和泉が二年生の、11月で退任してしまった。


和泉の苦労は、ここから始まる。 在学中に二人の指揮官を失った倉工野球部。
主将の和泉は小沢の所へ行っては、「 どんな、練習をしたらいいですか 」と、何回も足を運んだという。

冬場の鶴形山の階段はきつい。  部員の中には、「 監督もいないし、もう帰ろう 」と、言い出す者もいた。
手を抜く者もいた。 和泉は訴えた。 

「 俺たちが、甲子園に行くためには、ここで、頑張らないといけんのじゃ。 しっかり、走って足腰を鍛えよう 」


『 当時は、倉工のグランドで練習していても、サッカー部やラグビー部もいましてね。
それで、打撃練習は、一人ずつしか出来なかったんです 』と、和泉。  こうして、指揮官のいない月日は流れた。
監督がいない倉工野球部。  その期間は約5か月にも及んだ。

そうした中、和泉らが最終学年に差し掛かろうとした3月末やっと新監督が誕生。 OB吉田豊。
昭和47年選抜甲子園ベスト8時の内野手。 吉田は大東文化大卒業と同時に倉工に。


主将和泉はナインに訴えた。 「 今日は、新監督が来る日、ちゃんと大きな声で挨拶をしよう
練習も気合いを入れて、監督に気にいってもらえるようにしよう 」と。

そして、和泉は退部していた本来のエースを呼び戻す。 こうして、若き指揮官と共に夏の甲子園を目指す事になった。
その夏の予選は準々決勝で岡山南に敗退した。




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