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倉工ファン

287名無しさん:2018/10/14(日) 11:12:44
幻の甲子園



戦中の1942年夏、甲子園球場で選手権大会は開かれなかった。
代わりに文部省が甲子園で催したのは、戦意高揚のための全国中等学校錬成野球大会。
選手権史には記録されず、「幻の甲子園」と呼ばれる。

甲子園100勝を達成した平安も出場16校の一つで準優勝だった。
当時の選手が思い出を語った。


平安中は1、2回戦と準決勝を勝ち上がり、決勝は準決勝と同日。
徳島商に延長十一回、押し出しで7―8でサヨナラ負けした。 捕手だった原田清さん(91歳)
「平安の100勝に私たちの3勝が含まれないのは寂しい。幻なんかではなく、確かに甲子園の土を踏んだんだ」。


スコアボードには「勝つて兜の緒を締めよ」 「戦ひ抜かう大東亜戦」というスローガンが掲げられた。
選手は「選士」と呼ばれた。 突撃精神から死球を避けることは禁止。 選手交代も許されなかった。

試合中、その日に召集令状が来た観客の名前が読み上げられ、「ご自宅にお戻りください」と呼びかけられた。
原田さんは「観客から拍手がわいたが、本人にしたらたまらんかったやろうな」と話す。


原田さんは39年に平安中に入学してすぐに野球部に入り、甲子園を目指した。
戦時色が強まった41年7月の地方大会中に、文部省はその年の選手権大会中止を決めた。
野球部は43年に休部。 それでも原田さんは、授業の合間に、仲間とキャッチボールをした。
心のどこかで開催を期待していた。  錬成野球大会の開催は一度きりだった。 


戦時中は軍事教練で模擬の手投げ弾を投げ、銃を担いで行軍する日々。 
学徒動員で軍需工場に通い、火薬づくりを続けた。 44年に平安中を卒業した後は海軍入り。
広島県呉市の島で特殊潜航艇に乗る訓練を受けた。 沖縄に出撃するはずだったが命令はなかった。
兄はインパール作戦で死亡した。


終戦後に立命館大に入り、野球を再開した。「物資も食料も乏しかったが、野球ができるだけでうれしかったね」。
卒業後は8年間、プロ野球の東急(現日本ハム)でプレーした。母校の活躍はテレビで見守っている。
「平和やから野球ができるし、母校が終戦の日に試合をする。もう戦争はあかんよ」。

龍谷大平安の原田監督(58歳)はこの日、「先輩たちが戦中も思いやりとやり通す気持ちをつないでくれて、
今がある。 第100回大会で終戦の日に野球ができるぼくらは幸せ」と話した。



第1回(1915年)〜第3回まで開催。 

第4回 代表校は決定していたが米騒動により本大会中止。

第5回〜第26回まで開催。

第27回(1941年)〜1945年、第二次世界大戦で中止。

第28回〜中止なし。




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