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倉工ファン

19名無しさん:2017/08/19(土) 14:45:48
春夏合わせて、6回目の甲子園を目指す戦いが始まった。

その戦いは全部員が「森脇を甲子園に連れて行ってやろう、森脇を甲子園に連れて行くんだ。
森脇と甲子園で戦うんだ。」と言う、熱い思いの戦いでもあるのだ。
ところが、森脇本人はベンチに入りたくなかったと言う。

「倉敷球場なんかで、予選が始まりましたわね。病院から帰って来て、ベンチに入るのがいやだったですね。
ベンチに入りたくなかったですね。」と、森脇。

県予選の、一回戦は笠岡商業。この一回戦から延長戦に突入。
外野手の土倉は「あの、笠岡商業との試合は、もう負けるんじゃあないかと、と思いました。」と話す。

長く苦しい延長戦を制した倉工は、二回戦から打線が爆発。あっという間に東中国大会へと駆け上がった。
当時は、岡山県から2校、鳥取県から2校で、甲子園切符1校を決める仕組みになっていた。

岡山県からの代表校は、岡山東商。甲子園まであと2勝。
土倉はこう話す「中国大会に行ってからは、森脇を甲子園へという気持ちが一段と強くなった。」と。

しかし、どうしても越えなければならない山。
それは、強豪米子東。
この米子東を倒さないと甲子園に行けない事を、ナインは知っていた。
その米子東と最初にぶつかったのである。

昭和36年7月30日、鳥取県公設野球場。ナインは悲壮感を闘志に変えて戦った。打撃戦になった。
打撃戦なら倉工も負けていない。
倉工は3本のホームランを放った。

特に、森脇に「右鎖骨骨折」という大怪我をさせてしまったと、一人責任を背負っていた松本は狙っていた。
7回、快心の2塁打を打ち、猛打倉工の口火を切る。その大活躍は「神がかり的」と、称賛を浴びたのである。

永山と槌田の若きバッテリーは、米子東のスクイズを全て外した。
永山は「米子東の部長、監督は青ざめていた」と。
こうして、9対7で米子東の追撃を振り切ったのである。

ナイン全員の闘志あればこその勝利であった。
新聞には、「倉工3ホーマー」「松本 7回に殊勲打」と出た。

甲子園まであと1勝。
その夜の事。全員が寝ていると思っていたのに、誰か一人いない事に気がついた監督小沢。
宿舎中を探して、やっと見つけた背中。
宿舎の中庭で泣いている森脇だった。

「おまえ、こんな所で何をしているんだ」
「監督さん、今日ベンチいてたまりませんでした。明日倉敷に帰らせて下さい」
「この馬鹿たれが。おまえがベンチにいるから、みんな頑張っているんじゃないか。
明日、お前がいないで、なんで勝てるか」と言ってなだめて森脇を寝かせた夜だったのである。

森脇は、投げられない自分への苛立ち。
森脇は一人重圧と戦っていたのではないだろうか。

こうして迎えた決選の日。相手は、向井監督が率いる岡山東商。
朝起きたナインは、驚いた。そして反発したのだった。




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