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倉工ファン

1名無しさん:2017/08/17(木) 17:05:06
春、選抜でベスト4まで行ったからには、夏は優勝しかない。
倉敷市民の熱い期待を背に、大優勝旗に向かって走る倉工ナイン。
当然、招待試合などに招かれるケースも増える。

小山にとっては、これが不運。
痛めた左腕を休める間もなく状態を悪化させて行く。
女房役で主将の藤川は、「高校生離れした球威を誇った、一年生時の小山を思うと、どんどん状態が悪くなっていた。」

こうした中、九州招待試合があった。( 中津工 津久見 ) 「今日こそ、小山を休ませよう。」と、小沢監督。
小山を温存したのだった。ナインも投げられない小山を励ました。
ところが、スタンドからヤジが飛んで来た。「こらっ!小山を投げさせろ。
小山を投げささんか。ワシは小山を見に来ているんじゃ。」と。
このヤジに対して、小沢監督は知らん顔。

しかし、倉工ナインは燃えた。
主砲の、武のバットが火を噴いたのだ。
中津工のエース大島 康徳投手 (中日ドラゴンズ 入団) からセンターバックスクリーンに、豪快なアーチを放つ。
『武 渉選手のユニホームが、甲子園博物館に展示されています。』
津久見には、通算打率4割2分。本塁打17本をマークした、太田 卓司選手(西鉄ライオンズ 入団)がいた。
2年生の時、春の選抜 (倉工と対戦) に出場。
エース吉良 修一投手の好投もあり決勝に進出。
延長12回の熱戦の末、弘田 澄男選手の 高知高 を、2対1で降し初優勝。
この、太田 卓司選手も、倉工期待の一年生投手から、センターバックスクリーンに叩きこんだのだった。

倉敷工 武  津久見 太田 。
両主砲の一発に観客は酔い痺れた事だろう。
工業に観光に発展して行く倉敷市。水島コンビナートでは、連日フル操業が続いていた。
こうした中、倉工は、街のシンボルとして脚光を浴びて行くのだった。
当然、倉工ファンも多くなって行く。

小山は、「とにかく、倉工のファンは、特別なファンなんです。」と言う。

2名無しさん:2017/08/17(木) 17:11:05
甲子園で22年間、名勝負を胸に審判勇退

2006年08月19日

日本高野連審判規則委員会の岡本良一委員(54)が、
今大会を最後に22年間務めた甲子園の審判を勇退する。
「支えてくれた多くの方や選手、審判として育ててもらった甲子園に感謝したい」と振り返る。


岡本さんは岡山・倉敷工2年だった68年、三塁手として春夏の甲子園に出場し、いずれもベスト4に進んだ。
明大、川崎重工(現在は休部)でもプレーし、都市対抗に出場するなど活躍した。
30歳で現役を退き、直後、「野球に恩返ししたい」と審判に転じた。

アンパイアとして甲子園の土を初めて踏んだのは84年、
第66回全国選手権。この大会はPL学園(大阪)の清原(現オリックス)らがアーチを量産。
計47本塁打は今年破られるまで1大会通算記録だった。
「僕自身、甲子園で清原君の本塁打をコールしたことがある。
すごい打者でした」と懐かしむ。

98年の第80回大会では、優勝した横浜(神奈川)の熱戦に立ち会った。
延長17回にわたったPL学園との準々決勝と、
エース松坂(現西武)が無安打無得点試合を達成した京都成章との決勝で球審を担当した。
「春はどこも打てなかった松坂君のボールを、夏のPLは鋭く打ち返していた。
高校生の成長の速さを感じた」と語る。

「審判は選手の応援団」と思ってきたという。
公正さを保ちつつ、好プレーはたたえ、消極的な打者には「これは打てる球だ」との気持ちを込めてストライクとコールしてきた。
18日、球審を務めた早稲田実(西東京)―日大山形の準々決勝でも、機敏な動きは健在だった。

勤務先の仕事が多忙になり、連盟の活動に思うように参加できなくなったのが勇退の理由だが、
後進育成には意欲を見せる。「若手の審判や、これから審判を目指す人には、まず野球を好きになって欲しい。
向上心もそこから生まれるはず」とエールを送る。

3名無しさん:2017/08/17(木) 17:15:35
木製バットの時代に、甲子園でHR打ったのは藤沢、妹尾、中村、武の4人だけ
3本打った藤沢は四番打者ではなくて、聞いた話じゃが、ランニングも含まれとるらしい

武のは高知にとどめを刺す3ランを放り込んだ一発じゃ
ワシも子供だったので詳細に覚えてないんじゃが〜
シュッとした長身の男前で「四番センター武」「四番センター武」は当時のワシの口癖じゃった

というのもな、武は頼りになるキーマンで4-0だった岡山決勝では全打点を叩きだしたから
ワシの中では「四番センター武」はスターじゃったんやな

4名無しさん:2017/08/17(木) 17:19:00
小山さんは昭和42,43年と連続4季の甲子園だが、4季不動のメンバーだったのは
ピッチャー小山、キャッチャー藤川、セカンド土倉、ライト山口くらいか
武さんは二年の時はレギュでなく、審判の岡本さんは学年が下かと

5名無しさん:2017/08/18(金) 06:41:00
「 昭和43年のチームが、史上最強のチームです。」と小山は、胸を張る。
俊足巧打の 土倉。 バントの名手 山口。 強肩捕手で主将の 藤川。

不動の4番で長打の主砲 武。 エース小山は、右打席でも左打席でも打てるスイッチヒッター。
広角打法の 中村。 意外性の男 富永。 2年生のレギュラー、チーム一の張り切り男岡本。
渋い打撃が魅力の 亀山。 さらに、野球を愛する心は誰にも負けず、また野球への探求心が旺盛な 角野。
この角野が、3塁コーチャーズボックスに立ち、ランナーをホームへと導くのだ。

そして、倉工のエースナンバー 1 をつけた 小山 の力投。
甲子園への視界は良好。 ライバルは、エースで4番の 奥江秀幸選手(大洋ホエールズ入団)のいる、岡山東商。
まさに、闘魂と百戦錬磨が知略を巡らせ、執念を燃やす竜虎の激突になるのは、必至の予選である。
こうして、史上最強チームの夏が始まった。

第50回全国高校野球選手権大会 岡山県大会
第50回大会記念大会として、全国都道府県の代表校に、沖縄の代表を加えて48校が甲子園切符をつかむのだ。

2回戦   倉敷工 6 - 0 岡山日大

3回戦   倉敷工 4 - 1 理大附 

準々決勝  倉敷工 10 - 6 笠岡商

準決勝  倉敷工 2 - 0 倉敷商

決勝は、ライバル 岡山東商。岡山県の二大都市、岡山市の代表 岡山東商。
倉敷市の代表 倉敷工業。両校の戦いは、早慶戦の様な特別なものがあるのだ。
岡山県高校野球黄金時代の絶頂期である。

先攻を取った倉工は、一回表 4番 武 が2点タイムリーで先取点を上げる。勢いに乗る倉工は、五回にも 武 の2点タイムリーで4点。主砲 武 が4打点の大活躍で快勝。
投げては、エース小山が完封。倉敷は、市民の大歓声に包まれたのである。
そして、倉工ナインは小沢監督を胴上げして、喜びを爆発させたのだ。
甲子園2年連続6回め、前人未到の 4季連続甲子園出場を果たしたのである。

決勝  倉敷工  4 - 0  岡山東商

母に誓った、プロ野球選手。少年の日の夢。一抹の不安を抱えながら肩の痛みをこらえて投げ続ける 小山。
深紅の大優勝旗をつかみに、史上最強チームが聖地へと向かった。

6名無しさん:2017/08/18(金) 08:32:23
昭和43年の倉敷市。工業都市として、みぞうの発展を遂げ また 観光都市としても全国にその名を知られる。
水島コンビナートでは連日フル操業が続く。

こうした中、倉敷のシンボルとして、あるいはアイドルとしてその存在価値を高めて行く倉工野球部。 
「今度こそ、全国制覇を。」 と、倉敷市民は熱い期待を寄せるのだった。
特に、エース小山に寄せる熱い期待と信頼は絶大なものであったに違いない。

「倉工のファンは、熱狂的で特別なファンなんです。」と小山。「練習を終えて帰宅していると
( 小山、今帰っているんか。気をつけて帰れよ。) とかですね、
( おおい、小山がんばれよ。)とね。」 「毎日、たくさんの人が声をかけてくれて、本当に嬉しかったです。」と、小山は言う。
小山は、今現在も感謝の心を持ち続けている。

全国制覇に向けて走る、倉工ナイン。当然、練習の厳しさも一日一日と増して行く。

グランドの周囲には、のどかな田園地帯が広がっていた。
田んぼからは、カエルの鳴き声が聞こえる。
ところが、その田んぼの中にボールが飛び込んで行く事があった。
すると部員たちは先を争う様に田んぼの中のボールを拾いに行くのだった。

当時は 「水をのんでは、いけない。」と言われていた時代。
ところが、部員たちは何と、田んぼの水を飲んでいたのである。
小山もその一人。「田んぼの中に、ボウフラがいましてね。
そのボウフラを手でかき分けて手で田んぼの水をすくって飲みました。
もしかしたら、一匹や二匹のボウフラを飲んだかも知れませんね。」と、苦笑いする小山。

田んぼで農作業をしていた、おばさんがその光景を見て「まあ、可哀想に。倉工の野球部は田んぼの水を飲んでいる。」と、
周囲に漏らしていたのも事実である。
その、おばさんが田んぼに農作業に出かける時、麦茶を用意してボールを拾いに来た部員に、そっと飲ませていた事もあるそうである。
そして、「倉工、頑張って。」と、一声。
倉敷に満ち溢れるエネルギーと、歩を合わせる快進撃を、いや 全国制覇を倉敷市民は期待していた。

7名無しさん:2017/08/18(金) 08:46:17
野球への探求心が、旺盛な角野。
その角野が、エース小山の投球について次の様に語る。

「小山の球は、回転が綺麗なんです。回転がいいからよく球が伸びるんです。
しかも、打者の手元でホップするんですね。そして、落差のある縦へのカーブがあるんです。
ですから、ホップするストレートの高さと、低めに決まるカーブ、高さと低さを武器にした投球が、持ち味なんです。」と熱く語る角野。

これに対して、エース小山は、「私の、手や指そして肘や肩が、硬式のボールに合っていたんでしょうかね。」と。
事実、エース小山の手の指は、短く太い。

第50回全国高校野球選手権大会

一回の守備につく倉工ナイン。エース小山が、甲子園のマウンドに上がる。
藤川が、捕手席に座る。残りの7人の侍は、小山のすぐ後ろで円陣を組む。
エース小山が、投球練習を開始しようとした時、掛け声と共に、各ポジションに走る7人の侍。

3回戦    倉敷工 9 - 2 高知  小山6勝め

主砲 武 のバットが火を噴いた。4回大会13号ホームランとなる、3ランを左中間スタンドに叩き込み、この回一挙8点を上げ、勝負を決める。

準々決勝  倉敷工 6 - 3 広陵  小山7勝め

この日、第4試合でナイターとなった。
広陵のエースは、( 小さな大投手 )の異名を持つ、左腕宇根洋介投手。
身長167㎝で、甲子園8勝している、宇根投手を、倉工打線は序盤で攻略した。
1回2回3回に、各1点。4回には2点を上げ、試合の主導権を握り、粘る広陵を振り切る。

甲子園に流れるアナウンス。
【勝ちました、倉敷工業高校の栄誉を称え、同校の校歌を斉唱し校旗の掲揚を行います。】
五万の観衆の歓声がとどろく、大甲子園のセンターポールに緑の校旗がはためく。
『水島灘の 沖ゆく白帆も・・・・』 大甲子園にこだまする勝利の賛歌。
いつ聞いても、どこで聞いても、そして歌っても「 いいなあ 」と感じる。

そして、8月21日 準決勝 静岡商 との対戦の朝が来た。

8名無しさん:2017/08/18(金) 09:00:25
最後の夏。痛みをこらえ投げ続ける、エース小山の力投で、
倉工は春と同じく四強まで、勝ち進む。準決勝の相手は、同じ左腕の好投手 新浦 寿夫 投手を擁する静岡商。

しかし、小山の肩は 広陵戦 後、ぼろぼろに。
「歯ブラシを口まで、持ち上げられませんでした。しかも、顔を洗おうとしても、手が顔まで上げられなくて、顔を手に近づけて行って洗いました。」 
小山の肩は、悲鳴を上げているのだ。

宿舎から、甲子園までは徒歩で移動。途中ある高校のグランドで練習する事になった倉工ナイン。
小山は、「10メートル先の相手に、ボールが届きませんでした。」と言う。
母に誓った プロ野球選手。消え行く少年の日の夢。
小山は、絶望の中、球場入りしたのだった。

準決勝は、第2試合だったため待機をしていた。そこへ朝日新聞社の記者がやって来た。
「小山君、小山君。明日の決勝戦は、 興国 と 倉敷工業 に決まっているようなもんなんで、
興国 の丸山君と握手をしている写真を撮らして下さい。

今、撮っておかないと、明日の新聞に間に合わないんです。」
そう言われた小山は、「興国は、まだ試合中だし、うちはまだ試合をやっていないし、そんな事をしたら、監督さんに怒られます。」

そう言うと、記者は、「小沢監督には、了解をもらっているから、大丈夫です。」
小山は、記者に連れられて、まだ試合途中の 興国エース 丸山 朗 投手と握手を交わした。
こうして、迎えた準決勝、対 静岡商戦 だったのである。

絶望の小山は、グランドの中に入り、ある光景を見た瞬間、あれほどまで痛かった肩の痛みを忘れた、と言う。
小山が、見た光景とは何か?。それは、倉敷から駆け付けた大応援団だった。

そして、アルプス席から聞こえて来る、大声援。「 小山!、小山!頑張れよ!。小山!。 」
大応援団と、大声援が小山の中に飛び込んで来て肩の痛みを忘れたと言う。
「 火事場の、馬鹿力です。 」と、小山は言うが、果たして本当にそれだけだったのだろうか?。

いや、もう一つある。小山を支えるもの。小山を支え続けて来たものがある。それは、倉工のエースナンバー1のユニホームであったはず。倉工エースの誇り。
決して本調子でなくても、あるいは序盤に打ち込まれても、投げ続けるのが本当のエース。
マウンドを守り続けるのが、倉工エースの宿命なのだ。
小山は、倉工エースの宿命を背負っている自覚を、持っていたのではなかろうか。

こうして、準決勝 対静岡商 との試合が始まった。
マウンドの小山のもとから、各ポジションに散るナイン。

9名無しさん:2017/08/18(金) 10:40:20
倉敷工は春に続いて、またしても決勝進出をはばまれた。
静岡商得意のバント戦法に苦杯をなめた。

静岡商は、二回一死から松島がレフト前打。戸塚もセンター左へ安打。
俊足の松島は判断良く三進。寺門は2-1後のウエストボール気味の球を、投手前にスクイズ。
松島が楽にホームを踏んだ。
さらに、三回は、先頭の新浦四球に出たが、
青木の、投ゴロで二封された。青木はすかさず二盗。
ここで、佐藤は1-2から倉敷工の深い守備の裏をかいてドラックバント。
これが内野安打となって、一三塁。藤波は1-1から外角高めのウエストされた球を飛び上がってスクイズを成功をさせた。
倉工バッテリーはスクイズに来ると読んで、はずしたのだが、藤波の執念にしてやられた。

ここらあたりに高校野球でのバントの重要性をまざまざ見せつけられた。
肩が痛いと言う 小山 だったが、連投の疲れも見せず、球は良く走り、カーブの切れも良かった。
それだけに、わずかのすきをついた静岡商のソツのない攻めは光った。

この追加点は、連日炎天下で力投を続け、気力だけで投げている新浦にとって、大きな支えになった事だろう。
新浦は長身から快速球を投げこんで、当たっている倉工打線と真っ向から勝負して完封した。

倉敷工もさすがに優勝候補。敗れたとはいえ、持てる力を出して戦った。
終盤、得点にこそ結びつかなかったが、その粘りはたいしたものだった。

惜しまれるのは、七回。

この回、小山の四球。中村のライト線二塁打で、無死二三塁と攻め寄った。
ところがここで思いもよらぬ不運があった。
富永の打球は一二塁線を抜いたかと思われたが二塁手に横っ跳びに好捕されて、一塁でさされた。
しかも、三塁走者の小山はいったんホームに突っ込みかけたが、
コーチャーの静止があって三塁へ戻った。
その間、中村はすでに三塁へ。
小山は、追い出されるような格好で三本間で挟殺された。

まずい走塁ではあったが、ここは二塁手の好プレーをたたえるべきだろう。
結局、倉敷工は好機に一発が出ず惜敗したが、速球投手 新浦 に対してバットを短く持ったミート打法、

そして、小柄な小山投手の力投などが、強く印象に残った。

この、静岡商戦が、投手小山の実質的なラストゲームとなった。
歯をくいしばって投げ続けた高校夏の姿。小山と倉敷の熱い季節は終わった。
この日、倉敷が泣いた。

10名無しさん:2017/08/18(金) 10:54:01
甲子園から、宿舎まで徒歩で帰っていた。

その時、小沢監督が3塁コーチャーの角野に歩みよった。

「角野、あの時小山を3塁で止めたのは、なぜなんだ?」 と、語りかけた。
角野は 「ランナーが小山だったからです。」

すると「そうか。わかった。」と、小沢監督。
このシーンについて、角野は次の様に語ってくれた。

静岡商に、2 対 0 でリードされていて、回も終盤 ( 7回 )になった時、小山が出塁したんです。
次の中村の当たりは、ライト線2塁打コースとなって、小山が2塁ベースを踏んで、3塁まで来ますよね。
中村は2塁へ行きます。

ところが、ライトがもたついたんです。
それで、小山をホームに突入させるべきか、3塁で止めるべきか。
私が、迷いに迷ってしまいましてね。

でも、最終的には小山を3塁で止めたんです。
それはなぜかと言うと、ランナーが投手の小山だったからなんです。

これで、無死2、3塁となりました。続く富永の当たりは、一塁手と二塁手のド真ん中の当たりでした。
しかも、低いライナーだったんです。

二塁手がダイビングで打球に飛び込んで行って、しかもショートバウンドで捕って、一塁に投げて富永はアウトになりました。
ところが、中村が三塁まで走って来て、三塁ベースで、小山と鉢合わせになったんです。

それを見た一塁手が三塁に転送して、小山がホームと三塁との間で挟まれてタッチアウトになったんです。
私は、この時ものすごい責任を感じましてね。

あの時2,3塁になった時、3塁コーチャーとして、適切ないいアドバイスをしてやれなかった事で。
あの時、いいアドバイスをしておけば、あんな事にはならなかったと思うんです。
もしかしたら、同点にあるいは、逆転勝ちして、決勝に行けたかもしれないのに。
全ては、私の責任と思っていました。

ところが、徒歩で宿舎に帰っている時に、監督さんが、「角野、なぜ小山を三塁で止めたんだ?」と聞かれ
「ランナーが小山だったからです。」と答えたんです。

すると、監督さんは、「そうか、わかった」と言ってくれたんです。
私は、あの時監督さんの、「そうか、わかった。」のお言葉に、本当に救われる思いをしました。
と、熱く語る角野。小沢監督は、角野に大きな信頼を置いていたのである。

次に、小沢監督は、小山の所に歩みよっていった。

11名無しさん:2017/08/18(金) 11:11:56
甲子園から宿舎まで徒歩で帰っていた。小沢監督は、角野に続いて小山に歩みよった。

そして、小山の肩をポンポンと叩いた。「 小山、三年間ご苦労さん。
小山、おまえ三年間本当に良く頑張ったな。
今日も肩が痛いのに、良く投げてくれたよ。ナイスピッチングだったよ。」

恩師、小沢監督から初めて受ける ねぎらい と 感謝 の言葉だった。

母に誓ったプロ野球選手。少年の日の夢。
その言葉に小山は、【 エースの喜びを知り完全燃焼の涙を流したという。】
ケレン味ない絶妙の投球と、強靭な精神力。

小沢監督に憧れ、倉工の門を叩き、腕も折れよと投げ抜いた甲子園 97 イニング。
彼には、40年の岡山東商に四滴する栄光が求められた。
結局母校に、大優勝旗をもたらす事はできなかったが
小山が挙げた 甲子園での勝利数7 を抜く投手は県下に今だに現れていない。

「 黄金の左腕 」と、呼ぶのふさわしい、大エースだった。

心の豊かさ。それは夢を失わず、夢を持って生きる事。
決して本調子でなくても、序盤に打ち込れても、投げ続けるのがエース。
マウンドを守り続けるのがエース。人生も、またそうなるべきである。

黄金の左腕 小山 稔。
彼の青春には、運命のいたずらと、破綻の恐怖が付きまとった。

それでも、夢を見たのである。もしも、あの時繰り上げがなかったら、
その後の甲子園の結果は違っていたかも。
「 あの繰り上げ出場がなかったら、甲子園優勝はもとより、日本を代表する投手に、なっていただろう。 」と、小沢監督は言う。 
「 投手生命は、短ったけど、あの舞台であそこまで投げれて、満足です。」と、小山。

その後、小山は社会人野球の強豪 河合楽器に行くが、間もなく現役を断念。
倉工コーチを経て、野球用品関連の仕事をする。

事業のかたわら、少年たちを指導する、 野球道場 を主宰。
技術だけでなく、礼儀、道具の大切さ、そして野球を愛する心を、説いている。
黄金の左腕は、キズついても心は常に野球と共に。

「 いい仲間と、倉工のグランドでせい一杯やれました。野球としての悔いは全くありません。」
と、言い切る小山。そして、少年の日と同じ目の輝きを持ち続けている。
小山の夢は終わらない。

「 もう一度生まれ変わっても、野球をしたいですね。今度は、絶対にプロに行きます。高校はもちろん倉工でやります、」と、小山。
今でも、球場アナウンスが聞こえて来るようだ。

【 岡山県代表 倉敷工業高等学校 ピッチャーは 小山くん  小山くん 背番号1 】

12名無しさん:2017/08/19(土) 07:50:26
☆校歌誕生

五万の観衆の喚声がとどろく。センターポールに緑の校歌がはためく。
おりしもわき起こる校歌吹奏「水島灘の沖ゆく白帆も・・・」甲子園にこだまする勝利の讃歌。
聞く度に、いいなあ・・・と思う。

終戦の翌春、戦いつかれた若者もようやく立ち直り、学校も活気をとりもどした二十一年春、校長の直江虎正先生が校歌をと主唱。
これを受けてただちに始動。山陽新聞の金平東京支社長(故人、後の同社文化局長。機械科卒、雄彦君の父)に面談した。
東京で自由に動け、かつ新聞社というバックのある方が最適と考えたからだ。

多忙な氏も趣旨に賛同して快諾。天下の一流をと、まず西条八十先生が、早慶でゆくか、と「若き血に然ゆる者」の作曲者堀内敬三氏に曲をお願いしてくださる。
氏も音楽評論家として名声の高い人。これはえらいことになったと躍りあがった。
超一流の校歌誕生だと。この思いは今も変わっていない。

さて、今頃なら作者の現地視察となるわけだが、交通事情の極端に悪い頃。
そのかわりに学校の環境をくわしく知らせよということになり、
その報告によって生まれたのが「白帆が緑の屋根を仰ぐ」となったもので、これはレポータの責任。
小川もささやき草木も語る韻文の世界。散文的おとがめは無用。

また、作詞作曲料は、おそらく誰も簡単には信じてくださらぬ程の少額で、今も思い出しては両先生には、おわびしたい気持ちでいる。
これは、学校も戦後の備品整備や建物の修理復活の多大の経費のみこまれる際のこと、私たちの心配を察して、当時の経済緊急措置により入手困難な新円という制度により、
お支払いしたいという金平氏のお願いを、両先生が了承してくださったからで、さすがに大家は・・・と感銘を受けた。

それにしても、多忙な任務に追われながら、足代もなしに、最初の交渉から最後のお願いまで、東奔西走してくださった金平氏の霊前に、
今のわが倉工の隆盛を報告し、感謝の微意をささげたいと思う。

13名無しさん:2017/08/19(土) 11:05:21
倉敷工業高校の黄金時代である1950年代の代表的なOBは、安原達佳氏です。

1954年に読売ジャイアンツに入った安原達佳氏は、ルーキーイヤーから登板します。
高卒2年目に早くも先発に定着し、12勝。翌1956年も15勝します。

その後、調子を崩して、横手投げにして二桁勝利を2度。
さらに、それも調子を崩すと外野手に転向し、86試合に出場と野球センスの塊のような選手でした。
投手で56勝、安打もプロ通算120安打を放っています。

14名無しさん:2017/08/19(土) 11:22:48
1964年

高校球界の逸材として注目されていた倉敷工高三年菱川章外野手(18)は
二十一日、岡山市上石井の自宅で義父の芳三さん(43)小沢馨倉工監督、中日の柴田スカウトらが立ち会い、
中日ドラゴンズへ入団すると発表した。正式契約は二十五日名古屋の球団事務所で行う。

同選手は戦後初の混血児選手で、身長183㌢、体重86㌔、右投右打。
一年生の夏と三年生の春の二回甲子園に出場。打球の速さはプロ選手なみといわれた。
通算打率三割八分、ことしにはいって本塁打3本を打っている。
大型打者として早くからプロ野球各球団の注目を集めていた。

15名無しさん:2017/08/19(土) 11:27:11
菱川章

長打力を期待され、新人ながら34試合に出場、同年のジュニアオールスターにも選出される。
1971年には主に右翼手として102試合に出場し、13本塁打を放つも、打率が上がらずレギュラーには定着できなかった。

1972年オフに日拓ホームフライヤーズへ移籍し、1973年に引退した。

通算133安打、24本塁打。

16名無しさん:2017/08/19(土) 11:41:11
伝説の夏がある。

勝敗を超えて今でも語り継がれる名勝負。昭和36年夏の甲子園。
奇跡の大逆転劇となった、倉敷工業 対 報徳学園の試合は、今でも夏が来るたび話題に上がる。

36年の倉工は、岡山県の秋季大会と選抜大会を制しており、夏の大会も優勝候補の筆頭とされていた。
また、岡山県や中国地区の多くの関係者から、
「今年の倉工は、全国制覇ができるのでは」と、高い評価を受けていたのである。

エースは、34年の夏の甲子園、国体の大舞台を一年生で経験している、剛球左腕の森脇。
また、打撃陣では核となる不動の4番で、長距離打者の鎌田らがいて、破壊力は群を抜いていた大型チームであった。
この様な大型チームを作り上げたのは、のちに名将の名前を欲しいままにする、監督 小沢 馨。弱冠30歳の青年指揮官だった。

この様な、大型チームに突然のアクシデントが襲うとは、誰が予想できたであろうか。
それは、バント練習中に起こったのだ。

17名無しさん:2017/08/19(土) 14:30:13
「今年の倉工は、全国制覇ができるのでは」と、
多くの関係者から高い評価を受けて、監督小沢の夢も大きく膨らんだ事だろう。
しかし、小沢は冷静にチームを分析していた。

「もし、チームがピンチを招くとしたらそれは、バントシフトが崩れた時。
例えば一塁にバントをされて、一塁手と投手が譲りあったり、三塁側にバントをされて、三塁手と投手が譲りあったりした時にピンチがあると。
それだけに、どちらでも取れる所に何回も転がして行って練習をしていたんです。打たれてピンチを招く事は、ほとんどないだろう。」と。

小沢の言葉にある様に、エース森脇は素晴らしい投手であったのだ。
3年生で外野手の三宅は「一球バントしたら、一塁に走る。一球バントをしたら一塁へ走る。この様な練習ばかりしていた。」と言う。

と、その時である。エース森脇と、主将で一塁手の松本がぶつかって、森脇が大怪我をしてしまったのだ。
その時の模様を、三宅は鮮明に覚えている。

「森脇がバントをして、一塁へ走って、松本がバント処理をして、タッチしたら、森脇が転んで、地面をクルクルと2回転した。
それで、右鎖骨骨折をしたんです。」
当の森脇は、「足にタッチされたと思う。普段なら何でもないのに、私の足がもつれてしまって。
松本がどうのこうの言うことではないんです。」と。

外野手の土倉は「あれは、7月1日で、合宿の最後の日。全員が疲れのピークに達していてのアクシデントであったと思います。
もうこれで、甲子園は終わりだなと思った。恐らく全員が思ったと思う。」と。
2年生の、永山、槌田、高橋らは部室内で「えらい事になった。でもやるべき事はやろう」と話し合っていた。

小沢はこう話す。「監督の私にも大きな責任があるのだけれど松本においては、その後大きな負担をかけさせてしまった。
監督さん、森脇を県予選までに、投げれるようにして下さい。もし、この夏森脇が投げられなかったら、わしは一生涯森脇に頭が上がらないんです。
どうか、監督さんお願いします。と本当に涙して訴えて来たんです。」
一人責任を背負い込んだ松本であった。

しかし、どう見ても県予選までに日数が足りないのである。しかも、医者からは「森脇が投げられるのは、8月以降だろう。
つまり甲子園に出ないでは、この夏森脇は投げられないだろう」と言われたのだった。
選手全員が、下を向いて黙っていた。
その時、松本が選手全員に訴えたのだ。大粒の涙を流して。

18名無しさん:2017/08/19(土) 14:36:51
1年生で、34年の夏の甲子園、国体と大舞台を経験して来たエース森脇。
今、3年生になって最後の夏に掛ける思いは、相当強かったはず。
また、全選手から、その信頼と期待は絶大であったであろう。

外野手三宅は、「森脇の球は速いというものではなかった。ものすごいスピードボールを投げていた。
あの森脇の球は、打てるわけがない。打てるもんか。」と、力を込める。
それだけ森脇は左腕で素晴らしい投手であったのである。

ところが、事もあろうに県予選の直前に「右鎖骨骨折」というアクシデントに見舞われたのである。
全国屈指の好投手と言われたエースの突然の負傷。
しかも、県予選までに完治の可能性はない。
日数が足りないのである。

「これで、甲子園もおしまいか。」1年生から3年生まで、全選手に重苦しい空気が伝わった。
その時である。主将の松本が、全選手を集合させた。
そして、涙を流しながら、訴えたのだ。

「みんな、頼む。もしこの夏、森脇が投げられなかったら、ワシは生涯森脇に頭が上がらないんだ。
みんな頼む。甲子園、甲子園へ。」と涙で。
すると、選手の顔が上がり始めた。
そして、全員が前を向いた。

「そうだ。森脇を甲子園に連れて行ってやろう。森脇を甲子園に連れて行くんだ。そして、森脇と共に戦うんだ。」
全選手の心は一つに団結したのである。
三宅は、こう言う「松本の一声で、一致団結力が生まれた」と。

真に「意気と力の 溢るるところ」である。
こうなったら、打線の力で森脇を甲子園に連れて行こうと全員考えた。
2年生の永山は、控え投手ではあったが、三塁手。永山は、コントロールが良かったので、小沢は打撃投手をよくさせていた。

「永山、お前が投げろ。ただし、森脇の代わりで投げるのではなく、永山一個人として投げろ」と指示。
その永山は「県予選までは何日間かあったけど、投手としての経験としては浅かった。
しかし、小沢監督の指導もユニークで、速い球は投げるな。遅い球で勝負しろ。変化球は、こうして投げろ。
と色々アドバイスを受けた何日間でした。」

「スライダーの握り方を教えたが、器用だったんで、すぐ覚えた」と小沢。
こうして、急造投手、永山が誕生したのである。小沢は、投球術と、配球術を教えた。
ところが、永山は一日一日、急成長し始めたのだ。

「もしかしたら」小沢の期待も膨らんだ。
こうして、2年生捕手槌田との若きバッテリーで、困難に立ち向かう事になったのである。

そして、松本の思いも板野の思いも、岡田、国方、中村、土倉、白川も全員が、
「森脇を甲子園に連れて行くんだ」と言う強い思いを胸に、昭和36年の倉工の夏が始まろうとしていた。
新聞には、「痛いエース欠場。破壊力秘める大型打線」と出ていた。

19名無しさん:2017/08/19(土) 14:45:48
春夏合わせて、6回目の甲子園を目指す戦いが始まった。

その戦いは全部員が「森脇を甲子園に連れて行ってやろう、森脇を甲子園に連れて行くんだ。
森脇と甲子園で戦うんだ。」と言う、熱い思いの戦いでもあるのだ。
ところが、森脇本人はベンチに入りたくなかったと言う。

「倉敷球場なんかで、予選が始まりましたわね。病院から帰って来て、ベンチに入るのがいやだったですね。
ベンチに入りたくなかったですね。」と、森脇。

県予選の、一回戦は笠岡商業。この一回戦から延長戦に突入。
外野手の土倉は「あの、笠岡商業との試合は、もう負けるんじゃあないかと、と思いました。」と話す。

長く苦しい延長戦を制した倉工は、二回戦から打線が爆発。あっという間に東中国大会へと駆け上がった。
当時は、岡山県から2校、鳥取県から2校で、甲子園切符1校を決める仕組みになっていた。

岡山県からの代表校は、岡山東商。甲子園まであと2勝。
土倉はこう話す「中国大会に行ってからは、森脇を甲子園へという気持ちが一段と強くなった。」と。

しかし、どうしても越えなければならない山。
それは、強豪米子東。
この米子東を倒さないと甲子園に行けない事を、ナインは知っていた。
その米子東と最初にぶつかったのである。

昭和36年7月30日、鳥取県公設野球場。ナインは悲壮感を闘志に変えて戦った。打撃戦になった。
打撃戦なら倉工も負けていない。
倉工は3本のホームランを放った。

特に、森脇に「右鎖骨骨折」という大怪我をさせてしまったと、一人責任を背負っていた松本は狙っていた。
7回、快心の2塁打を打ち、猛打倉工の口火を切る。その大活躍は「神がかり的」と、称賛を浴びたのである。

永山と槌田の若きバッテリーは、米子東のスクイズを全て外した。
永山は「米子東の部長、監督は青ざめていた」と。
こうして、9対7で米子東の追撃を振り切ったのである。

ナイン全員の闘志あればこその勝利であった。
新聞には、「倉工3ホーマー」「松本 7回に殊勲打」と出た。

甲子園まであと1勝。
その夜の事。全員が寝ていると思っていたのに、誰か一人いない事に気がついた監督小沢。
宿舎中を探して、やっと見つけた背中。
宿舎の中庭で泣いている森脇だった。

「おまえ、こんな所で何をしているんだ」
「監督さん、今日ベンチいてたまりませんでした。明日倉敷に帰らせて下さい」
「この馬鹿たれが。おまえがベンチにいるから、みんな頑張っているんじゃないか。
明日、お前がいないで、なんで勝てるか」と言ってなだめて森脇を寝かせた夜だったのである。

森脇は、投げられない自分への苛立ち。
森脇は一人重圧と戦っていたのではないだろうか。

こうして迎えた決選の日。相手は、向井監督が率いる岡山東商。
朝起きたナインは、驚いた。そして反発したのだった。

20名無しさん:2017/08/19(土) 14:56:08
「朝起きて、新聞を見るとどの新聞にも、倉工が負けると出ているんです。
8対2ぐらいですかね。
分が悪いと。それらの新聞を見て、試合はやってみないとわからんじゃろうが、と。
野球は、強い方が必ず勝つとは限らないし。また、弱い方が負けるとも限らないし。
それで、甲子園へ行けるか行けないかと言う最後の試合なんで、一発勝負すると面白いだろうなあと。
その新聞記事に反発した様な感じでやりました。」と、語るのは成長著しい急造投手の永山。

実は、36年の倉工は、ある秘策を用意していたのである。
その秘策とは、相手チームが予測出来ない事をやるんだ。と言うものである。
そのために県外のチームとの練習試合で何回もテストを実施。
ただし、中国地区のチームとは実施せずにいたのだ。いつやるか、どこでやるか。

それは「ここ本番で、1点のみと言う時に一発で決めるんだ。と選手と申し合わせていました。」と監督小沢の言葉にも気合いが入る。
昭和36年7月31日 鳥取県公設野球場 東中国大会決勝 対岡山東商

倉敷から、多くの応援団が鳥取へと向かった。
試合は、倉敷工 永山、岡山東商 岡本の先発で好ゲームにはなったが、やや倉工が押し気味でもあった。

7回表、倉工の攻撃。二死(一死?)ランナー一塁、三塁のチャンスが来た。
「ここだ」 ベンチのナインもわかっていた。「ここでやるんだ。ここしかない。」自然と握りこぶしに力が入り、戦況を見つめるナイン。
その時だ。小沢からサインが出た。

「行くぞ 今だ 行け 走れ」 「よっしゃあー」 見事に秘策が成功。
その瞬間ナイン全員がガッツポーズをして、ベンチを飛び出した。
また、三塁側倉工応援団も全員がガッツポーズをして湧き立った。
その秘策とは、Wスチールだったのである。

小沢の奥深い戦術。先を見越した作戦。結局このWスチールが勝敗の決め手となり、
3対1で勝利。春夏合わせて6回目の甲子園出場。2年ぶり3回目の夏の甲子園出場となったのである。
松本が泣いた。全員が抱き合って泣いた。

「これで甲子園に行ける。森脇を連れて行く事ができる。」と。
外野手の土倉は「森脇を欠いた中で、ここまで来たのだから、どうしても と言う気持ちが、東商さんより上回っていたんではないかと思います。」
主将の松本は、「全員が大舞台のマウンドへ、と言う思いで戦ったことで、実力以上の力を生んだ。」と涙。

誰かが、松本に声を掛けた。「良かったなあ、松本」。

新聞には、「狂喜乱舞の倉工応援団」「東中国代表に倉敷工」「チームワークの勝利 小沢監督」と出た。
舞台は整った。行くぞ夢舞台。大甲子園へ。
森脇と共に。

21名無しさん:2017/08/19(土) 15:05:15
1961年夏、第43回大会、大会3日目第3試合。

倉敷工業 対 報徳学園の試合は、両チームともに壮絶な戦いになって行くのである。
それでも、松本は「森脇を、森脇をおねがいします。」と指揮官小沢に必死に懇願するのであった。

すると、指揮官は「では、打って来い。森脇が投げられる状況を、お前が作って来い。」と。
こうして試合は、0 対 0のまま延長戦に突入。ここで、3塁側倉工アルプス席を見てみよう。

学生服を着て、鉢巻きをして両足を大きく横に開き、膝を90度に曲げて、握りこぶしを作り、左右交互に突き出している男子リーダー。
女子生徒は、リズムに合わせて手拍子をして応援をしている。

こうして迎えた延長11回表倉工の攻撃。一死から2番中村が四球で出塁する。
3番槌田の当たりは平凡なショートゴロ。当然Wプレーのケースだったが、二塁に投げた球がそれて、ライト方面に転がった。
それを見た中村は、一気に三塁に行き、一死一塁三塁。ここで、3安打をしている鎌田が打席に入る。

報徳学園沢井監督は、敬遠を指示し、一死満塁策を取った。ここで、5番松本が打席に入る。
松本は、第一球をフルスイング。その瞬間甲子園がどっと沸いた。
打球は低いライナーでレフトの頭上を越えて、外野フェンス直撃の二塁打となり、中村と槌田が生還。倉工2点の先取点を上げる。

ここで小沢にとって、今でも脳裏に焼き付いて離れられないシーンが展開されるのである。

「二塁打を打った松本が、なんと二塁ベースの上に正座をして、両手を合わせて (監督さ〜ん) と呼びかけた松本の姿に私は、心が震えました。」と。
このシーンを、外野手の三宅は、ベンチから見ていて、鮮明に覚えていた。

「松本が、こうやって、こうして座って、(ワシが打ったんだから、文句はなかろうが)と言わんばかりのような感じだった。
そして頼むから森脇に代えてくれ。と言うような松本の姿でした。」と言う。

その後、ショートゴロをバックホームした球が高くなり、フィリダースチョイスとなり3点目が入る。
ここで左打席の白川が、スクイズを決めて4点目。さらに、永山が三遊間タイムリーで5点目。
倉工の勢いはさらに続き、Wスチールまで決めて、6点目が入ったのである。この延長11回表、倉工は一挙に6点。
日本中の誰もが「倉敷工業の勝ち」と思ったに違いない。

森脇は、ベンチの横で岡田とキャッチボールをしている。

この試合を、甲子園の魔物が見ていた。

22名無しさん:2017/08/19(土) 15:17:58
日本中の誰もが、「倉敷工業の勝ち」と思ったに違いない。
土倉は、「私の方から監督さんに言ってませんが、あと一回でいいんで、森脇を投げさせてほしい。
と思っていました。」と。

延長11回裏、報徳沢井監督は、先頭打者の4番奥野に代えて、試合に出た事のない平塚を代打に送った。
その平塚は、ボテボテの内野安打で出塁。一死後、6番藤田が死球で一塁二塁。
7番清井は、浅いライト前ヒットだったが、平塚が迷わず本塁に突入。
本塁上のクロスプレーは大きくうまく回り込んで、きわどく生還。6 対 1。
続く吉村のファーストゴロの間に2点め。
6 対 2。 倉工4点リード。 ランナー3塁。 しかし二死。

小沢は思った。「今まで、頑張って来たのは、全ては森脇のためなんだ。ここで使おう。」と。
こうして、エース森脇がマウンドへ。松本らナインの悲願は達成できたのだった。
一方、永山は三塁へ回った。永山は「やれやれ、これで自分の役目は終わった。」と、思ったのだった。

エース森脇、2ストライク1ボールと追い込んだ。
そして、渾身のストレートを投げ込んだ。
すると、主審の右手が上がりかけた。上がりかけた。
土倉は、「ライトから見ていると、ストライクか、ボールかがわかるので、その一球でベンチに帰りかけていました。」と。

ところが、主審の右手が下がった。「ボ ボール」 結局、この一球が、倉工にとって運命の一球になったのだった。
この運命の一球について、永山は「審判は、自信を持って、ジャッジコールをしていると思いますが捕手の槌田は 
(あの一球は、絶対にストライク) と、何年も何年も言い続けていました。」

森脇は、その7番高橋に四球。8番の貴田に、レフト前にタイムリーで3点め。
森脇にとってやっと、投球練習が出来るようにはなっていたが、甲子園でのマウンドは、明らかに酷だったのだ。

ここで、倉工ベンチは、森脇をベンチに帰し、永山に再登板を命じたが、レフト前ヒットで満塁に。
続く、内藤は、センター前ヒットで、二人のランナーが帰り、1点差となった。打順は一巡。

平塚は、センター前へヒット。二塁走者の東は本塁に突入できず、三塁で止まるが、
センターからの返球を、捕手の槌田が後逸。それを見た、東が帰って 6 対 6 の同点となった。

報徳の勢いを、倉工は誰も止められない。
12回裏、報徳は、藤田がレフトへ2塁打。
清井のサードゴロの間に、三進。ここで、倉工ベンチは、2人の打者に敬遠を指示し満塁策を取った。
続く、貴田は、ライトへ。わずかに土倉のグローブをかすめた。 
6 対 7 の信じられない試合の結果となった。

こうして、倉敷工業 対 報徳学園 の死闘は終止符を打ったのだった。
この死闘から、報徳学園は「逆転の報徳」の異名をとるようになる。
やはり、甲子園には魔物が潜んでいるのだろうか。

また、この試合は 「奇跡の大逆転」 として後世に受け継がれる事になって行くのであった。
新聞には、「倉工、継投に誤算」「報徳、ねばり勝つ」「大量の、先取点むなし」「選手に謝る、小沢監督」と出た。

宿舎に帰った小沢。ふすまを開けると、思わず息を飲んだ。

23名無しさん:2017/08/19(土) 15:28:36
新聞に、「選手に謝る 小沢監督」と出た。

森脇に全てを託す意味からも、あの時永山をベンチに下しておくべきだった。
采配ミスを、選手に謝ったのだ。
しかし、ようやく投げられるようになったばかりのエース森脇にとって、
「みんなの思いが、逆にプレッシャーになった。」

永山も、「三塁の守備に入り、自分の責任は果たした。ほっとしていた。」
再登板は、あまりにも酷だったのだ。

宿舎に帰った小沢。襖を開けると思わず息をのんだ。
そこには、大広間に松本ら全選手が、正座をして小沢の帰りを待っていたのだ。
小沢も正座をして手をついた。

「申し訳ない。お前たちを勝たしてやれんで、本当に申し訳ない。
倉敷へ帰ったらお互いことわりをしよう。(どうも、すみませんでした)と。

わしは、何回も謝る。君らも一回謝ってくれ。しかし、二度三度謝る必要はない。
君らは、素晴らしい野球を見せてくれた。どうか、今日の敗戦を君らの永い人生に活かそうではないか。
活かしてくれよな。」と言うと、手をついて頭を下げたのだった。

一方、松本らは「森脇を、出してくれてありがとうございました。」「ありがとうございました。」
小沢の目に、光るものがあった。松本らは、感謝の言葉を返したのだった。

この後、小沢は、何年も何年も監督を続ける事になるのだが、試合に負けても決して選手を責めなかったという。
情に厚い人格者でもあったのだ。

全力を出し尽くして敗れた君たちには、何の責任もない。全ての責任は、監督の私にある。
どんな非難も、私一人が受け止める。それよりかは、甲子園出場を果たしたことを、君らの永い人生に活かしてほしい。
弱冠30歳の青年指揮官の思いであった。

24名無しさん:2017/08/19(土) 17:19:07
槌田誠

倉敷工業高校2年時の1961年、投の二本柱である森脇敏正、永山勝利(東洋紡岩国)を擁し、
三番打者、捕手として夏の甲子園に出場。翌1962年も夏の甲子園に連続出場する。

卒業後は立教大学に進学。
四番打者として戦後2人目の三冠王を獲得した。
リーグ通算50試合出場、174打数54安打、打率.310、7本塁打、34打点。
ベストナイン2回。

同年ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。
1967年6月6日、大洋戦での初安打が代打満塁ホームランという派手なデビューを果たす。

しかし森昌彦が正捕手として君臨している巨人ではなかなか出番はなく、
同年は10月にわずか4試合先発マスクを被るにとどまる。

25名無しさん:2017/08/19(土) 17:31:27
槌田誠

立教大時代の昭和42年春、東京六大学史上2人目の三冠王に輝いた実績とは裏腹に、
プロ入り後は苦難の道を歩んでいたようだった。

「巨人は、なかなかひと休みさせてくれないなぁ」と森昌彦が冗談半分、
本音半分でもらしたのは昭和41年11月のドラフト会議当日だった。

なぜなら巨人は、「1位指名」と目されていた日本石油のエース、平松政次投手を蹴り、
その年の春季リーグ戦で三冠王に輝いた立教大の槌田誠捕手を指名したからである。

森は34年からレギュラーの座を獲得したが、打撃の弱さがあり、
首脳陣の全幅の信頼はもらえていなかった。

38年には慶応大から大橋勲を、40年には市立神港高から吉田孝司を、42年には槌田、
さらに中京商高から矢沢正を、45年には東京六大学の首位打者、早大・阿野鉱二を…。
毎年のように高校、大学の実力派捕手を補強し続けたのだから、森がぐちるのも無理はない。

だが森は、すべての刺客を蹴散らした。
川上哲治が昭和13年から21年間、王貞治が34年から21年間。
「巨人の一塁手はふたりで42年間」とよく言われるが、
どっこい、森だって激務といわれる捕手の座を15年間も独占していたのである。

このあおりをもろに受けてしまったひとりが槌田だった。
そんな槌田も、一度だけスポットライトを浴びたことがある。

ルーキーだった42年6月6日の大洋戦(川崎球場)。
9回表、そのシーズン初の完封負けを目前にして、3塁側巨人ベンチはまるで通夜のように静かだった。
川上監督はいつも通り後列の長いすに腰を掛け、小さく貧乏ゆすりを繰り返していた。

そのとき、突然大きなだみ声が響き渡った。
「行こうぜ、高倉さん。行こう! 行こう!」。
開幕から2軍生活で、3日前に1軍に上がってきたばかり。
まだ1本の安打すら打っていないルーキーが発した熱気。

ベンチ前列から体を乗り出すようにして、槌田がこの回の先頭打者、高倉に叫んでいた。
このひと声にベンチがよみがえった。誰もがいっせいに何かを叫び始めた。

敗色濃厚ではあるが、槌田のこの闘志が川上監督に「宮田の代打・槌田」を決心させた。
満塁。自身プロ入り3打席目の舞台はこうして巡ってきた。

急いでベンチ裏で素振りをしての打席。
大洋・森中力投手のストレートは、ライナーで左中間席に飛びこんで行った。

「まぐれですよ。でも、一本打ちたかった。学生時代から通じて満塁ホームランなんて初めて。しかも、代打でなんて…」

金田正一投手に「こら、負けたときはもっと悲しそうな顔をしろ!」と、冗談まじりでカミナリを落とされても、笑顔は消えなかった。

インタビューのあと、時計を見て槌田はあわてた。
「あっ、明日は東京とのイースタン戦があるんだ。川崎に間に合うかな?」

習慣で、2軍戦に出場するつもりだったようだ。
そばにいた高橋一三投手が教えてやった。「行かなくっていいんです。あしたは多摩川で練習ですよ」-。

“ほら吹きクレー”のニックネームで人気者になったが、レギュラーの座は遠く、52年にヤクルトへ移籍。
1年で現役を引退し、53年から2年間、日本ハムのバッテリーコーチ補佐を務めた。
平成11年、胃がんのため55歳の若さで鬼籍に。記憶に色濃い脇役だった。

26名無しさん:2017/08/19(土) 17:55:44
片岡新之助

倉敷工業高校2年生まで捕手で、3年生の時には投手を務める。
平松政次・松岡弘・森安敏明と並んで岡山四天王の一人として注目されるが、
捕手のリードに首を振って打たれたことから捕手の重要性に気付く。

クラレ岡山では都市対抗野球大会で毎年活躍、
ドラフト5位で西鉄ライオンズから指名を受け、
翌1970年のシーズンいっぱいクラレ岡山でプレーすることを条件に西鉄と合意し、
1971年はルーキーながら29試合に出場。
ジュニアオールスターにも選出される。

翌1972年は、ロッテオリオンズに移籍した村上公康に代ってレギュラー捕手となるが、
その後は宮寺勝利、楠城徹と併用された。

1975年オフ、加藤博一と共に鈴木照雄、五月女豊との交換トレードで阪神タイガースに移籍。
ここでは田淵幸一、若菜嘉晴らの控え捕手として重宝された。

特に1977年には、185打数で10本塁打(うち、満塁本塁打2本)を放つなど、存在感のある控え選手であった。
1980年オフ、笠間雄二との交換トレードで阪急ブレーブスへ移籍。阪急では中沢伸二らの控えとして活躍し、1986年オフに現役を引退した。

引退後は広島東洋カープの二軍バッテリーコーチ(1987年 - 1991年, 1994年 - 1998年, 2001年 - 2003年)、
一軍バッテリーコーチ(1992年 - 1993年, 1999年 - 2000年)を務め、西山秀二・石原慶幸を育てるなど捕手層を厚くした。
2004年から2005年にはJR九州硬式野球部のコーチを務め、2年連続で都市対抗に出場。

現在は生誕の地でもある広島で、MSH医療専門学校硬式野球部の監督を務めている。

27名無しさん:2017/08/19(土) 18:08:53
秋山重雄

倉敷工業高校では1964年の春の甲子園に出場。

高校卒業後は、立教大学へ進学。
1966年春季リーグでは槌田誠、小川亨らとともに、7年ぶりの優勝を果たす。
東京六大学リーグ通算66試合出場、248打数66安打、打率.266、4本塁打、23打点。
ベストナイン2回(二塁手)。

1968年ドラフト会議で近鉄バファローズから4位指名を受け、入団。
1969年7月には、新人ながら二塁手として先発起用され、同年のジュニアオールスターにも出場するが、
打撃面で伸び悩み二軍暮らしが長かった。

しかし1976年には主に二塁手として18試合に先発出場するなど、
内野のユーティリティプレイヤーとして活躍。
1977年限りで引退。

その後は一時期KBS京都の野球解説者をつとめ、西本幸雄監督最後の試合の解説も担当した。

28名無しさん:2017/08/20(日) 07:55:24
居郷肇

岡山市立瀬戸中学校入学と同時に、投手として本格的に野球を始める。

倉敷工業高時代も投手として活躍し、1974年の第46回選抜高等学校野球大会に出場。
磐城高・滝川高を降し準々決勝まで勝ち上がったが、池田高に1-2で敗れ、ベスト8で終わった。
同年夏も県予選を勝ち抜き、二塁手、四番打者として東中国大会決勝に進むが、玉島商に完封負け、甲子園出場を逸する。

高校卒業後、1975年に法政大学経営学部に入学し、野球部に入部する。
1年先輩に江川卓、佃正樹ら好投手がおり、また自身も肩を痛めて投手が出来なくなったため、内野手(三塁手、二塁手)に転向。
袴田英利は1年先輩。東京六大学野球リーグでは在学中4回優勝。

1978年の大学4年時には主将に就任し、同年春季リーグの対立教大学1回戦で東京六大学野球史上初のサイクルヒットを達成。
リーグ戦通算42試合出場、155打数56安打、打率.361、5本塁打、22打点。
ベストナイン(二塁手)2回選出。

大学卒業後、社会人野球のプリンスホテルへ第1期生として入部する。
1980年には都市対抗にチーム初出場を果たし、1回戦で神戸製鋼と対戦。
居郷の適時打による1点をエース住友一哉が守り切り完封勝利。

しかし2回戦では新日本製鐵釜石に延長13回、リリーフの小林秀一(熊谷組から補強)が打ち込まれサヨナラ負け。
この試合でも適時打、本塁打を放ち活躍した。その後も赤坂プリンスホテルに勤務する傍ら、30歳までプレーを続けた。

現役引退後は、プリンスホテル社員として社業に専念。
系列の大箱根カントリー倶楽部総支配人などを務め、2009年6月にはプリンスホテル執行役員に就任。

2011年にプリンスホテル執行役員から3月16日付で、プロ野球埼玉西武ライオンズ球団代表取締役社長及び球団オーナー代行に就任、
野球界に復帰したが、球団社長就任以降は主力選手のFA流出阻止の失敗・獲得した外国人選手の不振などで目立った業績をほとんど残さず、
2014年以降は連続してBクラスに終わり、チームの低迷が顕著になっている。

29名無しさん:2017/08/20(日) 08:03:19
居郷肇

野球は、中学の軟式野球から本格的に始め、
ピッチャーとして、県大会初出場初優勝の大きな原動力になったと自負しています。

その後、岡山県の2強の一角、倉敷工業高校の監督に声をかけられて入学。
3年生の春には甲子園の選抜大会でベスト8まで進みました。
しかし肩をこわし、その後は内野手に転向しました。

法政大学野球部時代の思い出で強烈なのは、なんといっても寮生活です。
当時はまだ上下関係が厳しく、1年生の時は辛かったですね。
もっとも、その後の人生で何をやるにしても、あの時の経験に比べれば大したことはないと思えましたから、
あの経験があったからこそ、私の今の人生があるのだと思います。

江川卓選手などの力のある先輩たちが東京六大学野球で4連覇し、その卒業後に4年生、
そして主将になったので、初戦でリーグ史上初のサイクルヒットを打てたこともいい思い出になっています。
もっとも、史上初の5連覇はかないませんでしたが…。

卒業後は、プロから声がかからなければ社会人野球の東芝チームに行く予定でした。
ところが、次の年から野球チームを立ち上げるというプリンスホテルから、是非に、ということで誘われたのです。
優秀な選手を集めているし、自分たちが1期生なので怖い先輩もおらず(笑)、
のびのびプレーできるだろうという期待もあって、入団を決めました。

30名無しさん:2017/08/20(日) 08:25:33
室山皓之助

倉敷工業では、エース渡辺博文を擁し、1957年の春の甲子園に出場。
準決勝に進むが高知商の小松敏宏に抑えられ敗退。

卒業後は法政大学に進学。東京六大学リーグでは在学中に4度優勝。
1960年の春季リーグで首位打者を獲得した。
同年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で同志社大を破り優勝。
リーグ通算68試合出場、232打数69安打、打率.297、2本塁打、26打点。ベストナイン3回。

1962年に阪神タイガースに入団。同年は開幕直後から右翼手、
七番打者として起用され33試合に先発出場するが、シーズン終了間近にアキレス腱を切断してしまう。

翌1963年は自己最多の81試合に出場し、三番打者としても先発を経験。しかし1964年は8試合の出場に終わる。
1965年には再びアキレス腱を切断し、1966年オフに引退し、後にフロント入りした。

31名無しさん:2017/08/20(日) 09:17:30
兼光保明

倉敷工業高校から1975年プロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから3位指名され入団。
6年目の1981年に1軍初出場し、この年は18試合に出場した。1983年に引退した。

引退後はフードビジネスの会社に就職し、その後独立。
2003年に大阪市平野区でパティスリー「Kenally」を開業した。


74年、75年と春の選抜に出場。
74年はベスト8。蔦監督の池田に延長12回、2-1で惜敗。

75年は伝説の開幕戦、中京と16-15。
二回戦では原辰徳の東海大相模に1-0で惜敗。

74年は居郷君が投げ兼光君はレフトだった。
兼光君に早く代えていたら勝てていたね。
この頃の兼光君の剛速球は外野には飛ばなかった。

肩をこわす前のこの春、夏と兼光君中心で戦っていたら優勝出来たのでは・・・。
小沢監督は大切に育てたかったのか?・・・。

74年、75年と夏は共に代表決定戦で惜敗した。
75年は小沢監督最後の甲子園采配。

この74年、75年の大型チームで全国優勝して欲しかったね。
その力は十分に有った。監督も自信が有った筈だ。

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33名無しさん:2017/08/20(日) 10:15:12
兼光保明

高校時代から野球部で活躍し、卒業後はドラフト指名を受けプロへ。
若い頃から自分の力で商売をして生きていくことに興味があり、引退後はすぐにその準備に取り掛かった。

「今までの人生に頼っていては新しい道は開けない。
そう考え、一から社会人としての経験を積むべくフードビジネスの会社に入社しました。」

10年間みっちり、会社組織についてのノウハウや店舗運営のスキルを習得。
退職後は同僚と共にケーキの卸・販売を手がける会社を運営。

機械化し、冷凍技術も発達した中でのケーキ作り。効率の良さは利益に直結していたが、
兼光さんの心には元来持っていた職人気質が顔を出し始めた。

「自分で考えた手作りの商品を売りたい。アナログでやりたい…そんな気持ちが加速してきたんです。」
3年後に独立。自ら企画したパティスリーを東大阪で立ち上げる。しかし今度は新たな思いが生まれてきた。

「自分は売上を上げるために徹底的に勉強してきた。
売れている店を見て多くのことを学んできた。が、果たしてそれはオリジナルなのだろうか? 」

そこそこ売れているのだからいいじゃないか…そんな自分の中の声を振り切り、
兼光さんはまた一からのスタートを決意した。「美味しいものを作るには手間をかけ、
本質から変えなければいけない。10年後まで設計図が描ける、本当に自分のやりたい店をやろう。」

商品以外でもお店の魅力を高めるため、テラス席を設けた外観を花で飾った。
自動扉ではなく、お客様が自ら扉を開けることで期待感が高まる。

そして目に飛び込んでくるショーケースには、綺麗なケーキよりも美味しさの想像を掻き立てるようなケーキを。
こうして2003年9月、「ケナリィー」が誕生した。


Kenally(ケナリィー)
電話:06-6701-0018
所在地:大阪市平野区平野南4-1-12
営業時間:10:00〜20:00(カフェのL.O.19:30)
定休日:無休
交通:地下鉄谷町線「平野駅」徒歩10分

34名無しさん:2017/08/20(日) 10:30:22
中藤義雄

岡山県立倉敷工業高等学校からプリンスホテルへ入社し、
1986年の都市対抗野球に出場。
同年、ドラフト4位で近鉄バファローズに入団。

内野ならどこでも守れる器用さと好打で即戦力と期待された。
1年目は怪我で出遅れたが、シーズン後半に1軍登録されると、そこそこの活躍を見せた。

2年目の1988年にはジュニアオールスターに選出されるなど、
2軍では活躍したが1軍に昇格することはなかった。

引退から3年後に少年野球塾を経営し、現在も野球塾を続け野球技術指導員の資格を取り、
地元で野球の指導にも力を入れている。

現在は高校野球監督を目指して教員免許取得のため通信制の大学に通っている。
と同時に通信制高校、 岡山高等学院にて講師として教育現場で働いている。

35名無しさん:2017/08/21(月) 09:51:10
小山稔

夢とロマンを持った少年。全力をかける大きな夢。
その夢とは、プロ野球選手になる事。そして、苦労を掛けた母への、感謝の親孝行の事である。
その少年とは、小山 稔。後に「黄金の左腕 小山 稔」と、異名をとる倉工のエース小山である。

(吉備中 出身) 昭和41年の春、小山は名門倉敷工業の門をくぐった。
その頃、倉敷市は工業都市として、また、観光都市として、急速な発展の最中でもあった。

実は、小山について、倉敷工業と岡山東商とが、激しい争奪戦を展開していたのである。
当時は、倉工と岡山東商とが、県高校野球の盟主として君臨。
その戦いは竜虎の戦いと言われたものでもあったのだ。

こうした中、小山を射止めたのは、「小沢監督の勧誘の言葉とお爺さんの、倉工への勧めがあったから。」と、小山は言う。

小沢監督から言われた言葉。
「私がここに来たのは、君が素晴らしい投手である事。そして、自分の力でエースを勝ち取って欲しい。
そのためには努力が必要だ。努力をする事で将来が見えてくるのだ。その努力を倉工でしてみないか。
私の前で。将来の事は、私にはわからん。そんな無責任な事は私には、言えない。
ただ言えるのは、抜群の野球センスを持っている事だ。」

それを聞いた、お爺さんは小沢監督に感銘を受け、倉工行きを勧めたのである。
一方、小山は「その頃、倉工は少し低迷をしていて。私が、倉工に行き甲子園に行ったり
活躍できたりしたら、関係者から喜んでもらえるのではないかと、思いました。」と言う。

こうして、「倉工 小山 稔」が誕生したのである。
小山が、一番最初に倉工を訪問したのは、中学生が高校への練習許可になった、
翌日の3月27日の事だった。

早速、練習着に着替えた小山。小沢監督から、「シートバッテイングに投げろ」と言われ、
しかも「小山、カーブは要らない。ストレートだけでいいから。」と。
小山は、初めて倉工のマウンドに上がった。

36名無しさん:2017/08/21(月) 10:01:24
昭和40年岡山東商 選抜優勝。

先を越された、小沢監督。岡山東商 選抜優勝のすぐ後の春の県大会では
「ここで、岡山東商をたたかいと、倉工の存在価値はない。今日が、我々の甲子園だ。」

と、悲壮感にも似た気持ちで臨み、準々決勝で 5 対 3でライバルを倒す。
この試合で2年生が大活躍。選抜の優勝投手 平松投手を攻略したのだ。
その2年生、いや新3年生の、強打者がずらりと、小山の前に立った。

シートバッティングと言えども真剣勝負。
小山にも、闘争心に火がついた。右足を上げ、腕を振った。すると、新3年生全員が驚いた。

「新3年生、全員に投げたんですけど、かすりもしませんでした。」と、小山。
ファールチップがやっとだったのである。新3年生が言った。
「おまえ、すげえなー。」 (選抜優勝投手の) 「平松より上じゃ。」

小山は、入学式の翌日に背番号14を、小沢監督からもらったのだ。
新1年生で早くもベンチ入りを果たしたのである。

41年春季県大会優勝。中国大会でも小山は、リリーフとして活躍。

工業に、商業に発展を重ねる倉敷市。
倉敷の名前を全国に轟かすための、一番の近道は
やはり、倉工が甲子園で活躍する事だろう。
その期待を全面的に受け、努力を積み重ねる小山だった。

左腕の速球派投手として、一年生ながらエースに成長して行く小山。

こうして、迎えた41年秋。県大会でこそ、決勝で津山商に負け準優勝。つづく、秋の中国大会。
当然、来年の選抜甲子園の重要参考資料である。

その秋の中国大会では、優勝候補と言われた、邇摩 (島根) 豊浦 (山口) と連続完封して決勝へ進出。
決勝では、尾道商 (広島)に対し、1 対 0 で9回までリード。3試合全て完封かと思われた。

ところが、9回ランナーをおいて倉工にエラーが連続して出て、 1 対 6 の逆転負け。
しかし、県大会準優勝、中国大会準優勝。2試合連続完封。
「来年の、選抜甲子園は、間違いない。」と、言われて来た。




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