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忘れられた、源氏

1三本一博:2016/11/14(月) 22:52:08
高知県の四万十町に志和薬師寺があり、その棟札に御本家領家次第沙汰人
とあるが、それを、「ごほんけりょうけしだいさたにん」と読まれて誰の
ことか、わからなくなっています。別の書物には丁寧に御本尊領家次第沙
沙汰人と書かれているのに、これもまた「ごほんぞん」と読まれて誤写と
なっています。(みもとのみこと)と読めば、同じ事だとすぐ解る筈ですが。
紀州武田の御本氏が家系図に土佐に移ってと書いてます。
年代を調べても、だいたいあってますし、この時代荘園制度によってこの
土佐に来たのだろうと推測されます、苗字の由来も御本明神からくるもの
だと、推測されます、これによると御本は、三本とも書くそうです。
よその県に、ある三本(みつもと)とは、違うと思われます。
この事実は、なかなかわかってもらえないです、普通 本家〇〇家などとは
書くかもしれないが、ごんけ とは文面が おかしくはないだろうか?
ごほんぞんにあたっては、これだけ誤写する人がいるだろうか?

5名無しさん:2017/04/18(火) 22:47:41
岸という姓なのですが、天保時代頃から明治期までの先祖が、山形県村山郡に在住していた侍なのですが、
その辺の場所は、岸氏発祥の場所の一つであるというような事が、
青春出版社『名字でわかるおもしろ起源(ルーツ)』丹波基二氏著などに書いてあり、

また、そこは、源義仲の末裔の岸美作守源朝臣義満が、在地領主・豪族として居た場所であると、角川書店『姓氏家系大辭典 第二巻 キ〜ト』太田亮氏監修に書いてあるのですが、

やはり、先祖は岸美作守源朝臣義満であると考えてよろしいのでしょうか。

また、清和源氏会があるようですので、源義仲末裔として入会したいのですが、入会には家系図が必要との事で、
岸美作守源朝臣義満一族は、最上義光に敗けて家臣にされており、
改易の際の破棄により、最上家家臣の家系図は特に壊滅的であるとの事なので、困っております。

客観的に見て、家系図が無くとも、源義仲の末裔であるだとか、岸美作守源朝臣義満の末裔であるだとか、清和源氏であると認識して頂けるものなのでしょうか?

6名無しさん:2017/04/19(水) 07:49:52
>>5 の追記です。

そのまえに、出口氏のご質問のご回答が、終えられてはいませんでしたのに、
迂闊にも気が付かずにスレッドをお上げしてしまいまして、申し訳なかったというお詫びを、申し上げておきます。


出羽村山郡の岸氏のルーツとされる岸美作守源朝臣義満は、柴田兼頼という在地豪族が、
土地を差し出し築城までしている事や、何百人対、最上軍5000人を前にしても、豪族や出羽山僧兵が駆け付けて加勢している事などから、
それなりの格の清和源氏であったとの確信に足る何かがあったと、
清和源氏であったには違いないのだろうなとは、考えられるかと存じます。

ですが、関東のどこかから出羽に移り住んで、それが、関東のどこからだったかは分からないだとか、
美作守というのが釈然としません。


美作は確かに領主系の交代が激しい所だったらしく、岸美作守義満が源義満の末裔というのは本当で、一時期は美作守家系であったのかなとも考えられます。

いっぽうで、美作もまた、岸氏の発祥地の一つとして、先ず挙げられる場所であり、それは山名氏流清和源氏であるとの事です。

本当に、美作に居た、源義仲の末裔というのはあり得るものなのでしょうか、
また、美作の山名氏から分かれた家系とすれば、山名氏の誰から分かれたと考えられるのでしょうか。

更に、出来れば、関東のどこから出羽に移り住んだと考えられるのか。

如何なものでしょうか。勿論、絶対的なお答えなど、求めさせて頂いてはおりません。

貴サイト様のご見解を、ご参考にさせて頂ければ宜しいのです。

7研究編集部:2018/06/04(月) 15:07:51
 世に清和源氏の出と称する諸氏は多いのですが、その殆どは、系図が明らかな少数の
ものを除いて、系譜の詐称・仮冒と思われます。
 源義仲流はほとんど実在しないはずで、信濃木曽の木曽氏も、実態は藤原姓を称した
別流のはずです。ましてや、他の諸国に後裔があったとは思われませんから、それぞれ
の地の実情や歴史に即した系図探索をしてはいかがでしょうか。


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