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忘れられた、源氏

1三本一博:2016/11/14(月) 22:52:08
高知県の四万十町に志和薬師寺があり、その棟札に御本家領家次第沙汰人
とあるが、それを、「ごほんけりょうけしだいさたにん」と読まれて誰の
ことか、わからなくなっています。別の書物には丁寧に御本尊領家次第沙
沙汰人と書かれているのに、これもまた「ごほんぞん」と読まれて誤写と
なっています。(みもとのみこと)と読めば、同じ事だとすぐ解る筈ですが。
紀州武田の御本氏が家系図に土佐に移ってと書いてます。
年代を調べても、だいたいあってますし、この時代荘園制度によってこの
土佐に来たのだろうと推測されます、苗字の由来も御本明神からくるもの
だと、推測されます、これによると御本は、三本とも書くそうです。
よその県に、ある三本(みつもと)とは、違うと思われます。
この事実は、なかなかわかってもらえないです、普通 本家〇〇家などとは
書くかもしれないが、ごんけ とは文面が おかしくはないだろうか?
ごほんぞんにあたっては、これだけ誤写する人がいるだろうか?

2研究編集部:2016/11/30(水) 13:40:55
1 世に通行する源平藤橘などの大姓は、具体的な系図・史料で裏付けのあるものを除き、
ほとんど全てが系譜仮冒による僭称にすぎません(史実ではないと言うことです)。それが、『吾妻鏡』に記載のある姓氏でも、この事情は変わりません。

2 世の中には誤解が通用している例が多く、例えば、佐藤、斎藤、加藤、近藤など「□
藤」とつくのは藤原氏の子孫と一般に受けとられているようでますが、これはまったくの
誤りで、むしろ「□藤」というのは「本来は、藤原氏ではなかった」というのが実態とみ
られます。ただし、個別に藤原氏を称したことを否定するものではありません。
 桓武平氏の武家は、東国では常陸大掾一族と越後の城一族以外は、東国古族の末流とみ
られますし、『尊卑分脈』の武家平氏の系図の始まりの部分は、清盛への流れ以外の殆ど
では信頼性に乏しいのが大部分です。
 清和源氏は、かなり詳しい内容が『尊卑分脈』にありますが、それでも信濃源氏などに
疑問な個所があり、これに記載されない系図はまず信頼性を疑ってかかるのがよいところ
です。

3 紀伊には甲斐源氏の武田氏一族の流れという諸氏が繁衍しました。具体的には、源平
争乱期の武田太郎信義の弟に奈古九郎義行がおり、その子孫が熊野の武田氏で、中世の大
族湯川氏もその流れという系図に改変されますが、これは系譜仮冒です。
 実際には、尾張連の同族に竹田連があり、その後裔は主に紀州熊野の牟婁郡で繁衍した
もので、天平勝宝年間に竹田連大麻呂が牟婁郡栗栖郷(富田川流域か)の郷長になったの
が起源とされる。その子孫は生馬山王社を創建し、栗栖、岩淵、栢山、松本などが出た。
愛洲(会洲、愛須)は紀伊志摩伊勢などに勢力を持ち、紀伊国牟婁郡の一族に久留栖、三
本、上郷、近露、山本、湯川、武田、川、別所、上(宇恵)、幸徳、波沙、坂本、尾喜な
ど、また土佐に遷した支流から御本、武田、浜田(その末裔に田中光顕伯爵家も出す)な
どを出した、という事情があります。土佐の幸徳、坂本も、同様に熊野からの流れとみる
のが自然でしょう。
 源氏を称したのは、武田・竹田というつながりから、家格を高めるために利用されたと
みられ、源氏と言っているから、それらがすべて史実だというようには考えないほうが史
実に即したものといえましょう。

3三本一博:2016/12/01(木) 19:28:47
武田信光の2子の武田信忠が義絶されたとあり、その子 家弘が養子になったか、
信忠が家弘に改名したようなことは、ないのでしょうか?

4研究編集部:2016/12/13(火) 12:28:24
  武田信忠の子孫は確認できず、五島列島の宇久氏ともども、疑問なものです。
「信忠が家弘に改名」ということは、当時の命名法から言っても、無理な想定です。

5名無しさん:2017/04/18(火) 22:47:41
岸という姓なのですが、天保時代頃から明治期までの先祖が、山形県村山郡に在住していた侍なのですが、
その辺の場所は、岸氏発祥の場所の一つであるというような事が、
青春出版社『名字でわかるおもしろ起源(ルーツ)』丹波基二氏著などに書いてあり、

また、そこは、源義仲の末裔の岸美作守源朝臣義満が、在地領主・豪族として居た場所であると、角川書店『姓氏家系大辭典 第二巻 キ〜ト』太田亮氏監修に書いてあるのですが、

やはり、先祖は岸美作守源朝臣義満であると考えてよろしいのでしょうか。

また、清和源氏会があるようですので、源義仲末裔として入会したいのですが、入会には家系図が必要との事で、
岸美作守源朝臣義満一族は、最上義光に敗けて家臣にされており、
改易の際の破棄により、最上家家臣の家系図は特に壊滅的であるとの事なので、困っております。

客観的に見て、家系図が無くとも、源義仲の末裔であるだとか、岸美作守源朝臣義満の末裔であるだとか、清和源氏であると認識して頂けるものなのでしょうか?

6名無しさん:2017/04/19(水) 07:49:52
>>5 の追記です。

そのまえに、出口氏のご質問のご回答が、終えられてはいませんでしたのに、
迂闊にも気が付かずにスレッドをお上げしてしまいまして、申し訳なかったというお詫びを、申し上げておきます。


出羽村山郡の岸氏のルーツとされる岸美作守源朝臣義満は、柴田兼頼という在地豪族が、
土地を差し出し築城までしている事や、何百人対、最上軍5000人を前にしても、豪族や出羽山僧兵が駆け付けて加勢している事などから、
それなりの格の清和源氏であったとの確信に足る何かがあったと、
清和源氏であったには違いないのだろうなとは、考えられるかと存じます。

ですが、関東のどこかから出羽に移り住んで、それが、関東のどこからだったかは分からないだとか、
美作守というのが釈然としません。


美作は確かに領主系の交代が激しい所だったらしく、岸美作守義満が源義満の末裔というのは本当で、一時期は美作守家系であったのかなとも考えられます。

いっぽうで、美作もまた、岸氏の発祥地の一つとして、先ず挙げられる場所であり、それは山名氏流清和源氏であるとの事です。

本当に、美作に居た、源義仲の末裔というのはあり得るものなのでしょうか、
また、美作の山名氏から分かれた家系とすれば、山名氏の誰から分かれたと考えられるのでしょうか。

更に、出来れば、関東のどこから出羽に移り住んだと考えられるのか。

如何なものでしょうか。勿論、絶対的なお答えなど、求めさせて頂いてはおりません。

貴サイト様のご見解を、ご参考にさせて頂ければ宜しいのです。

7研究編集部:2018/06/04(月) 15:07:51
 世に清和源氏の出と称する諸氏は多いのですが、その殆どは、系図が明らかな少数の
ものを除いて、系譜の詐称・仮冒と思われます。
 源義仲流はほとんど実在しないはずで、信濃木曽の木曽氏も、実態は藤原姓を称した
別流のはずです。ましてや、他の諸国に後裔があったとは思われませんから、それぞれ
の地の実情や歴史に即した系図探索をしてはいかがでしょうか。


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