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「客観的事実」とは?

32わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/02(日) 11:31:58
> 「誰もが認識できる確かな”モノ”」はないので(理論の真理はそもそも立証できない)、

これのレスを後にしますね。^^

> 不確かなものを批判的に消去していった中に、批判に耐えうるもの、確からしいのが含まれる、
> というのが「批判的合理主義」のキモではないかと思います。

そうですね、それをわめは客観的事実と呼んでいて、最近は暫定真理との呼び方が相応しいかと思ったりしていました。

で最初に戻って、「誰もが認識できる確かな”モノ”」はLibra師匠の言われた”カラス”とか、今わめが叩いてるキーボードとかは、この暫定真理と呼ぶのが相応しいのか、普遍概念と言うのが相応しいのかと言った疑問です。

更に言えば、縁起・無我・無常などは目に見えないことだけど、事象を指し示すことはできるわけで、これはどう呼べばいいのかと・・・

33Libra:2005/10/02(日) 14:03:22
 概念と言明を区別して論じることがまず必要なのではないでしょうか。

 これまで議論してきた「(客観的)事実」の問題は、言明のレベルの問題で
あって、概念のレベルの問題ではないというのがわたしの認識です。

 以下に論じるのは、概念のレベルの問題です。

 概念というのは、言明を作るための道具といってもいいかもしれません。わ
れわれは、「カラス」という普遍概念を用いて、「すべてのカラスは黒い」な
どいった言明をつくります。

 概念の体系というのは、われわれが世界を切り分ける(認識する)ために用
いる「差異の体系」であるといえるかもしれません。

 この「概念の体系」は、「一集団内で」「比較的安定した体系を指向してい
るということは言えるとしても」[*1]、それじたい plastic だとおもいます。
いってみれば、その場しのぎの不完全な道具(以下に見るように、ポパーの表
現でいえば「牢獄」[*2])だとおもいます。

 ウォーフの仮説について考えてみるのもいいとおもいます。ウォーフの仮説
に対して、ポパーは、以下のように言及しています。

  ─────────────────────────────────
   ウォーフとその幾人かの後継者は、われわれがある種の知的牢獄、われ
  われの言語の構造的規則によって形作られた牢獄のなかに住んでいると示
  唆してきた。わたくしはこの比喩を受け入れる用意があるが、しかしわれ
  われは通常この牢獄に気づいていないというかぎりでは、これは奇妙な牢
  獄だということを付け加えねばならない。われわれは文化衝突を通じて牢
  獄に気づきうるのである。しかしそのとき、まさに気づくということによ
  って、牢獄から脱出できるのである。十分に努力し、新しい言語を研究し、
  母語と比較することによって、われわれの牢獄を超越できるのである。
   その結果はまた新しい牢獄であろう。しかし、これははるかに大きく広
  い牢獄であろう。そして再び、われわれはこの牢獄に悩むこともないであ
  ろう。というよりむしろ、新しい牢獄に悩むことになれば、われわれには
  つねにこの牢獄を批判的に検討し、いっそう広い牢獄へと脱出する自由が
  あるのだ。
 
  (カール・R・ポパー「フレームワークの神話」、M・A・ナッターノ編
    『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究
     会訳〕、未來社、1998年、pp. 102-103)
  ─────────────────────────────────


  [*1] 言語体系についての浜本満先生の説明をわたしは支持します。

      ─────────────────────────────
      彼らの議論、〔中略〕、これらがともすればなおざりにしている
      のは、言語が自らのうちに自分自身との「ズレ」を含み、また不
      断にそうした「ズレ」を生みだすことによって特徴付けられる体
      系である、という言語に関するきわめて基本的な事実である。
      〔中略〕つまり、確かに一集団内での言語使用の総体が比較的安
      定した体系を指向しているということは言えるとしても、言葉の
     「本来の用法」だとか「文字どおりの意味」だとかを仮定したり確
      定しようとする努力がつねに困難に陥るという事実が示している
      ように、「ズレ」がそれとの関係で測定できるような絶対的な基
      準、不動の中心はアプリオリには存在しないのである。

      (浜本満「文化相対主義の代価」『理想』第627号、1985年、
        pp. 112-113)
      ─────────────────────────────

  [*2] フレームワークの神話(カール・ポパー)
     http://freett.com/Libra0000/111.html

  [*3] ここでいう「事実」とは、「反証されずに生き延びている──その
     意味では、強固な──仮説」(小河原誠)のことです。以下参照。

      反証はなにをおこなっているのか(小河原誠)
      http://freett.com/Libra0000/125.html

34わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/02(日) 15:15:15
 師匠、ありがとうございます。

 わめにも、少しづつではありますが、見えてきように思います。これも怪しいけどw^^

 「すべての実体は、自立自存していない」の
 すべての実体=概念、自立自存していない=言明でしょうか?
 この解釈が正しいとして、その言明を含む縁起とは体系なのでしょうか?

35わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/02(日) 15:16:02
>見えてきように思います。

訂正w

見えてきたように思います。

36Libra:2005/10/02(日) 16:48:03
 概念は「自立自存」するものではないとおもいます。「概念体系は plastic
だ」とわたしがいうのはそういう意味です。

 ですから、概念は「実体」ではありません。「自立自存」するものを「実体」
というのですから。

 縁起説もひとつの言明です。わたしはこの言明を真であるとおもっています
が、この言明を真であると正当化することはできません。

37わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/02(日) 17:15:13
>  概念は「自立自存」するものではないとおもいます。「概念体系は plastic
> だ」とわたしがいうのはそういう意味です。

 言われるとおり概念は「自立自存」するものではないですね。

>  ですから、概念は「実体」ではありません。「自立自存」するものを「実体」
> というのですから。

 はい、概念は「実体」ではありませんw
 ・・・実体を指す言葉は何なのでしょう?(涙)

 わめは縁起から考えて、「自立自存」するものはないと考えていますから、「実体」もないことになってしまいます。 ちょっと頭がわけわかめに・・・w

>  縁起説もひとつの言明です。わたしはこの言明を真であるとおもっています
> が、この言明を真であると正当化することはできません。

 この言明は暫定的に批判に耐えていると言うことで、暫定真理と呼ぶことは間違いでしょうか?

38Libra:2005/10/02(日) 17:47:41
> 実体を指す言葉は何なのでしょう?

 仏教では「自性」といいますね[*1]。

> わめは縁起から考えて、「自立自存」するものはないと考えていますから、
> 「実体」もないことになってしまいます。

 それこそまさに龍樹がいわんとしたことです[*2]。まさに「ウサギの角」[*3]
のようなもので、たとえ概念的に想定できたとしても、もともとありません。

> 暫定真理と呼ぶことは間違いでしょうか?

 縁起説は批判に耐えているとわたしはおもっていますので、暫定的に受け容
れています。「暫定的に批判に耐えている言説」を「暫定真理」と呼ぶのであ
れば、縁起説はわたしにとっては「暫定真理」です。

 釈尊は「一切は、もしかしたらひっくり返されてしまうかもしれない仮説に
すぎない」[*4]と考えていたとおもいます。だから、釈尊は「永遠の突破者」
[*5]なのだとおもいます。


  [*1] 「自性」「性」「本性」(『岩波仏教辞典』)
     http://freett.com/Libra0000/088.htm

  [*2] 龍樹の空思想(新田雅章)
     http://freett.com/Libra0000/123.html

  [*3] 「自性」の否定─『根本中論偈』の「自性の考察」(小川一乗)
     http://freett.com/Libra0000/086.htm

  [*4] ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
     http://freett.com/Libra0000/048.htm

  [*5] 『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
     http://freett.com/Libra0000/016.html

39Leo:2005/10/03(月) 02:11:31
「確かに存在するもの」を指す言葉としては「実在」という言葉もありますね。

じつざい 【実在】
〔哲〕〔reality〕現実に在る物や事。思惟されたものや想像・幻覚など、
単に主観の生みだしたものとは区別され、客観的に独立して確かに存在するもの。
また、事物の真の姿をいう意味で、現実の変転する現象の背後にある究極の実体を
意味する場合もある。(『大辞林』)

じったい【実体】
〔哲〕〔(ラテン) substantia; (ギリシヤ) ousia〕変化しやすい多様なものの
根底にある持続的・自己同一的なもの。アリストテレスでは具体的個物
(主語となって述語とならないもの)が、またデカルトではそれ自身で存在し
他物を必要としないものが実体とされた。(『大辞林』)

それに対して、「現象の背後にある究極の実体」(自性)を認めないのが仏教の根本
思想であるのですね。

目の前にあるキーボードだったら、「客観的に独立して確かに存在するもの」
であり(便宜上?)「実在」といってよいのではないでしょうか。

キーボードはプラスティックと金属の分子が集まって仮に出来たもので
未来永劫存在し続けるものでないので暫定的なんですが...


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