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「客観的事実」とは?
20
:
Leo
:2005/09/27(火) 01:16:29
(続き)
>「批判的討論に照らして自分の信念を訂正することを拒否」する方が幹部に多く
これはやはり「正当化教育」の影響と思われます。他の宗教は邪宗で自分は正しいとか。
創価は正しいのにあのにっくき悪徳坊主が破門してきたとか。
おとなりの中国ではあのにっくき日本軍をやっつけた中国共産党は偉い正しいという正当化
教育をやっているそうですが同じですね。正当化教育はシンプル(二元論)でラクだし組織維持
(特に大きい組織に)にもってこいなのですね。
(でも正当化教育やっていると組織や国の周辺が(内部も)だんだん辛くなってきます。)
その一方で「合理主義」によれば「敵」も不要だし「正当化」も必要ないんですね。
21
:
Leo
:2005/09/27(火) 01:30:04
みれいさん、こんばんは。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1122703189/86
合理主義の話題なのでこちらに移動しますです。
>たとえ合理性のないものでも、人を納得させるには時には合理的な説明も必要、ということですよね。
>合理的すぎてもいけないと思うけど、やはり合理性からかけ離れすぎてもいけないとおもうわけです。
合理的という言葉は冷たい感じがしますが、「理にかなった」ということで、
日蓮大聖人の「仏法は道理」に通ずると思われます。
# (皆さんへ)
# 余談ですが、本来「仏法は勝負」の勝負は法門を用いた勝負であり、道理を用いる
# ものであって「勝てば官軍(勝てば正義)」の意味ではないのですね。
「仏法は道理」の日蓮大聖人であっても消息文を見ると感情細やかですね...
22
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/09/27(火) 17:42:37
Leoさん、仕事帰りのわめです。^^
>>19
>>20
>>21
> ネットで痛みを分け合ったり議論していけたらよいですね。
衰退現象は「合理的に物事を考えられる学会員」さんの増加傾向なのかなと思うし、だから苦しむ方が増えてるのだろうし、痛みを分かち合うことよりも、そこから脱出させてあげたいし、ジャイアンは議論が苦手で感情的になりやすいし・・・。(^^;;
仮想敵を作って二元論で正当化など、二元論(多元論)派なわめにとっては、ゆ、許せんw怒
> その一方で「合理主義」によれば「敵」も不要だし「正当化」も必要ないんですね。
その通りですね。
>>21
でLeoさんが、「合理主義」=「理にかなった」と言ってますが、理にかなったって言葉の持つニュアンスは格段にいいですね。 わめも理にかなったを多用しよっと。♪
しかし学会って日蓮仏法を根本としているのに、議論下手で理にかなった考え方をしないのは何故なんだろう・・・ マジ不思議でならない。
PS
LeoさんのWebサイト、こことわめのブログからリンクさせてもらってもよろしいですか?^^
http://blog.goo.ne.jp/enjoylife_wame/
23
:
Leo
:2005/09/27(火) 23:30:11
わめさん、こんばんは 。
>>22
>しかし学会って日蓮仏法を根本としているのに、議論下手で理にかなった考え方をしないのは何故なんだろう・・・ マジ不思議でならない。
多分、学会流「仏法は勝負」(正当化主義)が前面に出て(合理主義的)「仏法は道理」が引っ込んでしまったのではないかと思います。
>LeoさんのWebサイト、こことわめのブログからリンクさせてもらってもよろしいですか?^^
はい、よいですよ。
Webサイト最近メンテしてないんですがそろそろやらないといけませんですね。(^^;
24
:
みれい
:2005/09/28(水) 23:12:14
Leoさん
>合理的という言葉は冷たい感じがしますが、「理にかなった」ということで、
日蓮大聖人の「仏法は道理」に通ずると思われます。
納得です。
LeoさんのHPのお船がなくなっている!
25
:
Leo
:2005/09/30(金) 02:18:22
みれいさん、こんばんは。
>>24
>LeoさんのHPのお船がなくなっている!
文献は典拠を明記すればよいそうですが、画像は著作権があぶなそうなので削除しました(^^;
船と望遠鏡と古典建築の柱の写真をのせてましたが、日蓮大聖人の
「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ」
にちなんだものでした。
(他のスレの件)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1109570758/43
>お久しぶりです。「みんなで考えよう」も無くなって、Leoさんのサイトも見つかりません(泣)
すみませんレス亀ってしまいました。わめさんに紹介していただきましたが、使用プロバイダを
変更した際に(Libraさんと同じサイト、無料に)移転しました。
http://page.freett.com/leo020503/
>あたりにいます。あとペガサスさんの掲示板が仏教の源流を再会しつつのんびりくだけてます。ぜひ来てください。
ご紹介ありがとうございます。いってみますです。
26
:
Libra
:2005/10/01(土) 05:39:49
ほんとうはこのスレに書き込むためにこの掲示板に来たのですが、このスレ
に書く前に「法華経について」のスレをつい読んでしまったら書きたくなりま
した(法華経擁護派がほとんどいないみたいだったので)。で、書いてたら、
こっちに書く時間がほとんどなくなってしまいました(笑)。
というわけなので、ここに書こうと思ってたことはかなりはしょって書かせ
て頂きます。さすがにもう眠いので。
まず「客観的事実」について。わめさんには、以下の小河原誠先生の解説を
読んでみてもらいたいです。特に、「『源氏物語』は紫式部によって書かれた」
という言明について述べられている部分。小河原誠先生のこの解説は、わめさん
がいうところの「客観的事実」の説明としてはぴったりではないかとわたしは
おもいました。
反証はなにをおこなっているのか(小河原誠)
http://freett.com/Libra0000/125.html
あと、「われわれは観察によって言明を正当化できる」と素朴に考えている
人も多いとおもいますので、以下の解説も引用しておきます。
感覚的知覚から普遍概念への飛躍(小河原誠)
http://freett.com/Libra0000/126.html
さいごに、「「理性」や「合理主義」という用語は曖昧なので、〔中略〕説
明しておく必要があろう」とポパーは言っていますので、ポパー自身の説明を
引用しておきます。
「批判的合理主義」と「無批判的合理主義」(カール・ポパー)
http://freett.com/Libra0000/127.html
27
:
Leo
:2005/10/01(土) 09:11:23
Libraさん、こんにちは。
>>26
> さいごに、「「理性」や「合理主義」という用語は曖昧なので、〔中略〕説
>明しておく必要があろう」とポパーは言っていますので、ポパー自身の説明を
>引用しておきます。
>
> 「批判的合理主義」と「無批判的合理主義」(カール・ポパー)
>
http://freett.com/Libra0000/127.html
無批判的合理主義:
「無批判的〔中略〕合理主義は、「私には、論証あるいは経験という手段によって弁護されえないような考えや
仮定を受け入れる用意はない」と言う人の態度として表現できよう。」
上は私にとって一見よいように思えてしまったのですが違いますね(^^;(汗)
批判的合理主義:
「この時、合理主義とは喜んで批判的議論を傾聴し経験から学習する態度である、ということができよう。」
「私は間違っているかもしれない、そしてあなたが正しいのかもしれない。そして努力すれば、われわれはより真理に接近しえよう」
「この合理主義を成立させているのは、自分が様々に制約されていることの意識であり、自分たちがしばしば
誤りを犯すということ、ならびに、誤ったということを知るのにさえ他人に大きく依存していることを
知っている者の知的謙虚さである。」
「無批判的合理主義」は主張がおかしく、それに対して「批判的合理主義」は真理に接近しうるということなのですね。
28
:
わめ
:2005/10/01(土) 14:45:01
Libra師匠、Leoさん、こんにちは〜
> まず「客観的事実」について。
師匠、↓で書きましたが、わめの思っている「客観的事実」と言うのは、普遍概念かもしれません。汗
と言うか、よく分からなくなってきました。涙
> 感覚的知覚から普遍概念への飛躍(小河原誠)
>
http://freett.com/Libra0000/126.html
この普遍概念にわめは惹かれてしまいました。(^^;;
事物・現象から考えてみることが好きなわめですから当然のことかw笑
「普遍概念の意味内容のすべてを示すことはできないのであり」の解説もいいなぁと思いました。
> 無批判的合理主義:
>
> 「無批判的〔中略〕合理主義は、「私には、論証あるいは経験という手段によって弁護されえないような考えや
> 仮定を受け入れる用意はない」と言う人の態度として表現できよう。」
>
> 上は私にとって一見よいように思えてしまったのですが違いますね(^^;(汗)
(⌒▽⌒)アハハ! わめも一瞬=( ・_・;)⇒ アレ?って思いました。
批判をするならしっかりした論証を持ってこいと言う態度が、既に自らの言明をも破滅させていると言うことでしょうか。^^
29
:
Libra
:2005/10/02(日) 03:50:14
> わめの思っている「客観的事実」と言うのは、普遍概念かもしれません。
普遍概念の例としてあげられているのは「カラス」です。
「カラス」が「客観的事実」であるというのはいかなる意味なのか、少し説
明して頂けないでしょうか(汗)。わたしにはちょっと想像がつきません(涙)。
30
:
わめ
:2005/10/02(日) 04:33:28
> 「カラス」が「客観的事実」であるというのはいかなる意味なのか、少し説
> 明して頂けないでしょうか(汗)。わたしにはちょっと想像がつきません(涙)。
本人が分からなくなってきているのだから、いくら師匠と言えど理解するのは難しいかとw汗
ただわめがこの「客観的事実」と言う言葉を使い出した動機と言うのが、暫定真理とか真理とかより確かなものと、信仰というか不確かなものとの対比のためにブログで「客観的事実と信仰」とのお題をつけてみたのです。
前にもお話したと思いますが、これとかそれとか指差す方向にある、誰もが認識できる確かな”モノ”としてとりあえず客観的事実と言う言葉を使ったのです。
でも恥ずかしい話、その後これってもしかして暫定真理かとか思っていたら、師匠の紹介ページに「普遍概念」と言うのがあって、これとかそれとか指差す方向にある、誰もが認識できる確かな”モノ”ってのは「普遍概念」って言葉が妥当なのかなって思ったわけです。
が、最初わめの中では「客観的事実」と言う言葉の中に、縁起とか無我・無常を含んでいたのですが、これが「普遍概念」と言う言葉の意味に含まれるのかどうかが分からなくて、『と言うか、よく分からなくなってきました。涙』となってしまったのです。(^^;;
誰もが認識できる確かな”モノ”を指す言葉は何が妥当なんだろう?
あるいはそんなものはないのだろうか。 と言ったことなのですが・・・
31
:
Leo
:2005/10/02(日) 10:55:49
>「客観的事実」とは?
>誰もが認識できる確かな”モノ”を指す言葉は何が妥当なんだろう?
> あるいはそんなものはないのだろうか。 と言ったことなのですが・・・
「誰もが認識できる確かな”モノ”」はないので(理論の真理はそもそも立証できない)、
不確かなものを批判的に消去していった中に、批判に耐えうるもの、確からしいのが含まれる、
というのが「批判的合理主義」のキモではないかと思います。
ポパーの批判的方法──非正当化主義的批判(立花希一)
http://freett.com/Libra0000/114.html
「すなわち、理論の帰結を批判的にテストし、誤謬を排除しながら、段階的により誤謬の少ない、
したがってより真理に近づく理論を探す試みである。理論の真理はそもそも立証できないから、
誰にも正当化を要求しない。そしてどんな理論もさらなる改善の余地があることを認めつつ、
現時点での批判的検討の結果、批判に耐えているとして暫定的にその理論を受け容れるのである。
これがポパー流の「批判的合理主義者」の批判的探求法であり、理論の受容、拒否の仕方である。」
反証はなにをおこなっているのか(小河原誠)
http://freett.com/Libra0000/125.html
「結局のところ、反証主義者は、排除しえないものを真理のいわば候補者と見ておくのである。
そして、彼は、運よくそのうちのひとつの仮説の反証に成功するならば、
そこに知識を前進させるための手がかりをつかむことになるだろう。
しかし、そうしたところで、彼自身が依然として消去法の世界にいることに変わりはない。
願わくは消去法がよりきびしく適用されることを。」
32
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/10/02(日) 11:31:58
> 「誰もが認識できる確かな”モノ”」はないので(理論の真理はそもそも立証できない)、
これのレスを後にしますね。^^
> 不確かなものを批判的に消去していった中に、批判に耐えうるもの、確からしいのが含まれる、
> というのが「批判的合理主義」のキモではないかと思います。
そうですね、それをわめは客観的事実と呼んでいて、最近は暫定真理との呼び方が相応しいかと思ったりしていました。
で最初に戻って、「誰もが認識できる確かな”モノ”」はLibra師匠の言われた”カラス”とか、今わめが叩いてるキーボードとかは、この暫定真理と呼ぶのが相応しいのか、普遍概念と言うのが相応しいのかと言った疑問です。
更に言えば、縁起・無我・無常などは目に見えないことだけど、事象を指し示すことはできるわけで、これはどう呼べばいいのかと・・・
33
:
Libra
:2005/10/02(日) 14:03:22
概念と言明を区別して論じることがまず必要なのではないでしょうか。
これまで議論してきた「(客観的)事実」の問題は、言明のレベルの問題で
あって、概念のレベルの問題ではないというのがわたしの認識です。
以下に論じるのは、概念のレベルの問題です。
概念というのは、言明を作るための道具といってもいいかもしれません。わ
れわれは、「カラス」という普遍概念を用いて、「すべてのカラスは黒い」な
どいった言明をつくります。
概念の体系というのは、われわれが世界を切り分ける(認識する)ために用
いる「差異の体系」であるといえるかもしれません。
この「概念の体系」は、「一集団内で」「比較的安定した体系を指向してい
るということは言えるとしても」[*1]、それじたい plastic だとおもいます。
いってみれば、その場しのぎの不完全な道具(以下に見るように、ポパーの表
現でいえば「牢獄」[*2])だとおもいます。
ウォーフの仮説について考えてみるのもいいとおもいます。ウォーフの仮説
に対して、ポパーは、以下のように言及しています。
─────────────────────────────────
ウォーフとその幾人かの後継者は、われわれがある種の知的牢獄、われ
われの言語の構造的規則によって形作られた牢獄のなかに住んでいると示
唆してきた。わたくしはこの比喩を受け入れる用意があるが、しかしわれ
われは通常この牢獄に気づいていないというかぎりでは、これは奇妙な牢
獄だということを付け加えねばならない。われわれは文化衝突を通じて牢
獄に気づきうるのである。しかしそのとき、まさに気づくということによ
って、牢獄から脱出できるのである。十分に努力し、新しい言語を研究し、
母語と比較することによって、われわれの牢獄を超越できるのである。
その結果はまた新しい牢獄であろう。しかし、これははるかに大きく広
い牢獄であろう。そして再び、われわれはこの牢獄に悩むこともないであ
ろう。というよりむしろ、新しい牢獄に悩むことになれば、われわれには
つねにこの牢獄を批判的に検討し、いっそう広い牢獄へと脱出する自由が
あるのだ。
(カール・R・ポパー「フレームワークの神話」、M・A・ナッターノ編
『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究
会訳〕、未來社、1998年、pp. 102-103)
─────────────────────────────────
[*1] 言語体系についての浜本満先生の説明をわたしは支持します。
─────────────────────────────
彼らの議論、〔中略〕、これらがともすればなおざりにしている
のは、言語が自らのうちに自分自身との「ズレ」を含み、また不
断にそうした「ズレ」を生みだすことによって特徴付けられる体
系である、という言語に関するきわめて基本的な事実である。
〔中略〕つまり、確かに一集団内での言語使用の総体が比較的安
定した体系を指向しているということは言えるとしても、言葉の
「本来の用法」だとか「文字どおりの意味」だとかを仮定したり確
定しようとする努力がつねに困難に陥るという事実が示している
ように、「ズレ」がそれとの関係で測定できるような絶対的な基
準、不動の中心はアプリオリには存在しないのである。
(浜本満「文化相対主義の代価」『理想』第627号、1985年、
pp. 112-113)
─────────────────────────────
[*2] フレームワークの神話(カール・ポパー)
http://freett.com/Libra0000/111.html
[*3] ここでいう「事実」とは、「反証されずに生き延びている──その
意味では、強固な──仮説」(小河原誠)のことです。以下参照。
反証はなにをおこなっているのか(小河原誠)
http://freett.com/Libra0000/125.html
34
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/10/02(日) 15:15:15
師匠、ありがとうございます。
わめにも、少しづつではありますが、見えてきように思います。これも怪しいけどw^^
「すべての実体は、自立自存していない」の
すべての実体=概念、自立自存していない=言明でしょうか?
この解釈が正しいとして、その言明を含む縁起とは体系なのでしょうか?
35
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/10/02(日) 15:16:02
>見えてきように思います。
訂正w
見えてきたように思います。
36
:
Libra
:2005/10/02(日) 16:48:03
概念は「自立自存」するものではないとおもいます。「概念体系は plastic
だ」とわたしがいうのはそういう意味です。
ですから、概念は「実体」ではありません。「自立自存」するものを「実体」
というのですから。
縁起説もひとつの言明です。わたしはこの言明を真であるとおもっています
が、この言明を真であると正当化することはできません。
37
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/10/02(日) 17:15:13
> 概念は「自立自存」するものではないとおもいます。「概念体系は plastic
> だ」とわたしがいうのはそういう意味です。
言われるとおり概念は「自立自存」するものではないですね。
> ですから、概念は「実体」ではありません。「自立自存」するものを「実体」
> というのですから。
はい、概念は「実体」ではありませんw
・・・実体を指す言葉は何なのでしょう?(涙)
わめは縁起から考えて、「自立自存」するものはないと考えていますから、「実体」もないことになってしまいます。 ちょっと頭がわけわかめに・・・w
> 縁起説もひとつの言明です。わたしはこの言明を真であるとおもっています
> が、この言明を真であると正当化することはできません。
この言明は暫定的に批判に耐えていると言うことで、暫定真理と呼ぶことは間違いでしょうか?
38
:
Libra
:2005/10/02(日) 17:47:41
> 実体を指す言葉は何なのでしょう?
仏教では「自性」といいますね[*1]。
> わめは縁起から考えて、「自立自存」するものはないと考えていますから、
> 「実体」もないことになってしまいます。
それこそまさに龍樹がいわんとしたことです[*2]。まさに「ウサギの角」[*3]
のようなもので、たとえ概念的に想定できたとしても、もともとありません。
> 暫定真理と呼ぶことは間違いでしょうか?
縁起説は批判に耐えているとわたしはおもっていますので、暫定的に受け容
れています。「暫定的に批判に耐えている言説」を「暫定真理」と呼ぶのであ
れば、縁起説はわたしにとっては「暫定真理」です。
釈尊は「一切は、もしかしたらひっくり返されてしまうかもしれない仮説に
すぎない」[*4]と考えていたとおもいます。だから、釈尊は「永遠の突破者」
[*5]なのだとおもいます。
[*1] 「自性」「性」「本性」(『岩波仏教辞典』)
http://freett.com/Libra0000/088.htm
[*2] 龍樹の空思想(新田雅章)
http://freett.com/Libra0000/123.html
[*3] 「自性」の否定─『根本中論偈』の「自性の考察」(小川一乗)
http://freett.com/Libra0000/086.htm
[*4] ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
http://freett.com/Libra0000/048.htm
[*5] 『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
http://freett.com/Libra0000/016.html
39
:
Leo
:2005/10/03(月) 02:11:31
「確かに存在するもの」を指す言葉としては「実在」という言葉もありますね。
じつざい 【実在】
〔哲〕〔reality〕現実に在る物や事。思惟されたものや想像・幻覚など、
単に主観の生みだしたものとは区別され、客観的に独立して確かに存在するもの。
また、事物の真の姿をいう意味で、現実の変転する現象の背後にある究極の実体を
意味する場合もある。(『大辞林』)
じったい【実体】
〔哲〕〔(ラテン) substantia; (ギリシヤ) ousia〕変化しやすい多様なものの
根底にある持続的・自己同一的なもの。アリストテレスでは具体的個物
(主語となって述語とならないもの)が、またデカルトではそれ自身で存在し
他物を必要としないものが実体とされた。(『大辞林』)
それに対して、「現象の背後にある究極の実体」(自性)を認めないのが仏教の根本
思想であるのですね。
目の前にあるキーボードだったら、「客観的に独立して確かに存在するもの」
であり(便宜上?)「実在」といってよいのではないでしょうか。
キーボードはプラスティックと金属の分子が集まって仮に出来たもので
未来永劫存在し続けるものでないので暫定的なんですが...
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