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仏教における仏、成仏とは

37Leo:2005/10/20(木) 02:12:29
>縁起という言葉も仏教用語なわけで、縁起の宣揚が宗教をイメージされるのも、”縁起”からすればいい迷惑にならないか心配ですw汗

(一応)縁起によって従来の宗教の固定観念を突破しよう(開こう)シリーズでした。

わめさんのイメージする非・宗教って初期仏教か哲学かな?そっちの方向も模索してみたいな。
学会指導(学会指導を例に出してしまってヘンですが)でさえ仏法対話には仏教用語使うなみたいなのがあるくらいですし。

>「宗教はアヘン」ということですかね?確かに、そのような要素はあると思います。

ちなみに俺の宗教は一番偉いんだぞーというのを「宗教はエヘン」といいます。
仏教には元来「エヘン」はないのですね。空ですから。ところで、

「およそ、縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と説く。
 それは、相待の仮説(縁って想定されたもの)であり、それはすなわち、中道そのものである。」
(三枝充悳訳『中論(下)』レグルス文庫 )

「相待の仮説」って「暫定真理」と同じイメージですね。縁起は大聖人がよりどころとした天台大師でも、
「一切法を心に約して観ずる」「一念三千」説や「仮空中の三諦」として説明されてます。

「根塵あい対して一念の心起こるに即空即仮即中なりとは、もしは根もしは塵、ならびにこれ法界なり、
 ならびにこれ畢竟空、ならびにこれ如来蔵、ならびに中道なり。
 いかんが即空なるや。ならびに縁より生ず、縁生はすなわち主なし、主なきはすなわち空なり。
 いかんが即仮なるや。主なくしてしかも生ず。すなわちこれ仮なり。
 いかんが即中なるや。法性を出でず、ならびにみなすなわち中なり。」
(『摩訶止観』)

天台大師も宗教というより結構哲学ですね。ちなみに天台大師は隋の煬帝の先生だったです。
(意に反して)煬帝は暴君になって(されて※唐の歴史を正当化するためにより悪役にされたかもしれない)しまいましたが。
そういえばアレキサンダー大王の先生はアリストテレスだったなー。
ポパーの弟子にジョージ・ソロスという投機家がいるし。
偉い先生の弟子にはお騒がせな人もいるということで。


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