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仏教における仏、成仏とは

1わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/08/01(月) 10:28:57
仏教系宗教のほとんどが信仰することによって得られるとする成仏、この仏とはなんなのでしょう。
そして元来無我を説く仏教が、現代の仏教系宗教のほとんどにおいて、ウパニシャッド思想のアートマン説(有我)を肯定しているように感じる。

ブッダ(仏陀)と呼ばれた釈迦、この仏陀の言葉の意味するところは目覚めた人と訳される。

釈迦在世当時のインドでは、バラモン(ウパニシャッドの思想)が司るの国であった。
ウパニシャッドはアートマンはあるとし、生命の本体はアートマンであり、生命(アートマン)は不老、不滅、不死、安泰であると説く。

第一章 ブッダの背景
仏教の無我説は何もない真空状態の中に突然生まれてきたのではなく、それなりの理由があって生まれてきたはずです。否定の主張にはそれが否定した、ある特定の主張の存在が前提となっているはずだからです。だれも肯定していないところにわざわざ否定の主張をするわけがありません。つまり、アートマン否定の背景にはアートマン肯定説があったはずです。それがまさにバラモン教であり、ウパニシャッドの思想(バラモン教の哲学的展開)です。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_1.html
佐倉哲さんのエッセイ集より

第二章 ブッダの沈黙
しかし、仏教は、たとえば、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのではありませんでした。仏教の批判は、ウパニシャッド(やその他の宗教各派)の主張が依って立つ土台そのものに向けられた、もっと根本的なものだったからです。つまり、ブッダは、「アートマンは有る(無い)」という主張は間違っていると批判したのではなく、そのような問答は無意味であると批判したのです。ここに仏教のアートマン批判のもっとも顕著な特徴があります。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html
佐倉哲さんのエッセイ集より

第三章 ブッダの主張
人間の知識や経験の届かない、形而上学的問題に関しては、ブッダは「わたしが説かないことは説かないと了解せよ」と沈黙をもって応えましたが、人間の知識や経験の届く範囲に関して、とくに人間存在については、ブッダは「わたしが説くことは説くと了解せよ」と言って、いくつかの重要な主張を残しました。アートマンについても、死後においても生残るなどという形而上学的空想問題としては沈黙を保ちましたが、経験や知覚の世界の問題としてはアートマンに関して明確に無我の主張をしました。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_3.html
佐倉哲さんのエッセイ集より

このようにウパニシャッドのアートマン説(有我)に対し、ブッダは人間が知覚できる範囲として徹底的に否定し、無我(非我=アンアートマン)を説いた。

であるならば、仏教における仏、成仏とは、人間が特別な存在になるのではなく、形而上学的な事柄についての迷妄から、覚めた人のことではあるまいか。


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