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法華経について

1わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/05(火) 00:31:49
まずは何といっても 佐倉哲さんの「わたしの『法華経』概論」
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud120.html

ペガサス師匠の掲示板から、わめの書き込みを転載
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○○さんのおっしゃること、学会教学的であり、私も以前はそのように解釈してました。
でもそれは法華経も含め、小乗〜大乗経の釈迦一代聖教と言われる経々が、在世中、あるいは滅後すぐに著されたものならまだしも、”釈迦滅後約五百年後”になって著された法華経に、「正直捨方便・但説無上道」と釈尊が説いていたというのはどう考えても矛盾がありませんか?
もし仮に、釈尊が在世中に法華経の内容を説いていたとして、そこでそれ以前の経々を「正直捨方便・但説無上道」と言っていたとするなら、滅後約五百年の間、釈尊の直弟子、孫弟子、代々の仏弟子達は一体何を学んでいたのでしょう? おばかさん弟子ばっかりだったのでしょうか?

また法華経を著した大乗仏教徒は、誰からこの「正直捨方便・但説無上道」との教えを聞いたのでしょう? また約五百年の間どのような系譜を辿り、法華経を著した大乗仏教徒に伝えたのでしょうか? そして日蓮正宗の唯授一人の血脈相承のように、その法華経の教えの内容は何らかの理由により秘していて、滅後約五百年後に、時来たりとばかりに法華経を著したのでしょうか?

このようなことは非常に考えにくいし、また歴史・背景から考えも、後になって出てくる経典ほど、今まである経典を凌駕しようとするのが必然的で、自教団の教えの優位性をその創作された経典に盛り込んだと考えるのが自然ではないかと思います。

そして最終的に密教に至ると・・・
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139Leo:2005/10/16(日) 17:52:51
わめさん

>仏教には理ばかりでなく、教法(教導するため)も入っていますから仕方ないのかもしれませんが、
>わめは何だかこの”仏”って言葉が、仏教が神秘的なイメージになり、
>多くの人にあらぬ妄想を生ませてしまっているようにも思います。
>もっと現代にマッチした、ありきたりの言葉に変換できないかな・・・

ブッダや、覚者でしょうか?

ブッダのような人格者...
縁起・空・無我を覚知した覚者...

140Leo:2005/10/16(日) 18:03:47
英国人に「あなたは紳士ですか」と問うと「私は紳士になろうと努力している者です」と答えるとか。謙遜なんだろうけど。
私に「あなたは覚者ですか」と問われたら、謙遜でもなんでもなく、「私はブッダを追い求め、無理かもしれないがほんの少しでも近づけたらと思っている者です」
と答えるでしょう。

141青空(男):2005/10/17(月) 13:08:54
>仏教には理ばかりでなく、教法(教導するため)も入っていますから仕方ないのかもしれませんが、
>わめは何だかこの”仏”って言葉が、仏教が神秘的なイメージになり、
>多くの人にあらぬ妄想を生ませてしまっているようにも思います。
>もっと現代にマッチした、ありきたりの言葉に変換できないかな・・・

シンプル ザ ベスト

”人” そうそう、人となれ!!

人が人ととして生きていける教え って事で・・・どうでしょう??

142Leo:2005/10/18(火) 00:07:23
うーん。確かに仏って(本来は)超人になることでもないし、
「人」が執着や悩みで「人´」(ヒトダッシュ)になっているところを「´」がスーと抜けて本来のあるべき「人」になる
という感じでしょうか。なんかいいなあ。

143青空(男):2005/10/18(火) 13:40:21
ね!

僕の場合は ダッシュが前と後ろに付いていて”´人´”よく見ると、必死に拝んでる自分が見えるんだけどね^^;

以前、ある経典に、仏陀の事を”尊極の衆生”と言ってるのを見たことがあったもんで^^;

144わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/23(日) 22:46:59
みれいしゃんから教えていただいた、kumarinさんの『くまりんが見てた!はてなダイアリー別館』の9/21記事に、法華経に関する記述がありましたので貼っておきます。
http://d.hatena.ne.jp/kumarin/20050921

145Leo:2005/10/28(金) 01:13:39
スマナサーラ長老も説法の中では科学を引用しているようで論理的に崩れているところがあるような気が。
(別スレで指摘したように)。

「スマナサーラ 他のも読んでみたんですけど、論理的に崩れているところっていうのは明確なんですね。
 先生もご存じでしょう。例えば『法華経』がありますね。あれはインド人だったら恥じるべき作品なんですよ。
 暗記しているものは何でも歴史的順番も全部気にしないでぐちゃぐちゃに入れちゃって、
 これからすごいことを言ってやるぞって始まるでしょ。」

スマナサーラ長老は天台も批判して欲しいですね。確かに法華経は哲学的でないかもしれないけど、
なんであんなに中国や日本でもてはやされたのか。羅什の中国語訳がよかったのか。それにしても
天台は非哲学的な法華経を出発点にしてあんなに哲学したんだろうか。謎だ。

それに「バガヴァッド・ギーター」や「ラーマヤナ」や「マハーバーラタ」は哲学的だっていうんかい。

146Leo:2005/10/29(土) 20:53:42
>それに「バガヴァッド・ギーター」や「ラーマヤナ」や「マハーバーラタ」は哲学的だっていうんかい。

現代インド映画だったら「ムトゥ 踊るマハラジャ」もあるでよ。
ttp://www.k-inet.com/~brown/muthu/

147マターリ:2005/11/03(木) 23:17:44
初めまして、マターリと申します。シナプスさんの「創価学会を考える」
から参りました。学会三世です。宜しくお願い致します。m(__)m

法華経に書かれている罰論について、図書館から色んな本を借りてきて
勉強しています。

148Leo:2005/11/03(木) 23:41:04
マターリさん、こんばんは。

私はこのスレで少し脱線してたので、「法華経」の話題に戻って少しばかりコメントしてみたいと思います。
ある研究者の指摘によれば「法華経」のキモは「呪縛からの解放」とのことです。
「法華経」には色々な要素や解釈がありますが、「罰論」は「呪縛からの解放」に相反するように思います。
(現代においては「法華経」のよいところは評価し、よくないところがあれば批判すべきと思います)

○呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥) 
http://page.freett.com/Libra0000/042.htm

「「法華経」は全編を通して、「法を悟る者」となることによってではなく、「法を語る者」となることを主張する。
 そうすることによって、「法華経」は、呪縛と閉塞から人々を解放した。ここに、「法華経の宗教性」がある。」

○ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)
http://page.freett.com/Libra0000/080.htm

「苦悩からの解放、さらには今まで何度も述べた、権力の呪縛からの解放という、仏教のメインテーマは
 どこにいってしまったのでしょう。悪しき業報因果論にはこういう陥穽(かんせい)が潜むのです。」

149Leo:2005/11/03(木) 23:49:23
○ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)
http://page.freett.com/Libra0000/080.htm

の下記部分は結構ポイントと思われます。罰論は業や輪廻思想と同様ではないでしょうか。

「実践的仏教者、堀沢祖門氏は次のように述べています。長文になりますが、
非常に大切な指摘と思われますので引用します。

「現代人であるわれわれは、経典そのものを資料的に徹底的に批判してかからなければならない。
何故ならば、ブッダの思想でも何でもない、もともとバラモンや異教徒の思想であったものをうっかり
『仏説』と受けとってしまうことは、それは結局、正しいブッダの宗教(仏教)でも何でもなく、
それらは巧みに仏教的仮面(かめん)をかむっているが、じつは外道(げどう)や邪道の教えにほかならぬ、
という恐るべき結果になってしまうからである。
仏教思想における、そうした一つの典型(てんけい)が『業(ごう)と輪廻(りんね)』の思想である。
長年月の間に仏教思想のなかに深く浸透(しんとう)したバラモン教の業・輪廻思想は、
今や仏教自身のガン的体質となりきって仏教自体の生命を内部から蝕(むしば)んでいるかのようである」
(『インド仏教の再生』)

(友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社、2001年)」

150わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/05(土) 17:21:40
マターリさん、初めましてなわめです。^^

> 初めまして、マターリと申します。シナプスさんの「創価学会を考える」
> から参りました。学会三世です。宜しくお願い致します。m(__)m

マターリさんの書き込みは拝見させていただいております。

Leoさんにいいところを根こそぎ持っていかれましたけど、わめからもレスします。(^^;;

Leoさんご紹介の友岡雅弥氏ですが、東洋哲学研究所研究員でもちろん学会員でもあるわけですが、この方が次期会長になっちゃうと、学会も良い方向にいっちゃいそうで嫌なのですがぉぃw、この方の仏教の捉え方には非常に感銘を受けております。

> 法華経に書かれている罰論について、図書館から色んな本を借りてきて
> 勉強しています。

勉強はいいですが、罰とか功徳とかに囚われちゃうと、悪いことがあると罰がでたとか、良いことがあると功徳だなんて、ついつい思い込んでしまいそうになりそうですよ。汗

友岡雅弥氏の言を借りるなら、心の呪縛からの解放のために説かれた法華経で、心が囚われてしまっては本末転倒になりはしないか心配です。

151マターリ:2005/11/05(土) 20:15:36
>Leoさん、わめさん、レスありがとうございます。私も皆さんの考え方
とだいたい同じです。子供のころから「罰・功徳論」で教育されたもので
すから、何かにつけて罰ではないかと、びくびくしたりすることが多い
です。そうした心の呪縛から抜けたいと思い、法華経を勉強しています。

次第に考えがまとまりつつありますが、今仕事が少しガタガタしています
ので、落ちついてから、詳しく書かせていただきます。m(__)m

152Leo:2005/11/06(日) 00:45:59
わめさん、こんばんは。

>Leoさんにいいところを根こそぎ持っていかれましたけど、わめからもレスします。(^^;;

いえいえ。Libraさんの資料を紹介したまでで私の力ではないです(^^;

>Leoさんご紹介の友岡雅弥氏ですが、東洋哲学研究所研究員でもちろん学会員でもあるわけですが、
>この方が次期会長になっちゃうと、学会も良い方向にいっちゃいそうで嫌なのですがぉぃw、
>この方の仏教の捉え方には非常に感銘を受けております。

(次期会長というと、福島源次郎氏(!)と同じ大学出身で(だから)名誉会長に相当しごかれたという
 谷川副会長があたりが思いうかびます)
いっそ会長公選制でもやったらバリバリ系にも組織内アンチ系も認める(と思われる)友岡氏が
期待されるかもしれません。

わめさんが学会がよい方向に向かうと嫌というのは、
「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず」(「報恩抄」)
「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ」(「種種御振舞御書」)
などを念頭におかれているのですね。

学会が疑問な状態でなかったら色々気づかなかったことがあるかもしれないです。
世の中意外とうまくできているのかもしれない。学会はラスト宗教だ(謎

153Leo:2005/11/06(日) 10:24:48
>いえいえ。Libraさんの資料を紹介したまでで私の力ではないです(^^;

「蒼蝿驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ」(「立正安国論」)
ですね。

Libraさんは友岡氏の引用、友岡氏は他の方の引用をしてます...

154Leo:2005/11/06(日) 17:04:14
(他のスレの話題かもしれませんが...)
創価大教授、国際仏教学高等研究所所長のこの方のこの本は意外と結構よい(宗派に偏っていない)法華経入門書と思います。

菅野博史 『法華経入門』 岩波新書

○唱題思想と一念三千説(菅野博史)
http://page.freett.com/leo020503/note015.html
「要するに、日蓮独自の宗教的立場である南無妙法蓮華経の本尊と題目は、
 『法華経』、智邈以来の一念三千の末法における展開顕現として説明されていることがわかる。
 もちろん、この場合の一念三千はすでに智邈におけるそれではなく、
 日蓮独自の解釈が施された一念三千となっている。」

○日蓮の(法華経の)三種の中心思想の受容(菅野博史)
http://page.freett.com/leo020503/note016.html
「日蓮は、『法華経』に説かれる釈尊死後の無仏の時代を、とりもなおさず自分の生きる末法時代と主体的に捉え、
 自身を六万恒河沙の地涌の菩薩の指導的立場にある上行菩薩の再誕と考えた。
 それはとりもなおさず末法時代の真の救済者であるという自己認識であった。」

155Leo:2005/11/06(日) 18:54:45
>(他のスレの話題かもしれませんが...)

このスレでよいのだった...

156わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/07(月) 20:36:10
>>151

マターリさん

二世、三世は幼い頃から罰・功徳って染み付いてますよねw

わめもそうやって育ってきた二世ですからよく分かります。(^^;;

> そうした心の呪縛から抜けたいと思い、法華経を勉強しています。

法華経から更にさかのぼって原始仏教もお勉強してね。
わめは、佐倉哲氏のエッセイ集(仏教について)がお薦めです。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/index.html

> 次第に考えがまとまりつつありますが、今仕事が少しガタガタしています
> ので、落ちついてから、詳しく書かせていただきます。m(__)m

はい、ゆっくり楽しみにお待ちします。☆^∇゜) ニパッ!!

157わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/07(月) 20:42:10
>>152 Leoさん

> わめさんが学会がよい方向に向かうと嫌というのは、
> 「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず」(「報恩抄」)
> 「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ」(「種種御振舞御書」)
> などを念頭におかれているのですね。

( ̄ヘ ̄;)ウーン 「提婆達多こそ第一の善知識なれ」かな。^^

とは言え、これから学会も、もっと巧妙になってくると思われw

最高の詐欺師は騙さない詐欺師、騙さなければ詐欺師もそれはそれでいいのかな・・・

158Leo:2005/11/07(月) 23:38:09
もしかして(何かの間違いだったらよいのですが)...
金のある者は金を供養し、金のないものは時間を供養する。
新聞啓蒙や法戦で戦い本流を行えば大きな功徳・成長・実証・宿命転換。
組織活動が成仏の近道。広宣流布は永遠の流れ。
ってマルチ商法の一種だったんですか? Σ(゚Д゚;)ガーン

ちょっとカゲキなフレーズが頭をよぎった、
「妄信とは生きる屍になることである」by Leo

159マターリ:2005/11/08(火) 00:28:45
法華経は、釈尊が直接説いた法だと教わり、自分でも信じていました。
しかし色んな本を読むと、釈迦滅後4〜5百年後に、教団の仏教者達または、
在家の信者グループにより創作された経典であるらしいとわかりました。
教団の仏教者達によるものか、在家の信者グループによるものか、どちら
が本当なのかは、本によって違いがあり、よくわかりません。

160わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/08(火) 14:57:51
>>159

教団の仏教者達によるものか、在家の信者グループによるものかは、判明してないようですね。^^

>>144 に貼ったURLのkumarinさんの考察では、教団の仏教者達の創作ではないかと意見です。

よかったらご参考に読んでみてください。<(_ _)>

161Leo:2005/11/09(水) 22:49:52
如来寿量品第十六 の
「譬如五百千万億那由他阿僧祇三千大千世界。
 假使有人末為微塵。過於東方五百千万億那由他阿僧祇国。
 乃下一塵。如是東行尽是微塵。諸善男子。於意云何。
 是諸世界。可得思惟校計知其数不。」
の部分って、「三世実有・法体恒有」の「説一切有部」への批判と思えるのですが、
「説一切有部」内に組織内アンチがいたってことでしょうか?

162わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/10(木) 03:27:28
>>161

> 「説一切有部」内に組織内アンチがいたってことでしょうか?

さて? でもいたって不思議はないと思いますよ。
友岡雅弥氏だってある意味組織内アンチとも言えなくないかもw

163Leo:2005/11/12(土) 16:21:06
>さて? でもいたって不思議はないと思いますよ。
>友岡雅弥氏だってある意味組織内アンチとも言えなくないかもw

友岡氏は組織内アンチとしては組織批判の話が聞こえてこないのと、
松戸氏を見捨てたから組織内アンチの「鑑」とまではいかないという話もあります(^^;
ですが初期仏教を学会内に紹介したのは大きな意味があったと思います。

164マターリ:2005/11/13(日) 18:04:22
念仏無間地獄抄に法華経からの引用があります。(P97、2行目)

法華経第二比喩品に云わく「若人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切
世間の仏種を断ぜん、其の人命終して阿鼻獄に入らん、一劫を具足して
劫尽きなば更生れん、是くの如く展転して無数劫に至らん」

以上の文は、仏を罵るよりも、法華経の経典を憎む方がはるかに罪が深い
という考え方だと思います。

法華経が作られ始めた昔を振り返ると↓

専門の比丘の教団から考えると、教えといえば、自分達が口伝えに伝えて
きた釈尊の言葉だけを指すはずでした。しかし、専門の比丘でもない在家
の信者たちが、それも釈尊の名によって新しい経典を作ろうというのです
から、専門の比丘の教団の人々は、猛烈に憤慨したと思われます。

したがって彼らは、在家の信者達に猛烈な非難を浴びせかけたと思われる
のです。当然、法華経を受持し、説く者に対する憎しみも相当なものがあっ
たと思われます。そして憎しみがエスカレートすると、言葉だけでなく、
暴力までふるうようになり、在家の信者達への熾烈な迫害となっていきまし
た。

しかし迫害をされればされるほど、法華経を結集した在家の信者達の団結は
強固になり、ついに比丘の教団に対抗する大乗仏教教団に発展していきまし
た。

したがって、法華経の経典に書いてある罰論は、比丘の教団が在家信者に
対して実際に行った迫害に対して、在家信者が反発心とともに、怒りと
憎しみをもって書き綴った文ではないかと、私は考えています。
猛烈な迫害を加えられた被害者であれば、加害者に対し「地獄へ落ちてし
まえ」と呪うのも、人間として自然な感情ではないか?と思われます。

しかし、こうした事情を知らない後世の人々が、経典の一字一句をそのまま
信じ込んでしまった場合、とんでもないことになると思います。
「恐ろしい呪いの言葉」となって人々を、がんじがらめに縛り付ける恐れが
あると思います。こういう点を考慮に入れて、御書を拝読する必要があると
思われます。


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