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貧乏・貧困問題について

1名無しさん:2019/07/27(土) 22:48:12
加えて貧乏から貧困に落ち、そこに固定してしまう人(主に取材対象は女性だったが)にはいくつかの共通点があることを指摘した。その共通点とは、3つの無縁と3つの障害だ。3つの障害とは「知的障害、発達障害、精神障害」、しかも明確に症名が診断されるものではなく、むしろ見過ごされがちな「ボーダーライン上の障害」を抱えていること。一方で3つの無縁とは「家族との無縁、地域との無縁、制度との無援」。つまり、頼れる家族も力になってくれる友人もいなくて、そもそも面倒な申請を伴う公的扶助などに自力でたどり着き獲得する能力を失っている。3つの障害があれば3つの無縁にもつながり、こうした条件がいくつも重なって、人は貧乏ではなく貧困に陥るのだと、経験則的な結論を出した。

だがここで問題なのは、このような状態で働けなくなった人たちは、一目見て働けないように見える人だろうかということだ。

答えは、否である。少なくとも僕が取材した貧困女性に、見てわかる身体障害を抱えた人はいなかったし、重病を診断されて闘病中という人もいなかった。おそらく一目でわかるのは、「この人ぐらい面倒くさい性格だと、どんな職場にもなじまないだろうな」という直感ぐらいだ。

だが取材を続けるほどに痛感するのは、彼ら彼女らは、見た目ではわからない大きな傷や痛みを抱えた人たちだったということだ。見た目には五体満足でも、働けないほどに大きな心の痛みを抱えていて、ずっとずっとその痛みから逃れられずに苦しみ続けている人たちなのだということだった。

つまるところ、導き出されるのは、このすさまじい貧困者への差別や生活保護バッシングの根底にあるのは、そもそも見えづらい痛み、見えない痛みを抱えた人たちの存在と、目には見えない痛みを「ないもの」にしてしまう人々との対立なのではないかということだ。

3名無しさん:2019/07/27(土) 22:49:45
「ズルい生活保護者」には働けないワケがある
人が「貧困」に陥る3つの無縁と3つの障害
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鈴木 大介 : ルポライター
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2016/07/07 5:00
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だからこそ、アルコールや薬物の依存者には、過去に壮絶な心の苦しみを抱えていた人が多い。そしてその苦しみは、他者から見てわかりやすいものではないのだ。

人間には、血が出ているとか身体のどこかが欠損しているといった見てわかる苦しみとは別に、見えない苦しみがたくさんある。そしてそれが及ぼす痛みは、直接的な外傷の痛みよりも大きく長引くものなのかもしれない。まして他者が見てわからないという理由でそのケガの治療をしてもらえないとしたら、その痛みはより残酷なものとなるだろう。

K君の祖父がアル中になった背景に、どんな見えない苦しみと痛みがあったのかはわからない。だが祖父がその後も立ち上がれなかったのなら、それは受けた生活保護制度の中に、その痛みを発見しケアし緩和し、抜け出させてくれるようなアプローチがなかったからではないのか?

貧困とは、生活保護制度とは何か
働けないのか働かないのか? 生活保護の「旅する人類論」ほどにはすんなり飲み込めなかったようだが、そんな話を最後まで聞いてくれて、仲間内では友達思いで有名なK君は、こう言った。 「今さらっすか? そういう話は、あのジジイが死ぬ前に聞きたかった」

K君ごめん。できれば君は裏稼業からは足を洗って、たまにはメールじゃなくて直接、お母ちゃんのところに会いに行ってみてほしい。

前回記事(若い貧困者が「生活保護はズルい」と思うワケ)で、ずいぶんと誘導的な書き方をしたことを謝罪したい。 僕自身、ウェブ記事の連載というものは初めてだが、紙媒体との差は何といっても読者との相互性だと思う。東洋経済オンラインの記事に寄せられたコメントの中で差別的で脊髄反射的な「ナマポ」(生活保護受給者)の声が重なるのを見て、こんなにも……と落ち込んだが、そもそも貧困とは、そもそも生活保護制度とは何か、人の痛みとは目で見てわかるものだけなのか、批判的な読者も肯定的な読者も、あらめてその意味を考えてほしい。ちなみに僕自身は、「現状の」生活保護制度については否定者である。

4名無しさん:2019/07/27(土) 22:53:10
人間には、外見でパッと見てわかるケガや病気や痛みとは別に、見えない痛みや苦しみが存在する。その不可視な苦しみこそが、実は貧困者への差別や無理解の根源なのではないのか。

前回はそんな推論を提示したが、貧困問題にかかわるルポをずっとやっていながら、僕自身がこの推論を確信にまで高めたのは、ほんの1年前にすぎない。それに近しいような提言をしながら、実際、その当事者がどんな思いでどんな痛みを味わっているのか、そしてその不可視度がどれほど高いのかを。僕はまるでわかっていなかった。猛省を込めてここに書き記しておきたい。

なぜ首から下げるガマグチがお守りなのか?

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私事になるが、ここ半年以上、僕は外出をする際に、必ず首からヒモで下げられるようになっているガマグチ財布を持ち歩いている。別に妙なファッションにハマってしまったわけではない。このガマグチは、昨年初夏に僕自身が脳梗塞で倒れてからの、お守りだ。

なぜ首から下げるガマグチがお守りなのか? 詳しい経緯などは先日出版させていただいた闘病記である拙著『脳が壊れた』(新潮新書)に書いたが、端的に言えば脳梗塞によって軽い高次脳機能障害となってしまった僕は、買い物先のレジでの支払いができなくなってしまったからだ。

高次脳機能障害とは、脳細胞が外的ダメージや虚血(血流が悪くなること)によって壊死してしまった結果から起きる障害で、身体のマヒなどとは別に、知覚、記憶、学習、思考、判断などの認知や情動などにトラブルが起きることを言う。

僕の場合、注意欠陥や情緒の抑制困難(脳梗塞を起こした右脳には感情の抑制をつかさどる部位があり、そこにダメージがあった)、そして初期は極度の集中力低下という症状が出た。

結果、できなくなってしまったさまざまなことのひとつが、レジでの支払いだ。指の動きにもマヒはあったが、それ以前に極度に低下してしまっていた集中力と認知能力で、小銭を数枚数えると何枚数えたかわからなくなり、端数をどのように出すかを考えられない。加えて感情の抑制もできないから、レジ前の店員のいらだつ顔や後ろに並ぶ人の気配にパニックを起こしてしまう始末。

5名無しさん:2019/07/27(土) 22:54:11
そこでガマグチである。これならば、もう自分でカネを数えるのをあきらめて店員に財布を差し出して数えてもらえばいいし、札で出してお釣りを財布に戻してもらってもいい。リハビリを経て現在ではほぼ社会復帰できているが、今でもガマグチをお守りとして持ち歩いている。

それなりに地獄のような苦しさを伴う経験だったが、この脳梗塞発症は、僕にとっては本当に僥倖だった。なぜならば、この小銭が出せなかったりレジ前でパニックや感情の爆発を起こしてしまうという人たちを、僕はそれまでの貧困者や面倒くさい人たちの取材の中で、何度も見てきたからだった。

話すことの順序が立てられず、声が出ない
高次脳機能障害になった僕の行動は、そして訴える苦しさの内容は、驚くほどに彼ら彼女らに酷似していた。僕を襲った症状は、いわば「貧困当事者あるある大事典」みたいなものだった。

心の中がつねに何かでいっぱいで、何を見ても号泣してしまう発作。発作の後に訪れる、身体を縦にしていることもまぶたを開けていることも困難な極度の疲労感や虚脱感、猛烈な睡魔。

人に何かを合理的に説明しようとしても、何から話せばいいのかの順序が立てられず、声が出ない。出ない声にまごまごしているうちに、相手に言葉をかぶせられて、焦りといらだちと情けなさと悲しさがごっちゃになった、もう意味のわからないパニックになってしまう。

長文を読むと3行で睡魔が襲ってくるし、漫画を読もうにもそのセリフ、そのコマの次にどこを読めばいいのかわからなくなる。

理由のない不安の発作が始まると、サランラップで全身をぐるぐる巻きにされたように息が詰まり、窒息しそうな苦しみから逃れられない。それが不安なのかもわからない。

こんな僕の症状は、僕がこれまでの貧困者取材の中でさんざん聞き取ってきたものだった。

リハビリや妻と友人の支えで、この苦しさは徐々に緩和されはした。が、僕のデジカメの中に、入院中の僕が自分自身を写した1枚の写真がある。幸い下肢にマヒの出なかった僕は、入院中から再発予防と減量のためのウォーキングを始めていたのだが、病院のガラス窓に映る自分を写したその写真の僕は、おそらく誰もが「健康体」と太鼓判を押しそうな姿だ。

お気に入りのモントレイルのジョギングシューズに、短パンとパーカーのセットアップ。ジョギングキャップをかぶった顔は健康的に日焼けしていて、駄目押しに無駄に鍛えた足で片足ひざ抱えのバランス姿勢まで取っている。

だがこの健康優良そのものの僕の当事者認識は、じっとしていれば呼吸困難になりそうな閉塞感や理由のない焦燥感にさいなまれ、ウォーキングしながら聞くラジオに流れる曲にいちいち大粒の涙を流し、話そうにも言葉にならず、むしろ言葉がつらいなら一生黙っていようかと思うようなこともある、そんな状態だったのだ。

フリーのルポライターという稼業で、預貯金もしてきて、支えてくれる周囲がいたからこそ僕は復帰できた。だが、およそ世の中にある多くの仕事についていたら、僕はまだまだ社会復帰できていないだろうし、支えと準備がなかったら確実に自身が貧困者になっていたことだと思う。どう見ても健常者の外見だったにもかかわらずだ。

→次

6名無しさん:2019/07/27(土) 22:58:08
ようやくわかった。見えない心の痛みというものが、これほどまでに具体的で、外傷などと同様に、もしくはそれ以上の痛みを人にもたらすものだということを、僕は自身が病気になるまでまったく想像できなかったのだ。

懺悔は尽きぬ。けれどここで書きたいのは、「過酷な経験は人の脳を壊す」「貧困もまた脳を壊す」「壊れた結果、人は貧困から抜け出せなくなる」という確信だ。

なぜ、高次脳機能障害になったときの僕と貧困者がそれほどまでに符合したのか。それは、たとえば貧困状態にある人たちが、毎日、将来の不安におびえ、各種支払いに追い込まれ、強いプレッシャーとストレスの下にさらされた結果、脳の機能、特に認知面などに大きなトラブルを抱えてしまうからなのではないか。

貧困状態以外でも、たとえば暴力や暴言などの被害、または災害やそのほかの大きな心理的ショックによるPTSDもまた、高次脳機能障害同様の認知のゆがみや集中力、判断力の低下を呼び、結果として貧困に陥るというケースがあるのではないか。PTSDは「心的外傷後ストレス障害」だということは僕のようなアホでも知っているが、心的「外傷」ならば、そこに痛みを伴う。心的などというと混乱するが、それはむしろ「脳的外傷後ストレス障害」に置き換えられるものなのではないか。それは見えない激痛なのだ。

エビデンスは医学者に譲りたいが、当事者的にはこれは推論ではなく確信だ。拙著『最貧困シングルマザー』(朝日新聞出版・単行本原題『出会い系のシングルマザーたち』)で僕は出会い系サイトで売春することで生計の足しにしているシングルマザーという、極端な隘路に迷い込んだ女性たちを取材したが、彼女らは目も覆いたくなるような貧困状態にありつつ、ほぼ精神科通院中か通院歴があり、そしてやはりほぼ全員がDVを主因とした離婚の経験者だった。

なぜ貧困売春シングルマザーが、全員DV経験者だったのか? 当時の僕は彼女ら自身のパーソナリティの共通性などに答えを求めようとしたが、今ならわかる。彼女らはDVサバイバーだったから、その過酷な経験の中で心(脳)にトラブルを抱えた結果として、貧困に陥り、さらに貧困の中のストレスでその傷をこじらせて抜け出せなくなってしまっていたのだ。

ならばDVサバイバーという言葉にだって問題がある。サバイバーとは「生き抜いてきた」者という印象があるが、直接的な被害は離婚によって終わったとしても、彼女たちはその後の心の見えない痛みと戦い、苦しみ、その傷が癒えないかぎりずっとサバイブ中なのだ。

あのときのハモちゃんも、DV男から逃れた後の苦しみと戦い続けていた真っ最中だったのだ。

貧困状態の継続は、脳のトラブルを悪化させる
結論は、脳のトラブルの結果として陥る貧困というものがあること。そして貧困状態の継続は、その脳のトラブルを悪化させるということ。そしてそうした当事者の痛みや苦しみは、見えない、理解が非常に難しい(自身が当事者になってみるまでわからない)ということだ。

思い起こせば起こすほど、貧困の当事者取材で受けた印象のあらゆることが、腑に落ちてくる。なるほどこれは貧困者の働けない理由なんか不可視も不可視で当然だ。返す返すも、こんな確信に至るにあたって、僕自身が脳梗塞でぶっ倒れたことは僥倖だったと思うのだ。

次回からはこの「貧困という脳のトラブル(病)」を前提に、現状の生活保護制度や支援の問題について突っ込んでいきたい。

7名無しさん:2019/07/27(土) 23:03:49
精神科医は貧困問題にも知識を持つべき
だが大前提として、精神科に救いを求める=心に痛みを抱えた状態は、つねに失職や収入の喪失と相関性がある。ならば本来、精神科医は心の痛みに対する対症療法のみならず、根本的にその心の痛みの原因を取り除く医療や、患者の就業や所得の状態に興味を持ってほしいし、貧困問題にだってある程度の知識があるべきではないのか。ソーシャルワーカーにつなぐルートや、生活保護申請のノウハウなども知っているべきだ。

願わくば、投薬以外のカウンセリングについても、保険適用の医療であってほしい。現状で保険が利くカウンセリング的医療は認知行動療法などに限定されているが、うつが国民病とまで言われる中、対症療法が中心というのはどうにも腑に落ちない。

精神科とは、本来、貧困当事者のワン・ストップ・サービスを提供する場にもなるはずのポジションなのだ。さすがに「生活保護の申請はハローワークへ」などと思っている医師は特殊かもしれないが、現状貧困の当事者にとって精神科医療がなせていることはあまりにも少なく感じてならない。

加えてもうひとつ。当連載の前々回で「僕自身は現状の生活保護制度に否定的」とした部分に言及したい。

まず生活保護の申請段階について。これは仲岡さんの取材以外でも感じていたことだが、メンタルにトラブルを抱えた者が生活保護の申請をすると、申請段階でメンタルの状態が一段階、いや、数段階悪化するようなケースをいくつか見てきた。

そこで行われていることは、おそらく生傷=トラウマ記憶のほじくり返しだ。心に傷を残すような過酷な体験をした結果、貧困に陥った人々にとって、その体験を思い出し、聞き出され、他人に語るということは、被害の追体験にほかならない。パニックを抱えた当事者にとって、自分のつらい記憶を思い出し、かつ現状の窮状を体系立てて話すことが、いかに苦痛を伴い困難なことなのか。

これは僕自身が高次脳機能障害を抱えて再認識した点でもあるが、心に大きな傷を抱えた者に過去の聞き込みをすることは、そのことが原因で当事者が死んでしまえばそれは間接的な殺人にもなりかねない危険な行為だ(これは記者業にも同じことが言えるから自戒を込めたい)。


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