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福島県教員採用試験
42
:
名無しさん
:2025/09/02(火) 13:42:03
すなわち主師親の三徳とは仏の異名である。だが、仏といっても、小乗の仏あり、
権大乗の仏あり、法華経の迹門、法華経本門の仏があり、また、文底下種の本仏があ
る。
小乗教では、仏の境地を、灰身滅智(けしんめっち)の阿羅漢を悟りの究極として教
えるのであるから、一応は三徳具備といっても、本質はむしろ主師親三徳ともにまっ
たくない。権大乗では小乗で教えた二乗の修業を徹底的に弾呵し、菩薩の修業を教え
る。しかし、その修業はとうていできない歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)であり、
できない教えを説く師匠では意味がない。
また、権大乗の教理は成道後最初の華厳経を出ず、しかも華厳経は蓮華蔵世界の法
慧(ほうえ)等の四菩薩の説法であって釈尊の説法ではない。あくまで方便、権教であ
るがゆえに権大乗の釈尊は主師親三徳ともにないのである。
釈尊みずから、自分が三徳具備の仏であることを明かされたのが、先の譬喩品の文
に明らかなように法華経である。
だが、法華経に迹本二門があり、このうち法華経迹門の教えは、まだ釈尊はインド
に生まれて三十歳にして始めて正覚を成じた仏であって、その三徳も今世限りのきわ
めて浅いものである。五百塵点劫の久遠より常住の三徳を明かされたのは、本門寿量
品である。すなわち本門の仏の主徳は「我此土安穏(がしどあんのん)」(我が此の土
は安穏にして)の文にあり、師徳は「常説法教化」(常に法を説いて教化して)、親
の徳は「我亦為世父(がやくいせぶ)」(我れも亦(ま)た為(こ)れ世の父)の文にはっ
きりと宣言されたのである。この本迹の勝劣は、まことに一目瞭然である。教行証御
書に「爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず」(一二八二㌻)とあるがごとくである。
しかしながら末法今時においては、ただ文底下種の本仏日蓮大聖人のみが一切衆生
を救済する三徳具備の仏である。本門の釈尊といえども、本未有善の衆生には三徳の
縁がなく、衆生を救う力もないのである。曾谷入道殿許御書にいわく「正像二千余年
には猶下種の者有り例せば在世四十余年の如し……今は既に末法に入つて在世の結縁の
者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ」(一〇二七㌻)と。
されば、当抄の終わりに「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」(二三七
㌻)とおおせられたのは、まさしく、日蓮大聖人こそ、末法の御本仏であるとの宣言
なることを知るべきである。
しかしながら、日蓮宗各派では、法華経文上の釈尊を仏とし、日蓮大聖人を菩薩あ
るいは釈尊の弟子となしているが、これ人法異なれる説であり、大聖人の真の仏法と
はかけ離れているのである。大聖人の仏法は、けっして釈迦の仏法ではないのである。
そのゆえは、次の本因妙抄の文において、さらに明らかである。「一代応仏のいきを
ひかえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千迹の上の本門寿量ぞと得意
せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわ
たさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(八七七㌻)
43
:
名無しさん
:2025/09/04(木) 10:40:44
「一、災難興起の事 今・仏家によりしばらく三義を明かさん。一には万民の業感によるゆえに、いわく悪業の衆生ともに同時に生ず、業感によるがゆえに災難を招くなり、これ国王に関するにあらず万民みずから招くのみ、堯代九年の水渇の時・七年の早のごときこれなり。
二には国王・理に背くによるゆえに。いわく国王不明にして教令・理に背くゆえに天これを罰するゆえに災ありこれ万民に関わるにあらず国主みずから招くのみ孝婦しからざるの誅・忠臣霜を降らすの囚のごときなり。
三には、誹謗正法によるゆえに、いわく当論・所引の四経の文のごときこれなり、これすなわち国王万民・天下一同に招く所の災難なり。
まさに知るべし初めの義のごときも遠くその本を論ずるときはいずくんぞ知らんこれ無始の誹謗正法の業感にあらざることを、また第二の義も、世法の理に背くは即・仏法の理に背くなり、仏法の理に背くは即、これ謗法なり、もし深く仏法を識れば世法・即これ仏法はこれなり、もしこの三義を暁せば往いて通ぜざることなきかな」と。
〈第四問答〉
問い 選択集(せんちゃくしゅう)を信ずる謗法の者のなかに災難にあわない者がいるのはなぜか。
答え 現世に果報を受ける者と後世に果報を受ける者がいるゆえである。
〈第五問答〉
問い 法華経等を信ずる者で災難にあうのはなぜか。
答え 罪のない者も巻き添えにされることがある。また修行が浅く、信心も薄い者は過去の罪を消しきることができないことがある。
〈第六問答〉
問い 災難を止める方法は。
答え 謗法の書と謗法の人を取り除くことである。
〈第七問答〉
問い 謗法を断ち切る方法は。
答え 謗法への供養を断つことである。
〈第八問答〉
問い 施しをやめ、苦しませるのは罪にならないのか。
答え 謗法の者は善根を断ち切っているゆえに罪にならない。
〈第九問答〉
問い 僧の罪を指摘するのは、四衆を誹謗してはならず三宝を謗ってはならないという罪に当たるのではないか。
答え 謗法を見過ごすことこそ仏法の怨敵である。王たる者、謗法を根絶しなければ必ず災難が起こる、と諸経典にある。必ず国土の乱れは起こるであろう。災難の興起する由来と根絶の方法についての私の考えは以上のとおりである。取捨選択は人の心に任せることとする。
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