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日本大学学祖・山田顕義伯爵

100130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/06(月) 14:44:24
検事総長って私学じゃほぼ居ない(Kと戦後Cだけ)
松岡康毅氏と平沼氏がやってますが、厳密に言うと日大出身じゃない

101130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/12(日) 10:53:18
美学科    松原寛氏(マツバラ・カン)  初代芸術科長(一高→京都帝大)

説明不要の「日藝(ニチゲー)」。>>86-87の円谷弘・初代理事長が美科設立すべく駆け回った時、
京大同期の松原氏に接触、円谷氏の説得で美科の日大教員獲得へ成功、しかし当初の世論は、
「映画製作は学問でない」「ピアノがうるさい」「裸婦を描くのはいかがなものか」
創設当初は松原氏含め3人の講師しか居らず、本科生も数名のみであった、

102130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/12(日) 11:07:05
>>101続き  美学科  松原寛・初代芸術科長(一高→京都帝大)

「学問の府が実技を教えるのはいかがなものか」と美学科・創設当初の評判は散々であった、
更に運の悪い事に日本は大正〜昭和初期に戦争の機運が強くなり、美科はますます批判を浴びることに、
特に「国本社」を作り、国粋主義を掲げた学校の美科は批判の格好の的となった、

103130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/12(日) 11:16:47
美学科(現・芸術)  松原寛・初代芸術科長(一高→京都帝大)

日大の美学科への批判は決まっている、

「戦争へ向け国内経済増強へ、国民一丸となって頑張ってるのに」
「非生産な演劇/映画/美術/音楽/などに、うつつを抜かすとは非国民だ」である、

日大当局はどうしたか、そうした批判もあり移転続きの流浪の旅を強いられた、
神田三崎町ー神田鈴木町ー本郷金助町ー江古田(1937年)

104130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/12(日) 11:23:02
美学科(現・芸術) 松原寛・初代芸術科長(一高→京都帝大)

日藝(ニチゲー)の異端な空気は、ここから始まった、
大学当局も学外の大本営から「廃止」をチラつかされても抵抗、
移転させることで彼等のメンツを保ち、存続させた経営陣にあっぱれ

105130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/12(日) 11:26:51
>>89
順番でいえば美科(芸術)でなく高等工(理工)ですが
法文学部(の美学科)繋がりにしました
芸術も理系もネタが非常に多く素晴らしい、
理工→芸術だとブレるため後回しにしました、

106130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/12(日) 23:01:22
>>94
金子堅太郎校長は帝國大法科(1888年)や慶應義塾で講師をやっとった、
共に英法派学校。その時の交流が続き圧力受けてた説は真実味を増す、
明白な証拠がない限り「なかったこと」になるし憶測と推測なのは百も承知

107130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/14(火) 19:54:19
日本法律学校(1889年)の校長になる前だな、辞任はやっぱ英法派の圧力?

108130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/15(水) 03:13:32
佐藤運雄(カズオ)氏  日大初代歯科長(東洋歯科医学校創設者/1916年)

佐藤氏は米国留学で歯科医学部とシカゴ大学医学部も卒業、帰国して歯科試験委員となった時、
歯科学のみに偏ってる事を懸念し東洋歯科医学校を創設、理念は歯や口腔に限らず、
基礎医学を備えた人材育成である。つまり、目的は東洋歯科医学校に医科を設立する事だった、
しかし、経営が常に不安定で医科を設立できる余裕がなく、総合大設立へ燃える山岡萬之助氏に
相談するうちに合併して、その後に日大医科を設立する狙いで利害が一致した、

今の日本大学の医療系興隆は、佐藤運雄先生のおかげである、

109130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/16(木) 00:29:42
日大は医学部→歯学部でなく歯→医か、
歯科が医系、全ての祖だったとは意外、

110130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/16(木) 21:29:52
殆ど医発で歯科→医科は、うちと医科歯科くらいでは?

111130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/18(土) 07:30:41
ご推察の通り、歯科学は「旧六」で東歯、日歯、日大、医科歯科、九歯、阪歯だけが残り、
GHQが戦後、この六校以外を廃校にした(理由は不明)。医科歯科とうち以外はすべて歯科単科大

112130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/18(土) 13:06:50
旧医専もそう。福岡や北海道の医専は戦後に廃止(理由は不明)

113130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/18(土) 14:25:04
山岡萬之助総長(3代目)  司法省参事官 通称「刑事法改革の先駆者」

1920年 高等工(大正9)
1921年 美学科(3月) 東洋歯科合併(4月)
1924年 経済科  1925年 医学科

1920年代、法/師範/政治/商科に続き、煌びやかな部科の数々が誕生、
同時に関東大震災(1923年)が発生、日本大学は松岡総長(初代)の遭難死と、
山田先顕義公に続き、再び悲劇に見舞われました。三崎町、駿河台校舎も全焼、

114130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/22(水) 12:41:59
関東大震災(1923年/大正12年9月1日)

松岡康毅(ヤスコワ)校長の遭難死を確認、平沼先生が司法大臣へ入閣(通称・地震内閣)
「我が大学は無一文になった、この復興は容易ではない」として校債を募る、
10月16日、司法大臣官邸に於いて日本大学維持委員会を開催、
この時に平沼麒一郎(キイチロウ)先生を総長に。山岡萬之助を学長へ決定

115130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/22(水) 12:50:03
明治時代  法文商経(ほうぶん・しょうけい)
大正時代  歯科医科工科(しか・いか・こうか)

こう覚えておけば大筋間違いない(美科は法文学部)

116130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/25(土) 13:21:22
>>99
山田顕義公(1892年まで) 日大学祖(≒日本法律学校創設者)
金子堅太郎(1893年まで) 初代校長(日本法律学校校長→司法大臣)
松岡康毅氏(1923年まで) 初代総長(二代校長→検事総長→農商務大臣)
平沼麒一郎(1933年まで) 二代総長(検事総長→総理)
山岡曼之助(1946年まで) 三代総長(日本法律学校出身で初)

117130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/27(月) 20:46:54
平沼麒一郎総長(二代)  司法大臣→総理 大審院長、枢密院議長も歴任

国本社(コクホンシャ)結成。新人会(≒社会主義)に押され解散、
しかし日大単体で、複数大の左翼団体(≒社会主義)に抗った、
保守派重鎮だけあって、信頼厚く大学トップを安心して委ねられ、
山岡学長らの手腕も大きいが、日大の高等文官試験は平沼総長時代に急伸、
岡山出身の同郷から、額田氏(初代医科長)へ話が行ったのは偶然ではない、

あの国本社を作った「平沼総長が居られる日大」に人が集まったのである、

118130年の輝きと共に、未来を創る:2024/05/28(火) 21:33:54
某大学が新人会(≒社会主義)独壇場になって、それを「良し」と思わない、
某大関係者が保守重鎮の平沼先生を頼ったか納得、

119130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/01(土) 00:22:23
山田顕義(学祖) 生野(イクノ)銀山視察中に事故死(暗殺説も)
松岡総長(初代) 関東大震災で遭難死
平沼総長(二代) A級戦犯で終身刑(後に名誉回復)
山岡総長(三代) 1946年に公職追放

今も昔も悲運に見舞われてんな

120130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/01(土) 06:04:19
学祖・山田先生、松岡総長は不運と思うが、
下の御二人は保守系大学として寧ろ勲章、

121130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/02(日) 01:22:37
松波仁一郎(にいちろう)初代商学部長(1922年)   海商法の先駆者

松岡校長や中村司法官が松波宅を訪れ「日本法律学校講師」を打診、最初断るものの再度で了承、
「松岡校長を助ける」と無報酬で講義を続け、十数年後には著名学者として評価、
明治40年頃に「最も多くの学会流行児を講師に擁する」学校と評判になります、

また、松岡校長が廃校危機を救い0→1へ押し上げた功労者とすれば、
松波仁一郎氏には彼を慕う講師が集まり、日本法律学校に商科設立可能(明治37年)となり、
法律学校1→2(法と商)へ、総合大への足場を固めた中興の祖とも言える

122130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/02(日) 02:02:19
山田顕義公「君子、素餐(ソサン)することなかれ」

ソサンとは「才能や功績もないのに高い位・報酬を手に入れること」です、
日大本部さん、並びに日大関係者さん。学祖の御言葉をちゃんと拝聴してますか?

123130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/08(土) 10:21:32
額田豊(ヌカダ ユタカ)氏   日本大学初代医科長  帝國女子医専門学校も設立(弟の晋氏と)

佐藤運雄(カズオ)氏が医歯一元論を説き、先ず東洋歯科医学校を日大へ吸収、
歯科から医科設立が目的だった。だが果たして応えてくれる人材は居るのか、
当時の私学軽視は格別で、特に日本法律学校は民法典論争で延期派・帝大と対立し白眼視、

その日本法律学校に、医科設立を政府(薩長閥→帝大閥)が認可するか。厳しい情勢にあった、

124130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/08(土) 10:35:46
少し医学部の解説を、

医学部の歴史は意外に浅く、大正9年(1919年)の大学令から、
それ以前の帝国大学令(明治19年)では、旧帝中心に医科はあったが
「医学部」でなく「医科大学」だった。つまり帝国大学医科大学、
ややこしいが、帝国大学の中にさらに分科された医科大学がある、

現在の医科大学や総合大医学部も、普通学部と独立した空気を纏っているが、
この帝国大学令で分科大学として、予め医学教育を分けられてた事に起因する、

125130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/08(土) 10:46:25
帝国大学令(明治19年)  官尊民卑
大学令公布(大正08年)  私立も大学と「政府が」正式に認める

私学校は1920年(大正9年)に旧制八私大が誕生。その前に「大学」名乗ってたが、
私立はただの自称で、政府からはそれまで登記上は専門学校扱いだった(専門学校令)

126130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/08(土) 10:57:03
>>123-125
以上を頭に入れておくと嬉しい、

無試験で裁判官や弁護士になれた帝大卒(官尊民卑)、
本試験をパスして、やっと法曹になれる法律専門学校、
お偉い帝大様を差し置いて、憲法公布した不届きもの、

そんな山田顕義公の作った日本法律学校の後釜が
「医科作りたい!」と、上申して応じる思いますか?w

127130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/08(土) 11:10:24
医学部御三家 (医科/旧医専はその前からあり)

1920年慶医 北里柴三郎(東京医学校卒)
1921年慈恵 高樹兼寛(開成所卒・海軍医)
1926年日医 山根正次(東大医卒)

全て帝大か、帝大の祖が設立している、
医科作るのも難儀だが医学部となると、
旧帝医が協力しないとどうにもならん、

128130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/09(日) 15:24:48
額田豊(ヌカダ ユタカ)氏   日本大学初代医科長  帝國女子医専門学校設立(弟の晋氏と)

初代歯科長の佐藤運雄(カズオ)氏が提唱する「医歯一元論」、歯科→医科へ、
共鳴した山岡学長が医科設立へ動く、しかし人材の難題が立ちはだかる、前述(>>123)の通り、
民法典論争で英法派と対立した日本法律に、医科設立は不可能と思われてた、

129130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/09(日) 15:38:53
旧制法律学校で、医学部を作れたのは日大だけ、
それだけ東洋歯科医学校の吸収は大きかった、

130130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/09(日) 15:49:16
額田豊(ヌカダ ユタカ)氏   日本大学初代医科長  帝國女子医専門学校設立(弟の晋氏と)

ドイツ帰りの額田氏は沈んでいた。帝大医では研究医が最重要で臨床医を軽んじていたからである、
そして無医村が未だ多く女性地位も、医学界で確立されてない。それが当時の日本の姿だった、
これを打破するには臨床医養成を念頭に、現状の中等卒から7年かかる医科大でなく
4〜5年の医科専門学校を、新たに設立する事が最良と考えました、

131130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/09(日) 16:03:02
額田豊(ヌカダ ユタカ)氏   日本大学初代医科長  帝國女子医専門学校設立(弟の晋氏と)

当初、額田氏は帝大内で「臨床医の必要性」を訴えたが、研究医至上主義の帝大ではけんもほろろ(女医養成も)、
留学中に考えてた医学専門学校(=旧医専)設立を決意。反対は想定内で、同期の塩野季彦(スエヒコ)氏から文部省へ根回し、
更に塩野司法官が日大理事で、彼の熱意は平沼総長→山岡学長に及び、悲願の専門部医学科設立成功へ

132130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/09(日) 16:29:36
“日大に医科なんて出来っこない”

世論はこれが殆どだった、だが日大理事の塩野司法官は、
文部省に根回しして額田氏と協議。それを伝え聞いた同郷の平沼総長(帝大卒)、
額田氏と同じくドイツ帰りの山岡学長。誰か一人欠けても専門部医学科は不可能だった、

日大トップがこの時、帝大卒の平沼総長(二代)であった事も幸いした、

133130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/09(日) 19:34:27
陸軍の師 大村益次郎
松下村塾 久坂玄瑞

山田先生の師は両方医者なので、
先生がご存命ならもっと早く医科が出来たかも

134130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/10(月) 13:11:20
山田顕義公のいらっしゃった松下村塾(しょうか・そんじゅく)自体が、
学問を区切らず体系的に俯瞰から見てたので、
ある意味で日大は松下村塾の理想を強く引き継いでいる

135130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/14(金) 02:22:55
戸水寛人(とみず ひろんど)  高等師範設立者 法学者(帝國大法卒) 通称バイカル博士

日露戦争時に東シベリア占領を声高に主張。これが戸水事件を引き起こす(後に復帰)
だが人徳も経営観もあり明治30〜34年の間に、日大の収入は4倍近くに、
「戸水氏の放胆、平沼氏の細心。2人合わさり日本大学の絶好な経営者なり」と評判に、

136130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/14(金) 02:30:46
戸水寛人(とみず ひろんど)  高等師範設立者 法学者(帝國大法卒) 通称バイカル博士

現代でいえば喧嘩太郎。彼が主張した高等師範科(中高教員養成)設立、
1901年と私学では最も古く、本学は早い時期から教員養成注力、
また1903年に日本法律から「日本大学」改称するときに文部省と協議、
「日本大学を別名に」と打診されるが、戸水氏は決して譲らず、
「何故、日本法律が良くて日本大学がダメなのか、日本中学は良くて何故?」と強調、

喧嘩太郎の本領発揮し、遂に文部省も折れて改称日本大学(1903年)として出発することに

137130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/14(金) 02:57:35
改称日本大学問題は松岡校長時代なので、大正時代の1920年代より少し前だな

138130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/15(土) 06:44:35
戸水事件って帝大の方に書いてあった、日大理事だったんか(笑

139130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/16(日) 02:22:35
>>113
今年は経済科(1924)が百周年で、来年は医科(1925)が百周年、
これより早くできてた工科歯科、美科はスゲーな

140130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/16(日) 02:59:06
山田顕義公(47歳没)の師・大村益次郎先生も44歳で暗殺されてます、
西洋式軍改革に反発した、神代(こうじろ)直人という長州藩士、
もし、両者が65〜70歳までご存命だったら・・まあ平均寿命44〜45歳の時代ですが

141130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/16(日) 03:06:37
山田先生と仲の悪かった山縣有朋(83歳没)、
井上馨、大隈重信も79〜83歳まで存命してた、

142130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/16(日) 11:38:47
村田清風(大叔父ー家老)  財政再建と海防強化
山田亦介(マタスケー叔父) 長州藩海軍創設に尽力
山田顕行(アキユキー父上) 長崎海軍伝習所で洋式兵学を学ぶ

山田顕義先生は本人と家系が海軍、だから日大は水の覇者よw
下関戦争では欧米列強4か国相手に艦船で奮戦(長州藩の敗北)
幕長戦争では高杉晋作とともに長州藩の「丙寅丸(ヘイインマル)」で幕府軍を撃退、

143130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/20(木) 15:13:30
吉田松陰の激動の生涯、ろう人形で再現 
リニューアルの歴史館人気、来場者2倍に
ttps://www.47news.jp/11083838.html

山田先生の通った松下村塾の師。吉田松陰先生の歴史館

144130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/21(金) 08:38:28
草莽崛起(そうもう・くっき) 吉田松陰

志を持った在野の人が、大きな物事を成し遂げようとする思想、
憲法作った山田先生や、今の日大にぴったりの御言葉です、

145130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/26(水) 20:24:51
>>124
一次帝国大学令(1886年/明治19年)
・大学院と分科大学に
二次帝国大学令(1919年/大正8年) 通称・大学令公布
・分科大学を「学部」へ
・私学も「政府が」大学と正式に認可

147130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/26(水) 20:57:54
>>140
空想ですが、両者生存してたら大村益次郎先生の薫陶を受け、
日本大学・医科大学がとうに出来てたかもしれません(笑

148130年の輝きと共に、未来を創る:2024/06/28(金) 20:17:30
山岡萬之助総長(3代目)  司法省参事官 東京区裁判事

判事検事試験に主席合格で判事。後に日大がドイツ留学を支援、松岡(初代)総長曰く、
「君(山岡氏)は日大初の法学博士で、ドイツまでいって学位を取った逸材だ」
「検事総長や最高裁判事でなく、大学のために尽くしてほしい」

松岡康毅(ヤスコワ)総長の言葉に応え、山岡先生は日大のために尽し1920年代に
高等工、美学科、東洋歯科医併合、経済科、医学科など今の日大の祖を次々と設立

149130年の輝きと共に、未来を創る:2024/08/19(月) 01:48:21
宗教科 山岡萬之助総長(三代)

宗教は崇高な精神を人間に与え、美学(芸術)は審美的な良い精神を人間に与えます、
とかく宗教科設立へは反対意見もございましょう。ドイツへ居た頃、日曜日毎に教会へ礼拝する習慣を素晴らしく感じました、
ドイツの大学を調べると、神学部のない学校はございません。そこで宗教校でない日本法律学校にも、
宗教科を設置したいのです。但し神道、仏教、キリスト教のどれにも偏しない宗教科です、

150130年の輝きと共に、未来を創る:2024/09/04(水) 07:21:55
山田先生の墓所は護国寺。日大付属豊山のとこにある、
山田顕義先生のとこへ訪れるのもよろしいかもしれません、

151130年の輝きと共に、未来を創る:2024/09/08(日) 09:55:43
山口県萩市 山田顕義公園

日本大学学祖生誕の地 山田顕義先生のとこへ訪れるのもいいね!

https://www.hagishi.com/search/detail.php?d=1100163

152130年の輝きと共に、未来を創る:2024/09/08(日) 10:33:45
顕義園(ケンギ・エン)

山田先生誕生地ですが、
山口県荻市は遠くねえか、
松陰神社前(世田谷)や護国寺と並んで
一度は行ってみたいが

153130年の輝きと共に、未来を創る:2024/09/18(水) 09:07:05
山田顕義公が編纂した憲法(=明治法典)発布して、
憲法附則の法律制定、裁判所構成法、民事訴訟法、府県群制、商法、民法など

要するに日本法律学校(=日大の祖)は、山田先生の制定した裁判所構成法で、
「日本の」裁判官、検察官、代言人(≒弁護士)を養成する機関

外国の法律を学ぶ他校と、日本法律学校は根本的に違うのさ

154130年の輝きと共に、未来を創る:2024/09/18(水) 09:15:02
昔は裁判官+検察官、弁護士と別れてて、弁護士試験(1893〜1922)ってのがあったんだぜ、

判事検事登用試験(裁判官+検察官)は、司法省・山田顕義大臣が署名して発足、
これが明治24年なので、日本法律学校(明治22年)は日本の法曹養成のために設立された、

155130年の輝きと共に、未来を創る:2024/09/18(水) 13:30:35
見れ見るほど・・今の体たらくをご覧すれば、
天国にいる山田顕義学祖や松岡初代総長は失望なさりますよね、
法曹より、アメフト相撲を優先する学校になるとは

156130年の輝きと共に、未来を創る:2024/09/22(日) 10:32:06
自主創造 日本大学

【大学概要】
理念・メッセージ・大学の歩み・組織

https://www.nihon-u.ac.jp/about_nu/

157130年の輝きと共に、未来を創る:2024/09/22(日) 14:37:47
山田先生が刑法編纂委員長となり1875年(明8)に旧刑法、
治罪法を編纂(≒作成)し裁判官、検察官になれる資格制度、
判事検事登用試験の祖を作った。それまで裁判官は無試験の縁故採用しかなかった、
https://www.nihon-u.ac.jp/history/forerunner/yamada/07.php

158130年の輝きと共に、未来を創る:2024/09/22(日) 15:01:48
町奉行(まちぶぎょう)ー判事(旧法)ー裁判官(裁判所構成法)

町奉行は江戸時代に起きた諍い、争いの事情を聞いたり仲裁したり、
役人へ向けて披露する役割を持つ人。今でいう裁判官に近い(警察業も兼務)

昔でいう親分的な存在。法学教育のない人も判事になれたし、
縁故採用で町奉行が決まっていた、その名残が明治当初まであった、
試験合格すれば判事検事になれるように、法整備したのが山田司法大臣

159130年の輝きと共に、未来を創る:2024/09/22(日) 15:50:10
検察官も治罪法(後の刑事訴訟法)が制定されて発足、
起源はフランスの「国王(国庫)の代官」→「政府の代官(現在)」
ttps://www.kensatsu.go.jp/kensatsu_seido/

つまり、治罪法制定した山田先生が検察官制度を作ったにほぼ等しい

161130年の輝きと共に、未来を創る:2024/10/20(日) 13:56:39
佐野利器(としかた)校長 高等工学校(現・理工)設立  帝国大工学博士

1920年4月。私立も「大学」と政府が正式認可(通称・大学令公布)
日大含む旧制8私大が誕生し、同年6月に早くも高等工学校(現・理工)を設置、
日大は法文商に続き「工科」も加わり総合大学へ(1921美科歯科、1925医科)

162130年の輝きと共に、未来を創る:2024/10/20(日) 14:06:55
工科の説明を致します、先ず法学から

日本国は欧米列強から法治国家でないとされ、
不平等条約を押し付けられました。これを打破すべく
山田顕義(アキヨシ)司法大臣は憲法を編纂して、法学教育を国民に与え、
法治国家への道を歩もうと、自身も研鑽しておりました。明治時代の大半です

163130年の輝きと共に、未来を創る:2024/10/20(日) 14:30:02
工学会(工部大学校卒の組織)  明治時代=法&商 大正時代=法商→工も

欧米列強は明治末期〜大正初期で急速に産業、工業社会へ移行しつつあった、
原因は飛行機、毒ガス、戦車が登場した第一次世界大戦(1914〜1918)である、
工学会は「法の時と同じく、またも欧米列強に後れを取るのか」と憂いていた、

164130年の輝きと共に、未来を創る:2024/10/20(日) 14:43:00
工学会(明12年)  現・日本工学会

工学会員は懸念していた。法学と商学だけでいいのか、
また黒船来航時のように、欧米列強に武力で恫喝されたら…
日本の徒弟(トテイ)制度では、師匠と弟子関係で大量生産が出来ない、
富国強兵とは法だけでなく、武器(工学)も必要なのではないかと

165130年の輝きと共に、未来を創る:2024/10/20(日) 15:01:06
工学会(明12年)  現・日本工学会

工業社会にすべく工学会は、官立工業学校設立を急いだ。だが法令定義があり、
予算のめどが立たないと新設不可能。そこで工学会は中学校(5年制)卒後、
働きながら学べる工業教育機関設置を「工業教育刷新案」でまとめ、

日大理事会はこれを受け、刷新案を寺野氏作成の下で纏めた幹事、
佐野利器氏(としかた)に「高等工学校・校長」を依頼した

166130年の輝きと共に、未来を創る:2024/10/20(日) 15:16:29
佐野利器(としかた)校長  高等工学校設置   日本工学会理事長

佐野氏は多忙のため、自身が提案した高等工学校に乗り気でなかったが、
円谷弘氏(つむらや ひろし)と山岡萬之助理事が相談の上、根気よく要請して遂に承諾、
佐野校長の一声で一流講師が集まり、官立工業学校を凌駕する人材が集まりました、
従来は中学(5年)卒後→3年昼間部だが、中学卒後に夜間2年制の高等工学校に学生が殺到、

167130年の輝きと共に、未来を創る:2024/10/21(月) 05:14:21
1920年 大学令公布(4月) 高等工(6月)
1921年 美学科(3月) 東洋歯科合併(4月)
1924年 経済科  1925年 医学科

トリ扱いして理工の祖を後回しにしました。時系列的に美科歯科、医科の前です、
大正9年4月、この大学令公布から私学も大学と政府が正式認可(今までの私学は自称・大学)
その僅か二か月後に、日大は高等工学校を設置認可される、

168130年の輝きと共に、未来を創る:2024/11/01(金) 08:54:17
広報部主催の特別展「学祖と日本大学 その軌跡」を開催 
学祖や日本大学の歴史に関する資料や写真を展示

本年、日本大学は創立135周年を迎え、学祖山田顕義生誕180年に当たります。
これを記念して、学祖と日本大学が歩んだ道のりをたどる特別展を開催します。
学祖ゆかりの品々や、前身にあたる日本法律学校時代から現在に至る日本大学の
歩みを知ることができる資料や写真を展示します。ぜひ御来場ください。

学祖と日本大学 その軌跡―山田顕義生誕180年・創立135周年特別展―
開 催 期 間:11月16日(土)〜24日(日) 会期中無休(土・日・祝も開催)
開 場 時 間:10:00〜17:00
会    場:日本大学お茶の水校舎 1階エントランス 
〒101―0062 東京都千代田区神田駿河台1-6
お問い合わせ:日本大学広報部 Email : nuhistory@nihon-u.ac.jp  
TEL 03-5275-8444(平日 9:00 〜 17:00) 備 考:入場無料

169130年の輝きと共に、未来を創る:2024/11/06(水) 10:17:02
「学祖と日本大学 その軌跡」を開催  11/16〜11/24 10・00〜17・00(土日祝も無料)
https://www.nihon-u.ac.jp/information/2024/10/14946/
会場:日本大学お茶の水校舎 1階エントランス

三崎町でなくお茶の水校舎ですか、
カザルスホールの、あそこでよろしくて?
皇典講究所は飯田橋のとこに碑があるので、
三崎町が発祥というわけでありませんが

170130年の輝きと共に、未来を創る:2024/11/14(木) 08:53:36
今の政務官ってのが、山田先生の司法省次官の元でしょうか

171130年の輝きと共に、未来を創る:2024/11/15(金) 09:59:07
山田先生がなられた次官は政務次官、これは今でいう事務次官です、
ttps://houseikyoku.sangiin.go.jp/column/column047.htm

政務次官廃止  → 副大臣+政務官(2001年から)

172130年の輝きと共に、未来を創る:2024/11/16(土) 17:33:05
山田先生は工部卿(こうぶ・きょう)も兼務。工部省の長や
日大が高等工学校(現・理工)を作ったのは当然の流れ

173130年の輝きと共に、未来を創る:2024/11/27(水) 03:24:57
佐野利器(としかた)校長  高等工校・初代校長   家屋耐震構造論→構造の日大

佐野氏は独留学時の欧米建築学に馴染めず苦悩。恩師の辰野金吾氏から
「日本は地震で欧米風では心許ない、困った話だ」と話され、地震に強い建築構造研究に没頭し、
帝大へ提出した論文や彼の熱意は、高等工学校へ引き継がれ「構造の日大」が誕生することに

174130年の輝きと共に、未来を創る:2024/11/27(水) 08:00:18
帝国大学令(明19/1886) 日本法律学校誕生(1889)
専門学校令(明36/1903) 師範科、政治科、商科
大学令公布(大正8/1919), 社会科、高等工、美科、歯科、経済科、医科

詳しい時系列を端折るが、こう覚えておけば大筋間違いない、

175130年の輝きと共に、未来を創る:2024/12/04(水) 00:30:05
麻生慶次郎(あそう けいじろう) 拓殖科(1937年)  農芸化学者ー初代農学部長

日大農(現・生資源)の祖は戦前である。農学部昇格(1943年)し初代農学部長へ就任、
当時の日本は満州へ勢力圏を伸ばし日大は、時代の要請に応え「満州南洋拓殖校」設置、
麻生氏は「食糧の現地生産が課題」と予想し、土壌肥料学の研究に明け暮れていた、

176130年の輝きと共に、未来を創る:2024/12/04(水) 00:35:14
麻生慶次郎(あそう けいじろう) 拓殖科(1937年)  初代農学部長(東京帝大・農学博士)

生資源には二つの源流があり、一つは拓殖科(農学部)。もう一つは東京獣医学校(1907年)、
拓殖科→農学部→農獣医(東京獣医併合/1951)→生物資源科学部、
東洋歯科医学と同じく、東京獣医学校が無ければ日大獣医は存在しえなかった、

177130年の輝きと共に、未来を創る:2024/12/04(水) 15:39:42
>>172
山田顕義公は司法卿、内務卿、工部卿
内閣制度前の長官。今でいう〇〇大臣

180130年の輝きと共に、未来を創る:2024/12/07(土) 23:54:21
山田顕義 司法卿(きょう)〜司法大臣(明16〜24)

9年に渡り司法省統裁者を続け法典編纂、
日本の法律基盤を作り法典伯と異名され、
ドイツ法源流→国法で国体重視の憲法公布

181130年の輝きと共に、未来を創る:2024/12/08(日) 00:25:25
山田先生は司法卿の前に司法大輔(明7/1874)
佐賀の乱、西南戦争と士族鎮圧にあたってた、
日本法律はもっと早く出来たかもな(東大1877)

182130年の輝きと共に、未来を創る:2024/12/10(火) 23:23:50
一説によると、司法大輔(タイフ)の頃から日本法律学校の構想はあった、
「独法、英法、仏法の外国法理を参考とすべし」で独法帰りが揃うまで待った

183130年の輝きと共に、未来を創る:2024/12/11(水) 08:12:15
関東大震災(1923/09) 高等工学校(1920)  佐野利器(としかた)校長

三崎町から駿河台校舎(1922)へ移り授業開始。直ぐに関東大震災発生、
しかし、2か月後に仮校舎で授業再開。佐野氏は帝都復興計画に参画し、
復興事業に集中した結果、高等工学校OBが各地で活躍して評判を呼び、
入学希望者が殺到。1926年に学部認可され工学部設置(1928)

184130年の輝きと共に、未来を創る:2024/12/11(水) 08:21:51
高等工学校(1920/現理工) 関東大震災(1923/09)  「構造の日大」誕生

何故、日大は関東大震災の二か月後に授業再開できたか、
佐野校長が教授を集め工業教育を施し、高等工OBが躍動、
彼等が一丸となって仮校舎を建てたからに他ならない、
皮肉にも関東大震災は「構造の日大」をしろ示した、
もはや理工抜きで日本の都市計画、建設界を語れない、

185130年の輝きと共に、未来を創る:2024/12/25(水) 01:35:02
日本法律学校 山田顕義氏が創立者を名乗れなかった理由

現職の司法大臣が設立する法律学校に、世間と他の認可校は厳しい目を向け、
専修、東京専門、和仏、明治法律、東京法学院は大不平を抱き、
神田錦町重の井で、設立反対集会を開きたるよし Y新聞(明23年4/11)

186130年の輝きと共に、未来を創る:2024/12/28(土) 08:31:07
山田顕義公は武官から文官に路線変更して日本法律学校を作りました、
日本大学も体育第一から文へ、生まれ変わる時ではないでしょうか

187130年の輝きと共に、未来を創る:2025/01/12(日) 10:26:52
勘違いしてる輩が居るので釘指しとく、

山田顕義公、松岡初代総長、山岡萬之助総長(三代)など、彼等が目指したのは総合大、
拡散・拡大路線ではない。戦後の古田氏が運動部主導で横暴を働いた、それを田中まで引き継いだ、

日大の悪政は 古田(柔道)に始まり 田中(相撲)で終わる

188130年の輝きと共に、未来を創る:2025/01/18(土) 17:25:01
>>187 終わってない
田中の残党あたり残っているから終わらせたいなら徹底してやらないと

189130年の輝きと共に、未来を創る:2025/01/18(土) 20:33:02
山田顕義先生や松岡校長、山岡萬之助総長(三代)が血道をあげて作ってくれた学校
市ヶ谷から本部を移転させる事からすべてが始まる。学生の居るとこヘな

190130年の輝きと共に、未来を創る:2025/01/25(土) 14:05:21
佐野利器(としかた)校長  高等工校・初代校長   家屋耐震構造論→構造の日大

佐野氏は設立に於いて、様々な条件を日本大学へ課したが、その中に
「当時の経済は大不況にあり、中等学校から上に進学できない若者の受け皿としたい」、
「真面目に実地で仕事してる人を優先的に入学させる」や「駿河台校地」などを提案、
日大理事会は佐野先生の要請に応え、大正9年6/1に遂に高等工学校が認可される、

191130年の輝きと共に、未来を創る:2025/01/25(土) 14:10:56
佐野利器(としかた)校長  高等工校・初代校長   家屋耐震構造論→構造の日大

佐野氏は高等工学校認可されると、有能な人材を多数招致、
内田祥三氏(安田講堂)、武藤清氏(霞が関ビル)、二見秀雄氏、谷口吉郎氏、高橋貞太郎氏と、
当時の新進気鋭な構造技術者が高等工学校講師へ、他校が羨む人材の宝庫となった、

佐野利器先生の鶴の一声で、これだけの陣容が集まったのである、

192130年の輝きと共に、未来を創る:2025/01/25(土) 14:26:51
佐野利器(としかた)校長  高等工校・初代校長   家屋耐震構造論→構造の日大

1920年認可の高等工学校(夜間)は、神田三崎町で講義(法文商と一緒)
関東大震災(1923)の際に、全焼したので駿河台に仮校舎建築、
駿河台&三崎町経験したのは、高等工学校(理工)しか存在しない、

193130年の輝きと共に、未来を創る:2025/02/01(土) 09:05:55
山田顕義先生は皇典講究所設置の年(明15)に国文研究、国法研究に加え、
法律学校を作る構想を既に語っていた。講究所内の説得にあたり7〜8年も掛けた、

195130年の輝きと共に、未来を創る:2025/02/25(火) 12:59:32
不平等条約
・一方的な最恵国条項(為替レート含む)
・関税自主権の否定
・領事裁判権の容認

日本は公的な裁判所が無かった、
外国人犯罪を日本で裁けなかった、
旧裁判所構成法を制定して職務規定、
裁判官の身分照会で三権分立を進め、
領事裁判権撤廃に山田先生は貢献した、

196130年の輝きと共に、未来を創る:2025/03/03(月) 00:20:30
醫明博愛(いみょう・はくあい) 額田氏ー八田氏ー比企(ヒキ)氏ー梅津氏(歴代医科長)

この言葉は、患者さんに真摯に向き合い「光」を当てることを言います、
戦前から医学部昇格まで尽力なさった、歴代医科長たちに深謝致します、
旧医専から始まり、今年2025年に日大医は100周年となります、

197130年の輝きと共に、未来を創る:2025/03/11(火) 17:35:29
戸水寛人(とみず ひろんど)  高等師範(文理)設立者 通称バイカル博士

戸水氏は逡巡(しゅんじゅん)した。法に続き中等(中学+高校)教員養成を睨み、
高等師範を各法律学校へ設置計画したが、全く協議が進まなかった、
よって日本法律学校のみに、高等師範科(教員養成)を設置する事に決めた、
これが日本大学文理学部であり、私学最古の教員養成科である、

198130年の輝きと共に、未来を創る:2025/03/11(火) 17:39:43
戸水寛人(とみず ひろんど)  高等師範(文理)設立者 通称バイカル博士

戸水氏は反芻(はんすう)した。法学の前に中等教育を国民に行き渡らせなければ・・
初等教育は4割以上無資格でやれても、中等教育となると一定の水準が必要、
“現存する法律学校に教員養成してもらわねば”と考え、高等師範を日本法律学校へ設置

199130年の輝きと共に、未来を創る:2025/03/11(火) 17:52:20
戸水寛人(とみず ひろんど)  高等師範(1901文理)設立者 通称バイカル博士

日本法律学校は法に続き、教員養成科もある唯一無二の私学へ、
師範科は世田谷予科として、日大教養課程を全収容する象徴に、
中高教員数1位を誇り、国への貢献度が高い文理学部へと変貌、
人文+社会+理学を揃えた日大文理は、1学部で中堅他大を凌駕、

200130年の輝きと共に、未来を創る:2025/03/11(火) 19:10:57
文理は高等師範(=教員養成)で、法の次に出来ました、
1901年と大学令公布(1920)や、専門学校令(1903)より前です、

201130年の輝きと共に、未来を創る:2025/03/11(火) 19:52:56
創立の法(日本法律)
戦前の文(高等師範)
戦前の理(高等工学校)

志願者数が多く実績も良好、
文理と理工をトリにしました、
まだありますが大体は出来た、

202130年の輝きと共に、未来を創る:2025/03/12(水) 09:10:41
三崎町は法文商工農、設置順で秀逸
法範商工農でもいいが変換し辛い

203130年の輝きと共に、未来を創る:2025/03/14(金) 23:34:15
山田顕義(アキヨシ)学祖や、松岡康毅(ヤスコワ)総長、山岡萬之助総裁、
彼等の日本法律学校〜日本大学に報いるには、司法試験の復活しかない、

204130年の輝きと共に、未来を創る:2025/03/15(土) 16:37:22
旧制・高等師範(現文理1901) 世田谷予科

旧制中→旧制高(3年)→帝大
旧制中→予科(1年)→私立大

私学は予科1年やる行程で専門部歯科、医科も通った、
世田谷予科は桜上水キャンパス。ここに本部がベスト、

205130年の輝きと共に、未来を創る:2025/03/15(土) 17:23:09
社会科  円谷弘氏(つむらや ひろし) 初代理事長

大学令交付(1920)で私学初の社会科設立、
1937年に世田谷予科落成で予科長を兼務、
穏健左派だが左派に偏りがちな大正を牽制、
「円谷先生が呼ぶなら・・」と右派も講師へ、

206130年の輝きと共に、未来を創る:2025/03/23(日) 10:42:50
旧制は高等師範学校、高等工学校、専門部医科校と、
大学というより大学の中にある別学校と言った印象、

207130年の輝きと共に、未来を創る:2025/04/02(水) 14:20:04
山田顕義公(アキヨシ) 初代司法大臣(内務卿、工部卿、司法卿を歴任)

皇典講究所(1882)
国史+国典→國學院
国法+日本→日本法律

廃校となった大学本校(国学)の系譜を、
この二つが継いだと言って差し支えない、

208130年の輝きと共に、未来を創る:2025/04/05(土) 12:15:05
学校→大学校→大学本校(+東校、+南校)
東校+南校→東京大→東京帝国大→東京大
大学本校→廃校→皇典講究所→國學院(国学)、日本法律(国法)

うちらが主流で、あちらが傍流(ぼうりゅう)だったとは

209130年の輝きと共に、未来を創る:2025/04/08(火) 16:30:46
他校関係者は、辟易(へきえき)するかもだが、
山田顕義公は、司法省通じて特別予算通した、
和仏、法学院、大阪兵学寮、司法省法学校等、
第三高等学校もあり、わずかな関係ならば、
工部省工部大学校、札幌農学校にもある、

山田先生は軍人から教育界での巨人へと変貌

210130年の輝きと共に、未来を創る:2025/04/11(金) 15:53:11
>>207
国典の中に国法あり
国典 →国家儀式、国の法典、国法

国体+国学  國學院
国体+国法  日本法律

皇「典」講究所なので、両校とも「典」が入ってる

211130年の輝きと共に、未来を創る:2025/04/18(金) 21:27:19
大学本校(1869)→廃校→皇典講究(1882)
国史+国文→國學院
国法+法律→日本法律

似て非なるもの、例えると
刀を作るのが鍛冶師で国法
刀を使って治めるのが法律

213130年の輝きと共に、未来を創る:2025/05/01(木) 17:43:24
学祖 山田顕義 展 2025年 4/14〜8/30 三崎町・法学部図書館1F展示ギャラリー
https://www.law.nihon-u.ac.jp/library/exhibition/12433
入場料無料なので、お暇ならお越しください(10〜18時/日曜17時まで)

214130年の輝きと共に、未来を創る:2025/05/05(月) 06:17:57
長州藩閥=山縣閥=陸軍閥

山縣から陸軍を追放された山田顕義先生、
長州藩だが、長州藩閥でない特異な人物、
その後、絶縁ということもなく山縣氏は、
自身が弱ると司法大臣留任させたり依存、
日本法律学校設立へは逸早く賛意し出席、

調子いいというか、いじめっ子は自分のしたことを忘れるというか・・

215130年の輝きと共に、未来を創る:2025/05/05(月) 06:31:37
長州藩閥でない山田先生は、よそからの信頼が厚かった模様、
陸軍創設は大村氏と山田顕義公。大阪兵学寮(陸軍士官学校)、
大砲製造所を構築。だが、陸軍創設は山縣有朋の功績となり、
山田先生は陸軍中枢を去り、武官から文官(司法大輔)へ転身、

217130年の輝きと共に、未来を創る:2025/05/05(月) 06:53:37
皇典講究所は戦後1946年にGHQの圧力で解散、
山田顕義公はこの事態を既に予見してたと思う、
皇典講究所の神職養成機関を國學院に託し、
国に貢献する人材養成を日本法律へ託した、

私の憶測と推測ですが開校式の御言葉を調べて、そう感じました

218130年の輝きと共に、未来を創る:2025/05/05(月) 07:52:56
皇典講究所は国内問題でなく、外圧で無くなろうとは

219130年の輝きと共に、未来を創る:2025/05/05(月) 22:00:13
本当にGHQかねえ。敗戦革命主導した、どっかの大学さんじゃないのー?
その証拠に日大も解体された、あれも表向きはGHQの財閥解体

220130年の輝きと共に、未来を創る:2025/05/11(日) 15:25:15
帝国大学令(1886年)

この年、明治天皇が帝大視察へ。理系諸科や法科進捗を褒める一方、
「日本とする処の修身学科」の欠落を指摘。大学本校(国学等)が無い、
「頭脳優れも、道徳欠ける人材では」と国体本義の揺らぎを懸念、

221130年の輝きと共に、未来を創る:2025/05/11(日) 15:43:11
皇典講究所(1882→1946に解散)

大学本校(国学)が廃校。明治天皇は代替機関を要望し、最も信頼を寄せた、
有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひと しんのう)を総裁任命し、
皇典講究所設立。更に山田氏は大学本校の轍を踏まないべく私学校を新設、

222130年の輝きと共に、未来を創る:2025/05/11(日) 16:12:54
山田顕義司法大臣  大学本校→皇典講究所(1882)→國學院、日本法律

国学(大学本校)とは、国体本義の根幹をなす日本道徳学の中核である、
故に皇家に取って代わろうとする内部、外敵勢力から圧をかけられる、
憶測だが、山田司法大臣は皇典講究と別の私学校を作ることによって、
道統を絶やさないよう、國學院と日本法律で手を打ったのではないか、

223130年の輝きと共に、未来を創る:2025/05/17(土) 02:53:49
山縣有朋が徴兵制にする際、山田先生は反対した、
山田氏はその後に武官から文官、司法省へ移った、

224130年の輝きと共に、未来を創る:2025/07/17(木) 01:13:55
木村秀政氏(ヒデマサ)   日本航空界の重鎮  一高→帝大航空科→航空研

ライト兄弟が初の有人飛行成功(二宮氏説あり)、四か月後に木村氏誕生、
6歳ごろに初めてヒコーキを見て感激し、異常な関心を持ったことから、
高校時代のあだ名も「ヒコーキ」となっていた

225130年の輝きと共に、未来を創る:2025/07/17(木) 01:25:09
木村秀政氏(ヒデマサ)   日本航空界の重鎮  一高→帝大航空科→航空研

木村氏率いる、東大航空研の評価は概ね決まってた、

「大学人に飛行機を作って、飛ばすなんて不可能だ」
「航研の先生たちの作った飛行機が、地面から離れたら銀座通りを逆立ちして歩くよ」

軍人、飛行機メーカーの声です。辛辣ですが試作機は実際に故障だらけだがめげず改良を重ね続け1938年、
関東平野を25周して1万1,650㎞飛行で世界記録更新して、天皇陛下の拝謁(はいえつ)を賜った快挙を達成、

226130年の輝きと共に、未来を創る:2025/07/17(木) 01:36:21
木村秀政氏(ヒデマサ)  日本航空界の重鎮  航空宇宙科の父

敗戦後、航空活動禁止となり、東大航空研は廃止となった、
木村氏は日大工の機械工学科教授(1947)へ迎え入れられた、

SF講和条約発効後、軽飛行機N52を皮切りにN58,N62,N70と、
次々に制作。一つの大学研究所が飛行機を作るのは珍しい、
世界権威「ジェーン年鑑」に記述されるほどの快挙でした、

227130年の輝きと共に、未来を創る:2025/07/17(木) 01:51:32
木村秀政氏(ヒデマサ)   日本航空界の重鎮  理工・航空宇宙科の父(1957)

木村氏は日本が主権回復後、日本初の国産旅客機「YS-11」の開発Pにも深く関わる、
木村先生の情熱が学生に伝播し、今では人力飛行機の航続飛距離の日本記録を持ち、
ヒコーキに留まらず人工衛星、ロケット研究、宇宙科学まで多岐に渡るようになり、

“航空宇宙と言えば日大理工”と評されるまでに成長した、

228130年の輝きと共に、未来を創る:2025/07/17(木) 02:18:12
N52は日大の「N」で1952年。木村先生いいなあ(笑

229名無しさん:2025/07/27(日) 16:49:25
>>227
船橋キャンパスのままでも問題ないと言えるね

230130年の輝きと共に、未来を創る:2025/08/14(木) 22:48:24
日本法律学校の初代校長、金子堅太郎先生、
彼を指名したのは山田先生でなく山縣有朋、
日本法律学校を帝大のようにしたかったか、
今となっては分からんが積極的な人物像だ、

231130年の輝きと共に、未来を創る:2025/08/17(日) 02:47:53
>>186
山田先生が皇典(コウテン)講究所で国学、国法創立、
國學院と、日本法律を自立させて私学校としたのは、
政変や政治に惑わされず、残せるようにしたのでは、

232130年の輝きと共に、未来を創る:2025/08/17(日) 03:41:05
“国体(こくたい)は お前達に任せるぞ”

山田先生は皇典講究所が、反体制派や外部勢力に廃止され、
日本の国体を潰そうとする勢力が出てくる事を想定してた、
大学本校が内紛で、事実上の廃校(休校)になったように、

234130年の輝きと共に、未来を創る:2025/09/05(金) 17:04:04
木戸孝允「これからの日本には武力でなく法が必要だ。山田、頼む」

若干14歳で松下村塾へ入塾、
高杉晋作、久坂玄瑞に続き、
次代を担う有望者であった、

235130年の輝きと共に、未来を創る:2025/09/06(土) 19:37:40
太政官(だじょうかん)  ○○卿  工部卿 内務卿 司法卿
内閣制度成立      ○○大臣 司法大臣

山田先生は兵部省(→陸軍省+海軍省)創立にも貢献してる、

236130年の輝きと共に、未来を創る:2025/09/08(月) 08:53:53
>>230
中庸(ちゅうよう)の徳たるや、それ至れるかな

日本法律学校だって、そのために作られた、
英法崇拝派と、仏法崇拝派の対立が苛烈に、
どちらが主導権を握るかという流れになる、
「そうじゃなくて、日本国のためだろ」と、

237130年の輝きと共に、未来を創る:2025/09/10(水) 06:44:04
「英法でも、仏法でも、独法でもない」
「日本固有法を基礎とし、欧米継受法もって補足することにある」

山田先生が述べられた、日本法律学校の設立の趣旨、
しかし、他の法律学校の眼にはそう映らなかった、

他の認可学校(専修、明治法律、東京法学院、東京専門、和仏)は、
大不平を抱き、設立反対集会を神田錦町重の井で開きたるが良し、

238130年の輝きと共に、未来を創る:2025/09/10(水) 06:49:42
>>237
今はわだかまりないぞ、
当時の法律学校には当時の事情があった、
初代司法大臣が設立する日本法律学校、
こんなのが出来たらおまんま食い上げ、
そう考えるのも無理はないぞ、
逆の立場なら俺だってそう考える、

239130年の輝きと共に、未来を創る:2025/09/11(木) 09:29:31
明治法律と和仏も、学生の奪い合いで共倒れ寸前まで行った、
専修は同じ英法に押され、法科募集停止して理財専門学校へ、
日本法律は廃校決議案で既に確定してた、当時はそんなもん、

240130年の輝きと共に、未来を創る:2025/09/11(木) 10:37:01
山田先生の逝去でね>日本法律学校廃校

山田先生があと10年ご存命だったら・・もっと早くに
日本大学・商科大学。日本大学・医科大学出来てた

241130年の輝きと共に、未来を創る:2025/09/11(木) 18:08:48
その場合、俺達が入れなかった可能性があるので(笑
日本の中等教育、高等教育に最も貢献した学校に入れたということで納得しよう

242130年の輝きと共に、未来を創る:2025/09/14(日) 16:56:35
「山田がゆくところ 軍も法も整う」

法典伯と異名された山田先生は、
憲法、軍政の改革する事を期待、

243130年の輝きと共に、未来を創る:2025/09/16(火) 19:50:52
>>214
山田顕義公は長州藩でありながら、長州閥に属さない稀有な人物

244130年の輝きと共に、未来を創る:2025/09/17(水) 22:41:16
山田顕義公 軍人+法人+文化人

最後のは意外だったろ。山田先生のひ孫さんが日芸にいらっしゃる、
設立寄与した文化事情は数知れず。日本美術協会、大日本赤十字社、
国家学会、仏学会、日本衛星会、帝国水難救済会など。ほんの一部、

日本法律学校が戦前に美学(芸術)を保有、
更に医学(衛生)を持つのは必然であった、

245130年の輝きと共に、未来を創る:2025/09/17(水) 22:53:46
山田先生は出雲大社保存会にも協力してます、
大国主命(オオクニ ヌシノ ミコト)が鎮座、
医療・医薬の神様で日本医学の祖は出雲なる、
大黒様とも言われ農業、商工業の神様とされ、
日本の国造りの神で、民から敬われてました、

246130年の輝きと共に、未来を創る:2025/09/18(木) 14:16:02
國學院とうちは、山田先生のご遺志を継がれた、大学本校本流の素敵な学校、


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