[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
| |
FKとの対話
1
:
FK
:2008/09/08(月) 22:25:40
このスレッドはもろに、私、FKとのお話し、
いえ、 おしゃべりコーナーです。
ご自由に、どうぞ。
48
:
FK
:2009/02/25(水) 20:52:55
2009年 2月25日 (水曜) ジンガロ
私は馬の選択に関しては特に批評観を持っていません。...基本的には直感です。...馬を調教するうえで大切なことは「聞くこと」だと思います。馬が何かを与えてくれる時にそれをよく聞くこと。、何かを求めた時に馬が何をしようとしているのかをよく考えることです。調教とは私たちが知っている方法によって予想される結果ではありませんから...。技術が関係性より先走るようではいけないのです。私は敬愛(Respect)を持ってある古典的な方法で馬と仕事をしています。(『乗馬ライフ』2002年10月号 ジンガロの主宰者バルタバスのインタビューより)
【みんなのことを馬に喩えるわけではありませんが、私の立場からすればまさにバルタバス氏の言うとおり、同感です。難しいことでもありますが。】
49
:
FK
:2009/02/26(木) 21:53:49
2009年 2月26日 (木曜) インフルエンザ
そろそろシーズンオフですが今年もインフルエンザが流行りました。そのおかげで首がつながった人もいたことでしょう(笑) でもお医者さんは次のようにいっていますし、私も丸々三日間寝て、治しましたよ。
インフルエンザの95%以上の患者さんは自然に治ります。つまり、インフルエンザは、ほとんど何もしなくても、数日間寝込んでいれば治ってしまう病気なのです。(岡部信彦 『対談ここまできた最新医学 あきらめるのはまだ早い(渡辺淳一 講談社 2008年 \1500)P.233)
50
:
FK
:2009/03/08(日) 19:41:58
リベラルな教師の不在
(2004年12月28日 火曜)
最近思う残念なことの一つは、ますますリベラルな教師が減っているということ。
これでは生徒もたまったものではないだろう、と同情する。
でもどうしてこんなにもリベラルな人が激減してしまったのだろう。
ソフトなファシズム・ナショナリズムのせいか。生活のためには、致し方ないと言うことか。みんなとあまりぎくしゃくせずに職場での毎日を快適に過ごしたいからか。教師(教育公務員)であるというモラリティや自覚が無くなったからか。あるいは無くさせられたからか。
やはり個人レベルの原因だけではないだろう。黒幕が存在するということ。
戦後教育の批判で「教育基本法」がああだこうだと言われるが、その精神を実質的に骨抜きでやってきたわけだ。その努力の成果がいまや見事に開花しているという分析が当たっているのではないか。
51
:
FK
:2009/03/09(月) 19:45:08
2009年 3月 9日 (月曜) 茶髪にピアス!?
茶髪にピアス。今日、みんなと話していて私に「質問」されたこと。
私は基本的に「茶髪にピアスにお化粧」の女の子は苦手です。予断と偏見があるのか知れません(!) 過去の悲しい思い出のせいでしょうか(笑)
冗談はともかく、茶髪に関しては、昔だれかから聞いた話ですが、一度染めちゃうと完全に元の黒色には戻らない、と。科学的に正しいかどうかは分かりませんが、そんなふうに思うと茶髪にはしないほうがいいかな、と。ただ素敵に似合っている人もいますので、最後はその人その人で決めてもらうしかないですね。ま、個人的には素敵な持って生まれた髪の毛を大事にするのがいいかな、と。
ピアスですが、これはノー、ですね。なぜか。跡が見苦しいからです。私の美学には反しますね。つまり一旦穴をあけたら、ずっとピアスをし続けてないと見苦しい跡を人に見せることになる。そんなことに最近、気がついたので反対です。ピアスでなくてもイヤリングがあるでしょう。
こんなこと言ってたら、「茶髪にピアスにお化粧」の女性は誰も近寄ってこないでしょうね(笑)
52
:
FK
:2009/03/17(火) 23:00:09
愛ってなんですかぁ´`??? →大事にしたい・大切にしたいと思うこと
恋ってなんですかぁ´`??? →いつも一緒に居たいって思うこと
トラウマってどーしたら消えるんですかぁ´`??? →消えないものとしてあきらめる!
53
:
FK
:2009/03/25(水) 21:29:55
集団登山?!
『どうする山のトイレ・ゴミ オーバーユースと登山者の課題』(日本勤労者山岳同盟 大月書店 2002年 \1800)から
ヨーロッパの山小屋に比較するべくもない惨憺たる日本の山小屋! その思いを新たにするのがこのトイレの問題。
ゴミは持ち帰るが、排泄物はなかなか難しい。携帯電話ならぬ携帯トイレがあるのだが......。
あと同感だったのは「山岳自然に負荷をあたえる大規模な集団登山はやめる」(P.10)ということ。これははっきり言って、「学校登山」のことだ。これは私も大いに賛成。どれだけこれまで迷惑を被ってきたことか。(彼らが通過するまで延々と待たされたことがある。それも当然のような態度で!)
中学生たちを見ていてもかわいそうになってくる。いやいやながらの強制登山でもあるから。あの服装や装備も問題。山嫌いを増やすだけではないかと思っていたが、そのようなアンケート結果が紹介されてあった(P.167)。
54
:
FK
:2009/04/01(水) 22:00:25
2009年 4月 1日 (水曜) 履修と修得
みんなが苦労する用語にこの「履修と修得」がある。最近、目にした本から紹介しておこう。
*
高校の学習指導要領で定められた「必修科目」は、履修を義務づけられたものであって、必ずしも単位の修得までを求められたものではない。(P.110 なお履修と修得に点が付けられている。『教育再生の迷走』苅谷剛彦 筑摩書房 2008年 \1600)
「『履修』とは、教科・科目の目標に到達すべく授業に参加し、授業を受けることをいう。これに対し、『修得』とは、教科・科目を履修することにより教科・科目の目標からみて満足できる成果を上げることである。したがって、『履修』と『修得』は明確に区別されなければならない。」(P.171 『高等学校学習指導要領解説総則編』文部省、1989年、東山書房)
【おかしいと言えば、おかしい。勉強するけど、身に付いていなくても、とりあえず授業を受けていればオーケーということなのだから。だから悪くすると「授業に参加」するという部分を単に、その授業教室に居るだけ、との拡大解釈(?)にまで至ってしまうのだ。
さらに「満足できる成果」というのも曖昧。ただたしかにこれは極めて巧妙な言い回しで、曖昧なままにしておかないと、誰一人として「修得」できなくなってしまう虞がある。それはオーバーとしてもかなりの高校生は卒業できなくなってしまうだろう。
日本の教育は、履修だけでオーケーということにせざるを得ないのだ。高校進学率ほぼ100%のなせる弊害である。】
55
:
FK
:2009/04/09(木) 21:12:34
日本の子どもの学力低下
やや古いアンケートから。
「日本の子どもの学力を回復させるには、どうすればよいと思いますか?」。
複数回答だが、その第一位は六割近い人の賛同を得て、「学校の先生の評価を厳しくする」!
第二位は「観察や実験、体験学習の時間を増やす」、第三位「学校の先生を増やし、少人数学級にする」。以下「土曜日も授業を・全国的な学力試験を・塾の先生に授業を・入試を厳しくする」等々。
どういう定義付けがなされているかにもよるのだが、その第一位にはあきれてしまう。一体、これは何なのだろう。「教師不信」をまざまざと見せつけられる思いである。
良い授業をしようとすれば、教師に余裕・ゆとりが必要だ。現実はその逆で「ゆとり教育」は生徒からだけではなく、教師からもそのゆとりを奪っていった。
もちろん、「ゆとり教育」の本質は「エリート教育」にあるのだから、実にその通りの実態になっているのであるが。低学力者は切り捨てられるということは必然なのだ、この思想のもとでは。(そして低所得層と低学力層との間にかなりの相関関係があるのではないかと思われる。)
真っ当な考え方としては、第三位に入っている「学校の先生を増やし、少人数学級にする」である。しかし、教育にカネをかけない政府のもとでは、この先も期待できないことなのだ。
教育が「国家百年の大計」だと言われたのは、もはや過去のことなのだ。目の前のことで汲々としている政府のもとでは如何ともしがたい。
56
:
FK
:2009/04/16(木) 11:43:59
失敗からの復活 2009年 4月16日 (木曜)
1.「逃げる」 自分が非力であることをさっさと認めて、その場から一時避難する →責任を放棄することではない
2.「他人のせいにする」 失敗直後は思考が否定的になりがち →建設的な考えが生まれてこない →とりあえず否定的な思考の連鎖を止めるため
3.「おいしいものを食べる」 失敗で疲労 →体・心・脳に栄養補給
4.「お酒を飲む」 悲観的な思考からの脱却のため
5.「眠る」 失敗の辛さから離れて心身をリフレッシュさせるために
6.「気晴らしをする」 ふだん控えていることや集中してできることを(失敗のことを思い出さないような)
7.「愚痴を言う」 人の力を借りて元気になる
――『回復力 失敗からの復活』(畑村洋太郎 講談社現代新書 2009年 \720)より趣旨抜粋
57
:
FK
:2009/04/19(日) 19:55:26
準備室の風景(2009年 4月)
高校時代の友人でいま高校の校長をしてるやつに聞くと、「準備室」というのはその教科の教室が存在して、そのうえではじめて成り立つ部屋なそうな。
だから国語教室がないから国語科の準備室はないという理屈らしい。(私は確かめてないのだが。)
私は社会。いや今は無くされて公民科と地理歴史科だが、その社会教室というのがあって社会準備室が存在したというわけだ。なるほど、これまで勤務してきた全日制の高校の場合、職業校であれ普通科であれ、すべてこの社会教室とそれに付随して社会準備室が存在した。
そして問題は定時制高校である。現勤務校も入れてこれまで三校経験してきたが、いずれの定時制高校にも社会教室とそれに付随する社会準備室は存在しなかった。どうやら定時制高校では必要不可欠のものとはなっていないようなのだ。嗚呼!
というわけで、現任校にもない。ただ倉庫代わりに使っていた部屋を英国数社の4教科(5教科?)の共同準備室として三年前から設置されている。総勢40人あまりの教師数に対して教室1個分くらいのスペースなのである。何をか況や、である。これ一つとっても定時制高校の教育環境の悪さがうかがわれよう。こんなところにも日本社会の格差は歴然だというわけである。と興奮してしまう次第。
*
そんな準備室だが、私には懐かしい思い出がある。もちろん、私の高校時代のことである。そんなに頻繁にいけたはずはないのだが、社会科教室だったか社会教室だったかの準備室で教師たちと話をしたことを、である。
そんな思い出を胸に、今度は私がみんなを待ち迎える番になったのだ。職員室での仕事はできるだけさっさとやって準備室に戻ってくる。そしていつでも生徒たちがやってきてもいいように待機している。そんな今日この頃である。
準備室にはダビング用のモニターや音楽が聴けるステレオ、お湯を沸かしてお茶が飲めるように、そしてわずかながらもお菓子を用意している。ソファはボロボロで暖房も冷房もないのだが、居心地の良い場所として生徒たちには好評である。他の教師はやっかみなのか否定的な人もいるようだ。彼らはその高校時代にそのような経験がないのかなと思う。教師をしていて何が楽しいと言って生徒たちとのおしゃべりにまさるものはないのだ。そんな高尚な話をするわけではないにしても、だ。
私にとっては「準備室、万歳」といったところである。
58
:
FK
:2009/04/26(日) 21:53:43
2009年 4月26日 (日曜) 毒のある批判から身を守るために
毒のある(toxic)、批判やあら探し(criticism)をブレークするといった意味の原題の翻訳書『傷つかない技術』(エリック・メイゼル 創元社 2009年 \1500)より。
大切なことは、笑みをたやさないこと、動転しないこと、自分の意見をすぐに口に出さないこと(P.34)
【すべてはこの一語に尽きるだろう。名言であり、至言だ。】
*
1.職場での人間関係は戦略的で、友情とは関係ないこと
2.批判は「一人の人格」ではなく「組織の一員」に対するものであること
3.職場とはさまざまな思惑が交錯する場所であること
4.自分が受けた批判の意味を同僚に確認することが難しいこと(P.180)
(職場で批判されたとき)最善の策は「時間をかけて考えよう」と自分の心に言うこと、これだけなのです。(P.188)
【職場ではまわりはすべて敵、とまでは言わないまでも、それくらいの覚悟がないとダメだろう。仲良しクラブではないのだ。実に実に「友情」とは関係はない。いや、むしろその対極にある世界だろう。
私という人格に対する批判と錯覚してはいけない。組織の一員として気に入らない・気にくわないということに過ぎないのだ。自分の人格を否定されたわけではないのた。勿論否定されるような批判があったとしても意に介することはない。そう「時間をかけて考えよう」というのが正解だと思う。】
*
1.心の警報が鳴ったときは発言を控えること
2.うわさ話に安易に加わらないこと
3.何かを主張する前に自分がなぜそれを主張するのかを明確にすること
4.思慮分別のある批判に努めること(P.192)
【これらも良いアドバイスだ。1.のように人間もその直感・勘を信じるべきだ。3.のように自問してから話すようにすれば、ずいぶんムダなことをしなくてすむ。】
59
:
FK
:2009/04/27(月) 20:33:30
FK:2008/09/18(木) 再録
夢の学校
学校を中心とした生活を送る、小学生から高校生までの毎日は忙しい。もともと好奇心いっぱいで、やりたいことだらけの時代なのに、かんじんの自由に使える時間が少ない。
そこでずばり、夢の学校とは、週休二日制はもちろん、毎日の授業は午前の半日であって、午後はフリータイム、というもの。
午後は学校に残って勉強したり、先生や友人とおしゃべりしたり、またクラブ活動や遊びもいい。あるいはすぐに学校を飛び出して、家に帰ってもいいし、塾にいってもいいし、アルバイトにいってもいい。ともかく自分の気にいった所で、遊びたいものは遊び、勉強したいものは勉強する。
このように人生の時間を、自分の自由に使えるようにしたい。
(1986年2月27日付毎日新聞コラムに掲載)
日付で分かるように古い話。これが今、このユニーク学園高校では実現されているのだ!
実際は人さまざまだろうが、かつて私はこんな学校がいいなと思っていたわけである。
60
:
FK
:2009/04/28(火) 22:16:01
「カウンセリング」とは?
ある生徒と話していて、「先生、カウンセラーみたいですね」と言われたのをきっかけに久しぶりに「カウンセリング」とは何か? と考えてみた。
(もちろん私はカウンセラーなどと思って対応したわけではないし、カウンセリングをしてるつもりもなかった。よくある生徒と先生との会話にすぎないのである。)
私もかつて講習を受け、研修会にも何度か参加したことがあり、偉そうではあるがその体験上、一家言を持つのではあるが。
専門の・職業カウンセラーからしたら叱られるかもしれないが、いわゆるカウンセリングには、なにかと疑問を感じてしまうのだ。とくに「心のケア」などといわれると、どうなんだろうな、と。心をそう簡単にケアできるわけないだろう、と。
61
:
FK
:2009/05/25(月) 18:21:53
『「心の専門家」はいらない』(小沢牧子 洋泉社 2002年 \700)1/2
ショッキングな内容であった。
たしかにそんな風なことも感じてはいたが、漠然としていた。指摘されてなるほどそうだったのか、と。
身体が病気の場合は、まず本人がそれをなおしたいと思う。ところが精神病の場合は、「主として社会がなおしたいのです」(吉田おさみ P.89)ということ。そこから必然的にカウンセリングは「常識的生き方に患者を導くとすれば、それはやはり現状肯定的といわれても仕方ありません」(同)ということになるようだ。
これまでこのような観点からカウンセリングを見てこなかったで、新鮮な気持ちでこの本を読むことができた。
*
わたしが問題にするのは、対等関係を装い、自己決定をみちびき、おだやかに自己責任を負わせていく、カウンセリング技法と思想の欺瞞性である。(P.22)
【カウンセリングに対して、私の中に何かしら腑に落ちないものがあったとしたら、その正体はこれだったのかもしれない。】
--------------------------------
カウンセラーはいかにやさしい態度で接しようとも、権威の位置にある。(中略)クライエントは「いい子」としての答えを出す方向に自発的に傾いていく(中略)。
カウンセラーは自分の言葉を語らずとも、体制価値としての身体を体現している。個人としての生き方を見せず自分の考え・価値観をほとんど語らないが、無言の権威は体制的価値を代弁し、結果として社会適応を促す作用を持つ。(中略)カウンセリングはこうして、ソフトな社会管理役割を担っている。(P.23)
【ああそうだったのだと。教師は罪深き職業である面がある。そしてこの「カウンセリング」も。】
--------------------------------
意欲・関心・態度を重視する学校教育も、「みずから決めよ、ただし望まれるように」という新たな管理の流れのなかにある。(P.36)
【意欲や関心があることを教師に見せつけなければならないということ。自然にそれができるならいいが、それが苦手な子も少なくないだろう。その子たちにとって、このような評価方法は酷なことである。】
--------------------------------
「心の専門家」は基本的に没社会的・個人還元的で、問題を社会の問題としてではなく、個人の資質や家族のいたらなさ、つまり個人の問題へ閉じ込めていく役割を担っている。(P.38)
【社会から目をそらせる、という犯罪をおかしているようなものだ。「自己責任」というヤツだ。】
--------------------------------
「ほんとうの自分さがし」の流行には、人間が相互の関係のなかで生きているという観点が欠落している。カウンセリングが「ほんとうの自分」を発見させてくれるという幻想的な自分観は根強い。(P.41)
【曖昧模糊とした言葉である、この「ほんとうの自分」。しかしコロッとだまされてしまうのだ。どこかに今の自分とは違う、まさに「ほんとうの自分」があるのだと。だから今の自分は免罪され、軽視し、現に目の前の人生をおろそかにしてしまうのだ。】
--------------------------------
心理治療・カウンセリングという営為は、基本的に「問題」をその状況から切り離して個人に還元する思想と技法で成り立っている(P.137)
【為政者・管理者にとってまことに都合のいい「思想」であることよ。】
--------------------------------
誰かに決めてほしい、頼みたい、導いてほしい。その願望に応じて、あらたな宗教のように「心の専門家」が登場している。(P.140)
【やはり罪深き仕事である!】
62
:
FK
:2009/05/25(月) 18:23:44
『「心の専門家」はいらない』(小沢牧子 洋泉社 2002年 \700)2/2
たまたままわりで縁を持った人びととつながりを広め深めて手間ひまをかけながら、「問題もあって当然」の毎日のなかで考え模索し、知恵を積み重ねる道を見失いたくないものだ。(P.141)
【毎日、いろんな問題が噴出して当たり前なのだ。ところが管理社会はそれを嫌う。後手主義を嫌い、先手必勝とばかりに何事も押さえ込んでしまうのだ。
】
--------------------------------
PTSDは、極度に衝撃的な場面に遭遇することによって発症すると理解されている。しかしじつは衝撃的体験をしたあとの「人間の関係」に問題があって、それが症状を強める場合が多いのではないか(P.174)
【こういうふうに考える方が、いいのではないかと思う。】
--------------------------------
年寄りと身近に暮らすのは、特別なことではないが、あえて言うなら家事が増えることだ。(中略)それは小さな子どもと暮らすときも、同じである。障害を持つ人と暮らすときも同様だろう。「介護」、まして「ケア」という特別な言葉が邪魔なのだ。ときには「子育て」すらも。正しい家族や正しい親のあり方がそこに忍び込んで、関係を縛る。(中略)
家事や気遣いはどんな暮らしにもつきもので、しかも関係は一方的なものではない。(P.182)
「介護」も「育児」も家事のうち。その単純な原則に足場をしっかり据えたい。そうすれば男も女も子どもも年寄りも、それぞれにできることを分け持ち、協力しあう関係への道が開ける。(中略)「してあげる−してもらう」の固定された関係を少しでもゆるめることが必要なのだ。(P.185)
【「正しい家族」や「正しい親」! 何と嫌な言葉だろう。世の中にはこの言葉の呪縛で苦労する人たちであふれている。
その場所にお互いが存在しているだけで、影響し合っており、持ちつ持たれつなのだが。】
--------------------------------
きれいごとを言うつもりはないが、老いを特別なものに仕立てすぎるのではないかと思う。それは正常な青年期・壮年期が人の完成型であるという、近代発達観の産物だ。人はみなそれぞれに、これまで生きてきたように老いていくだけで、それ以上でも以下でもない。(P.183)
【これを読んで少し安心した。私もこれまでの延長上で、年老いていくのだ。】
--------------------------------
人を日常的に支えている力は何であろうか。ふだんあまり自覚しないまでもそれは、自分の身になじんでいるものや人や場所であると、わたしは体験的に考えている。(P.204)
【それが「生きがい」なのだろう。なじんだ場所やもの、もちろん人も。】
--------------------------------
人が不運に見舞われたときこそ、これまでの時空間のなかでなじんできた人びとの出番なのだ。言葉でなぐさめることばかりではなく、むしろちょっとした行為と好意が人を助ける。(P.206)
--------------------------------
「深くはなくても親しい関係」をそれぞれが周囲に広げていくことが大切(P.218)
63
:
FK
:2009/06/13(土) 20:53:17
2009年 6月13日 (土曜) 人の命ほど大切なものはない
はっきり言って私は、人間の命が大切だなどと思ったことは一度もない。こういうことを公言すると、この国では恐らくそれだけで人非人だ。ではあなたに聞くが、他人の財産を大切だと思ったことはあるか。私を含め多くの人は他人の財産が増加しようが減少しようが別にどうでもよいと思っているに違いない。しかし、そのことは、他人の財産を勝手に奪ってよいという話とは全く違う。同様に我々はいかなる人の命といえども勝手に奪ってはいけないが、それは人間の命が大切だからではなく、そうしなければ、自由と平等が守られないからだ。(『やがて消えゆく我が身なら』池田清彦 角川書店 2005年 P.235)
【何か人命が損なわれるような事件があったとき、校長の話はみな同じこと。つまり人の命ほど大切なものはない、大事にしましょう、というわけである。聞かされる側はまたか、と。正面切って反論は出来なくても、聞かされる方は何かどこかおかしいと感じているのだ。はたして普段の学校生活の中で、生徒たちの人権が尊重され大事にされてきているだろうか。口で命の大切さを説きながら、実際は軽視されているのでは。それを日々実感している生徒たちからしたら、校長のその手の話ほどシレッとなるものはないだろう。そろそろ違うことを言う校長が出てきてもよさそうなものだが、無いものねだりだろう。】
64
:
FK
:2009/06/15(月) 19:57:18
2009年 6月15日 (月曜) ミスマッチ
不思議なことですが、生徒さんには妙な思いこみがあるようなのです。私が社会担当なので、作文・小論文の添削はできるはずかない、とか。英語がわかるはずかない、とかです。いちおう私も高校は卒業していて、ひととおりはできるのですが....
あるいは私の授業を受けて、そのやり方があまりに大学受験に役立たないように見えるため(その通り! の声が聞こえてきそう(笑))、私に(社会の科目すら)アドバイスを求めてくることがありません。こちらも最低限のアドバイスはできるのですが....(笑)
ともかく本校は「安かろう悪かろう」と判断されてるようです。本校のどの先生もみんな受験を経験してきていて、それぞれ何らかのアドバイスはできるのですが。ところが、彼らはその期待に応えてくれるのは塾や予備校しかないと思っているようです。ミスマッチといいますか、それなら、はなからこんな学校には来ずに、高認験と予備校で進学すれば、と憎まれ口もたたきたくなります。敬意を持てない相手(教師)からは何も学ぶことはできないでしょう。教師の側からしても、実力がないの偉そうにいう生徒たちに敬意を持つことはできないでしょう。
そう考えてくると、生徒の皆さんも教師も結構、世間と同じ傲慢な考え方に洗脳されてしまっている、ということになりますか。こんな生徒と教師の学校は不幸です。
65
:
FK
:2009/07/04(土) 21:10:21
2009年 7月 4日 (土曜) 参考書売り場へ
久しぶりに本屋の参考書売り場で時間を過ごす。ただ日本史の棚の前ではなく、世界史と英語と古文の棚であるのが従来と違うところ(苦笑)
世界史は私の学習のためだが、英語と古文はいずれも『関関同立の〜』というその4大学の各科目の入試傾向を分析したもの。日本史のそれはすでにあるので、これで英国社、準備は整ったというわけだ。もちろん、私のためではなく、みなさんのためですので。
66
:
FK
:2009/07/25(土) 16:22:03
痛ましいありさま(2006年 5月13日 土曜)
未成年者がタバコを吸っている。見ていて痛ましい在りようだ。亡国的な状況だと言うと大げさだろうか。
以前、東南アジアのルポのようなものをテレビで見ていたとき、もし学校に行っているとしたらまだ小学生くらいの男の子が、得意げにタバコをふかしているシーンがあった。なぜ得意げなのかというと、彼は一人前の大人同様に労働しているからなのだ。彼の働きが一家を支えているからなのだ。
でもそれがどうしてタバコを吸うことに結びつくのか?
これは明らかに大人たちによる教育の成果だろう。つまり一人前の男(大人)は、みんなの前で堂々とタバコを吸うものだ、という。
*
我が祖国・日本ではどうか。
町のあちこちで一目で未成年者と分かる若者たちが、やはり得意げにタバコを吸っている。私の職場である高校でもそうだ。
休憩時間、学校の正門を出たところで生徒たちがタバコの火をつける。慣れたものである。でも何故この場所なのか。
昨年4月校内・敷地内は全面禁煙となった。そこでその趣旨は尊重しようと言うことなのかも知れない。教師のうるさい注意のせいもあるだろう。
ある日、私も教師として、大人として喫煙に対する注意をした。するとその時の彼は苦笑しながら「これがないと生きていけない」。
タバコ嫌いの私が紫煙の場所へ行き、注意をしなければならないというのは辛い。私自身の健康にも良くないのだ。できるなら免除してもらいたい。
タバコは吸わない私にとってもこのように大きな悩みである。
*
為政者からすれば、国家の収入源としてのたばこ税は貴重であろう。しかし税さえ入れば、それがたとえ未成年者からのものであってもかまわない、というのは極めて非倫理的である。実質的にたばこの消費の6割は未成年者によるものとも読んだような気がする(そもそもそんな統計をJTが出すはずがないし)。
公務員である私も国家のために、税収増には協力しなければならないし、その気もある。しかし、実態が不明だとして未成年者の喫煙の在りように目をつむり、彼らから徴税するというのは感心できない。
倫理の崩壊はとめどがなくなっているようだ。まずは国家の方に。
67
:
FK
:2009/08/14(金) 19:49:45
2009年 8月14日 (金曜) 海軍反省会
NHKで三夜連続の戦争特集番組があった。「日本海軍400時間の証言」といったもの。
ここでいう戦争とは、いわゆる太平洋戦争である。今はそのあたまに「アジア」をつけているようだが、番組ではそうはしてなかった。アジアにも目を向けよ、と言う意味では「アジア」を頭に冠することが効果的なのだろうが、反面、それを冠することによって薄められ・消されていくものもあるかもしれない。今は、それはさておいて。
私は日本史専門だと称しているのだが、実はもっとも時間をかけて勉強したのはこの「太平洋戦争」に関してなのだ。研究の名に値するような勉強ではなく、せいぜい授業で少しその成果を活用することができた程度である。
そんなわけで「太平洋戦争」に関しては、結構知ってる方だと自負していたのだが、この「海軍反省会」なるものが延々と続けられていたことには驚かされた。海軍軍令部のエリートたちを中心にした反省会(?)であった。知らなかった。これまで陽の目を見なかったからなのではあるが。
内容的には、その証言の一部を第一回は開戦、第二回は特攻、第三回は戦犯裁判と主にして紹介してあった。
開戦についてはこれまで読んできていることと、特に違うような新知見はなかった。特攻では、有名な神風特攻隊以前にすでに桜花や回天などが研究開発(?)されていたとのこと。(思うにミッドウェイ海戦で大敗し、連合艦隊が体をなさなくなっていったという経緯からだろう。)
東京裁判では海軍の嶋田海相たちを救う(?)つまり死刑判決を出させないために偽証したとのことが新知見であった。責任は全部、下が負うという構図である。どこまでいっても陸軍にくらべ海軍は二流というか、二番手というか、なさけないものだと思わせられる。その偽証工作のおかげで陸軍は東条首相以下死刑なのに、そして文民の広田弘毅もそうであるのに、海軍は死刑ゼロ。
自分の所属する組織を守り、予算を獲得するためにはたとえ国が滅びても、人々が塗炭の苦しみに遭おうと意に介さないという日本人らしい官僚臭ふんぷんたるエリートたちであった。そして残念なことにそのような日本人のありようはいまもまったく変わってないのだ。また同じ事が繰り返されていく。いや、今の今も現に繰り返されていっているのだ。
こういった番組を授業に取り込んでいくのは、なかなか難しい。しかし、ほんの少しでも彼らの生の声を生徒たちには聞かせてやりたいものだ。
68
:
FK
:2009/08/15(土) 21:24:41
2009年 8月15日 (土曜) 1945年のこの日
空は晴れ渡り、暑さがひとしお身にしむ一日である。蝉の声も拍車をかけている。毎年そうであるように(実際はそうでなくても、そのようなイメージがあるのだ)今年の今日もそうであった。
今日は「終戦記念日」として各地での催しなどが報道されている。その最たるものが東京の武道館でのセレモニーだ。天皇や首相も参加する。正午にはあの甲子園球場も黙祷をする。そんなシーンがテレビニュースで流れる。――これが毎年繰り返される今日「8月15日」の風景である。
いまさら、「敗戦記念日」だと言い直す気もしない。私はそんなに好戦的ではない。もし日本がこの戦争に勝っていたなら、などという想像はしたくない。最近観た映画「K−20怪人二十面相伝」のような世界(軍国主義・非民主主義国家)が展開することになるのだから、御免蒙りたい。
歴史上今次の戦争も、実質的な終戦・敗戦はもっと早い時期になるし、形式的・事務的には9月2日なのだから。そしてその後もシベリアやインドネシア等々、あちこちで戦争を続けることになった日本人は少なくないのだ。
まだまだ、いろいろ出てくるが、こんなところで。
69
:
FK
:2009/08/16(日) 20:50:05
2009年 8月16日 (日曜) ゴミ収集とストライキ
夕食後、明日は燃えるゴミを出す日ということで、こんなことを考えた。
都市機能を麻痺させるためには、たった一つこのゴミの収集をストップするだけでオーケーである?! あらためてこの仕事に携わる人たちに感謝、である。
ところが世の中の人みんなが、そのように感謝の念を持っているかというとそうではないのだ。もう数年前、もっと前かもしれないが、彼らの勤務のありようを批判というか、いちゃもんをつける人たちがいたのである。
一つ、勤務時間内に風呂に入っている。二つ、職場にトレーニング用の器材を持ち込んで勤務時間内にやっている。三つ、八時間の勤務時間を守っていない、等々。
一つめについては、ゴミ出しすらしたことのない人の言い分であろう。あのどうしようもない・とてつもない臭い。ほんの数分、ゴミ出しのためにその作業をしただけで、その手にはいつまでも生ゴミなどの臭いが残っている。
その専門家たちである、いかほどの強烈な臭いにそのからだがさらされていることか。想像に絶するではないか。そのための風呂であり、それは勤務の一環として勤務時間内にあって当然なわけである。これに文句をつける輩がいるのだ!
二つめは肉体労働そのものの作業のために、日々、身体を鍛えることはその職責を果たすためのきわめて真摯な努力の表れではないか。それを遊びと決めつけ弾劾するわけだ。陰湿ないじめでもある。
そして三つめは、仕事というのはどんな職種であれ八時間働かねば・働かさねばならないと思いこんでいる不見識な人が少なくないということだ。仕事が終われば、さっさと引き上げるというのが、江戸時代の職人さんの心意気だったという。つまり下手で仕事の遅い人間はいつまでも延々と長時間せざるをえない。その道の上手は、さっさと手際よく、しかもその出来映えも良く仕上げて、早くに仕事を終え、あとは人生を楽しむというわけである。近代社会はそういった価値観を罪悪とし、ひたすら長時間拘束して質の悪い仕事をつづけさせようとするわけだ、しかも低賃金で。
こうなったらもうストライキしかないだろう。マッカーサー、占領軍による公務員のストライキ権の剥奪は、その後の日本社会のまともな発展を大いに阻害したと言えよう。いまいちどやり直すしかない。
ゴミ収集にかかわる働き手たちが、一度ストライキをやれば、彼らの職場環境・収入などが改善されることは間違いない。社会的地位も上がることだろう。
70
:
FK
:2009/08/17(月) 22:30:45
2009年 8月17日 (月曜) 夏らしい暑さ
「夏らしい暑さ」、――清々しさを感じる人もいれば、湿気をいっぱい含んだ熱風のイメージの人もあるだろう。今夏は比較的涼しかったということか、今日の暑さは身体にこたえた。珍しくエアコンのお世話にもなった。
この夏は、また災害の記憶がいくつも残る夏となってしまった。近くでは佐用町の台風被害があり、静岡と沖縄では地震。地球の上に住まわせてもらっている限り、このような自然現象とは上手く付き合っていくしかないのだが、これらによって人が亡くなっていくのはつらいことだ。自然には悪意はないのに、人が亡くなってしまう。とするなら、それは人災であり、私たちの不作為によるものだと言えよう。
ひるがえって考えてみたら、なんとこの「不作為」がこの日本社会では多いのだろう。いや、もちろん世界的にもさまざまな「不作為」があるのだが、とりあえず今は、私たちのまわりでの「不作為」である。私たちはもう少し想像力をたくましくし、考えなければならないのだと思う。
71
:
FK
:2009/08/22(土) 19:42:52
2009年 8月22日 (土曜) 私の夏休み
今週は私の夏休み、最後のイベントとして火曜から4日間、妙高高原まで行ってました。妙高山・火打山という二つの2400メートル台の山に登ってきたのです。
今夏は、けっこう天候不順であったにもかかわらず、旅行中・登山中は天候に恵まれ(唯一の例外が秋田駒ヶ岳)、初めての月山・岩手山をはじめとし、二度目になる鳥海山・妙高山・火打山と歩いて来れました。頂上からの展望は、全山が晴れ渡っていないと見えないのですが、さすがにこればかりは、すべて、とはいきませんでした。苦労したあとの頂上からの360度の展望は、本当に僥倖であり、至福のひとときです。そんなことのために命がけで山道を延々と歩いていくなど、ある意味、いかれてる、のかもしれませんが。
命がけといえば、最後の帰り道・下山道は「燕新道」というのですが、これは滑落の危険と隣り合わせの、本当に恐怖を感じるような道でした。ただ、そんな中にもオアシスともいえる湧き水の出てるところがあり、名付けて「黄金清水(こがねしみず)」といわれているのですが、その美味しさは形容しがたいものがありました。さらに無事、登山口まで下りて振り返ってみますと、その「黄金清水」のあった場所までがあまりに遠く険しい道のりであったことに気付かされ、まさに「黄金」の名に値するのだと知った次第です。
その夜の赤倉温泉の熱い湯がからだの疲れをとってくれたようで、今日は図書館に出かけ、明日のテニスも予定通り行けそうです(笑) そして明後日からは、私の学校は始まります。
72
:
FK
:2009/08/23(日) 21:45:00
2009年 8月23日 (日曜) 群れると....
群れると、ろくな事はない。
そのテニスコートは4面あり、私たちはDコートで、午後のABCコート3面は軟式テニスの団体が借り切って私たちの横でやってた次第。その数80人! 主に小学校の教師たちの集団であったようだ。
いつもは静かな山間のテニスコートが一挙に過密状態。私たちがゲームをしているのにもお構いなく、コートのベースライン後方を横切っていく輩が.....。軟式テニスの人たちのマナーは私には理解できないものがある。西欧を是とし、この極東の野蛮国を非とするものではないが....日本オリジナルの軟式テニスは日本の文化を象徴するもののようだ。要するに群れるとマナーが極端に悪くなるのが日本人!
夜のニュースではこれまた80人ばかりの団体がハイキング中、一人の70代男性がはぐれてしまい(原因不明)登山道から30メートル転落して死亡したとのこと。なぜ、その一人だけがはぐれてしまったのか。団体の責任者はガイドは、どうしていたのか。その男性には気の毒だが、その団体の誰にも気付かれずに転落していったのかも知れない。
以上、群れるとろくな事はない、というお話し。
73
:
FK
:2009/11/06(金) 22:38:28
2009年11月 6日 (金曜) 『「お通し」はなぜ必ず出るのか』(子安大輔 新潮社 2009年 \700)
かねがね、どうしてなのかと思っていたことが書かれてあった。以下に抜粋。
私たちにしても職業選択のヒントになるかも。
*
失敗の五つのパターン(その一番の原因は、「安易な出店」...飲食業界は極めて参入障壁が低いのが特徴)
1.「飲食店に行くのが好きな人」が「飲食店を経営するのが好きな人」とは限らない
2.「料理の腕がある」から客が来るとは限らない。
3.「飲食店を出すこと」が目的化していて、ビジネスの視点が欠落している。
4.飲食店を「金儲けの道具」という視点でしか見ていない。
5.別事業の片手間では飲食店は経営できない。(第6章 「オーナーの夢だった店」は潰れる)
74
:
FK
:2009/12/07(月) 21:48:11
2009年12月 7日 (月曜) 高い学費
大学の学費の高さにあらためて驚かされた。
新聞のニュース写真で「ヨーロッパは学費タダ」とのプラカードを見もしたが、授業で中世ヨーロッパの大学の始まりが聖職者養成のためのそれであることを知ると、確かに「タダ」でないとおかしい、ということに気付かされた(早合点かもしれないが)。そう、大学の発祥の趣旨からすれば、基本的に学費をとることはおかしいことなのだろう。そういう文化的伝統がいまだにヨーロッパでは続いているということか。
何にせよ、商品にして売買するという行為は、さまざまな危険性をはらみ、問題を生じさせる。つまり、学費を払ったからその対価として卒業証書と学歴をよこせ、と言うようなものだ。中身はなくても在籍し、あるいは出席することによって卒業要件を満たしたとして、金で学歴を買うわけだ。
まさかそんなことが、と思われるような実態になっているのが、現在の進学率99%の高校ではないか。その延長上にある大学も同断かと類推する。
あと大学の高い学費の内訳をみると、以前に比べ「入学金」の額が上昇しているように思えた。これは邪推であるが、裁判で入学手続きとして一旦、学生から納入されたものでも、その辞退の後は入学金以外のお金は返済しなければならない、という判決が出たせいかと思う。つまり辞退されても返さなくてもいい額を、高くしたのではないか、と。
お金がない家庭は、大学進学はもう無理な時代になってしまったようだ。でなくてもこれを機に、大学というものを考えなおしてみる機会でもあるといえる。
75
:
FK
:2010/01/09(土) 14:51:18
「聞き上手」が「話し上手」
「あの人は喋り上手だね」という言葉がございますね。あれ、わたしは絶対ウソだと思う。「聞き上手」というのが本当だと思うんですよ。人の話を聞くのがうまい人は、喋らせると上手いんですよ。(P.230 桂 歌丸 『問う力 始まりのコミュニケーション』長田 弘 みすず書房 2009年 \2800)
【対談集の中から。話が上手な人は実は聞き上手だったとは。やや以外の感。しかし、考えてみたらそういうことだろう。まず聞き上手になろう!】
76
:
FK
:2010/01/31(日) 21:07:31
コラム「悩みのるつぼ」 (2010年 1月30日 土曜)
朝日新聞土曜日の別刷りにあるコラム「悩みのるつぼ」がいい。担当者は4名ほどだが、私が愛読しているのは上野千鶴子氏と車谷長吉氏のお二人。彼らが回答者の時だけ読むというわけである。
どうしてこのようなコラムを読むのか。理由は、他人の悩みについての下世話な感心からでは、もちろんなく、職業的な興味からである。勉強というか、研修(?)になるわけだ。なんとなれば、日々の私の仕事は授業やクラブ・係(教務)を別にすれば、メインは生徒たちの話を聞き、相談に乗り、あるいは語らう(おしゃべり)といったことである。
そんなときの私のスタンスは、このコラムの回答者、なかでもいまあげたお二人のそれに近似しているようで、親近感を持てるのだ。
大事なことは、論理的な理屈の面と、ある意味非論理的かも知れないが情の面との兼ね合いである。その両面から共感的に応対していくことがポイントだろう。人間はやっかいなもので、論理的に正しくてもそれで納得し得心し帰って行くわけではない。実はそんなことは、ことさらに言われなくても百も承知なのだ。ではどうすればいいか。その情的な面に寄り添っていくことだ。その気持ちに共感することの大切さである。「共感的理解」などという薄っぺらな言い方は感心しない。
教師の仕事も、悩みの回答者も、基本には幅広い意味での人間に対する愛情がなければダメだろう。そのうえで初めて、ややきつい言葉・耳に快く響かない言葉も相手に受け容れられていくものだ。またそれは、けっして猫かわいがり的に、なんでもオーケーということでもないし、非指示的カウンセリングのようにひたすら聞いて頷くだけでもない。
そういえば教師の場合、この非指示的カウンセリングに徹するのは難かしい。
また私はそうすべきではないと思っている。もちろんいずれ生徒たち本人が自覚、つまり自ら覚り、理解できるときが来るのだろうが、限られた時間と空間での生徒とのやりとりにあっては、そんな悠長なことはしていられない。専門家によるカウンセリングのように毎週一回、延々と何年も、というわけにはいかないのだ。だから最低限の指示、つまり指示的カウンセリングも使われるべきだろう。
*
カウンセリングは難しいように思われているが、そんな用語のない大昔から先達は若者に対して・悩める者に対してカウンセリングをしてきているのだ。
カウンセリングは科学であり、学問であり、などと祭り上げる必要はない。私たちの人生や生活にとって必要不可欠なものだから、自然に存在してきたものなのだ。それをカウンセリングと称して、専門家の独占するものにしてしまってはいけない。
生徒たちには、カウンセラーあるいは心理学の勉強が人気があるが、人の心をいじる・いらう仕事というのは危険なことなのだという認識を持っておいてもらいたいものだ。人間が人間を指導したり・治療したりなどという、傲岸不遜な本来してはいけないことをしているのかもしれない、という虞を持っていないといけないと思うのだ。
*
これからもこのコラム「悩みのるつぼ」を読んでいきたい。そしていずれ本にまとめられたらいいなと思っている。
77
:
FK
:2010/02/15(月) 21:56:27
『予習という病』(高木幹夫+日能研 講談社現代新書 2009年 \720) (2010年 2月 6日 土曜)
教育関連の本に目が行くのは当然なのだが、この書名も目に飛び込んできた。
予習をして授業に臨まれると授業をする側もやりにくい。もちろん教科書を読んだくらいで分かるような・答えられるような発問は極力避けるのだが。
ということで予習をしてくると、授業がつまらなくなるだろう。そんなことを漠然と考えてはいたのだが、この本を読んでやはりそうかと思った次第。
歴史の勉強は、予習より復習。振り返って考えていくのがいいということだろう。
*
予習とは決まった枠のなかでの“予定調和の授業のための作業”。枠そのものを問うことは許されてもいないし、授業のなかで“出る杭”になることはけっして求められていないのです。/もっと悪くいうと、ここでいう「予習」を是とする態度とは、教師サイドから“出来レースの授業”を生徒に強いることです。それは子どもにとってけっしていいことではない(P.15)
【まさに「出来レース」なのだ。たいていの授業はそのように仕組まれ、そのように予定調和的に進み・終了することが期待されているのかも知れない。受ける生徒たちも、それで安心するのだ。「授業らしい授業」を受けた、という安心感。ほんとうの意味で学習になっているのか、実は疑わしいのだが。】
*
「できる」には二つの意味があります。/1.決められたことを、スピーディに、かつまちがいなく処理する/2.不測の事態に、いままで学んだことを(最適でなくても)ともかく組み合わせて対応する/予習が有効なのは1.の場合です。(中略)/しかし、2.のときにあっては、予習はかえって有害ですらあるのです。(P.16)
【人間は学習能力を持つがゆえに、すでに学習したことについてはその延長上でしか考えにくくなってしまう。そこから創造的なものは生まれてきにくいだろう。】
*
「予習病」を定義/1.すでに定められたカリキュラム、学んできたことに固執し、未知の事柄を「まだ教わっていない」「やったことがない」がゆえに無視、否定する精神の傾向。2.現状に疑問をもたず、あたりまえと思うことだけを信じ、自己中心的世界のなかで満足する精神の傾向。さまざまな合併症に注意が必要。(P.18)
【その通りだろう。一度、すでに知ったものに対して新鮮さはない。もうそれだけで授業への気乗りがしなくなるのが当然だろう。予習してしまうと、授業にのぞむときのワクワク感もなくなるし、授業もつまらなくなる。また、毎日忙しい子どもたちに予習などしてる時間も、そもそもない。なら、授業というのは予習なしで受けるのが正解だということになるか。】
*
日本の初等中等教育の性格/完結教育/受験準備教育/進学準備教育(P.48)
*
私なりに日本の学校の問題点を四点にまとめてみます。/1.学校の授業にはまったく脈絡がない/2.いったんチャイムが鳴ると、子ども達に、それまでやっていたことをすべて中止させ、ただちに次の授業の準備をさせる。チャイムは過去も未来も打ち壊し、どの時間も均一なものにしてしまう/3.これ(通知表)に翻弄される子ども達は気の毒としか言いようがない/そもそもテストは、なんのために実施するのか。学校の教育活動では選抜機能をもったテストは無用です。/4.良い子とは教師が示した考えにほとんど抵抗せず、適度の熱意をもって、それを受け入れる子ども達のことである(P.92)
【たしかにオートメーションの工場ではないが、子どもたちはあたかもコンベアの流れに乗せられて、ただ流されていくだけの存在にされているのかもしれない。面白くないのも当然だ。学校嫌いが生じても無理はない。】
*
ノートに写すための「板書」から、子どもが能動的に学ぶ「板書」スタイル、すなわち子どもが自分で知識を関連づけてテキストに書き込めるような「板書」に/マップ型の板書とマッピング型の板書(P.199)
【まだまだ板書については、工夫をしなければいけないなと痛感。】
*
「勉強」に見返りを求めない。思ったとおりの見返りがなくても、それはムダとは思わないようにすればいい。実際、学ぶ上ではムダなんてない。(P.220)
【勉強に限らず、この世に生きているかぎりムダなものはない。無用の用、もある。しかし、なかなかそうは思えないのが人間である。】
*
【未知への準備】予測できないものに出会っても、しっかりと向き合い、必要な対応ができること。また、新しい未来をつくるために、自分ができること、今はできないことをいつも確認しておくこと。(P.222)
【これが著者の最後のメッセージ。たしかに、「予習という病」にみんな罹っているのかもしれない。】
78
:
FK
:2010/02/26(金) 20:54:05
2010年 2月26日 (金曜) 卒業
卒業シーズンである。ほとんどの人たち・生徒たちにすれば、卒業というのは人生のうちにそう何回もあるものではない。だからその一回一回に、思い入れがあり、思い出となっていくのであろう。
それにひきかえ、私のような職業のものは損である(?!)
自分のそれは5回ほどしかないが、教師となってからは毎年毎年、しかも今の勤務校では年二回卒業式があるといった具合で、いやというほど経験してきているわけだ。
卒業文集にも毎年、寄稿を求められるが、そういつもいつも新鮮に新しい文章が書けるわけではない。この数年は現勤務校でのそれだが、ほぼ同じような趣旨で書いている。一年経ったくらいで、そうころころと考え方が変わるわけでもないので、これでよしとしている。(ということで、時間がなかったせいもあるが、今回は二年連続同じものにしてしまった。)
私たちの職業というのはある意味しあわせなものだ。成長途上の青少年たちと日々、授業であるいは放課後の雑談で、この時にしかできない時間を無駄に(?)過ごし、笑い興じることができるのだ。そんないい時を過ごしたならば、いや、ならばこそ卒業を起点に一度これまでのことをリセットして、新たな時間・空間を求めて出発していくべきだろう。これまでの良い思い出は、これからの人生への自信と糧になっていくことだろうから。さあ、いざ出発!
いつかまた、ふと人生で立ち止まるときがあったら、こんな時間と空間、そしてそこに一緒に話した人たちがいたことを思い出してもらうといい。
ふっとメールをしてもいい。時間があれば出会って食事をしたり、飲んだりしてもいい。折角の出会いがあったのなら、そうやすやすと捨て去ることはないだろう。――そんな機会がある人生にしてもらいたいなと。
79
:
FK
:2010/03/17(水) 19:45:53
「定時制高志願、不況で急増」(2010年 3月15日 月曜)
「定時制高志願、不況で急増」、――今日の朝日新聞・朝刊、社会面での見出し。
これは昨春の高校入試の際にも大阪の定時制高校のことで話題にはなっていた。今回の記事は、「機会拡充、文科省通知」とあるように全都道府県教委にこの10日付で次のような通知を出していたとの記事である。
通知では、各学校の定員に空きがあるのに入試の機会が奪われることのないよう対応策を求める、ものとのこと(同、記事による)。
このような通知だとしたら、私はなかなか微妙な表現だなとの感想を持つ。文字面通りに解釈すれば、定員にまだ余裕があるのに学校のシステムとして(おそらく再度、もしくは再々度の)入試の機会を設けないのは如何なものか、ということ。つまり定員を満たすまで、あるいは希望者がいるかぎりとことん入試の機会を設けて、定時制高校志願者を受け入れていくべきだ、ということか。
私の勤務する県でも定時制高校の場合、三月中に一次入試、四月初旬に二次入試が例年行われている。ただそれでも定員を満たさない場合、四月中に再々度の入試を行うことも可能としている。実際はまずやらないのだが。
つまり文科省の通知内容を文字通り解釈すれば、私の県の場合はそのように実施済みともいえる。推測だが、他の多くの県でも同様だと思う。
では、何が問題であり、何を問題としようとしているのかだ。さらに同記事をを読み進めると、昨春の定時制高校志願者で不合格となった約1200名のうち、三分の二の志願者が「定員内不合格」であったという(朝日新聞社の調査)。
つまり志願者の三分の一は定員外のための不合格であり、これは致し方ないこととして現時点では許容の範囲内であろう。ところが残り三分の二は定員内にもかかわらず不合格であったという。つまり入試の成績により選別され、学力的に高校入学基準に達していないとされ、不合格になったということだろう。
この後者の「定員内不合格」も実は合法的(?)であり、このことについては文科省も表だってどうのこうのとは言えないわけだ。そこで先ほどのような通知ができることの最大値だったということではないか。
この「定員内不合格」については、これまで高校全入の流れのなかでややもすれば軽視されてきた問題が伏在している。中学までと違い高校は、そこでの学習に堪える者でないと入学できないという一定の基準があるわけだ。
現在もそれを堅持するところは結果として「定員内不合格」とするだろう。逆にもはやそういう時代は終わったとして、学力の如何に関わらず「定員内」ならすべて合格とし、入学させるところも少なくないと思う。私の感じるところ本県の場合、理念的には前者であるが、現実的にはまず「定員内不合格」を出していないように思う。なんといってもまだまだ、特に夜間定時制高校は定員割れの現状であるからだ。
*
ことは定時制高校だけの問題ではなく、全日制も含め、あらためて高校入学資格・基準というもの、あるいは中学卒業後の進路がほぼ高校へ行くしかないという現状を再考しなければならないだろう。
80
:
YO
:2010/04/19(月) 17:13:31
最高の学校に入れました。
担任の先生とのトラブルから中学校二年間(中一の終わり〜卒業)不登校を
してて人が怖くなり、落ち込んで生きてるのが嫌になっていたあの頃の自分に
耐えてくれてありがとうと言ってやりたい。
81
:
FK
:2010/04/19(月) 21:06:43
2010年 4月19日 (月曜) 最高の学校!
最高の学校 −−それは良かったですね。そんな風に思えるとは、とても幸せなことだと思います。
人は人によって傷つきもし、また立ち直りもします。人によって不幸せにもなり、再び人によって幸せを感じることもできるものでしょう。
人の善意・好意を信じて、あるいはそのような人との出会いを求めてこれからも積極的に行動していってください。手始めにまずは私とでもおしゃべりを。
放課後は職員室よりも準備室に居るようにしていますので、また立ち寄ってください。
82
:
YO
:2010/04/28(水) 20:55:18
こんばんは。 毎日が楽しくてしょうがない「YO」です。
明後日は待ちに待った校外学習(遠足)ですね。もー楽しみなんですよー!
それが終わればゴールデンウィーク。でも今は学校が楽しいので五日も
休むのはちょっと寂しいかな、です。 小・中は休みダーって喜んでたのに(笑)
83
:
FK
:2010/04/28(水) 21:55:17
何かしら初々しい感じで、いいですね! あの中学時代があって今があるということでしょうか。あとまわりの人たちもいいのでしょうね。友達や先生方も(私も?)
遠足の話をまた聞かせてください。もしよければ準備室にもおしゃべりに来てください。
84
:
YO
:2010/05/05(水) 16:43:17
こんにちは 明日から学校なのでたのしみです。
ちなみに明日(現代社会)があります。
85
:
FK
:2010/05/05(水) 18:03:28
2010年 5月 5日 (水曜) 連休明け
今テニスから帰ってきました。1-4日は近所を歩く程度でしたが、今日は疲れました。明日の授業はどうでしよう。そもそも、みんな来るかな? 来れるかな? 連休明けがまず第一関門ですからね。
では明日の授業では、みんなの連休の過ごし方を紹介してもらいましょうか。
86
:
FK
:2010/05/11(火) 21:20:13
2010年 5月11日 (火曜) 『教育幻想』(菅野仁 ちくまプリマー新書 2010年 \780)
「産業的身体」の核としては、「時間」と「規律」(P.36)【考えてみればすぐ分かることだ。時間とはまず遅刻をしないこと。そして時間いっぱい働くことは最低限のこと。サービス残業も当然含まれてこよう。規律は消極的には人の和を乱さないことであり、より積極的には付き合いを良くしみんなと慣れ親しむこと。つまり労務管理をしやすくするための相互監視でもあるか。】
学校でわれわれが当たり前だと思っている「時間厳守」「忘れ物をしない」「私語は禁止」「気分が乗らないからといって休むな」ということは、みんな近代の産業社会の担い手として、われわれ国民に要求された身体性だったのです。そしてそうした身体の基礎を作り上げるのが、学校という訓育の場だったということです。(P.39)
【だから真面目にこれらの指導をすることが、すなわちお国のためであり、会社のためなのである。私たち教師の責務はこういった従順な生徒を育成し産業社会に投入することなのだ。人間性の涵養などは不要なのだ。】
学校は「すばらしい人間を育てる場」ではない/結局、学校というところは、その時々の「社会に適応できる人」「社会に有用な人」を育成することが第一の目的である(P.41)
【同上。公教育は生徒のためのものではなく、国家・社会・会社のためなのだと認識しておくことが大切だ。そのあとに個人の自己実現とか幸福な家庭の創造のためとかといったものが出てくるのだ。】
87
:
FK
:2010/07/20(火) 20:28:01
2010年 7月20日 (火曜) カント
今日、図書選定委員会があって、今回はすべて生徒たちのリクエストということでリストが配られた。その中にカントの『純粋理性批判』が入っていた。
哲学書は概して難解だが(翻訳のせいもあるが)、なかでもカントはなかなか手を付けにくいものの一つだ。それをリクエストしてきていたということで、感心した次第。
若いうちは分かろうと分かるまいと、ともかくがむしゃらにどんな本でも、どんなに難解と言われていようと気にすることなく挑戦することが大切だ。読んでみて、やはり分からないな、と分かればそれはそれでいいのだから。
そして何年か、何十年か後に再会できれば、またそれは想像するだけでも楽しいことではないか。見栄はってでも、いいかっこしてでもいいから、いろんな本を読んでみたらいいと思う。まずは図書室に足を運ぶことだろう。そこは絶好の場所なのだから。
88
:
FK
:2010/08/09(月) 21:36:26
2010年 8月 9日 (月曜)
若いときには歳をとるというのがどんなことだか実感できない。(日経新聞 2010年 8月 1日付 読書欄 山田正紀)
何気ない言葉だが、今の私はそれを実感できる、あらゆる物事について。
さて氏は続いて「たとえば歳をとってからの読書がどんなものであるのか想像がつかないのだ」と。つまり老後の楽しみとしての読書のための本を(若いときには読まずに)とっておく、と宣言したとのこと。そして今それが大間違いであったことに気付かされたという次第である。読み始めるとすぐに眠くなるというのだ。「60歳になったらしっかり読みはじめるのだ、と――。が、それがどんなに甘い想像にすぎなかったか、60歳を迎えたいま、いやというほど思い知らされることになった。」
私も同様な考え方をしていたので、ショックを受けている。そう、思いの外、読めないのだ。折角(?)、老後の楽しみに読まずにおいた本がいっぱいあるというのに。若いときにもっと読んでおけばという悔恨の情、切々といったところである。しかし、仕方がない。いまからあらためて読んでいくしか。この歳にしてようやく味わうことのできるものなのだから、とやせ我慢して。
89
:
FK
:2010/10/14(木) 22:55:28
2010年10月13日 (水曜) ハーバード大学・サンデル教授の講義
今年の春先からブームになっている。NHKで放映されたことをきっかけにし、ついに今夏、来日して日本でも講義がなされ、これまた先日、放映された。
まずアメリカの大学ではどのような講義がなされているのか、という興味から私も観てみた。1000人もの学生を前にしてのマイクでの講義は、日本のマスプロ大学を知っているものからしたら、さほど奇異なものではない。
しかし、どうなのだろう。アメリカでは、というか、このハーバード大学でもこんな大人数に講義はないようなのだ。まずその超人気ぶりに驚かされるといったところか。
さらに日本の新聞記事を見ていると、その講義の仕方に驚く人が少なくないようだ。要するに学生に質問し、答えを発言させて、さらに賛成意見・反対意見を求め、ディスカッションしていくわけだ。私からすれば、えらそうだが、普段の私の授業は生徒たちとのやりとりで進行しているので、そんなに奇異の感を持つことはなかった。むしろ、やはりこのような対話式という、ソクラテスの産婆術のようなやり方は不易不変のまっとうなやり方なのだと思う。
日本の学校の主な授業・講義のやり方は、まず教師・教授による(一方的な)説明に終始するものだろう。大学ではさすがに整然とした板書はしてくれないかもしれないが、高校以下ではたいがい板書されるものだ。生徒・学生はひたすら聞き、ひたすら書き写すことで勉強したつもりになっているわけだ。
それが悪いとはいわないが、これしかやり方がないというのは悲しい。折角、いろんな生徒・学生が集まってきているのだから、意見交換をし、お互いに影響し合うということがあっていいはずだ。いやむしろ、そちらの方が、より学習効果があるのではないだろうか。サンデル教授の講義は、そんなことをあらためて認識させるものであるといえよう。
さて講義内容だが、サンデル教授の講義は「政治哲学」ということなので、知を愛するという純粋な哲学ではない。功利主義といった言葉があたまに浮かんでくる。まともに全部を熱心に聞いたわけではないので即断できないが、論の進め方に、つまり前提に、私などからしたら、そもそもそんな前提はないだろうと思わせられるようなテーマが出てきている。実に実利的なものの考え方をするものだと思う。
私はそんな議論も必要だとは思うが、あんまり楽しいとも思わないし、進んでやりたいとも思わない。たとえ空理空論といわれようと、学生時代には純粋に哲学する・物事を考えていくほうがいいのだと思う。
とまれ、大きな影響を日本の教育界に与えることになったサンデル教授の講義は、この秋もまだ続いて放映されるようである。
90
:
FK
:2010/10/19(火) 21:15:31
2010年10月19日 (火曜) 「一番いい材料」
五郎次は常に勘一に一番いい材料を与えた。悪い材料で覚えても腕はよくならないというのが五郎次の考えだった。(『影法師』百田尚樹 講談社 2010年 \1600 P.26)
これは竹籤(たけひご)の職人がその技術を教えようとしているシーンである。まさに教育というのはそういうことだろう。「一番いい材料」を、だ。だからお金も掛かるのだ。それを掛けようとしない今の日本の教育はやはり衰退していくしかないだろう。もしくはいびつな発達をしていくか。ひるがえって私もその授業で、できるだけ良い材料を探し出して提供していくことが大事だということだ。
91
:
FK
:2010/11/15(月) 16:52:43
2010年11月15日 (月曜) [Dr.コトー診療所]
十月末以来ほぼ毎日というか、毎夜このDVDを観てきた。全20枚。今日、最後となった2006年のシリーズのメイキングを観て終了。
第二シリーズは2003年の第一シリーズに比べやや重い内容であった。そして、ある意味未完のままで終わっている。というか、原作の漫画は今もゆっくりのようだが連載が続いているようだ。コミックではいま第25巻までが発売されている。
あらためてドラマ作りの大変さをそのメイキングフィルムから知ることができる。映画ならまだ、二時間くらいで終わってしまうのだが、連続ドラマは毎回47分ぐらいとはいえ、これが少なくとも11回続くわけで、その制作はなかなかに大変なもののようだ。ワンクール撮るのに通常でも三ヶ月はかかるとのこと。この[Dr.コトー診療所]はさらにかかっていると。
医者という仕事がこの日本社会ではもてはやされているわけだが、それはなぜなのか? 医者になるためにはまず高額の授業料が必要だということ、そしてそれが用意できない場合、いくら能力がある人でもその進路・職業をあきらめざるをえないということ。そんなところにあらためて疑問と問題を感じる。
この作品や[パッチアダムス]「ブラックジャック]などの影響で医者を志した人も少なくないだろう。しかしそのまえに立ちはだかる壁は、ある意味特殊な受験学力を必要とする医科大学への入学、そして一般には決して安価とはいえない授業料である。
たしかに医者の養成のためには多額の金を必要とするようだ。しかし、受益者負担でやろうとすれば無理が生じる。受益者負担であるがため、その後の職業生活では十二分な報酬があるものにしないと、とても元はとれないということになるのだ。そう考えてくるといまの日本の制度は決してほめられたものではないと私は思う。
本来、医者も職人であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。感謝されることはあっても、それは他の通常の職業と同じレベルのものであるべきなのだ。
それを何か特別視してしまうところに、医者を偶像化し、神聖視する悪弊が生まれてしまう素地があるのだ。
さらにもう一面、忘れてならないのは、そしてある種の寛容性が要請されるのはミスの問題である。どんな仕事にもミスはつきものであるが、あまりに医者を持ち上げてしまうとその誤謬を許さないものとなる。非寛容的な攻撃の前に、医者たちが誤診や治療ミスを隠したり、日常的に無謬性の幻想をばらまいたとしてもそれは一概に非難されるものではないかもしれない。週刊誌などで特集される「名医」の紹介記事などは、複雑な私たちの心理の隙間に忍び入ってくる。
TVドラマというのは、それを観たいと思う視聴者の気持ちをくみとって作られるものだろう。それはスポンサーを獲得するためでもある。そして、あらためてTVドラマでの主人公をあげてみると、職業としては警察官・医者・教師が頻出しているような気がする。それだけ人々の関心が高い職務内容を持つということであり、秘密めいた隠された何かがあるような世界なのだろう。
また、理想的な彼らの姿を描くことにより、現状の悲しむべき状況を批判し自らを慰謝するためでもあるかもしれない。これらドラマの隆盛に、私は何とも複雑な気持ちになる。
93
:
FK
:2010/12/07(火) 23:00:25
2010年12月 7日 (火曜) 「ここはブラジルだ。ポルトガル語で話せ」
[ハルとナツ]第二話を観る。去るも地獄残るも地獄というが、まさにそのような過酷な現実だ。北海道とブラジル。
そんな中でこんな印象的な、しかし悲劇的なシーンがあった。ハルが駅留めになっているはずの手紙を遠路はるばる取りに行ったシーンでブラジル人駅員が言う。「ここはブラジルだ。ポルトガル語で話せ」。
かつて私もフランスへ行ったとき、地下鉄で切符を買う際も同様の反応を駅員に見せつけられた。「ここはフランスだ。フランス語で話せ」、と。
日本人くらいかもしれない、外国語で話しかけられても「ここは日本だ。日本語で話せ」、と言わないのは。お人好しというべきか、優しいというべきか。しかしなんと言われようと、国際的ではないと言われようと、日本のやり方のほうがいいと思う。
94
:
FK
:2011/03/14(月) 21:37:10
2011年 3月14日 (月曜) 東日本大震災
3階の教科準備室にいた。教材用のビデオをチェックしていたとき、腰掛けている椅子が少し横揺れするのでおかしいなと思う。時刻は2時50分前後(11日)。横揺れがやたら長く感じられたが、それでも地震とは思わずテレビ画面を見つづけていたら、同僚教師がやってきて地震だと教えてくれた。さらに別の教師が本館と教室棟との境目にひび割れが入っていると教えてくれた。(東京から西に500キロほど離れた地であるにもかかわらず。)
こんなふうにしてこの超巨大地震が東日本を襲ってきたのだった。その後、すぐにテレビ画面は地震関連のニュースに切り替わり、以後延々とその現実を私たちに伝え続けることになった。
胸が詰まり、目頭が熱くなり、うっかりすると嗚咽になってしまう。――そんな時間が以後、今に到るまで続いている。テレビのスイッチを切るしか、それから逃れるすべがない。目をそらしてはいけない、と分かってはいても、あまりの辛さ悲しさに、なすすべがない。
しかし、今はこの過酷な現実を見つづけるしかない。逃げることなくしっかりと見つづける。そして不幸にして亡くなられた方々を悼むこと。深く深く悼むこと、これしかないだろう。遠く離れた私にできること、それは見守ること、悼むこと。いまはこれしかないだろう。
春、四月。新しい生徒を迎えて授業が始まったとき、今のこの思いを、心の痛みを共にしたい。そして、そこから学ぶべきこと・考えなければならないことを授業のなかで明らかにしていきたい。この日本という歴史的現実の中で、ともによりよく生きていくために。
95
:
FK
:2011/10/22(土) 22:27:56
2011年10月11日 (火曜) 武田邦彦氏のブログから
【深く考える】教育問題(試験と合格)
しばらく読んでいなかったので、武田邦彦氏のブログ(
http://takedanet.com/
)をまとめて読み、聞いた。そのなかで「【深く考える】教育問題(試験と合格)」(2011年10月6日付)は同じ教師として私も共感するところであった。
つまり授業(講義)はその中味をそれぞれの生徒(学生)が勉強することが大事なのであって、そのことから必然的に試験や成績付けということが出てくるわけではないということ。
私たちは自らの小学校時代以来ずっと常に試験というものが行われ受けさせられてきたために、基本的な疑問を持つ機会がなかった。つまり本来、勉強ということに試験というのは必須のものではないということだ。
武田氏は試験はしないとのこと、あるいは成績も付けないようなことを述べており、その理由を説明している。
試験をしなくてもその生徒がどの程度勉強し、理解できたかは見ていればわかるものだ。授業中のこちらを見る視線や行動を見ていれば分かる。だからそこで終わっていい。試験をすることはないのだ。ではなぜ私は試験をするのか。
(中間・期末と二回スケジュール的には設定されているが、私は中間考査だけ実施している。)
簡単に理由を言えば、今の私は制度としての成績付けが仕事として要求されているので、ということだ。大学や専門学校進学用あるいは就職用に「調査書」が必要とされ、そこでは修得単位数とその成績(5段階)が記載される。今のシステムではどうしても付ける必要があるのだ。
試験をすること・成績を付けることというのは、本来、勉強や学問の本質からはほど遠い作業なのだ。社会システムの便宜性のためにしているということだ。そしてそれが本当の勉強の楽しさ面白さからかけ離れた作業を生徒たちに強い、彼らをスポイルさせていく結果になるのだ。
あともう一つ出席を取るということ、一定数の出席を義務づけるというのも弊害が大きい。出席さえすれば、中味の勉強をしなくてもオーケーという、ところてん方式がまかり通ってしまうのだ。
日本の教育を実質あるものにするためにも、これら出席・試験・成績などなくしてしまうのが結構、良い方法かもしれないと思う。
96
:
渦森六郎
:2011/10/23(日) 01:24:32
テストでひいひい言わされている(笑)身としてはおおむね賛成ですが、語学なんかはある程度テストをしてもらったほうが、僕は身につきました。基本的な単語や文法は、「覚えるしかない」ということもありますので。
ようは、テストの「使い時」が大事なのでは。テスト偏重ではもちろんいけませんが(点取りが目的化してしまいますので)、ではテストは全て無くしてしまえば万事解決というほど教育は単純なものでもない気がします。
97
:
FK
:2011/10/25(火) 09:03:55
2011年10月25日 (火曜) テスト
語学を例にテストの効用があるとのこと。たしかにそれは否定できませんが、どちらかというとそれは「テスト」ではなく、「プラクティス」つまり練習ではないでしょうか。
私が言いたいのは、テストの目的は評価することが主となり(評価自体を否定はしませんが、今は本人の習得の度合いをチェックするというのではなく、序列を付けるためです)、本来的なエデュケートとしての教育にはなじまないもの、場合によっては阻害するものだということです。
社会の風潮としてテストは市民権を得ているようですが、もう一度考えてみる必要があるでしょう。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板