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ゆとり雑談掲示板
549
:
名も無き中央生
:2018/02/11(日) 17:45:46
【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】石脇城(焼津市) 産経新聞
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180210-00000087-san-l22
先学では、築城主体者は不明で、城跡はミカン園や茶畑の開墾で大きく改変したこともあり、
「築城の途中で使命は終わった」とするのが定説であった。ところが近年、伊豆江梨郷(沼津市)を
支配する鈴木氏の文書に「早雲寺殿様、駿州石脇御座候」とあり、定説を覆す史料が見つかった。
『駿国雑志』にも今川義忠の塩買坂(掛川市)での戦死後、子の龍王丸(たつおうまる)(後の氏親)
は幼少であったことから、法永長者といわれた焼津市小川の長谷川氏へ逃れ、伯父の小鹿範満が
当主代行者に推戴(すいたい)された。龍王丸を擁護したのが母の弟とされる伊勢新九郎盛時
(北条早雲)で、山西の石脇城に入ったと記してある。
さらに、龍王丸が成人した氏親初期の「遠州三郡乱入」(主に掛川市)、三州岩津城攻め(岡崎市)まで
居城としていたことが示されている。
こうして、高位な将軍申次衆であった北条早雲の駿河来歴と時世が明らかになるにつれ、近い将来、
戦国大名となる分岐点になった城であったのではないだろうか。現在では興国寺城(沼津市)が
「北条早雲旗揚げの城」とされているが、石脇城も「早雲ここにあり」と注目に値する城であろう。
現在の城跡は、保存会の手により雑木が刈り取られ、整備が進んで見学しやすくなった。
予想以上に大規模で、完成度の高い縄張り構造が再認識される。
(静岡古城研究会会長 水野茂)
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