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💐日本大学 一等賞💐

521日本で一番早く女子大生が誕生 日本大学🌸:2024/07/05(金) 00:59:47
木暮 実千代(こぐれ みちよ、1918年1月31日 - 1990年6月13日)は、日本の女優。
身長159cm。本名:和田 つま(わだ つま)。(Wikipedia)

来歴・人物
『アサヒグラフ』1951年3月21日号の表紙
父が税関で山口県下関市彦島福浦町で生まれた。英文学者・随筆家の黒川鍾信は甥。梅光女学院を経て
日本大学芸術学部に入学。日本大学芸術学部在学中に田中絹代に見出されて、1938年に松竹に入社。
松竹入社当時は高峰三枝子、桑野通子、水戸光子らが幹部であったが1年余りで準幹部から幹部に昇進。

日本人離れしたルックスとスタイルに加え、悩殺的でコケティッシュな色気もあり、純情可憐型が
主流の松竹では恋敵役が多かった。

1944年、20歳年上の従兄・和田日出吉と結婚。マスコミの仕事に従事する夫の仕事の関係で夫妻とも満洲に渡った。
終戦にあたって厳しい道中を乗り越えて帰国し、翌年の1947年松竹に復帰して女優業を再開した。
妖艶な悪女役が多かったが、終戦後の開放された世相の中では精彩を放つ存在となり、特に
1949年の『青い山脈』での芸者役で毎日映画コンクール助演女優賞を受賞。妖艶な「ヴァンプ女優」として名を馳せた。

生涯にわたって350本以上の映画に出演した。
CM出演した女優第一号でもあり、ジュジュ化粧品では「マダム・ジュジュ」、三洋電機では「サンヨー夫人」として長年親しまれた。
ボランティア活動にも熱心で、1957年に群馬県にある「鐘の鳴る丘少年の家」の後援会長に就任。

1960年から銀座で社交的に必要な文化的教養、マナー、美容など全般を教えるフィニッシングスクールを開講する。
1967年からミス日本コンテスト事務局理事に就任。
1973年からは法務大臣認定の保護司となった。
1980年には日本中国留学生研修生援護協会常任理事になり、中国留学生を自宅に寄宿させていた。

1990年6月13日、心不全のため死去。享年73(72歳没)。没年月日を以て没後追贈の形で勲四等瑞宝章を授与された。

役柄のイメージとは異なり、実生活では良妻賢母であった。墓所は東京都文京区の龍泉寺[6][5]。


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