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日大 田中理事長

108口は災いの元:2018/12/06(木) 12:08:27
岡崎城 大賀弥四郎謀反  

家康は生涯を通じ大きな裏切りに2度会っている。一度は天正2年(1574)岡崎城で大賀弥四郎の謀反に会い、
もう一度は慶長18年(1613)江戸幕府を開いてから大久保長安の謀反というより金山横領を経験している。
大賀弥四郎の事件は、岡崎城を舞台に築山御前や岡崎城主であった信康をたぶらかし、武田勝頼と示し合わせて、
自分が岡崎城主になることを条件に、武田軍を岡崎城に引き入れようとした反逆罪である。

 『徳川実記』によると、初めは徳川家康の中間だったが、算術に長じていたため会計租税の職に試用され
て、頭角を現し、三河国奥郡20余郷の代官に抜擢された。普段は家康の居する浜松にありながら、
ときどき岡崎にいる嫡男松平信康の用も務めるようになり、両者の信任を得て権勢並びなき者となり増長した。
 
 しかし、家康の家臣近藤某が領地を加増されたとき、大賀弥四郎が自分のとりなしによるものだと言ったため、
近藤は大賀に追従してまで加増されたくはないと返上を申し出でた。
このことがきっかけで、家康が大賀の日頃の悪行を耳にすることとなり、大賀は捕らわれて家財を没収された。

 すると、大賀が小谷甚左衛門・倉知平左衛門・山田八蔵と共謀し、岡崎城を乗っ取って武田勝頼を
手引きすることを書いた、武田方への密書が発見された。山田八蔵も変心して信康に訴え出たため、
大賀は馬に乗せられて浜松城下を引き回され、妻子五人がはりつけにされたのを見せられた後、
岡崎で土に埋められ首を通行人に竹鋸で引かれ、七日後に死亡した。なお、小谷は甲州へ逃れ、
倉知は討ち取られ、山田は千石を加増されたという。この事件の翌年に、勝頼が徳川方へ
侵攻した長篠の戦いが起こっている。・・・以上が大賀弥四郎事件の概略である。




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